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自分が楽しいと思う事柄や話したいと強く感じる事を思うままに喋る、という行為は、人間の脳内で快楽物質を分泌する。……らしい。

ユーリはそもそも口数が多い方ではないので、今までその説に関して特に実感を得た事はなかったが……セリアと共に、滔々と互いの『主の主たる主らしい主な行動』をたっぷりと語らった結果、全身に充足感のようなものが満ちている。

エストお嬢様について、思うさま賛辞したセリアの方はというと、彼女もまた満足げな表情でカップを傾けている。


シャルとスパイごっこをした際に盗み聞きしたセリアと同僚のメイドさん達の会話によると、彼女らとセリアの間には、エストお嬢様への愛において、大きな温度差があるらしい。深く嵌るマニアへと向ける一般大衆の目は、どこの世界もやはり生ぬるい。

完全に孤立している訳ではない。けれど、周囲からの同調や理解は得られない。ただ、好きなものを分かって欲しいと一生懸命喋っているのに、曖昧に流されそれ以上その話題を続けないで欲しいと態度で示される。

……それはどれほど寂しく、また、自分でもどうしようもないストレスの溜まる日常であろうか。


セリアはエストがとても大好き。ただ、それだけなのに。


「セリアさんっ。是非また、エストお嬢様のお話を聞かせて下さい」

「ま、まあ……どうしてもと言うのなら仕方がないわね。また、時間があったら話してあげても良いわ。

わたしは忙しい身だけど、本当に毎日忙しいのだけど、ティカちゃんにエストお嬢様の偉大さをしっかり叩き込めるのも、わたししか居ないのならしょうがないわ」


ユーリがはっしとセリアの手を握り、次なるお喋りの約束をねだると、彼女は照れを隠すかのように微妙に視線を逸らしつつ、早口でそう答えた。


……おおぅ、ツンデレメイド。生で見るのは初めてです。


などと、ユーリが内心で微妙な感動を覚えていると、頬を赤らめたままバスケットの中をあさったセリアが、ユーリの眼前にずいっとクッキーを差し出し。


「ほ、ほら、ティカちゃんは甘い物が好きなんでしょう?

これもあげるわ。食べたら?」

「ありがとうございます、セリアさん」


相変わらず疲労困憊を表現中で樹の幹にもたれ掛かっているブラウ、彼の動向を確認しようと一度チラリと目をやってから、ユーリは受け取ったクッキーにパクリと食い付いた。

そのクッキーには蜜がかかっており、甘くて香ばしく、ナッツのような歯応えのある木の実が生地に混ぜ込まれていて、とても美味しい。何より、そこそこ大きい。

これ美味しい、と感じているのがそのまま顔に出ているのか、セリアは笑いながら更にもう一枚渡してくれた。

与えられた菓子にひとしきり感動していたところで、裏庭にて寛ぐ面々に早足で駆け寄ってきた人物から、低い声が掛けられた。


「……セリア。友人が来ていると小耳に挟んだが」

「グラシアノ様」


新しく頂いたクッキーに両手を添えて胸元で握りつつ、もごもご、と、口の中いっぱいに頬張っている甘いお菓子を咀嚼したまま声の方に振り返ってみると、薄手の簡素な衣服に汗をしたたらせ、手拭いを片手に男が駆け寄って来たところであった。今日も今日とて訓練に余念がなかったのか、ただでさえ暑苦しい夏の日差しであるというのに、逞しい筋肉の動きを薄物の下から惜しげもなく窺わせる貴公子サマ、パヴォド伯爵のご長男グラシアノ氏だ。

その人の姿を認めるなり迷わず立ち上がったセリアとは対照的に、ブラウは首だけを巡らせて微かに唇の端を持ち上げるのみ。


早足で駆けてきたグラと、おじ様執事さんにさえ敬意を表してみせたにも関わらず、相変わらず座ったままのブラウの視線が交錯する。グラの目元が僅かに険を帯びたのは果たして見間違いであろうかと、ユーリもまた敷物の上に座ったまま首を傾げた。


己の立場を考えればユーリは本来、パヴォド伯爵家に仕えているも同然の身の上であり、グラにはセリアと同じく礼を尽くすべきである。

……が、彼の本日の姿はとてもではないが『貴公子サマ』には見えない。肉体労働職種であろうかとの大まかな見当は付く。しかしだからといって、話し掛けられてもおらず、相手の身分も知らない初対面の『ティカ』が、すぐさま立ち上がって会釈をするというのも何かおかしい。


目が合ったなら、きちんと立ち上がって会釈しようと考えているユーリをヨソに、幸いにして、グラの意識はセリアとブラウにしか殆ど注がれておらず、初顔の黒髪の小娘の存在は全く視界に入っていないようだ。それはそれで、次期伯爵としてはこの注意力の薄さが何か問題にならないか、大丈夫だろうかと心配になってくる。


「はい。わたしが久しぶりに王都に来たのだからと、ルティがわざわざ時間を作って会いに来てくれたんです」

「なるほど。息災か……ルティ、殿」

「ご機嫌麗しゅう、グラシアノ様。わたくしはこの通り、毎日つつがなく過ごしております」


セリアの満面の笑顔と、ブラウの取って付けたような恭しい笑みと言葉遣い。グラは彼女らの顔を交互に見比べるごとに、眉間の皺を徐々に深めていく。


……と言いますか。ぐらぐら様、今明らかに、ルティ姿のブラウさんを『ルティ』って呼ぶの、躊躇いましたよね。むしろ、めちゃくちゃ不本意そうに呼んでましたけども。


つまりグラは、ルティと呼ばれる連盟の女性魔術師の正体を、アルバレス侯爵の孫であるブラウリオだと知っている、可能性が高い。そして、彼が嫌々ながらも敢えて『ルティ』と口にするのは、セリアに対する配慮であるとしか考えられない。

前回彼らが顔を合わせた場面を観察していたところ、グラとブラウは互いの事を嫌っている様子であった。それも、相当強烈に。

ブラウがたまに女装なんかしてるからグラは彼が嫌いなのか、全く別の理由なのか、それはユーリには分からない。


「……そうか。それは何よりだ」


ぐらぐら様、ブラウのあんちゃんが毎日元気に過ごしてる現状を、心底から残念がってる本音が、丸っと思いっきり声に透けて見えますよ。


「ところでグラシアノ様。今日のこの時間、伯爵家の方々は揃って家族団欒だと伺いましたけれど?」


相変わらず座ったままグラを見据えるブラウがにっこりと告げた台詞に、グラの額にはピキッと血管が浮き出たように見えた。(え、そうだったのか)と、内心で驚きながらもごもごとクッキーを噛み続けるユーリ。実に美味しいので、蚊帳の外である現状を良いことに、たっぷりとクッキーを味わう気満々である。

ブラウの発言をセリアは特に訂正しない。パヴォド伯爵とレディ・フィデリア、そしてエストは母屋の一室で歓談中であるらしい。そんなところへ呼び出されたユーリの主人は、今頃どんな話をしているのだろう。


ブラウの当て擦りを悪い方に意訳すると、『伯爵家の跡取り息子ともあろう者が、父伯爵や母の伯爵夫人から爪弾きにされて妹よりも軽く見られていらっしゃるだなんて、本当にお可哀想ね。オホホホ』だろうか。

カルロスがパヴォド伯爵に呼び出された事をグラが知っていた場合、『つい先ほどカル先輩まで呼ばれたのに、息子として期待されていないんじゃなくて?』という嫌味も遠回しに追加される。


……ユーリは深読みのし過ぎなのかもしれない。

しかしグラは、伯爵閣下の発言の裏にある真意を、日々読み解こうと苦心していらっしゃるように見受けられたのだ。今のブラウの台詞から、暗にああいった意味合いの揶揄として導き出されそうな言葉と、そう受け止めた可能性大ではないかと。


……うん。そりゃあこんな事言われてちゃ、ぐらぐら様がブラウさんの事嫌いなのも、頷けます。


無論、ブラウは『そういう予定だと聞いていたのですが、お時間大丈夫ですか?』と、親切心で気を回しただけ、という可能性だってある。実際、セリアは友人の発言をそう解釈したようだ。


「……私はその席に加わるよりも、こなさねばならない訓練がある。

セリア、君はずっとここに居たのか。イリスはどうした?」

「イリスなら、お茶の支度を整えてから厨房で別れました。ルティがわたしを訪ねて来たと知らせがあって、気を利かせてくれたようです。

……まだ厨房だと思いますが、連れて参りましょうか?」


ブラウにはやや不機嫌そうに答えたグラは、セリアに心配そうに尋ねた。彼女目指して脇目も振らずに大慌てで駆けつけてきたグラは、そのイリスなる人物を探していたのだろうか。


「いや、いい。

セリアは、イリスと別れてから真っ直ぐこの裏庭にやってきて、訪ねてきたルティ殿とずっとここに居たんだな……?」


グラはどこか、ホッとしたような嫌そうな、なんだか複雑そうな声音で『ルティ殿』が座っている敷物とその周辺に、ようやく目をやった。パヴォド伯爵家の御曹司様の眼差しが、ばっちり彼を観察していたユーリとぶつかる。

不審げに瞬く姿に、ユーリは立ち上がって会釈する。貴人の許しもなくこちらから勝手に話し掛けたりすれば、当然それは礼儀に適っていない行為である。

しかし、グラにユーリを紹介してくれる立場にあるのは……やはり、主であるカルロスであろうか。今日が初対面、という事になっているセリアに仲立ちを期待しても良いものかどうか計りかねていると、彼の方が先に口を開いた。


「客人の前で失礼した。

私はパヴォド伯爵エスピリディオンが一子、グラシアノ・エヴァランジュ・パヴォド」


ユーリの前で、無表情に片手を胸元に軽く当てて自己紹介して下さるグラ。因みに、あなた様は彫像ですかと思わず尋ねたくなるほど、ユーリに向ける表情はなんの感情も映していない。


「お目にかかれて光栄です、若君様。

私はパヴォド伯爵閣下にお仕えさせて頂いております、魔術師連盟術者カルロス預かりのティカと申します」


名前で呼んでも良いとのお達しは無かったので、ひとまず角が立たなさそうな呼び掛けを捻り出す。

ユーリの脳内に、身分の高い方に自己紹介する時マニュアルなど、当然だが保管されていない。失礼の無いように咄嗟に主人に向かって声にならない声で助けを求めたのだが、カルロスからも『閣下と対面して俺、緊張状態。余裕? 何ソレどこで売ってるの買わせろベイビー』というお返事が返ってきた。

……因みに、言葉でその内容を伝えてきたのではなく、敢えて意訳するとそういった意味合いのニュアンスが感じ取れる感情が、ユーリの頭に一瞬とはいえ直接送りつけられてきたのだ。決して、彼女の主人はあんな口調で喋らない。


しかしそれにしても、今日は今までグラを見掛けた機会の中では随分多弁であるし、伯爵家の御曹司様という立場を故意に隠したりせずサラリと告げている。それでいて、外見や服装からしてあからさまに庶民なユーリに対してでさえ、全く高圧的な態度に出てくる事も無い。

これはこれで、身分社会にあるまじきフレンドリーさ、と言えるのかもしれない。どこまでいっても無表情で、口調も素っ気ないけれども。

そんなグラは、ユーリの口からカルロスの名が出た途端、目を見開いた。


「カルロスの……? セリア、まさか、まさか今日、カルロスが屋敷に来たのか!?」


先ほどまでの無表情さはどこへやら、グラは再び忙しなく裏庭の様子をぐるぐると見回し、カルロスの姿を求めてか落ち着かなげにあちこちへと視線をさ迷わせたまま、セリアに一歩詰め寄った。彼女が男性だったなら、危うく肩を掴んで揺さぶっていそうな剣幕だ。

カルロスやセリアなど、グラは自分の家に仕えている人々に関係してくる事柄にたいしては、そこそこ表情筋が活動するらしい。


「は、はい。先ほどカルロスさんとシャルさんもいらっしゃいました、けど……?」

「今はどこに!?」


詰め寄られてビミョーに上半身を仰け反らせつつ、セリアはグラの様子に困惑しているようだ。やはり、今日の彼の態度は珍しいものなのか。


「カルロスさんとシャルさんなら、旦那様の命を受けたゴンサレスさんがお連れ致しました」

「そうか……ゴンサレスが……」


セリアの発言に一瞬首を傾げたユーリをヨソに、彼女の説明を受けたグラは安堵したのか肩から力を抜いた。


……ああ、おじ様執事さんのお名前は、ゴンサレスさんと仰るのですね。

何しろ今まで、よっぽどのネコ好き以外の方々は、私に自己紹介なんてして下さいませんでしたからね! 初めて知りましたよ。


今まで子ネコ姿でばかり過ごしていたので、偶然誰かの口から名前が出て、該当者を脳内照会出来るタイミングに居合わせない限り、ユーリはあだ名で認識するしかない。


「それで、グラシアノ様。

こちらにはどういったご用件で。わたくしどもは、席を外しておりましょうか?」


今までずっと興味深そうに成り行きを観察していたブラウが、ようやっと口を開いた。

どこか楽しげに唇の端を持ち上げ、彼に振り向いたグラとセリアの顔を、これ見よがしに交互にじっくりと眺める。

片方の眉を軽く上げたグラはチラッとセリアに目をやり、そして次の瞬間弾かれたように彼女から大股で一歩飛びすさった。その見事なまでに素早い動きは、たった今までグラが立っていた位置を、見えない大鎌が切り裂いたかの如く。


「いや……ルティ、殿やティカにも確認しておかねばならない事が、二、三ある」

「あら、何でしょう?」


父であるパヴォド伯爵閣下とはちっとも似ていない貴公子グラシアノ様、今の彼の動きはやっぱり、この国の未婚の男女の距離感としては、許容範囲を越えて近すぎるとかそういう事なんだろうなぁ……と、そのいつもよりも火照ったお顔を、ユーリは生ぬるい眼差しで思わず見守ってしまう。

案外、この方も微笑ましいお人だ。いや、胡散臭いブラウと比べたら、大抵の貴族の御曹司様は『微笑ましい貴公子様』になってしまいそうではあるけれど。


「あなた方は今日、この裏庭からは母屋の方に回り込んだりはしていないな?

セリアは厨房から真っ直ぐにこちらに来て、ずっとルティ殿と話していたんだな?」


ゴホンと咳払いをし、無表情に戻って一堂を睥睨なされた上でのグラのご下問に、ユーリはちょっぴり首を傾げたが「はい」と頷いておく。

何故かクドいほどに念押ししてくるお坊ちゃまに、セリアは不思議そうに瞬きながらも肯定し、そしてブラウは何か企んでいそうな意味深な笑みのまま、


「……セリアが来る前に、ちょっと前庭を見せて頂いておりました、と言ったらどうします?」


と、わざとらしい質問で返した。

グラはピクリと肩を震わせ、ブラウの言葉が真実であるのか彼をからかう為に発せられた虚偽であるのか、水色の瞳は見極めようとしてか眇められる。


「では、ルティ殿。あなたはそこで、おん……いや、何か見聞きしなかったかを確認したい」

「見たと言えば見ましたし、聞きましたとも」

「る、ルティ……」

「ふざけていないで、真面目に答えて頂きたい」

「そうは仰いますが、この目も耳も正常に機能しておりますので、どこを散歩しようが様々なモノが視界に入りますし、聞こえてきますでしょう?」


あくまでも曖昧に、彼が見せたくない知られたくないと考えている『何か』を、ブラウが知ったかどうかを確認したいらしいグラに、ルティ姿のブラウは手のひらを口元にあてがいクスクスと笑みを零す。

目だけで人が殺せるなら、即死レベルだとしか思えない凄まじい眼差しでブラウを睨み付けるグラと、彼らの間に挟まってしまった格好のセリアは、友人の態度とお仕えしている家の御曹司様の形相に、両者の間に立ったままオロオロと2人の顔を見比べている。


ぐらぐら様。あなた様は本当に、伯爵閣下のご子息ですか。

ご自分の知りたい情報を相手の口からさり気な~く喋らせる交渉術の極意を、何故磨いてこなかったのですか?

あからさまに、前庭を始めとする母屋の辺りで、何か人に知られちゃヤバい事をしてました、って白状してらっしゃるじゃないですかーっ!?

主の来訪に慌てふためき、『ルティ』にも隠し通したい。そこに共通するのは……魔術師連盟?


ユーリは自分への興味が逸らされた事を察知すると、そっとグラやブラウのそばを数歩離れ、やや距離を空けて彼らの様子を観察していた。なんだかよく分からないが、余計な面倒事に巻き込まれたくはない。


「わたくしが何を見たのか、お知りになりたい? グラシアノ様。

それなら、わたくしが答えやすいようヒントを下さらないと」

「……私が今日の集まりに出席しなかったのは、合同訓練があったからだ。これで満足か」

「合同訓練。なるほど、それはいったいどことどこの?」

「……」


こちらが答えたのだから今度はそちらの番だとばかりに、グラは無言のままブラウに無表情な顔を向ける。唇は頑固一文字に引き結ばれ、ブラウが吐くまでは梃子でもだんまり作戦のようだ。

ブラウはそんな彼を、面白いモノを見るかのような目つきで無遠慮に観察し返している。

一見したところでは、上流貴族の御曹司様と身分を隠している名家のお嬢様が、突如として運命的な雷に撃たれて互いに目が逸らせなくなり、離れがたく見つめ合い見惚れ合っているの図、に、見えなくもない。彼らの間に流れる冷ややかな空気にさえ、気が付かなければ。


「る、ルティは花を観賞したのよね!?

庭師さんが丹誠込めて整えてくれた薔薇のアーチなんか、本当に綺麗で!」


沈黙を保つ彼らの間に挟まれて、冷気を全身に浴びまくっているセリアの顔の横辺りの虚空に、焦りマークの水滴が飛ぶ幻が見えた。それほど、彼女の居たたまれなさや必死さは際立っている。お坊ちゃまと友人の、口には出さないが雰囲気からなんとなく伝わってくる仲の悪さを感じさせる空気に、セリアは見事に板挟み。

そんな友人……だと、彼も少なからず思っているものと信じたい……の姿にさしものブラウも哀れみを感じたのか、口元に当てていた手を軽く持ち上げ左右に振った。


「ウ・ソ」

「……は?」

「だから。今日あたし、前庭を散策してないんだってば」


あ、今度は無表情を保ってるぐらぐら様の額に、怒りマークがピキッと浮かび上がる幻が見えます。


「ですからグラシアノ様、わたくしどもはグラシアノ様がご懸念なされた物音など、一切存じ上げませんわ」

「……分かった」


あっさり、『からかっただけぴょん』と笑うブラウに、グラは目だけで何か色々負の感情を語って叩きつけつつ、


「セリア、少し話があるからこちらへ。

せっかく訪ねてきてくれたところを申し訳ないが、彼女を借りる」

「はい」

「承知致しました」


セリアを手招きして裏庭からどこぞへと連れ出して行った。結局のところ、やはり何か彼女に話だか仕事だかを任せたくて探していたのだろうか。


グラの背中が建物の中に消えて見えなくなるまで見送ってから、ユーリは元通りストンと敷物の上に腰を下ろした。やれやれ、これでようやっとクッキーの続きが食べられる。


――カルロスさんはこれから大切なお仕事みたいだから、あなたはここでわたし達と待っていましょう?


――今日のこの時間、伯爵家の方々は揃って家族団欒だと伺いましたけれど?


セリアさんがどうして私を頑張って足止めしたのか、分かりたくないのに分かっちゃいましたしね……


そんな事は、ずっと前から自分でも理解していた事だ。

子ネコのユーリではなく、人間の森崎悠里という存在をエストが知れば、きっと彼女を不快にさせてしまうから。理屈ではなく、感情が納得しにくい問題だから。


だから、『本当の私』は、エストお嬢様にお目にかからない方が良いんだ。


両手で握っていた菓子を口元へと持っていき、小さく歯を立てる。さっくりと香ばしい、甘い甘いクッキーが、舌の上でまろやかな風味を醸し出してゆく。ユーリはそっと、両目を伏せた。


「やれやれ。本当にあの男、いかにも『自分は紳士ですー』って態度が気に食わない。

本心ダダ漏れなクセにさ。ねぇ、そう思わない? ティカちゃん」


……思いっきり、忘れちゃいけない相手の存在を、うっかり失念しておりました。


自分はいらない子なんだと、ついべそべそとアンニュイな気持ちに気を取られていた。この場にブラウと2人っきりで取り残されている、という危機的状況である現実への対応が遅れ、俯いていた顔をハッと上げた時には、彼の顔が予想以上に近づいていた。

ユーリは思わず敷物の上をずりずりと後退ったが、僅かに距離を取れたところで背中が樹の幹にぶつかってしまう。


「どうしたの、ティカちゃん?」


周囲に人が居ないせいか、それともユーリに精神的プレッシャーを掛ける為か。ルティ姿でありながら、ブラウ本来のやや甘めな低い声音と言葉遣いに戻っている。

ユーリの前に膝をつき、幹に片手を伸ばして上から覆い被さるようにし、彼女の顔を覗き込んできたブラウは、慌てる姿がよほど可笑しかったのか、クスッと笑みを零す。


つい、先ほどまでは。

見事なまでに女性を演じきっていた『ルティ』、しかし観客の居なくなった裏庭で衣装はそのままに、本来の『ブラウ』としか見る事が出来ない態度でユーリの様子を間近で観察してきている。


「な、何でも……」

「何でもない、って雰囲気じゃなさそうだけど」


かなり不利な体勢で、ユーリの脳内では第二ラウンド開始を告げるゴングが高らかに鳴り響いた。



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