4
ベアトリスは大袈裟に表現しているのか、紛れもない本心なのか。どちらなのか図りかねるようにカルロスは眉を軽く上げる。
しかし、彼が口を開くよりも早く、背後からシャルが声を掛けてきた。
「マスター、そろそろ出ませんか? 望ましくない方の歩き方に、酷似した足音が……」
歩き方って……そんなものに、特徴が出るものなのですか。
同僚の地獄耳に感心しているユーリを抱いたまま立ち上がったカルロスは、
「婆さん、例のクォーターは……」
「一度気がついて、ひとまず峠は越したけど、あれきり目を覚まさないわ。見舞っていく?」
「……いや、今日はいい」
気懸かりの一つだったようだが、シャルの眉間に徐々に皺が寄っていく。謎の人物は、こうしている間にも益々近付いて来ているらしい。
カルロスはシャルにユーリと水鉄砲を手渡すと、彼の背負っていた荷物の袋から、包み紙に覆われたデカいブツを取り出した。
「すっかり忘れてたが、土産だ。これ食って、精つけてくれ」
「あら、何かしら」
「シャルが狩ってきたワシシの肉。狩ってきたばかりだから、新鮮なうちに食ってくれ。婆さん、これ食いたかったんだろ?」
テーブルの上へ無造作にデンッと置かれたそれに、ベアトリスは目を見開いたようである。なんとなく、そんな雰囲気がした。
シャルは主人から預けられたユーリを両腕で抱き直す為に、改めて水鉄砲を背負い直して荷物の影に隠した。シャルの腕に抱きかかえられつつ、ユーリは同僚の不機嫌そうな表情を観察してから、ベアトリスへと意識を向けた。
「ええ、そうなのよ! これ、すんごい美味しいんですって?
何年か前、妃殿下がご懐妊なさった際にあたし達も献上したんだけど、たいそう喜ばれて……ありがとうシャル!」
瘴気がドロドロに満ちた森に生息している魔物が果たして本当に美味しいのかどうか、ユーリは未だ疑っているのだが、ベアトリスの喜びはしゃぐ様子は偽りには見えない。
あのぐりふぉーんことワシシは、七面鳥のようなものなのだろうか?
クリッと再び同僚の顔を見上げてみると、彼は苦虫を噛み潰したような表情でドアを睨み付けていた。
「じゃあ、俺達はこれで。
厄介そうな奴が来る前に出るわ。またな、婆さん」
「はいはい、気をつけて行ってらっしゃーい」
カルロスはベアトリスに軽く手を振り、応接間のドアノブに手を回し、シャルの「あ、マスター」と、何かを言いかけた声に「ん?」と軽く振り向きつつ、ドアを押し開けた。
「あいたっ!?」
「うおぁっ?」
どうやら同僚は、ドアの向こうに誰かが居る事に気がついていて、主人の動きを制止しようとしたらしい。
しかし、しもべの気遣いは一瞬遅く、カルロスは緩やかながらも腕は動いていて、廊下に立っていた相手にドアを軽くぶつけてしまった。双方から短く驚きの声が上がる。
ノックをしようと軽く片手を持ち上げたポーズのまま、ドア直撃位置からたたらを踏み、「いたた……」と呟きながら姿を見せた人物に、ユーリは思わず内心で(うげっ!)と呟いてしまった。
「よう、奇遇だなアティリオ。
わりぃ、そこにお前が居たとは全くちっともサッパリ気付かなかった」
「……君は相変わらず、そそっかしいなカルロス」
相変わらずフードを目深に被っている、ハーフエルフ魔術師のアティリオは、カルロスのアタックを見切れずぶつけてしまったらしい鼻を軽くさすってから、ドアの真正面に立ちはだかる形で不機嫌そうに両腕を組んだ。
「……ですから、故意ではなく不注意の事故を装えるこのタイミングで、全力でドアを開け放って下さいと……」
ユーリの頭上から、チッという舌打ちと共に、そんな低い呟きが降ってきた。
……もしもし、シャルさん?
ユーリは同僚の胸元にベシッと裏手ツッコミを入れるが、彼は意に介した風もなく、微動だにしないままアティリオを睨んでいる。
「アティリオも婆さんに用か? こっちの用件は済んだとこだ。じゃあな」
強引にアティリオの傍らをすり抜けようと突破を試みたカルロスに、ハーフエルフは「待て」と、立ちはだかる。
「カルロス、ティカはどこだ?」
「ああ?」
チラリと室内を見回し、ベアトリスに軽く目礼したアティリオは、訝しむように不在少女の行方を尋ねてきた。
るてぃサンだけでなく、イヌ派にまでべったり一緒にいないとおかしいと思われるほど、私、主に張り付いてないと変なんですかねぇ……
「アルバレス様、その問いに我々が答える義理はありませんが?」
遠い眼差しを明後日の方角へ向けるユーリを腕に抱いたまま、シャルはカルロスを押しのけズイッとアティリオの視界に割り込んだ。
トゲトゲしさを隠しもしないシャルの言い分に、そもそも彼の事を良くは思っていないアティリオの眉間が、これでもかというほど不機嫌そうに寄せられる。
「僕はお前に聞いていない。自分の分を弁えろ、カルロスのクォン」
「それを言うのならば、わたしの主人ではないあなたの命令に従う必要性もありませんねぇ、アルバレス侯爵家の若様」
ちょっ、シャルさん、私を引き連れてアティリオさんにケンカ売らないで頂けませんかぁ~っ!?
いったいいつの間に、この同僚はアティリオとの関係を『出くわせば鼻を鳴らして顔を背ける』冷戦から、『顔を合わせれば一触即発嫌味合戦』にまで悪化させていたのだろうか。
カルロスを介さねば、さしたる接触機会さえなかった筈のシャルとアティリオの間に何があったのかは分からない。ともかく、今、ユーリはこの恐ろしいバトル領域からの離脱を切実に求めていた。
シャルの腕の中からあわあわと、慌てふためき周囲を見回してみたユーリであるが、目が合ったご主人様は『ふっ』と謎めいた笑みを浮かべて頷いてみせるだけ。それは、『今すぐ助けてやるからな!』という意図を塵ほども含んでいないだろうという推測は、テレパシーが飛んでこずとも嫌というほど理解させられた。
部屋の主たるベアトリスはというと、優雅にソファーへ腰掛けたまま、弟子とイヌの不調法を叱りつけるでもなく拳を握っている。彼女の纏う雰囲気は、出入り口を陣取る連中に怒りを湛えているというよりは、むしろどこか楽しげである。そしてイソイソとローブの懐から羊皮紙と細い羽ペン、インク壺を取り出し、何事かを書き付け始めた。
ベアトリス様の、あの羊皮紙には見覚えが……ご愛用のメモ帳なんでしょうか。
などと、現実逃避気味にぐったりしているユーリの様子に構わず、同僚は彼女の頭を撫でくり回している。
「まさかとは思うが、あんな魔物が棲む森の家に独りきりで放置してきた、だなんて言わないだろうな」
「まさか。彼女をあの家に1人で残してきたりすれば、早晩待っているのは餓死の未来しかありませんよ。
そうと分かっていながら、留守番などさせません」
「では、ティカの姿が見えないのはどういう事だ?」
アティリオの苛立ちを抑えきれない問い掛けに、シャルは腕に抱いていたユーリの頬にこれ見よがしに頬擦りしつつ、
「我々のこの姿を見て何も察せれないアルバレス様に、事細かく微に入り細に入りご説明申し上げねばならぬと?」
ハンッと小馬鹿にしきった笑みを浮かべるシャル。
「隠し立てする意味が分からん。僕に知られたらまずいような場所に、ティカを追いやったのか……?
僕が貴様の不遜な振る舞いに耐え、見逃してやれている間にさっさと答えろクォン」
妙なところで鋭いアティリオさんに、黒ネコと黒髪娘が一緒にいる場面は見た覚えが無い事を、気がつかせるよーな振る舞いは慎んで下さいっ!?
激しくもがいて騒いでも、アティリオの注意を引いてしまう可能性がある以上、シャルの口を塞ぐ事も必殺のネコパンチを繰り出す事も出来ない。
控えめに文句をつけるユーリの頬からスッと顔を離したシャルは、にっこりと微笑んだ。
「嫌です」
いったいどちらへの要求に対する返答であったのか、もしくは両方に対してかは不明だが、シャルの答えはすっぱり短くにべもない。迷わず拒否した同僚は、今度はユーリのネコミミをあむあむと甘噛みしだした。どうやら空腹感を覚えているせいで、今日は不機嫌であるらしい。
そして、虚仮にされた形のハーフエルフはというと、額に青筋を浮かべてバサリとマントを翻した。
「……良いだろう。貴様がそのつもりなら、今日という今日こそは貴様らの魂を搾り取って、そこの馬鹿に叩き付けてやる!
神妙にそこへなおれ、カルロスのクォン!」
『貴様ら』って……成敗対象に私も含まれてますよね、確実に!?
ギャーッ! とばっちりーっ!?
軽く片手を掲げて何事かを早口で呟いたアティリオ。彼の翳す指先に無色透明の水の球体が現れ、小指の爪ほどだったそれは、見る見るうちに人間の頭部よりも大きく膨らんでいく。
一見したところでは殺傷能力はなさそうな水の塊にしか見えないが、対象の顔に張り付いて呼吸不可能にする術だとか、勢い良く射出してウォーターカッター並みに貫く術だとか、えげつない魔法である可能性は非常に高い。
「おいおい、ちったあ落ち着けよ、アティリオ。
お前が熱くなんのは勝手だが、ここは婆さんの部屋だぜ?」
この期に及んで余裕の笑みを浮かべるシャルの腕の中でジタバタもがくユーリを見かねたのか、それとも師匠の前での乱闘を厭うたのか、アティリオ曰わくの『そこの馬鹿』は、ソファーの背に軽く体重を預けたまま、苦笑いを浮かべて口を挟んだ。
「あら、あたしは気にしないわよ? 部屋を滅茶苦茶にしたなら、罰として何をしてもらおうかしらって、今からワクワクするわ」
「大変お見苦しい姿を晒してしまい、申し訳ありません、師匠」
本当に楽しげに語るベアトリスの様子から何を感じ取ったのか、アティリオはすぐさま宙に浮かべた水の球体を霧散させて平身低頭謝罪に入った。
「あら、残念ね。
ここが街の外だったなら、シャルとアティリオの対決が心ゆくまで見物出来たのに」
「ええ、本当ですね、ベアトリス様」
心底から残念そうに声音をワントーン落として首を左右に振るベアトリスに、当の闘争派シャルも同調して幾度も頷く。そんなシャルの姿を、アティリオは瞳に怒りの炎を燃やして睨み付け、ギリッと歯を噛みしめた。
確かに、アティリオはそもそも激しやすい性格ではあるようだったが、おちょくられたり口論の末に攻撃魔法を放とうとするところを、ユーリは初めて見た。これが、『大嫌いなイヌもどき』と『愛すべき従兄弟や友人』への対応の違いというやつであろうか。
『セイトウボウエイって素敵』をすっかり信条としてしまっているらしきシャルは、カルロスの意に反してまで彼自身から他者を攻撃する事は無い。だからこそ、わざと相手の方から攻撃してくるよう仕向ける節があるのだが……
何でこの同僚は、今日に限ってアティリオをそんなに挑発するのかと慄いているユーリの頭を、歩み寄ってきたご主人様が軽く撫で、
「アティリオ、うちのイヌの戯れ言は放っとけ。
で、ティカだが……別に、持て余して変なトコに押し込んだ訳じゃねえぞ?」
不機嫌そうにツーンとそっぽを向いてしまったシャルの額をパチンと指で弾き、カルロスはアティリオの視界に割り込んだ。
「僕が用があるのはお前でも暴虐クォンでもない。ティカだ。
それで結局、今はいったいどこに居るんだ?」
「今はだから、えー……」
『すみません、ここに居ます』とは正直に言い出す訳にはいかないが、下手な誤魔化し方では簡単にバレてしまう。
女の子が長時間費やす事……ウィンドウショッピング、お喋り、お化粧、デザートバイキング?
ダメだ、主が私を1人にする理由には弱い。
アティリオの追及によって言葉に詰まるカルロスに、ユーリは懸命に頭を巡らせた。
不自然な間が空き、ハーフエルフの顔に怪訝な色が混じり始めた時、ハッと天啓のように一つの答えがユーリの頭に浮かんだ。それを瞬時に読み取ったカルロスは肩を竦めて口を開く。
「見ての通り、俺らは王都に着いたばかりだ。
女の子に旅埃まみれなままはキツいだろう。ティカは今、公衆浴場でのんびりしてる」
「……風呂なら本部にもあるだろうに」
「結局のとこ、ティカは部外者だしな。ここじゃあ居心地良いとは言えんぞ」
実は今、あの子風呂屋に行っててさぁ~という気の抜けた説明に、なんとなくだが、アティリオの表情に安堵が浮かんだように見えた。いったい、彼の中では『黒髪の幼い少女ティカ』は、この王都でどんな目に遭っていたのだろうか。
「で、アティリオのティカへの用事ってのは何だ?」
「彼女に渡したい物があったが、居ないのなら仕方がない。また今度にしておく」
「まっ、アティったらティカちゃんにプレゼント!?」
アティリオのサラリとした受け答えにベアトリスは浮き足立ち、熱心にメモを書き付ける。
そして、カルロスの背後から黙ってアティリオを睨み据えていたシャルは、ユーリを抱く腕に力を込めた。
「……ティカに贈り物だぁ?
いったい何をやる気だアティリオ。あいつの保護者として、相応しい品か見定めてやるから俺に見せろ」
「断る。要不要を判断する権利はティカ本人にあるだろう?」
カルロスはヒクヒクと頬をひきつらせてアティリオに片手を差し出すが、ハーフエルフは軽く眉を顰めただけで、迷う事なく却下した。
えーと、私本人としましては、アティリオさんからのプレゼントって、嫌な予感しかしないから受け取りたくないです。
と、今この場で断りを入れようとも、当然ながらアティリオには彼女の声は届かない。
カルロスは友人の真意を探るようにじっと観察している。ユーリを抱きかかえているシャルは、またしても彼女のネコミミをはむはむと甘噛みしてきて、ユーリはすかさず「うにゃっ!」と抗議するも、強く抱き締めてくる彼の腕の中から自由になれる気配は無い。
「……まあ良い。俺らは次行くとこがある」
目を細めてアティリオを観察していたカルロスは、やがてふっと目から力を抜いた。そして、友人の肩を軽くポンと叩いてドアの前から退かせ、廊下へと足を踏み出し振り向かぬままヒラヒラと片手を振って別れの挨拶に変える。
無言のまま主人の後に続くシャルは、仲の悪いハーフエルフ魔術師とすれ違いざまに鋭い一瞥を送り、アティリオもまたそんな彼に冷ややかな眼差しを投げた。
「ああ。今度はちゃんとティカも連れてこい」
「さあて、それはどうだかな。どこぞの年下キラーが今度はティカを標的にしてるようだしなあ?」
別れ際のアティリオの何気ない一言に、カルロスは顔だけを友人の方に向けて、すかさずにんまりとした笑みを浮かべてからかった。
「人を節操無し扱いするな!」
「うふふ……この三角がどうなるのか、楽しみだわ~。
今日の対決の様子、早くルティに教えてあげなくっちゃ」
顔を真っ赤にしながら苛立ちも露わに吐き捨てるアティリオの様子に反して、ドアが開け放たれたままの室内からは、非常に楽しそうなベアトリスの弾んだ声が聞こえてくる。
あれですね。
アティリオさんって元々、年下の子には面倒見が良い世話焼きタイプなんでしょうね。
でもって、ベアトリス様の薫陶の賜物によってフェミニストでもあるから、きっと多大な誤解をあちこちに振り撒いてるんだろうなぁ……
そして本日、大いなる誤解を抱いてしまったのではないかと思しき対象の手によって、ユーリは容赦なくぎゅむ~とされながらフワフワ浮き上がりエレベーターに乗り込んだ。
ぐえぇぇぇぇ~と、息苦しさと痛みを訴え同僚の顎に向けて下から全力でネコパンチを連打しつつ、それでも『シャルから心配してもらえるのが嬉しい』とか思ってしまうユーリであった。