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吸い込み続けると人間の健康を著しく損ない、特殊な手法で精製すれば強烈な毒薬へと変わる瘴気は、数十年単位で一つの森に停滞し続けようとも、森一つを根こそぎ枯らす猛毒とまではいかないようだ。故に、もっと根気を入れて探し回ればマルトリリーがまだガベラの森に咲いている可能性を否定する事は出来ない。
果たしてこれが、収穫、と言えるのかどうかは分からないけれども。
いざ、森を引き上げようと話を纏めた段階で、さっさと離れてくれると思っていた某お節介さんは、どうやら森の中の珍獣……もといシャルが無謀な冒険を終えるまで面倒を見るつもりであるらしく、「送っていく」と言い出した。
「取り敢えず、国境まで行けば良いんだろ?
バーデュロイで良いんだよな?」
ミチェルが森の中に出現した時と同じ謎の転移手段で、照る照る坊主と子ネコを送ってくれるつもりらしい。
出身国、もしくは活動拠点がバーデュロイであろうとあたりを付けるに至った根拠は、魔法使いであるミチェルを忌避しない、ごく自然に慣れた態度からそう推察したようだ。
……安全なのでしょうかね?
真新しい術に好奇心を覚えて、ワクワクした表情を浮かべている同僚の腹をポケットの中から肉球で連打しつつ、ユーリは懐疑的な意見を述べた。
彼女の記憶が確かならば、ミチェルは『岩の中に座標がズレなかっただけマシだけど』などと言っていた筈だ。
そんな危険性を孕んだ胡散臭さ炸裂な魔法には、可能ならば頼りたくはない。これが、主の行使する術だというのならば黙って従うが、素性の知れない行きずりの魔法使いが使う魔法を、便利そうだからなどと盲目的に頼るほど、ユーリは迂闊では無いつもりだ。
「……せっかくの申し出ですが、わたしはあなたの術に安易に身を任せるつもりはありません」
「ふーん?」
そんなユーリの、「にゃーにゃーにゃっ!」と真剣に訴えた意見に渋々と耳を傾けた同僚は、気のせいかキリリと表情を引き締めてきっぱりと断りを入れた。
いわば、『お前は信用ならん』と断言してミチェルにケンカを売ったも同然な訳だが、彼は特に気にした様子もなく生返事を返した。
この世界では、この程度の警戒心を見せるのは常識的な行動なのだろうか。仮にそうだったとしても、シャルの言い回しではかなり角が立つ気がするのだが、ミチェルは鷹揚なのか変わり者な照る照るカンガルーの発言に一々反応するのもバカらしいと悟っているのか、本当に「ふーん?」とだけ気のない返事をして軽く瞬いただけで、後はしきりに頭上を気にする素振りを見せていたのだが、ふと眉をしかめた。
「あー、タイムリミットだ。あんたがきっちり森を抜けるとこまで、見届けてやりたいのはやまやまだが、オレもそろそろ仕事に戻らなきゃならん」
「別に、わたしは一人でも問題ないのですが」
「どういう偶然にしろ、一度関わったならなるべく出来るところまで責任持たねえと。『じゃ、これで』って別れるのは一時凌ぎで、オレの趣味じゃねえんだ。
……だけど、奥様がそろそろ起き出してくるから、仕事に戻らねえと」
別にこちらから頼んだ訳でも無く、ありがた迷惑さも兼ね備えたミチェルの台詞に、ユーリは思わずポケットの中から空中に向かって、鋭いにゃんこパンチを繰り出していた。
わざわざ魔法で送るとまで言い出したのも、彼の時間的な都合上、お仕事に戻らねばならない刻限が差し迫ってきていたかららしい。
彼が仕えているらしい、アルバレス侯爵家の奥様……推定・アティリオの母君は随分起床時間が遅いようだが、王都では丁度社交界シーズンの真っ只中だ。貴婦人ならば深夜まで起きていて、昼過ぎに目を覚ます生活サイクルを送っていても不思議ではない。
「要するに、あなたはお節介焼きなんですね。
ええ、奥様とやらのところへ遠慮なくお戻りになって下さいミチェル。どうぞお元気で」
そして、子ネコ姿のまま素知らぬ顔をしているユーリを堂々と連れ歩きつつ、全面的にミチェルとのやり取りを担当せざるを得ないシャルはというと、特に何の感慨も持たない棒読みで束の間の道連れに別れを告げた。
ミチェルはそんなシャルをこのまま放置しても大丈夫だろうかと、しばし思案するように額に手を当てたが、再び頭上の太陽の傾き具合を確認して、結局は仕事の方を優先させたらしい。苦笑しつつ軽く両手を広げ……音もなく、彼の背後に再び光の魔法陣が浮かび上がる。先ほどの陣とは何か違いがあるのか、どうやって出しているのか、そもそも魔法陣を背負う事にどんな意味があるのかなど、好奇心はそそられるのだが、ユーリにはさっぱり分からない。
そのままミチェルはやけに気取った仕草でお辞儀し、
「それでは旅のお方、私はこれにて失礼させて頂く。
どうぞ、あなたの行き先に幸あらん事を……アディオス!」
わざとらしいよそ行き口調に、最後の別れの言葉にウィンクまで投げて寄越しつつ、トン、と軽く地面をブーツの踵で叩くと、足下からも光の魔法陣が発光し……ふわりと彼の身体が軽く持ち上がったかと思うと、次の瞬間にはミチェルの姿は光の魔法陣と共にかき消えていた。
……なんというか……嵐のような人でしたね……
唖然としたまま、ほんの少し前までミチェルが居た空間を眺めやるユーリに、シャルは重々しく両腕を組んで首肯した。
「……移動魔法……是非とも体感してみたかったです」
いや、あんなあからさまに怪しい術に、喜んでフラフラと掛かりにいかないで下さい、シャルさん。
鼻の利くシャルが何も言わないので、実はミチェルは姿を隠しただけでまだその辺に居る訳でもなく、本当に彼らから遠く離れたいずこかへと移動したらしい。それらしい詠唱はなかったような気がするのだが、まさか、『さようならご機嫌よう』といった意味合いの「アディオス!」が転移魔法の詠唱全文という事もあるまい。
無理やり推測を立てるならば、シャルが魔力を使用している際に特に詠唱など必要としない(らしい)ように、エルフ族が編み出してきた魔術体系とは少し異なる、別次元の術なのだろうか?
何にしろ。
……あ、怪しすぎる……
彼が何の目的で国外へ転移し、短時間で再び『仕事に遅刻しないよう戻った』のかは定かではないが、こんな訳アリな場所でのこのこと歩き回って行った辺り、その真意が全く掴めない。
「人間という生き物は、本当に不可思議な生き物です。
わたしもマスターに付き従い、それなりに人間社会と向き合ってきたつもりですが、未だに彼らの論理は掴みきれません」
羽織ってるその外套の下は真っ裸な照る照るカンガルーは、しみじみと何かに感心した口調でユーリの呟きにそんな相槌を打ってきた。
ポケットの中で後ろ足だけで立ち、両前足と顔を出した安定姿勢をキープしていたユーリは、胡乱な眼差しを頭上へと向けた。角度的に丁度真下から見上げる格好になる為、実のところここからではシャルのやたらと形良く高い鼻の穴ぐらいしか見えない。
私から言わせてみれば、シャルさんだってかなり不可思議なお方ですよ、ええ。
「それは単に、ユーリさんが一風変わった人だから、常識人のわたしの事を不可解に感じるのでしょう」
得々とそう話を纏め、天狼さんはご自慢の純白の翼をバサッと大きく広げたのであった。
再び、ゆっさゆっさと豪快に揺さぶられたり、ポケットの中から転がり落ちそうになったり、気が遠くなったりといった飛行中の試練を乗り越え。朦朧としていた意識を覚醒させた時には既に、シャルは懐かしささえ感じる我が家の裏庭に降り立っていた。
ああ、無事に辿り着いた……もう、こんな遠出はこりごりです。
シャルのポケットの中から思い切って飛び降り、揺れないし安定感抜群な裏庭の空き地に思わず、大の字になって寝っ転がってしまうユーリ。帰り道も暴風の中かっ飛ばされたせいで、またも乗り物酔い状態である。
「ユーリさんは、本当に出不精ですねぇ」
そんな黒ネコの傍らにしゃがみ込んだシャルは、無防備に投げ出されたユーリのお腹の辺りを指先でチョンチョンと軽く突っつき、何かに満足したのかおもむろに立ち上がった。
ぐえぇぇ。シャルさん、今は私を放っておいて下さい……
相変わらずこの同僚は子ネコにたいする扱いが雑過ぎる。
しかし、そんな文句など全く意に介さず、シャルはおもむろに井戸の水を汲み上げ始めた。
そして当然のようにザバッと頭から水を掛けられて、ユーリは驚きと抗議混じりに「みぎゃっ!?」と悲鳴を上げるが、彼はもう一度井戸の釣瓶を落とし、桶に水を溜めるのみ。
そしてバサバサと、照る照る外套から靴からズボンに至るまで脱ぎ捨てて……呆気にとられているユーリをヨソに、桶に汲み上げた水を頭から被った。次の瞬間にはもう天狼さんの姿に変化していて、ブルブルと全身を震わせて水気を飛ばす。
「ふう。少しはマシになりましたが、まだ鼻の奥がツンとします」
グチグチと零す独り言から察するに、どうやらこの天狼さんは、服や身体に染み付いた瘴気の臭いがどうにも我慢出来なかったらしい。
まずはお風呂の支度が必要なようですね。
「その前にマスターに報告ですね。行きましょう」
脱ぎ捨てた服はそのままにしておいて良いのだろうか? そんな疑問を抱いて、チラチラと背後を気にするユーリの様子に気付いているのかいないのか、わんこは器用に勝手口のドアを開けてスルリと台所へ入ってしまう。
あの同僚の事だ。すぐに追い掛けなくては、ドアを閉めて意図的にユーリを表に締め出しかねない。大慌てで後を追うと、勝手口でお座り体勢をとり、尻尾をゆらゆらさせていたわんこはチラッと彼女に視線を投げて、無言のままタタタタと廊下へ向かって駆け出した。やはり、ユーリがあのまま外でゴロゴロしているようならば、何か悪戯を仕掛けようとか企んでいたのだろう。
シャルさん、ちょっ、速いですって!
イヌバージョンなシャルと子ネコ姿のユーリの歩幅は、お互いが人間の姿の時よりも更に広がってしまう。同僚にはあっさり置いていかれてしまったが、幸い我が家の廊下は真っ直ぐな為、シャルの目的地が作業部屋である事は一目瞭然。
トテトテとフローリングな床を駆け、シャルがまたもや開きっぱなしにしていた作業部屋のドア影から室内の様子を覗き込むと、作業台の前に腰掛けたご主人様の傍らにお座りしたわんこさんが、ご主人様から頭をわしゃわしゃと撫でられているところであった。
ようやっと追い付いてきたユーリの気配を感じ取ったのか、シャルは目線だけを動かして彼女を捉えた。
その表情は、気のせいでなく『ふふん』と勝ち誇っているように見える。
くっ……何なのでしょう、このそこはかとなく湧き上がってくる屈辱感……!?
「お帰り、ユーリ」
だがしかし、彼らのご主人様は、ある意味とても公正にして平等なお方だった。ユーリの姿に気が付くと、その秀麗な顔立ちを蕩けさせながら立ち上がり、作業部屋の入り口でまごまごしていた黒ネコを抱き上げて頬擦りしてくる。
……これはこれで、微妙にウンザリした気分に陥るから不思議である。
ただ今戻りました、主。
カルロスの頬に肉球パンチをかまして頬擦り攻撃を中断させると、ユーリはぺこりと頭を下げて帰宅の挨拶を告げた。
そしてすぐさまマルトリリーを見付けられなかったと、正直に今日の任務失敗を報告すると、カルロスは嘆息混じりに頷く。
「そうか……ガベラで見付からないとすると、残るは『温室』と『空中庭園』だが」
どさりと、ユーリを腕に抱いたままシャルと向き合う形でイスに腰掛けたカルロスは、思案げに呟いた。
確か、ミチェルも『空中庭園』がどうの、と言っていたなぁとぼんやりと思い返しているユーリの頭を撫でつつ、しもべ達が持ち帰った情報を吟味しているようだ。
「『温室』はデュアレックス王国領土の東部にあった、植物研究所みたいな施設だったらしい。少なくとも100年前までは。
今は瓦礫の廃墟だって話だからな……十分な水があるかどうか」
「では、『空中庭園』というのは何ですか? 空飛ぶ庭というもの、一度見てみたいです」
シャルはワクワクとした表情で尻尾をパタパタと振りつつ口を挟んだ。最近なんだが、この同僚のわんこ時の細かい表情も見分けがつくようになってきた気がするユーリである。
カルロスはそんな天狼さんに、無言のままジッと目をやり……
「生憎だがシャル、お前のそのやたらと豊かで妙に臨場感がある空想上の『空飛ぶ庭』は、このマレンジスのどこにも存在しねえ」
実に残念そうに首を左右に振るカルロスに、天狼さんは予想外の衝撃を受けたように、『ガーン!』という表情を浮かべて小さくよろめいた。
どうもシャルは『空中庭園』と聞いて、雲のように大気中にぷかりと浮かんで飛んでいる庭を想像していたらしい。この同僚の、意外とメルヘンチックな一面を知った。
「『空中庭園』はデュアレックス王国の王城、ハイネベルダに存在する庭園の通称だ。
なんせあの城が建ってる場所の高さがアレだからな。空中庭園以外の何物でもない」
「ええ~」
なんだ、ただ高い場所にあるというだけか、と言わんばかりに、あからさまにガッカリした声を出したシャルの鼻面を軽く撫でて、カルロスは「さてどうするか」と呟きつつ、ユーリに視線を落とした。
“次は、シャルに魔王城まで飛んで行ってもらうとして……
問題は、コイツに狩り以外のまともな探索が出来ると思うか?”
主から飛んできたテレパシーに、ユーリは微妙に言葉に詰まった。
この同僚は確かに有能だし強いし、単独行動を取らせてもあまり心配する必要性は感じられない。だがしかしそれとこれとは話が別で、今日の行動を振り返るに、彼の興味や熱が入りやすい分野にお花狩りが該当するかと言うと……正直、首を傾げざるを得ない。
詰まるところ、逐一発破を掛けたり軌道修正を講じたり注意を促したりといった、細かいお目付役が必要である気がするのだ。主であるカルロスが遠距離からその役目を果たせば問題は無いのだろうが、はっきり言って、彼女の主人はそこまでヒマではない。
「……シャル、ユーリと一緒に、次はハイネベルダに飛んでくれ。
ユーリ、王城はガベラの森とは比べ物にならないぐらいの危険地帯だが……任せた」
頭痛を堪えるかのように片手で額を抑えつつ、絞り出した答えがそれだった。
シャルはそのご命令に、不思議そうに鼻面をちょこんと傾げ、
「そう言えば、今ふと気が付いたのですが、マスター」
「なんだ」
「ユーリさんを瘴気の中へ連れて行って、本当に大丈夫なんですか?」
「あ?」
瞬きを繰り返す天狼さんは、落ち着かなさそうに尻尾を床に打ち付けつつ、疑問点を吐露する。
「確か、我々の外殻膜に付与された効果は『自分の世界に存在しない毒素の濾過』だったと思ったのですが」
シャルの言に、確かそうだった筈だなぁ、と頷いたユーリは、カルロスの腕の中で一拍置いて首を傾げた。
主……『私の世界にも存在した毒素』が、このマレンジスにあった場合、どうなるんですか?
ギクシャクと頭上の主人を見上げてみると、カルロスは口をポカーンと開けていた。ユーリの視線に気が付くと慌てて表情を引き締めたが、もはや後の祭りである。主人の腕を肉球でテシテシと叩き。
あーるーじー……?
「それは……ああ、うむ。
当然、毒にやられるだろうな!」
ヤケっぱちじみた爽やかな笑顔で、カルロスはユーリに向かってグッと親指を立ててきた。
『やられるだろうな!』じゃなぁぁぁぁぁいっ!!
「おごっ!?」
子ネコの脚力を全力で発揮し大ジャンプしつつ、ユーリは黄金の右前足を一直線に、ご主人様の美麗なる顎へと抉るように叩き込んだ。
「わたしにとって瘴気は単なる臭い煙ですが、ユーリさんの世界では危険物かもしれないじゃないですか」
「おまっ、そういう疑問は早く言え!?」
フーッフーッ! と、興奮しきりの黒ネコを両手で押さえ込みつつ、カルロスは呑気なわんこ使い魔を叱責するが、シャル本人はしれっと、
「思い付いた今、すぐに口にしたではありませんか?」
そもそもこういった類いの疑問は、主人の心得ておくべき事項だったのではと、遠回しに嫌味を放った。
こうして、数日中にでも改めてハイネベルダに向かう計画は、残念ながら見直す必要が出てきたのであった。
障気はユーリにとって本当に何の影響も与えていないのか、はたまた猛毒となって襲いかかってくるのか。時間をおいて見極めなくては再び瘴気の渦巻くデュアレックスへ向かわせる事などできはしないし、外殻膜の毒素濾過条件は、細かく指定可能なものでもないからである。