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一緒くたに放り出された外套が、ユーリの視界を覆っていた。無我夢中で前足を動かしてかき分けようとしても、漆黒の生地は重たくのしかかってくる。
外套にくるまれるような格好で地面に落ちたお陰で、身体に痛みはさほど無いのだが、早く這い出なくては窒息してしまいそうな息苦しさだ。
「ギャギャーッ!」
「ちっ、水辺はやっぱり魔物のテリトリーか。
飛んでるのは厄介だが、シャル、いけるか……ってぇ!?」
「はあ。いけるかいけないかと問われたら、あの手の魔物は不味いんですよ」
「んな事は聞いてねぇぇぇぇっ!?」
どうやら、大きな湖が広がっているお陰で空中からの襲撃も容易であるらしく、上空から未確認飛行生物が飛来したらしい。
どうしてシャルは直接湖の上から森に降りなかったのかと思えば、木々が途切れて視界が利く分、上空から近寄れば湖近辺をテリトリーにしている魔物を刺激するからなのか。などと、慎重に外套からの脱出を試みつつユーリがつらつらと推測している間にも、銀赤コンビはコントを繰り広げる。
「魔物食うのか!?」
「中には、大変美味しく頂ける魔物も存在するんですよ。先ほど似顔絵をお見せしたでしょう」
「いやそれよか、何で照る照る坊主の下は裸なんだよ!
あんたは露出狂のド変態か!?」
「失敬な。わたしはただ、窮屈な格好のままでは立ち回りがしにくいから、楽な格好で臨んでいるだけです」
「おもむろに下も脱ごうとすんなぁぁぁっ!?」
「この状況下で戦闘態勢もとらないだなんて、余裕ですねミチェル」
いや、魔物が襲ってきてる最中にズボンや靴を脱ごうとしているらしいシャルさんの方が、余裕綽々に過ぎると思います。
だいたい、イヌバージョンに戻らないなら、下脱ぐ意味無いじゃないですか。
服を着るのを嫌がるイヌな同僚は、魔物襲撃をこれ幸いと窮屈な服を脱ごうとしているらしい。このまま外套の下から這い出て、彼らの状況を確認しても良いものかどうか、ユーリはしばし迷う。
「ギャオースッ!」
「ハッ!」
魔物と思しき謎の奇声と、シャルの気合い、そして勢い良く硬いものを叩くような、鈍い物音がほぼ同時に聞こえてくる。
シャルとミチェルは目まぐるしく動き回っているのか、地を蹴立てるザザッという音も絶えない。
「ヒューッ! あんた、天然ボケで露出狂のド変態でも、戦闘能力は一流だな!」
「そんな、呑気な、コメントをっ!」
ズザッと、比較的ユーリのすぐそばに着地したらしき音がする。如何なる手段かは不明だが、丸腰のまま魔物に攻撃を繰り出しているらしきシャルの途切れ途切れの声のよりも、愉快そうに囃し立てるミチェルの声の方が聞き取りやすい。恐らく、魔物との距離を測って結果的にユーリをくるむ外套の側に後退してきたものと思われた。
「しているヒマがっ、あるなら、手伝いなさいっ!」
「うわー、すっげー上から目線なんですけど。
今からやってやるよ、とびっきりをな!」
ズリズリ、と、外套の隙間を目指して匍匐前進をしつつ、ユーリは妙な感覚を覚えていた。
何故かは分からない。真っ暗で、視覚からの情報がシャットアウトされたからこそ、耳に飛び込んでくる音だけで状況を分析しているのだが……どうしても、胸騒ぎがする。
魔物の襲撃が怖いと感じる気持ちとも、イヌバージョンにならないまま戦闘を余儀無くされたシャルが怪我をするのでは、と不安を覚えるのとも違う。この不可解な感覚はそう、把握しておくべき何かを見落としているのではないかという、取り留めも無く形にならない焦燥感。
息苦しい外套の隙間からなんとか這い出たユーリは、明るい日差しに瞬いて、あちこちへぐるりと視線を巡らせる。
今日は朝から、どうにもスッキリしない感覚がつきまとってきて、落ち着かない。
そんなモヤモヤした気持ちのままユーリが見上げた湖畔に映り込む青空には……被膜の翼で滑空し、鋭い嘴を持つ翼竜プテラノドンにも似た魔物複数と、とうっ! とばかりに助走をつけて高々と跳躍し、裸足の足でプテラノドン(仮)の胴を蹴り飛ばす同僚の姿が。
全裸族へとクラスチェンジを果たすのはミチェルが防いでくれたのか、いつも作業中に着ているズボンを履いたままなので、安心してシャルの姿を眺められる。
横っ腹からまともに食らった一匹は、その衝撃で錐揉みしながら湖に墜落し、ぷかりと浮かび上がった。
と、そんな仲間の仇を討つべくして、別の一匹が猛スピードで銀髪半裸男へ突っ込んでいった。シャルが地面へと着地する身動きの取れないタイミングを狙ったのか、上空からの一直線な突撃だ。だがしかし、彼はせり出した枝を咄嗟に片手で掴んで難なく躱してしまう。
そのまま枝を軸に一回転し、改めてシャルは地面へと降り立った。
ええっと……もしかしなくてもシャルさんって、人間バージョンでもとても強かったりしたんですね?
忍者? サル? といった単語が、ユーリの脳裏に浮かぶ。彼女が子ネコ姿に変身するとなんだか身軽になるように、長年人間バージョンでの暮らしを送ってきたシャルもまた、本来の姿よりも身体が軽いのかもしれない。
「大気に満ちる大いなる源よ、統べるものよ、我が下へ集いて具現せよ……」
ハラハラしながら湖の方を眺めていたユーリのすぐそばで、ミチェルがそんな詠唱らしき言葉を発している。そちらに何気なく目をやった彼女は、ぱちくりと眼を瞬いた。
術に集中しているらしきミチェルの背後、そこに昼間でも一際光輝いて見える魔法陣が浮かび上がっていた。
――家や閣下の居城じゃあ、予め用意されてる魔法陣が結界術の殆どの工程を補佐するが、無けりゃあそりゃもうしんどい。
結界術を構築する際に、予め敷かれた魔法陣があるかないかで、難易度が激変する、と零していた主の言が蘇ってくる。
ユーリは術者達が魔法を使うところを目撃した経験は少ないが、彼らは誰一人とて、あのように何も無い場所に魔法陣を空中に浮かび上がらせて、術を補佐させていたりはしなかった。
シャルの方は、変わらず頭上からのプテラノドン(仮)の急襲をひらりひらりと躱しつつ、時折不意を打って蹴り飛ばし掴み投げといった豪胆な戦いを披露していた。彼の動きが派手なせいか、魔物の群れはシャルに注意が集まり彼を仕留めようと躍起になっているように見える。
そして、その隙に詠唱に集中し始めたミチェルは相変わらず、手袋をはめた手には媒介となりそうな物を何も持っていない。
手のひらを上に向け、胸元の辺りにまで軽く持ち上げたそこに、光が徐々に集まり球体に変化しながら高速で回転しつつ大きくなっていく。
それは、カルロスが照明用の光球を作り出す時と全く同じ詠唱でありながら、ユーリの目には術の効果が全く違うように見受けられた。
そして彼は光の塊を浮かべたその手を高々と掲げ、
「閃光よ、貫け! レイ!」
ミチェルの声に応えるように、彼の背後に浮かんだ魔法陣が眩い光を放ち……頭上に差し伸べた光の球から白いレーザー光線のようなものが幾つも幾つも発射され、まるで自動追尾機能を持ち合わせたミサイルのごとく、雨霰とプテラノドン(仮)に降り注ぎ……光のシャワーが、容赦なく飛竜の翼を、嘴を、胴を尾を貫く。
ユーリの目には単なる光線にしか見えないそれは、しかし咄嗟に姿勢を低くしたシャルの身は綺麗に避けつつ魔物の身体を確実に削ぎ落とし、致命傷を負わせていった。断末魔の叫びを上げつつ、上空を滑空していたプテラノドン(仮)達は残らず湖へと墜落し、ザバンザバンという水音を最後に……魔の森は再び静寂に包まれた。
あが、と口を開きながらその光景を眺めて固まっていたユーリは、こちらにゆっくりと歩み寄ってきたシャルに両手で抱き上げられた。(また裸のまま抱き上げて……)などと一瞬恨めしい気持ちが過ぎるも気を取り直して、ペタペタとシャルの胸板を肉球で軽く叩いてみた限りでは、彼に怪我は無いようだ。
首を巡らせて背後を振り返ると、凝りを解すように軽く腕や肩を動かしていたミチェルが、満足げに頷いた。
「一丁上がりっと。ま、こんなもんか」
背後に浮かんでいた魔法陣はいつの間にか消えており、彼はヒラヒラと軽く手を振って寄越した。あれが、この世界の術者の本領なのだろうか。ユーリには彼の実力がどの程度のレベルなのか判断がつないが、こんな風に高い殺傷能力を有した魔術師が、連盟にはゴロゴロいるのだろうか。
何より、先ほどミチェルは杖を呼び出していなかった。これから本気で魔法を使うぞ、という一種の目安であるそれを手にせずにいた、それはつまり彼は全く本気を出していなかった、という事で……
「口先だけではないようですね」
「そいつはどーも。ほら、サッサとこの辺調べて、こんなシケた森からはとっとと帰ろうぜ」
シャルが赤い髪の謎の魔法使いをどう捉えているのか謎だが、彼はすっと眼を細めてミチェルを見やってから、地面に放り出していた外套を掴んでバサリと広げつつ再びそれをふんわりと纏った。その間、片腕にユーリを抱えたままだったので、再び息苦しさと真っ暗闇に襲われてしまう。
「わたしも、早く用件を済ませて帰りたいです。しかしあの空飛ぶ爬虫類は不味いので、獲物として持って帰られませんし……どこに居るんでしょうかね、ワシシは」
ふぅ~と、憂いを含んだ溜め息を零し、シャルは照る照る外套の内側からユーリをスポンッと引き抜いた。そして、注目ポインツであるポッケに彼女を下ろしつつ、入れ替わりにグリフォンの似顔絵が描かれたメモを取り出し、標的を指先で軽く弾く。
……どうやら、グリフォンに似た魔物の通称は、『ワシシ』というらしい。
わしし……鷲氏?
「……なあ、ずっと思ってたんだが。その外套は後ろ前反対じゃねぇの?」
「失敬な。この外套はこの着方が正式な着こなしなのです。
その証拠に、ここにポケットが付いてるではないですか」
むむっと眉をしかめるシャルに、ミチェルがはいと片手を上げて尋ねるも、同僚はお腹の辺りを撫でてみせつつ、しれっと即答。彼の論拠はユーリの記憶が確かならば、彼自身の手作業による成果だった筈だ。
「……変な服……変態仕様?」
捏造された偽りの証拠を目の当たりにし、やはり放り出されていたズタ袋の紐を掴んで肩に担ぐシャルを見やり……ミチェルは益々彼に対する誤解を深めたようである。
激しい戦闘の後にも関わらず、そんな呑気なやり取りを交わす銀髪赤髪コンビは、先ほどの戦闘の疲れや気負いなど全く感じさせずに再び湖のほとりを歩き出す。
「それで、シャルはいつまでマルトリリーを探す気だ?
ある程度のところで見切りをつける事を勧めるがな」
百合探索に歩を進めつつ、ミチェルが瘴気による毒素を懸念しているのか、なるべく早めにこの場を離れたいらしき発言をする。
シャルもユーリも、このガベラの森に幾日滞在しようが毒にやられる事など無いのだが、その特異性をミチェルに気取られる危険性は避けたい。確かな実力を誇る魔法使いであり、純粋に『成り行きによる善意の人助け』を押し付けてくるはた迷惑な彼を、上手く言いくるめて追い返すのも難しい。
ならば、今日のところはひとまずきりの良いところで帰還すべきであろう。
「そうですねぇ、ワシシを確保してから……」
が、好戦的狩人な天狼さんは、せっかく狩り場に足を運んだからには、手ぶらでは帰りたくないらしい。ユーリは迷わず、ポッケの中からシャルの腹目掛けて全力ネコパンチを繰り出す。
「……この湖から流れる沢を確認して、引き上げですかね」
どうやらユーリの意図を汲み取ってくれたらしきシャルは、渋々前言を翻した。
それに、ミチェルが何かを言いたげに唇を開きかけたところで……ぐきゅるるる~と、シャルのお腹が盛大に空腹を訴えた。
「でかい腹の虫だなー」
「ああ、食べられない魔物なんかと戦ったせいで、無駄にお腹が空きました……」
出鼻を挫かれ呆気にとられたミチェルは含み笑いを浮かべ、シャルは心底悲しげにお腹をさすり……おもむろにユーリをその手で掴み上げた。
「……みっ!?」
「お、おい、まさかその子は飼いネコじゃなくて、しょくりょ……」
ミチェルが恐る恐る口を挟んでくる。危険信号が脳内で激しく明滅しだした彼女を眼前にまで持ってきたシャルは、しかしそれには答えず琥珀色の瞳を爛々と輝かせつつジーっと黒ネコに視線を注ぎ……冷や冷やしているユーリをよそに、やがてハッと表情を引き締め、彼女をポケットに乱暴に戻した。
「苺の匂いがします!」
そう叫び、手にしたズタ袋を振り回しつつ脱兎の勢いで沢を下り始める。空腹感を覚えた肉食獣は、例え周囲に悪臭が充満していようとも、敏感に好物の匂いを嗅ぎ分けたらしい。
「あっ、おいこら待てよシャルっ! 仮初めでも連れをほっぽりだしてダンジョンをうろつくな!」
足の速いシャルを慌てて追い掛けて来ているらしき、ミチェルのそんな諫める声が聞こえてくるが……魔物が徘徊している森の中、大声を上げて縄張りへの侵入者としての存在を盛大に主張するのも、どうかと思うユーリである。
爽快に瘴気の満ちる森の沢を駆け抜けるシャルは、まさに解き放たれた猟犬の如き的確さで獲物の前に二王立ちになった。そんな彼に荷物状態でゆさゆさと揺さぶられつつ運ばれたユーリは、振動が止むまでポケットの中でじっと大人しくしていたのだが、どうやらお目当ての果物のそばに到着したらしいと、そろりとポケットから顔を出して様子を窺ってみる。
だが、少しばかり期待したユーリの目の前に広がる黒ずんだ茂みには、苺らしき果実の姿は全く見えない。
シャルさん、流石は魔の森ですね。ここに生っている植物はなんと言うか……非常に根性がありそうです。
ユーリの目に止まった植物は、どぎつい赤さと形状そのものは梨に似た形で……中心部からは立派な鋭い歯列が並んでいた。ギチギチと、その口にしか見えない部分が上下に動いて威嚇してくる。
今の子ネコなユーリでは一飲みにされそうな、そんな巨大なそれはどこからどう見ても魔物にしか見えないのだが、ヘタと言うか首から後ろは頑丈な蔓が大木に巻き付いている。恐らく立派に植物だ。多分。
「こら、待てってシャル。いくら腹が減っててもだな、瘴気に冒された果物なんか食うな。腹壊すだろ」
と、一足遅れて追い付いてきたミチェルが、実に胡乱な眼差しを根性植物に向けた。
シャルは一時の道連れにチラリと視線を寄越し、チッと舌打ち。そのふてくされた表情はまるで、楽しくも細やかな悪戯を見咎められたやんちゃ坊主のそれである。
「しかし、この森の中でも苺が生っているという事は、マルトリリーが自生している可能性を充分高めると思いませんか」
「まあ、森の木々自体が枯れ果ててはいねぇからな……草の類は全滅してるとこが微妙だが」
シャルはおもむろに、ギチギチと威嚇する果実らしい赤い塊を容赦なくもぎ取り、遠慮なく上下から両手で押さえつけた。途端に威嚇音が止んで静かになる。
予想外に判明した驚愕の事実に固まっているユーリをよそに、シャルとミチェルは呑気にもぎ取った赤い塊を覗き込む。
「しかし、コイツはかなりデカい苺だな。ここまで育ったのは初めて見た」
「人の手が入らない森ですからね。食べられないのが非常に残念です」
……うふふ。脳内翻訳で『苺』と当てはめた本来の名称は、『ザシュト』とか言うらしいですよ。いやあ、こちらの食べ物はたまに意外な姿をしているんですねぇ……
ジャムになった時の姿しか知らなかったユーリは、味わいや色合いから、地球での最も似た果物を勝手に当てはめていた訳だが。
ユーリが遠い目を向けた先に、嫌でも赤い塊が飛び込んでくるのだった。
流石は天狼さんなシャルさんの好物……なんとも豪快な姿です。つまり私は、絶対にこの世界の『苺』を手土産に持って帰る事は叶わなかった訳ですね。
こんな、食虫植物もびっくり仰天な根性植物があの甘い苺ジャムの素であるなどと、想像の範疇外である。