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世の中には、どうにもこれは怪しい、と訝しむ瞬間や現象がある。
このマレンジスに召喚されてからこっち、ユーリはすっかりと何かにつけて懐疑的な姿勢を取る事が常となってしまっていた。あまりにも異なる習慣や常識、そこから繰り広げられる認識による食い違いに。
自らを戒める必要があった。自分自身の身を守る為には。
ですが、今この状況は、どこからどう見ても、なんと言いますか……
「う~ん。あんたはいったい何者なんだ?
そのヘンテコな服装で危険な森の中を1人で歩き回ってるなんて、非常識にも程があるな」
ウェーブがかかった燃えるような赤い髪と、翠緑の瞳を持つ男は、身に着けているシャツやジャケットも、足の長さを強調するかのような半ズボンに爪先の尖った膝丈のブーツに足にピッタリと張り付く白いストッキングも、縫い付けられたレースのカフスや共布のリボンの束も、全てがやたらと派手だ。
有り体に言ってしまえば、ここは人里離れた魔物の住む森などではなく、「これから夜会に行って来ます」とでも言い出してもおかしくない高価そうな服装である。
そして、些細な汚れさえ見当たらない純白の手袋をはめた手には、何かの荷物さえ持っていない。完全に手ぶらだ。
あまりにも場違いで、異様な風体。そして、そんな赤い髪の男もまた、照る照るカンガルースタイルなシャルの格好を怪しみ、警戒を露わに眉を顰めて問い質してきた。
「お言葉ですが、そう仰るあなたの装備も、到底ハイキングに相応しいものには見受けられませんね」
不審人物を体現したかのような姿の同僚は、怪しさ全開の男へ平坦な口調ですかさず言い返した。ユーリからしてみれば、どっちもどっちである。
「ははは! 違いない!」
ガベラの森に、なんとも場違いな馬鹿笑いが響き渡った。
「どーも、転送指定ポイントが狂ったみたいで、こ~んな森のど真ん中に放り出されてな。
岩や地中に転送されなかっただけ、マシだけど」
シャルの何かが男のツボを突いたせいで、拍子抜けしたのか何なのか、口調がやや砕けたものに変わった。舐められているのか、それとも親しみを込めている雰囲気を纏ってみせ、怪しい者ではないとアピールしつつシャルの硬さを解したいのだろうか。
額にかかってくる波打つ髪をかき上げて、男は首を傾げた。
「それで、照る照る坊主なそこのあんた。ここがどこだか、知ってたら教えてくれたら有り難いんだが」
「ここはガベラの森ですよ」
なんとも杜撰な返答を返すシャルに、赤い髪の男は「なるほど」と頷いた。果たして、あれだけの端的な回答で求めていた疑問が氷解したのか否か、定かではない。だが、彼はおもむろにレデュハベス山脈を振り返って、思案げに眼を細めるのみ。
いったいこの男は何者なのだろうかと、ユーリはとにかくひたすらに、じっくり観察してみる。
何故なのだろうか、この男からはどうにも既視感のようなものを覚えるのは。
シャルさん、この人、堂々と転送が云々って言ってましたけど、連盟の方なのですかね?
ユーリが知る限り、魔術師連盟に所属する本部勤めなメンバーの大半はエルフやハーフエルフのようだったが、逆に言えばカルロスやブラウのように、外見的な特徴を持っていない人々は、本拠地や勤め先を外部に定めている者が多いのかもしれない。
つまり、この目の前の男もまた、どこぞのお屋敷だか貴族のお抱え魔法使いか何か……
「……では、わたしはこれで」
むむむ、と考え込んでいるポケットの中の黒ネコをヨソに、シャルは結局この怪しい男とは関わり合いにならない選択肢を選んだらしい。
だが、軽く目礼して擦れ違おうとするシャルに、男は「待った」と進行方向にさり気なく体を滑り込ませて引き止めてきた。
「ここがガベラなら、この森には魔物に加えて瘴気が充満してる筈だ。
……あんた、体は平気なのか?」
「だからこそ、先を急いでいるので。そちらこそ、長居をして体調を崩しても知りませんよ?」
主人からの説明によると、精製される前、大気中に漂う瘴気を数週間吸い込み続けると、人間は体調を崩すらしい。
外隔膜にしっかり瘴気を濾過する機能が付与されているシャルは、何日間デュアレックス国内の領土に滞在しようが住み着こうがピンピンしているが、普通の人間ならば当然の心配である。
「冒険者って人種はこれだから……!」
推定・魔法使いの赤い髪の男は、シャルを無謀な探検家か何かであると結論付けたらしい。
大回りして男から距離を取り、さっさとその場を離れようとするシャルに追いすがり、尚も声を掛けてきた。
「おい、あんた。こんなところで出くわしたのも、何かの縁だ。
仕方ないから、このオレが手伝ってやる」
「……はあ?」
この武闘派な同僚のことだ。怪しい男に背を向けた事でワザと隙を見せて、こちらに害を為してくるのならばいっそ返り討ちに出来て楽だ。ぐらいに考えていたのだろう。喧嘩やら何やらに関しては、この天狼さんは自分の実力をかなり過信している節がある。
だがしかしそんな思惑など無視した赤い髪の男の言い分に、シャルは大いに意表を突かれたと言いたげに素っ頓狂な声を上げ、彼を振り返った。
「このまま魔物だらけの森の中で別れて、あんたの安否が不明なままってのは、どうにも寝覚めが悪い。
このオレがタダで手を貸してやるなんて、滅多に無いんだからな。有り難く思え」
「別に、頼んでいませんし」
足早に水音のする方へと歩を進めつつ、シャルは本気で迷惑そうに眉をしかめた。
だが、赤い髪の男もまた、こうと決めたら梃子でも動かない性格らしい。全く気にした様子も無くついてくる。
実情を加味して考えると非常に傍迷惑な話ではあるが、常識的に考えて、赤い髪の男がシャルの先行きに不安を覚えるのもまた、当然であるのかもしれない。
明らかに丸腰で、仲間とチームで探索している様子も無いひょろりとした若者が1人、魔の森をのほほんと歩いているのだ。ここまでやって来たのだから腕に覚えがあると判断されてはいるようだが、それでもやはり、単独行動だと知りながら放置するのは気が引けるらしい。
ユーリはテシテシとシャルのお腹の辺りを叩いて、同僚の意識をこちらに向けてみた。シャルは片手をポケットの中に差し入れてユーリのお腹を掴むと、ヒョイと眼前に持ち上げてから肩の辺りに抱き寄せてくる。
「どうしました」
ユーリと話がしたくとも後ろの赤い髪の男の目が気になるのか、彼女の耳元に囁く事にしたらしい。
ユーリもまた、耳が良い同僚にボソボソと話し掛けた。
シャルさん、あの人が居たら、例え魔物が出てきても元の姿に戻れませんね。
「……ええ。想定外な上に、非常に由々しき事態です」
ユーリの溜め息混じりの台詞に、シャルは心底面倒臭そうに呟いた。
ユーリはパヴォド伯爵の意向により、クォンである事実を隠されている。
以前からシャルとは顔見知りである筈のセリアが、エストが縫ったシャルぬいぐるみを「謎の生き物」と称していたり、「イヌバージョンで街中を飛んだら大騒ぎだ」とカルロスが呟いていたりといった点から薄々感じていたのだが。シャルの方は基本的に『カルロスのいざという時の手段』としておおっぴらにされていると言っても、それは術者や関係者に限定されており、それ以外の人間には天狼としての姿を晒さないようにしているようだ、とユーリは読んでいたが、その直感は当たりらしい。
ユーリがもぞもぞと動いて、シャルの肩越しに問題のお節介男を観察してみると、丁度こちらを眺めていた赤い髪の男とばっちり目が合った。
「……何故、ネコ連れ」
彼は小さく不思議そうに呟きつつ、早歩きになってシャルに追い付こうとし、地面から張り出した木の根にうっかり足下を引っ掛けて転びかけ、咄嗟に手近な木の幹に手をついて体勢を整えた。
そしてそんな男の様子を、気配やら思わず漏れ出た「うわっ!?」という声などで大体のところは把握しているであろうに、シャルは振り返って安否を確かめさえしない。
「なああんた、可愛いから撫でても良いか?」
そして、ようやくシャルの隣に並んだ男は、どことなく期待感を滲ませた口調で確認してきた。それに、照る照るカンガルーは冷たい眼差しをチラリと寄越し、
「嫌です。気色悪い」
「あんたじゃねえよ! ここで撫でたいって思うのは、普通ネコだろ!」
ズバッと一言で切り捨て、赤い髪の男からすかさずツッコミを入れられた。
「うちのユーリさんに気安く近寄らないで下さい」
「そのユーリさんは、可愛いネコちゃんなんだから仕方がない」
この世界は、ネコ好きが多いのでしょうか……
あー。因みに、シャルさんが変化を隠す理由は何です?
未練がましくこちらを眺めてくる男に、ユーリは「フシャーッ!」と毛を逆立てて威嚇しつつ、気を取り直して問い掛けた。
「そんなものは簡単ですよ。
人は異質なモノを無闇やたらと恐れますからね。
『なんで変身出来るんだ、お前は魔物か』と騒がれるのが、それはもう、とにもかくにも七面倒臭いのです」
は、はあ……
変身可能であるという能力を隠す理由が、なんだかある意味とてもこの天狼さんらしくて、思わずユーリは脱力してしまった。
「彼が何者にせよ、アルバレス侯爵家との繋がりがある事は確かですから、金輪際会う事も無いとは言い切れませんし。
変化する場面を見られるのは……」
……はい?
アルバレス侯爵家縁の云々、というのは、この方と以前、お会いした事でもあるのですか?
シャルはユーリを再び抱き上げると、反対側の肩に凭れさせた。子ネコの威嚇に、決まり悪げに頬をかく赤い髪の男。その純白の手袋は先ほど幹に付けた際に汚れでも付着してしまったのか、指を動かした辺りのほっぺたには黒い筋がうっすらと。
派手な色彩の割には、どうにも凹凸が少なく地味で印象に残らなさそうな顔でありながら、妙な既視感を覚えると思っていたが、実はこれが初対面という訳でもないのかもしれない。
「ほら、侯爵家の城でユーリさんと夜のお散歩をした時に、偶然立ち聞きしたじゃないですか。じいやさんとお喋りしていた男ですよ」
……はあ、なるほど……
しばし記憶を掘りおこす作業を要してから、ユーリは一拍置いてシャルの言わんとするところに思い至った。
ユーリは一見しただけでは分からなかったが、このイヌな同僚が個体を区別し見分ける際、重要視するのは匂いや気配だ。当人曰わく、『瘴気はとんでもなく臭い』らしいが、習い性として嗅ぎ分けたようだ。
あの時は声を潜めていたから低く聞こえたが、今彼が話す声音や口調の方が恐らくは地なのだろう。
改めてその服装を見やると、足の長さを強調するような無駄に派手で見栄えの良いファッションといい、髪や目の色で華やかな雰囲気といい……魔法使いというよりは、貴人に仕えるフットマンのように見える。
「ネコちゃんネコちゃん。おーい、ユーリさん。良ければこっちに来ないかい?」
遠慮なくジーッと観察していたら、男は自分が興味を持たれていると勘違いしたのか「カモ~ン」などと誘いかけつつ、両手を広げて受け入れ体勢を取る。ユーリはプイッと顔を背け、シャルの頬に擦り寄った。
と、不意に規則正しい振動が止み、シャルが足を止めた事に気が付いたユーリは、キョロキョロと周囲を見回した。
首を巡らせれば、背後……シャルが歩いていた進行方向にはとても大きな湖が広がっており、対岸は遠く、オマケに薄く黒い霧のような靄がかかり霞んで見える。
「なああんた……そういや名前、なんだったか」
「人に名を尋ねる前に、ご自分から名乗っては?」
「手厳しいな。あんたはお堅い淑女かよ。
俺はミチル。で、そっちは?」
「わたしの事は、シャルと。
それでミチェル。わたしの貴重な時間を割いて話し掛けてくるほど価値がある、何か大切なお話でもあるのですか?」
あれ? と、ユーリが違和感を覚えて首を捻っていようとも、赤と銀のやたら目立つ男達のやり取りは途切れる事もなく続けられた。
「シャルはまさか、この水を飲む気なのか? ここは瘴気に汚染されてるし、オススメはしないな」
「いつ誰が、そんな事を言いました。
わたしはただ、コレを探しているだけです」
シャルはポケットから例の羊皮紙を取り出して、
「ミチェルはこのエサ……もとい、花を知りませんか? ええ、知りませんよね」
赤い髪の男……ミチェルの鼻先に突き付けて畳み掛けた。
突如として眼前にぐりふぉーんなスケッチを近付けられた方は、目を白黒させている。いや、彼の瞳は翠緑色だが言葉の綾だ。
そしてユーリの方はというと、体を支えてくれていたシャルの手が離れたせいで、滑り落ちないよう肩の上にしがみつくのに必死だった。
「マルト、リリー……?
おいおい、いくらなんでもこのグリフィンに名付けるには、あの百合は可愛らし過ぎるだろ」
だがしかし、ミチェルの方は一瞬呆気に取られた表情を浮かべてから、そう笑ってメモを突き返してくる。そのなんでもなさそうな気安い口調に、シャルはかえって驚いたように瞬いた。
「ミチェルはマルトリリーを見た事があるのですか?」
「あるにはあるが……あんた、あの花を探してんのか。
そりゃ、今じゃ恐らくとんでもなく高値で売れるだろうしなー」
ミチェルは何か、やはり勝手にシャルの背景を早合点して納得している風である。
対してシャルの方では、ミチェルは『恩着せがましい上に鬱陶しい羽虫のような不審人物』から、『精度はさておく情報源』に格上げされたらしい。
そしてそんなやり取りの間のユーリはといえば、よじよじと自力でシャルの肩によじ登って、独自の安定姿勢を模索していた。
「昔はこの辺りに咲いてた、それは間違い無い。だが、今はこの通りの瘴気の渦だからな……もう、自生は期待出来ない」
シャルとミチェルはどちらからともなく湖の岸部を歩き出し、そんな気の滅入る結論を出された。
「この百合には浄化作用がある特別な花だと聞きました。瘴気の中でも咲いている可能性はあると、わたしは睨んでいますが」
正確に言うと、そう睨んだのはシャルではなくその主人であるカルロスだが。
この人、マルトリリーの実物を見た事があると自称するだなんて、もし仮にそれが本当の事だとしたら、いったい幾つなんでしょうか……
「ま、ひとまずここをぐるっと一巡りしてみてから、無駄足かどうか判断するんだな」
「……ミチェル、一つ聞きたい事があります。
あなたはいったい、どこでマルトリリーを見たのですか?」
ネコの姿でのユーリの声を聞き取れる、特殊な耳までは持ち合わせていないらしいミチェルは、シャルの問いに足を止め、親指を軽くクイッと立てて言外に方向を指し示し……
「空中庭園さ」
彼が示した方向へ顔を向けようとしたユーリは、突然しがみついていた外套ごと空中に投げ出された。
なっ、何!?
悲鳴を上げた時には既に、地面に叩きつけられたらしき衝撃が全身を襲う。と、同時に耳をつんざくような「キシャーッ!」という叫び声が静かだった湖畔に響き渡ったのだった。