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ただ今、照る照るカンガルーのポケットの陰からこんにちは、なユーリです。
私は今、明るく輝く太陽と、どこまでも澄んだ蒼穹の彼方、そして流れゆく雲を近くに感じながら、実りある豊かな大地や深き森、草原とを見下ろし、恋しいあの人と初夏の風と共に爽快に天空を駆け抜けて……いません。
びったんびったんと、時折打ち付けられるその衝撃に、ユーリは身を固くして耐え忍んでいた。彼女の身体は不安定かつ不規則に常に激しく揺れ動き、宙に浮き上がるかと思えば強く抑えつけられる。
耳に飛び込んでくるのはただ、ごうごうと強風が激しく吹き荒ぶ重厚音ばかり。
安全装置が無く、寝そべって進むジェットコースターにでも乗ったなら、こんな体験を味わう羽目になるのだろうか……と、ユーリは乗り物酔いにも似た気持ち悪さを覚えつつ、ただひたすらにこの時が過ぎ去るのを待ち望んでいた。
ポケットから顔を出して空から世界を見渡す余裕など、とてもではないがありはしない。むしろ、少しでも気を抜いたら軽い子ネコの身体はポケットからポロリと落っこちて……ジ・エンドだ。
「さて、ユーリさん、楽しいですかー!?」
と、ひたすらに拷問のようなその苦行に耐えていたユーリは、暴走運転手ならぬ超高度高速強行軍飛行士さんが大声で呼び掛けてくるその声を聞きつけ、振り落とされぬよう爪をしっかりと外套の生地に差し込んで引っ掛かり、両目をギュッと閉じたまま、叫び返した。
ちっっっとも楽しくありませーんっ!
「あなたが前々からお望みになっていた空中飛行、たっぷり楽しんで下さいね~!」
だがしかし、空飛ぶイヌな同僚の耳には風が邪魔をしてユーリの声が届かなかったのか、はたまたいつものごとく聞き流され、軽いイタズラを受けているのか。シャルはにこやかな笑みでも浮かべていそうな実に弾んだ声音で、
「特別サービスに、もっとスピードを出して差し上げますね!」
などと宣言し、伝わってくる揺れや風の音が激しさを増した。こんなサービスは全く嬉しくないユーリである。
空中飛行を行うシャルの背に乗り、長距離を移動するのはこれが初めての体験でもないのだが、今までの飛行ではこんな恐怖や苦労は全く覚えなかった。
それなのに何故、今日に限って……! と、吐き気を堪えつつ、思考や意識を時折明後日の方角に逸らしかけながらも、彼女は考え込んだ。その違いは、カルロスに抱きかかえられながらであるか否か、この一点しか無い。
主……何気なく抱っこしているようで、実は私の安全をしっかと確保して下さっていたのですね。
あなた様が居ない今この時になって、今更ながらに主の偉大さとその有り難みを、私は痛感しております。
シャルはまた、翼をはためかせながら高度と速度に微調整をかけたのか、外套のポケットごとユーリの身は一瞬だけ浮き上がり、無重力状態に陥った。
「みぎゃーっ!?」
「あははは! こうやって広い外を自由に飛び回るのは、本当に気分が良いですね!」
腹の辺りからの悲鳴などなんのその、で、シャルは軽快にアクロバット飛行か何かを披露しているのだろうか、実に楽しげである。ここのところ、ずっと調香部屋に籠もりきりだったのが、どちらかというとアクティブでアウトドア派な同僚には、よほど鬱憤を溜め込む要因になっていたようである。
あるじっ……た~すけて~っ!?
ユーリの声にならぬ声を聞き届けてくれる、唯一無二の存在である偉大なりし魔法使いたるご主人様カルロスは、使い魔コンビで早朝採取に向かう、その出発前から今に至るまで快眠中である。
子ネコなユーリが足元をチョロチョロとうろつきながらも、シャルが手際良く用意した朝ご飯に気がついてくれるのは、いったいいつになるのだろう。そもそも、カルロスは誰かに起こしてもわらずに目を覚ませるのだろうか?
生地に爪を立て続ける前足が、だんだん痺れてきたのを感じながらふふ、と小さく虚ろな笑みを零し……またもや同僚が風に煽られたせいでポケットは激しく揺れ、舌を噛んでしまった。
楽しげなシャルの笑い声と、ユーリのくぐもった悲鳴は、縦横無尽に吹き荒れる風にかき消されていったのである。
どこかで嗅いだような悪臭、それがほのかにうっすらと、緑の匂いと混じり合ってふぅっとユーリの鼻をつく。無意識のうちに眉をしかめ、右手で鼻の辺りを押さえた。
そうしてやや我慢して浅い呼吸を繰り返す間に、その臭さは殆ど気にならない程度にまで慣れてきた……とぼんやりと感じた瞬間。ユーリはゆっさゆっさと全身が容赦なく揺さぶられて、意識と共に遠のいていた、二日酔いならぬ飛行酔いによる吐き気が再発しだした。
「ユーリさん、ユーリさん」
嫌々ながらも両目を開けると、シャルが予想以上に近い距離で顔を覗き込んできていた。
うっぷ、と呻く羽目になった元凶たる同僚は至近距離から、相変わらず子ネコ姿、それもぐったりと意識を朦朧とさせていたユーリを両手で掴み、容赦なくシェイクしてきている。
「まったく、あなたという方は……わたしだけを働かせてご自分は悠々とうたた寝とは、良いご身分ですね?」
シャルさん、私はうたた寝なんて優雅な時間を過ごしていません。あれは『気絶』とか『失神』と言うのです!
前足が届くのを幸いに、ユーリは先ほどまでの恐怖体験の恨み辛みを込め、全力でネコパンチを同僚の頬に叩き込みつつ叫んだ。
避ける暇も無いままに、怒りの肉球をモロに食らったシャルは僅かに体勢を崩す。そしておもむろに姿勢を正すと、懲りたのかはたまた学習したのか、腕を伸ばしてユーリの黄金の右前足が届かぬ距離を保って再び口を開いた。
「あれしきの事で意識を飛ばすだなんて……ユーリさん、あなたはどこまで脆弱なのですか?」
殴られた事を怒るでもなく、どこか同情気味にそう問われ、ユーリはぐったりと脱力した。むしろこう、天狼さんはどこまで頑健なのかと問い質したいのは彼女の方だった。
深々と溜め息を吐きながらユーリは周囲の様子を観察する。
シャルが空から降り立ち彼女の意識を呼び覚ました場所は、日差しが僅かに差し込む森のただ中のようだった。移動手段の乱暴さにユーリの意識が遠のいている間に、なんとか目的地に到達したのだろうか。
バーデュロイとの国境に程近い、レデュハベス山脈の裾野に広がる深きガベラの森に。
下生えが鬱蒼と生い茂り、何かの生き物の気配があちこちからしてくるような気がする。どうも、この同僚は存在感だか気配だか気迫だか殺気だかで大抵の動物達を威圧してしまうらしく、猛獣の類いさえ近寄って来ないらしい。その実態はイタズラ好きイヌなのに。
瘴気が漂い、魔物も多数生息していると聞いていたが、ユーリの目に映るそこはグリューユの森の風景と大差ないような気がする。
……そう感じたユーリであったが、すぐに思い直した。よくよく注意して目を凝らしてみると、この森では、飛んだりうぞうぞと進む小さな虫の姿が見当たらない。
相変わらず、ズボンは履いているが照る照る外套の下は素裸な、真っ昼間からこの姿では怪しさ大爆発、日本だったら恐らく職質ものな格好を晒しているシャルは、広げていた純白の大きな翼を畳んで消したようだ。
そのままユーリをお腹のポケットに下ろし、外套の内側に手を突っ込んでやはり今回も肩から紐で吊り下げていたのか、中からズタ袋を取り出した。
ユーリはもぞもぞと動き、後ろ足で立ち上がってポケットの中から顔と両前足を出し、体勢を整える。吐き気はまだ残っているが、我慢出来ないほどでもない。
シャルが袋の中からクルクルと丸められた羊皮紙を取り出すのを見上げ、彼女は口を開いた。
シャルさん、その紙はなんですか?
「マスターからお預かりした、採取目標の似顔絵です」
顔違うし。
ポケットの中から、外套の生地越しにシャルのお腹の辺りに右前足で裏手ツッコミを入れつつ、ユーリは森の中を見渡した。
丁度前方には、霊峰レデュハベスの山肌が枝葉の向こうに見え隠れしている。あの山の頂きにそびえ立つと言われる、旧デュアレックス王国の絢爛豪華な王城ハイネベルダ。いったいどんな場所なのだろうなぁと、首を思いっきり傾げて見上げても、雲に隠れた山頂の様子は窺えない。
「これはちゃんと、ベアトリス様に描いて頂いた目標物のデッサンです」
シャルは同僚のツッコミに応えてわざわざ言い直し、ユーリの眼前にその紙を広げて見せてくれた。
以前、連盟の図書室で写本作業をお手伝いした際に書き写した古い書物、その中の記述を懸命に思い返してみるが、やっぱりユーリには百合が云々という内容はさっぱり記憶に無い。
いったいどんな花なのだろうかと、身を乗り出して描き出されたデッサン画を注視する。
主役である花の脇には、百合の名称である『マルトリリー』という走り書きから始まり、色や香りのイメージ、大きさや群生地条件が書き込まれているのだが……肝心の、紙のど真ん中に大きく描かれたお目当ての百合の予想外なお姿に、ユーリはマジマジと目を見開いてそのイラストを見詰めた。
あの、シャルさん。
我々が探し当てるべきマルトリリーとは、私が想像していた『百合』とは、著しくかけ離れた風貌をしているのですね。
「あなたはいったい、どんな花の姿を思い描いていたというのですか」
ユーリが呆然としたまま呟きを漏らすと、頭上からはシャルの呆れたような返答が返ってきた。
だがしかし、だ。上半身からは翼やら鷲にも似た頭だとか猛禽類的眼光と鋭利な嘴に、下半身はスラリとしたライオン風といった、おおよそ植物には似つかわしくない部位を自慢げにひけらかしつつ仁王立ち、などというポーズで描かれたその似顔絵……最早訂正するべきではない気がする……を一瞥しただけで、即座にこれがグリフォンではなく百合であるなどという判別が出来る自信は無い。
……食虫植物もびっくりです。私もしかして、何か勘違いしてたんでしょうかねぇ……
鋭い蹴爪と鉤爪を持ち、どこにも実花を咲かせていない。どっからどう見ても動物である。むしろ怪物以外の何者でもない。
これが異世界の植物の一種だと言うのならば、今後、自宅の花畑にさえ気軽に足を運べなくなってしまうではないか。
ひとまず、脳内翻訳で『マルトリリー』という単語から、地球の百合に相当する一種、と早合点した可能性を思索しだすユーリ。
だが、シャルはそんな彼女の注意を引くように紙の下部を人差し指でトントン、と軽くつついた。
「もしもしユーリさん。我々が探すべき花は、こちらですよ。
上のイラストは、ついでに狩りたい今日の獲物です」
……はい?
シャルの指し示す辺りに視線をやると、グリフォン(仮)イラストに紙面を取られたのか、小さな楕円形ぽいモノが隙間に描かれている。
どう贔屓目に見ても、力を入れて書き上げたのはグリフォン(仮)の方であり、こちらのマルトリリー(予想)はイラストの余白を埋めてみただけの飾り状態だ。
「ベアトリス様は興味がある物には熱心ですが、花にはさほど注目なさっておられなかったようですね」
この微妙なるイラストで、広い森の中をどう探し出せというのだろうか。ユーリは脱力してポケットの中にゴロンとお尻から転がり込んだ。
シャルはそんな同僚の態度に構わず、その紙をゴソゴソと、ユーリが居座るポケットの中に仕舞ってくる。
ちょっ、痛っ、私が中に居るんですから、強引に押し込んでこないで下さいっ!
ポケットの中では、丁度彼女の目の前、恐ろしげなグリフォン(仮)の鋭い嘴がグワッと迫ってくる構図に、ユーリはビクリと身を強ばらせた。
ただでさえ狭い場所に更にメモ書きが押し込まれ、実に窮屈である。慌てて体勢を整え後ろ足で立ち上がると、ユーリは再び先ほどと同じポーズを余儀無くされた。
「ポケットを正しく活用しただけで、わたしは何故、文句を言われなくてはならないのですかねぇ……」
そんな台詞をわざとらしくうそぶきながら、シャルは森の中をのんびりと歩き出した。
今やユーリの胸元辺りに押し込まれた走り書きメモの記述によると、問題のマルトリリーなる百合が咲く場所は、日当たりの良い水辺であるらしい。そっとシャルの顔を見上げると、彼はクンクンと匂いを嗅ぐような仕草をしている。水を探しているのだろうか。
グリューユの森ならば、一歩足を踏みしめるごとに草を掻き分ける羽目になるが、この森の中はどちらかというと腐葉土のような黒い地面が目立つ。
「そう言えばユーリさん、ベアトリス様の懐妊祝いに何を贈るか決まりましたか?」
マイペースな同僚は、ユーリの目には道なき道としか見えぬ森を迷う様子も無く突き進みつつ、そんな事を尋ねてきた。
おうちの書斎を当たってはみたのですが、どうもソレっぽい本が見当たらなかったんですよ。
どうしましょうかねぇ……我々の主観からの贈り物では、こちらの世界では不適当な品になる可能性もありますし。この件に関しては、なんだか主も頼りないですし?
前回連盟本部に足を運んだのは、ベアトリスに『デュアレックス王国の百合』についてを尋ねる為でもあったようだが……その際に判明したベアトリスおめでた事件に、カルロスは動揺を隠せないでいた。少なくとも、彼女はそう感じ取った。
赤ちゃんが履ける小さい靴下とか、編もうかなと思うんですけど。
ほら、まだ妊娠初期なら、産まれるのは寒い季節っぽいですし。
シャルはそんなユーリの話に一応は耳を傾けているのか、ヒョイと倒木を避け、枝垂れた枝葉を鬱陶しげに腕で払いのけながら進みつつ、口を開いた。
「この時期に編み物をしようだなんて考えつくユーリさんは、変わっていますねぇ。
わたしは滋養に良い獲物を狩ろうと思いまして」
……それがもしかしてこの、ぐりふぉーんですか?
ユーリはポケットの中で同乗している鷲頭の嘴に、ぽふっと肉球パンチを食らわせた。
自らの選択に自信満々なシャルは、気のせいか少しふんぞり返っている。だがしかしユーリとしては、本当にこの怪物は食用になるのだろうか、という懸念の方が先に立つ。
「それを食べればきっと、どんなに肉体的に脆弱なエルフだろうと、無事に元気な赤ちゃんが産まれてきますとも」
「へえ、誰かおめでたなのか?」
「ええ、我々の知り合いの……っ!?」
シャルが重ねて主張する声に、森の奥から何者かが相づちを打ってきた。シャルは素直に話を続けようとし、一拍置いてから驚いたように息を飲み、身構える。
彼が睨み据える先、ユーリもまたそちらへじっと目を凝らすと……葉ずれの音を立てながら、謎の声の持ち主は姿を現した。赤く波打つ髪が木漏れ日を反射し、手袋に包まれた指先がついと動き、視界を遮る枝を軽く持ち上げる。
ついで、その翠緑の眼差しが枝からこちらへと滑り……ギュッと、シャルが警戒するように拳を握り締めた。