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翠緑に彩られし森の我が家

 

王都での騒動から幾日かが経ち、懸念は残れども無事に平穏な日々を取り戻し、毎日のように森の家での地道な調合作業に従事しているユーリは、ふとした拍子にこう感じ取る事が増えていた。『最近、シャルさんの様子が何かおかしい』と。


1日の疲れを癒すべくお風呂を頂き、のんびりと湯船の縁にもたれて伸びをしながら、ユーリは湯煙が流れてゆく天井を見上げた。この家のお風呂場は半分露天風呂として設計されているので、もうもうと湯気が立ち込めて視界が遮られるという事は無い。今はまだ良いが、真冬になれば風呂の用意も一苦労しそうだ。


そんな取りとめの無い事をつらつらと考えていたユーリの視界の片隅で、不意に脱衣所のドアが無造作に開け放たれた。

彼女が思わずそちらを凝視すると、大抵いつも先客に気兼ねしない銀色の毛並みな天狼さんが、本日も悪臭に苦しんでいるのか湯船を目指してヨタヨタとした足取りで歩み寄って来る。どう考えてもシャルは調合作業へと入る前に、あらかじめ臭いを取り除く用意をしておくべきだ。例えば裏庭に水瓶か何かを用意して、井戸水を汲んでおくだとか。


「ちょっ、シャルさん、いつも言ってますけど、身体を洗い流してからお湯につかって下さい!」


ユーリが思わずザバリと湯を波立たせつつその場に立ち上がり、両手を突き出して『ストップ!』を表現しながら叫ぶと、シャルはゆらりと目線を持ち上げて彼女に焦点を定め……


「ユーリさんが入っていらしたのですね。これは気がつかずに失礼。

それなら、わたしは遠慮します」

「……へ?」


ゆぅらりとよろめきつつ、シャルはそんなやけに物分かりの良い台詞を口にし、クルリと方向転換して風呂場から立ち去ろうとする。

人が入浴中に問答無用で乱入してくるというのも困惑しきりだが、突如としてこんな風に突き放されるというのは益々疑問符が尽きない。

ユーリは湯船から飛び出て足早に同僚に駆け寄り、むんずと彼の尻尾を掴んで引き止めた。普段のシャルならば、それこそ文字通りユーリに簡単に尻尾を掴ませるようなヘマはまずしないのだが、鼻が利く天狼さんは今日も長時間に及ぶ調合の後で、嗅覚を猛攻されてヘロヘロになっているらしい。


「待って下さい、シャルさん。そんなにぐったりしているのに、私がお風呂から上がるまで待つつもりですか? 一緒に入った方が効率的じゃないですか」


想い人、もとい、想い狼と一緒に入浴だなんて恥ずかしいっ。キャ~ッ! ……などという嬉し恥ずかし乙女の照れ照れ期な段階を、とうに階段ごとシャル本人にぶっ壊されて久しいユーリは、遠慮容赦なく尻尾を鷲掴みにしつつ畳み掛ける。

シャルは非常に迷惑そうに鼻面をユーリの方へとチラリと向けてきて、すぐさまふいっと視線を逸らした。そしてブンブンと力強く尻尾を揺すりつつ、


「いいえ、遠慮しておきます。

いい加減、わたしの尻尾を掴むのは止めて下さい」


実に素っ気なくそう告げて、シャルの尻尾の動きについてゆけずにユーリの握力が緩んだ隙を突いて自由を取り戻すと、天狼さんはヘロヘロな足取りで浴室を後にしてしまう。

同僚のはっきりとした拒絶に、ユーリは右手で尻尾を掴んでいたポーズのまま、


「……シャルさん、やっぱり何かおかしい」


耳の良い彼に聞こえるように、ワザとボソリと独り言を漏らした。

濡れた髪から冷えた水滴が滴り落ちてきて、ひやりとした感覚に小さく震えたユーリは、眉をしかめながらも温まり直すべく、そのまま湯船に出戻ったのである。



お風呂から上がり、水分を丹念に拭い取ってから脱衣篭に入れておいた服を着ようと手を伸ばしたユーリだったのだが、何の前置きも無く視点が一瞬にして変化してしまい、スカッと右前足が空をかいてしまった。バランスを崩して前のめりに転びかけるも、慌てずすかさず両手……から前足に変化したそれを床につけ、しっかりと四肢で踏みしめて事なきを得る。

黒い毛並みに被われた自らの右前足を見下ろして、ユーリははふと小さく溜め息を漏らした。


……ふ。こんな、主の気紛れによる急な変身にもだいぶ慣れてきましたね、私も。


彼女の主であるカルロスは、どうやら一仕事を終えた夜間に子ネコと戯れる事を日課にすると決めているらしい。ここのところ毎晩のように事前の予告すら無いままに、こうして突如として子ネコ姿へと変わってしまう。


……食事や入浴、掃除洗濯といった手間暇はすべて本人達にやらせて、ご主人様はペットをかいぐりかいぐりするのを楽しむだけだなんて……まさか主は、動物のそういった面倒を見るのが嫌で、シャルさんをペット兼しもべ兼使用人兼助手にしているんじゃ……


“誰が面倒くさがりだ。お前らの世話を焼きながら暮らす方が、よっぽど大変だろうが”


ユーリがちんまりと床にお座りをして、変身したお陰で最早手が届かない高さとなってしまった脱衣篭を見上げながらカルロスの諸事情を勘ぐっていたところ、いつまで経っても主人の下へと馳せ参じないしもべを不審に思ったのか、テレパシーによるツッコミが飛んできた。


さて、ご主人様はユーリの到着を今か今かとお待ちかねな訳であるが、髪の毛をまだ乾かしていなかったせいか、全身の毛皮にたっぷりと水気を纏った状態のまま、カルロスが寛いでいるであろうリビングにまでトコトコと移動をしようものならば、廊下を水浸しにしてしまった挙げ句に、主人の服を濡らしてしまうであろう事は確実。

ユーリはその場からおもむろに立ち上がった。そして数歩後退って脱衣篭から距離を置くと、助走をつけて目標地点にまで全力で飛び付……こうとしたのだが、生憎とジャンプ力が足りなかった為に上手く脱衣篭の中に着地する事が出来ず、両前足で篭の縁にぶら下がる格好になってしまった。


ちょっ、またこのパターンですかーっ!?

私、懸垂とか得意じゃないんですけどーっ!?


にゃーにゃーにゃーにゃーと騒ぎ立てつつ、ユーリは懸命に篭の中へと這い登ろうともがく。日本で暮らしていた頃、何故自分は体操競技に挑戦してはいなかったのだろうかと、さめざめと泣きたくなる程に、こちらの世界に来てから魔法使いのおうちでの毎日の何気ない暮らしは、デンジャラスで大運動会でサバイバルである。


尻尾をブンブンと振りつつ、無い腕力を振り絞って身を持ち上げ、篭の中へと転がり込もうと奮闘するユーリ。

だがしかし、いかに体重の軽い子ネコ姿といえども、ここまで暴れもがいては更に軽い脱衣篭は平行を保つ事が出来なかったらしい。ふんぬっ! と、ユーリが再び両前足に力を入れた瞬間、篭はぐらりと傾き……しがみついていた黒ネコごと、棚から呆気なく落下してしまった。


ユーリは容赦なくドタッと床に投げ出され、脱衣篭が逆さまになってドームのごとく蓋をする。だがそんな事よりも、彼女の頭上からは篭の中に畳んで置かれていた服やタオルがバサバサと覆い被さってきて、ユーリは息が詰まった。


た、助けて下さい~っ!?


恐ろしい、まさに恐るべき罠の数々が、何食わぬ顔をしてこれでもかというほど設置された異世界は魔法使いの家である。


「……お前はいったい何がしたいんだ、ユーリ?」


勝手に人の家を危険スポットに認定するな、などと零しつつ、どうやらユーリの大騒ぎに気がついて急いで駆け付けて来たらしきカルロスは、そんな呆れた溜め息をつきながら、強敵たる脱衣篭をひょいと持ち上げて棚に戻し、服の海の深層で息も絶え絶えに溺れかけているユーリを抱き上げたのだった。


カルロスは新しく引っ張り出したタオルでユーリの毛並みを拭いつつ、そのままリビングへと足を向ける。ユーリはされるがままになりつつ、安堵感を覚えて主人の胸元にすり寄った。

これだけ叫んでもシャルさんは助けに来てはくれなかったと、心の片隅に僅かな落胆を覚えながら。



「それで? 我が家のにゃんこは何を憂いているんだ?」


リビングのソファにドサッと腰掛けるなり、カルロスは子ネコなユーリが可愛くてたまらないとばかりに、彼女の体を抱き上げてスリスリと頬擦りをしながら、そんな質問をしてきた。

痛い痛い、皮がめくれる! という抗議の意を込めて主人の顔面をてしてしと肉球で叩いてみるものの、カルロスは喜びこそすれ全く堪えた様子が無い。ユーリは早々に白旗を上げて投げやりにダラ~ンと全身から力を抜き、ネコ大好きご主人様の好きにさせ、心の中で訴えた。


主……最近、シャルさんの様子がおかしいんです。


“シャルの様子がおかしい、ねえ……あのアホイヌの普段の素行が奇っ怪なんざ、何も今に始まった事じゃねえだろ”


カルロスは続いてユーリを膝の上に座らせ、その頭を存分に撫で回しつつ、同じようにテレパシーでお返事を返してきた。

ユーリは尻尾でカルロスの膝を軽くペチペチと叩いて遺憾の意を表明しながらも、重ねて訴える。


いえ、異なる種族であるが故の理解しにくい行動という訳ではなく……こう、心境の変化による今までには無かった動きのような。


自分でもよく分からないのだが、なんとかこのもどかしい状況を主人へと伝えるべく彼の顔を見上げると、カルロスはふふっと小さく笑い声を漏らした。


主、何か楽しそうですね。


“楽しいというか、な”


ぷぅと頬を膨らませて不満を露わにするユーリの頭を再び撫でると、カルロスはユーリを両腕に抱き上げて立ち上がり、窓へと歩み寄った。

無数の星が瞬く満天の夜空に浮かぶ月は、今宵も冴え冴えとした光を地上へと投げかけ、薄く広がる雲がゆっくりと流れてゆく。

暗く闇に沈む花畑、その向こうの塀で遮られた森は静かなもので、生き物の鳴き声さえ聞こえてこない。


そんな外の風景にしばし無言のまま眼差しを送ったカルロスは、


“悪臭に苛まれ夜更けに川まで全速力でひとっ飛びして、御しきれない感情を持て余しながらザバンザバンと水浴びし、そこへ偶然近寄ってきたライオネル君に自分からケンカをふっかけて大暴れした挙げ句に、調香部屋に駆け戻って来て部屋を占領したアホイヌの、若さ故の爆走に思いを馳せたら、勝手に笑いが込み上げてきた”


と、今度は何やら遠い眼差しを夜空へと向けながらそんなテレパシーを伝えてきた。


……シャルさん、私が1人でお風呂につかっている間に、そんな愉快な行動に出ていたんですか。


ユーリが主人を見上げながら呆然と呟くと、カルロスはそんな彼女の喉元をくすぐりつつ、小さく頷く。


調香部屋で、シャルさんは今、いったい何をなさっているのでしょう?


「さあな?

だがな、ユーリ。今お前が真っ先に考えるべきはそれじゃない」


え?


脳裏へと直線伝えてくる思念ではなく、不意に舌に乗せられて発せられたカルロスの声に、ユーリはキョトンと小首を傾げた。


「今、お前が考えるべきは、どうしても足りない香料の入手についてだ」 


……また香料がどこぞへ行方不明になったのですか、主。


数百種類も存在する香料の数々は、全てを万全の状態で管理して把握しておくのは非常に難しい。故に、頻繁に棚の中の香料は『所在不明』になる。ユーリのお仕事の大半は、この膨大な量の香料管理と整理に費やされると言っても過言ではない。

カルロスから重々しく告げられる深刻な現実に、ユーリが冷たく答えると、偉大なるご主人様はふてくされたように唇を尖らせた。


「少し違うぞ。決して、適当に片付けたから香料棚がぐちゃぐちゃになったんじゃなくて、元々うちには無い貴重な香料が必要になった」


そう腕の中の子ネコへと言い募ってから、カルロスは背中を窓枠に預けてふぅと疲れたように吐息を吐いた。


「代替品にならないかと色んな百合で試行錯誤を重ねてきたが、やっぱり無理だ。

つー訳で、ユーリ。お前、明日はレデュハベスの麓の森まで百合を探しに行ってこい」


レデュハベスって……魔王城かっこ仮称かっこ閉じ、の、お膝元までですか!?


思いがけないご命令に、ユーリはギョッとして仰け反りつつ問い返すも、カルロスは真顔で頷く。


「以前、お前が連盟で写本した『デュアレックス外遊録』に載ってたんだが、覚えてるか? デュアレックスの領土にだけ咲く百合があってな。

国産の百合は、どうしても精油に出来ねえんだよ」


そ、そうなんですか。そんな記述があっただなんて全く覚えてはおりませんが、主が百合に拘るのには、何か理由でも?


「王太后陛下の最も好む花が百合なんだが、さっきも言ったが普通の百合じゃあ精油に出来ねえんだ。

だから王太后陛下は、百合に似せた香りの香水はお持ちかもしれんが、本物の百合の香水はまずお持ちではないはず……」


そこに、我々の勝算がある訳ですね?


「ああ。瘴気が流れてくる森の中じゃあ、俺は長時間の探索は出来ねえからな。頼む」


ユーリはすっと姿勢を正し、主人に向かって頭を下げた。

瘴気が満ちる場所に、まだ百合など咲いているのかどうかは定かではない。だが、それが主人であるカルロスに必要であるならば、しもべであるユーリは採りに行かねばならない。


承知致しました。


「おう。何もお前1人に投げるつもりはねえ。ちゃんと、送迎と道中の護衛に、シャルをつけるから安心しろ。

ま、明日は軽くピクニック気分で行ってこい」


カルロスは破顔しながら、腕の中で畏まるユーリの頭をぐりぐりと撫でくり回しつつ、そんなお言葉を寄越してきた。


は、え、シャルさんと……?


「あ? デュアレックスの領土まで、どんだけ距離があると思ってんだお前は?

お前のヤワな足で1人てくてく歩いて行ったら、往復するだけで夏が終わるわ」


ニヤリ、と笑うカルロスの表情に、ユーリは思わず心持ち後退りしていた。

明日はご主人様公認で、ちょっと足を伸ばしてシャルと隣国までピクニックデートになるらしい。



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