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尻尾をパシンパシンと寝藁に打ち付けつつ、ユーリはそもそもですね、と口火を切った。
人間という生き物は、そう簡単に子作りなんてしない生き物なのです。
人間1人を無事に成人するまで育成するには、手間と時間とお金が膨大に掛かる。気軽に人口なんて増えはしない。
端々に苛々とした不機嫌さを滲ませながらのユーリの言に、大人しく伏せた状態のまま拝聴した天狼さんは、ふぅん、と気のない声を漏らした。
「そこがわたしにはよく分からないのですが。
ユーリさん個人は、マスターでは何故駄目なのです?」
シャルの種族は、子沢山で子供らはすぐに独り立ちして手間要らず、しかし生き抜くのは困難という野生の掟に従う一族なのかなあなどと推測しつつ、どうしてこの同僚にはユーリが主人を恋愛対象外だとしか思えない、歴然とした事実が理解出来ないのだろう、と嘆息を漏らした。
理由は様々にありますよ。私自身の世界の常識では、子供は恋愛関係にある男女が作るものです。
主はエストお嬢様と想い合っていらっしゃるだとか、私自身がまだ子供を持つには未熟過ぎるだとか。
ただ、それらの事実が全て無かったとしても、私と主が『主人』と『クォン』である限り、恋愛関係なんて成り立ちません。
初めて出会った時……いや、正確には火事現場からの二度目の召喚を受けた時。カルロスはユーリに対して、『主従関係』を明示してきた。
それは踏み込むべきではない線引きであり、予め敷かれた予防線という暗黙の了解にも通ずる。ユーリが事態と両者の力関係を把握するまでに、分かりやすく突き放される事で、ユーリはカルロスへと『転ぶ』のを免れたとも言える。
……そう、シャルが口にしている通り、『カルロスは魅力的な異性』なのだから。
カルロスとシャルは、ユーリにとっては同じ魂同じ気性を持つ相手であり、同族嫌悪や深い親近感を感じ取りやすい相手である。
けれども。
相手の心が見えないからこそ、理解出来ないから、知りたいと思う欲求が生まれる。
心を奥の奥まで全て見通せる相手、際限なくその思考と感情を追い続けたりすればどうなるか?
自分と相手の境が無くなって、自分では無くなってしまう、そんな存在になる。
ユーリはチラリと、シーツで手巻き状態のカルロスを見やり、彼のその体勢に無理が無く、ぐっすりと休めている様子を確認してから、やれやれと寝藁の上に改めて丸くなった。
だいたいシャルさん。
主は、その気になればいつでも我々使い魔を廃人に出来る上位者なのですよ? 決して太刀打ち出来ないという絶対的な存在に対して、よりにもよって恋愛感情を抱けるのだとしたら、その人はよほどの大物ですよ。
心を読まれるかもしれないという恐怖心と緊張感を常に抱き、いつ自分の心を操作されるかという、しもべには抵抗する術も無く自覚する事さえ不可能な事をやってのける、生殺与奪権を握る存在。
ユーリはカルロスの心を自由に覗き見る事など出来ないが、カルロスはユーリに自らの経験や感情や知識、その全てを強引に押し付ける事さえ自在に出来る。
ここぞとばかりに重ねられるユーリの不満に、同じ立場でありながら彼女の半分も危機感を覚えていなかったらしき同僚は、目をぱちくりさせた。
シャルの強靭な全身凶器ともいうべきその強さも、決して自分へは向けられないと理解している。カルロスがその能力をもって自分を害そうとしないという事も。
それは例えるのならば、いつも料理を作っている料理人が包丁を客に向けたりはしないという大前提と、食中毒を引き起こす食材が使われたりしないという信頼、だろうか。包丁を振りかざされ暴れまわる相手への危険は分かり易いし、とっとと逃げればいい。だが食中毒など、症状が出始めるまで気が付きにくい。もしかしたら、息を引き取るその瞬間が訪れても分からないかもしれない。
心を読む能力と、心を読ませる能力。どちらがより凶悪であるかと問われれば、ユーリは迷わず後者を挙げる。
「……マスターが以前、決してユーリさんをそういった対象には見れない、と仰っていましたが……その真意が分かったような気がします。
心底ではそんな緊張感を抱く相手を、つがいにはしたくありませんねぇ」
悪かったですね、臆病で。
主がそんな事をなさる相手では無いと理解していようが、勝手に畏怖する生き物なのですよ人間とは。
私がそんな考えを持っている事なんて向こうは百も承知でしょうし、それを私が察している事そのものも、ね。
もう夜も遅い、さっさと寝てしまおうと目を瞑るユーリに、シャルの鼻面が寄せられた。
「それならばユーリさんはどうして、マスターをあんなに慕って尽くし、ご命令に従うのですか?」
そんなもの、シャルさんが主に懐いている理由と、大差はありませんよ。
「……そうですか」
むにゃむにゃと眠気を堪えながらの返答には、シャルの愉快そうな響きが耳に残った。
なんだかんだ言ってもそう、『彼』は身内なのだ。
血の繋がりがある訳ではない、魂を分かつ、それは近いようで遠い、もう一つの可能性たる自らの姿。
……家族に好意を抱いて無条件で味方をするのに、別にご大層な理由など必要は無い。
「お休みなさい、ユーリさん」
バサリ、と、シャルの翼が立てる羽音に反応して薄目を開くと、月光に輝く純白の翼が視界いっぱいに広がっていて……ユーリはコロリと転がってシャルに寄り添うと、眠りの底へと沈み込んでいった。
「……ユーリ、おい起きろユーリ!」
「み……みぃ」
「みぃみぃじゃねえ! 可愛いだろうがっ!」
頭の奥がぼんやりして、まだ眠たいと体全体が訴えかけてくる。本来ならば、本能が誘うままにそのまま二度寝に突入してしまうところであるが、ウトウトと微睡む彼女の下へと、何やらご主人様の切羽詰まった大声がどこからともなく響いてくる。
眠気を覚ますべく手の甲でごしゅごしゅ、と瞼を擦ったら、体毛がチクリと瞳に突き刺さった。
「んにゃう……」
痛た……と、呟いた筈の呻き声は、寝ぼけた子ネコの鳴き声として喉から零れ落ちた。どうやら、未だに人間の姿に戻っていないらしい。
下手な体勢をとると、うっかり寝藁の隙間に手足がズボッとはまり込む為、もぞもぞともがきつつ立ち上がりながら目を開く。ゆっくりと周囲を見回すと……シーツで茶巾包み状態のカルロスが、ユーリの傍らで寝藁の上に転がっていた。彼のキンキラな輝かしい金髪にも、当然のごとく藁が絡まっている。
はて、と不思議に思いながらも隅々にまで視線を巡らせてみるものの、自らの腹の辺りに主人の頭を預かり、枕代わりに甘んじていた筈の同僚の姿は室内に見当たらない。
おはようございます、主。
どうして朝になっても、そのシーツdeマーメイド的なお姿のままなのですか?
眠気に襲われながらもユーリはフラフラと立ち上がって、カルロスの頬にペタリと肉球を押し当ててやると、朝っぱらから苛立たしげに眉を吊り上げていたネコ好き主は、たちまち相好を崩した。どこまでも子ネコに甘いご主人様である。
「見て分からんのか、お前は。
シャルの奴が、『マスターにはしばらく休息が必要なようですしね』とか言い出して、がっちりシーツを巻き付けて行きやがった」
早朝の日の光が差し込む、しもべ共同部屋にて。
燦々と照らし出される生成色のシーツは、ユーリが昨夜カルロスの体にせっせとたくし上げて纏わせた時とは違い、彼の胸元から爪先まで包み込まれ生地の端は固くねじり込み、緩み弛みが見当たらない。まさしく『梱包済み』もしくは『人間ブーケ』と表現するに相応しいお姿である。こんな芸当は、子ネコ姿のユーリには到底不可能だ。
「手が使ねえから、思うように抜け出せれん……こら、思わぬ困難に遭遇中のご主人様を笑うなユーリ!」
カルロスは深々と溜め息を吐き、もがいたぐらいではシーツが緩まないのだと苦々しく呟く。偉大なるご主人様が、飼いイヌの細やかなイタズラのせいで大真面目に困惑しているその姿に、思わずユーリがブブッと吹き出してしまうと、すかさず飛んでくるカルロスからの厳しい叱責。
カルロスをシーツ固めから解放してやろうにも子ネコ姿では手も足も出せれないので、ユーリは寝藁から床へと降り立ち、トテトテと仕切りの向こうへと回り込む。
ユーリの着衣が仕舞い込まれているタンスの前に、大人しくお座りしてスタンバイすると、一瞬にして視界が高い視点へと切り替わった。
人間と使い魔としての姿への変化は本当に一瞬であり、苦痛も何も無い。考えれば考えるほど、たとえ幾度体験しようとも、この姿変化の術は不可思議である。
「今お洋服着てますので、少しお待ち下さいね、主」
「ああ」
素っ裸のまま、両手を顔の前にまで持ち上げて軽く握って開いき、握力やら感覚を確かめたユーリは、タンスを引き開けてまずは下着を取り出しつつ、大人しく転がって待機中であろうカルロスへと、一言断りを入れた。
「ったく……こんな体勢で体が休まる訳ねえだろうが。ウチのアホイヌは……」
今日もお仕事があるだろうと、動きやすい少年服を取り出してユーリが身に着けている間にも、仕切りの向こう側からはカルロスの愚痴が聞こえてくる。
「主、そう言うシャルさんは今、どちらへ?」
チュニックを頭からバサリと被りつつ、そもそも主人を軽く身動き取れなくして放置などという所業を行った同僚の行方について問うと、「村落」という短い返答が返ってきた。どうやらシャルは王都へと出掛ける前に使い切った、ミルクや卵といった生鮮食品や小麦粉などを入手しに、グリューユの森周辺で暮らしている人々の下へと出掛けて行ったらしい。
手早く洋服を身に着けたユーリは仕切りを回り込んで、転がっているカルロスの傍らに膝を突き、器用にたくし込まれている部分を解きに掛かった。
「なあ、ユーリ」
「はい」
二の腕辺りで両腕ごとシーツの拘束に捕らわれているカルロスは、大人しくされるがままになりつつふと口を開いた。
「仮に、お前が偶然特徴と一致していたからだとして……いったいいつ、目を付けられたんだろうな? 夏の昼間に真っ黒い格好とか、無駄に暑い上に悪目立ちし過ぎだろう」
「突然何のお話ですか?」
「いや、例のお前を攫った浄化派の連中。連絡場所や落ち合う場所が、人気が少ないスラム街だったってのは十分有り得るだろうが、街中を移動する分にはあんな暑苦しい仕事着なんざ普通着てねえだろ」
俺はこの格好で朝日を浴びながら転がされてるだけで、嫌というほど暑い、と唸るご主人様。
一昨日、王都は連盟の塔ベアトリスの部屋にて、弟子達が集って一応の推測は立ててはいたが、結局のところ真相は闇の中のまま。カルロスとしては、ユーリへと火の粉が被らないように気を配るのに精一杯であり、話し合いの内容に全く納得がいっていなかったらしい。
彼らの格好を簡単に黒ずくめ、とユーリが心の中で表現していたように、パッと視界に収めた際の印象は『全体的に黒い生地に覆われている』である。薄暗い地下道でチラチラと見た、程度の視認では、正確な扮装を脳裏に思い描くのも難しい。
明るいところでその姿をしっかりと目撃したのは、例の路地裏にて、恐らくは二階の窓辺りからアティリオの背後に降り立ち、首筋に手刀を叩き込んだ一瞬ぐらいなもので……
一番似たり寄ったりなファッションは、シャルの照る照る外套だろうか。頭にはすっぽりと頭巾を被り、目元まで顔全体を覆う黒い覆面、マントというかポンチョっぽい外套。
「……言われてみれば確かに、無駄に暑苦しいです。あの外套の下に、普段着を着込んでいたんでしょうか」
ユーリの体感からしてみると、バーデュロイの気候はうだるような暑さと湿気を誇る日本の夏場と比較すると、かなり過ごしやすい。だが、こちらの人々にとってはやはり暑いものは暑いらしい。
呟きながらも、せっせと手を動かしているユーリに、カルロスはスッと目を細めて見上げてきた。
「……アティリオの背後と、ユーリの背後に、間を置かずに降りて来たんだな?」
その時の情景を懸命に思い出そうとしているユーリの思考を読んだらしきカルロスは、ふむ……と呟いて瞬きを繰り返した。
ユーリは手を休めずに主人の顔へと視線をやりつつ、口を開く。自分とは違う方向性から推測を繰り広げるカルロスの思考については、彼女も気になるところである。
「何か、お気づきになられた点でも?」
「……手だ。お前の一瞬だけ焼き付いた記憶の情景によると、アティリオを気絶させた推定世界浄化派の尖兵黒ずくめは、素手でアティリオに手刀を叩き込んでる」
「はあ」
素手ならばそれがどうかしたのだろうか、と首を傾げるしかないユーリは、ようやく最難関だった固い結び目の部分を解いて主人の自由を取り戻した。こちらの世界には、指紋やDNA鑑定なんて捜査技術は無い筈だ。
カルロスはむくりと上半身を起こすと、彼女の右手を取り自らの手のひらと合わせる。男性であり、ユーリよりも背が高いカルロスの手は、彼女のそれよりかなり大きく分厚い。
「良いかユーリ。人間、手にはそいつの背景が見え隠れするもんだ。
たとえどんなに体型や顔形を隠そうが、手の皺だけは年齢を誤魔化せねえ。アティリオを気絶させた奴は、少なくとも若者の範疇じゃねえ。そこそこ年を食ってるな」
「飛び降りて即攻撃とか、随分元気なご老体ですね」
「更に付け足すと、だ。わざわざ念入りに顔を隠してるのは、少しでも顔を見られたら正体を感付かれる恐れがあるから、とも読める」
それはユーリかアティリオのどちらか、もしくは両方が、バーデュロイに潜伏し何食わぬ顔をして偽りの生活を送っているザナダシアの工作員と、既に顔を合わせている可能性を示唆するものであった。
「そもそも、ユーリには奴らに狙われる心当たりが全く無い。
黒髪の子供云々は連盟に混乱を招くブラフ、全くのデタラメで、何か他の理由でアティリオを狙ったとみるべきか……仲間と別行動を取ってる魔術師なら、誰でも良かった線も捨てきれねえ」
合わせていたユーリの手からヒョイと離し、おもむろに立ち上がったカルロスは、ブツブツと独り言を呟きながら髪の毛に指を差し入れ、小さく眉をしかめながらしもべを振り返る。
「ユーリ、寝てる間に髪の毛に藁が絡まった。全部取ってからブラシで梳いてくれ」
「かしこまりました」
今この場であれこれと不安がっていても仕方が無い。
何はともあれ、シャルが帰って来る前にご主人様の朝のお支度をお手伝いするという、目先の大事なお仕事をこなすのが最優先である。ん、と頷くカルロスにまずはイスを勧めてから、彼の指通りの良い髪の毛に手を伸ばす。
「お前の頭も藁まみれだな。どうしてシャルの毛並みには藁が絡まねえんだ?」
「そこが、天狼さんの永遠の謎なのですよ」
少し上半身を屈めたら、まだ纏めていない彼女の黒髪がサラリとカルロスの眼前に零れ、苦笑しながら藁を取り除いてくれた。
もしかしたらシャルは、藁が絡みに絡むので同居人が起き出してくる前に毎朝念入りにブラッシングを済ませておくことを日課としており、それ故に常にブラシを持ち歩いているのかもしれない。
因みに、帰宅したシャルに『何故、主に纏わせていたシーツをより固く巻き付けていったのか』を問うてみたところ、
「マスターは寝返りでも打ちたかったのでしょうね。
寝ぼけて背筋の要領でエビ反りポーズをしながら、わたしに頭突きをしてきたのが実に笑えまして」
という事らしい。
同僚のイタズラ好きにも程がある、と、ユーリはしみじみと思うのであった。