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ユーリは夜、ネコの姿に変わる。
どちらかというと、人間の姿で一日中過ごしていたいというのが彼女の本音であるが、主人であるカルロスの意向が何事にも優先される。要するに、愛嬌のある子ネコ姿にメロメロしている飼い主様状態のカルロスは、夜毎にユーリをネコへと変える。
そもそも現実問題として、カルロスのベッドに人間の姿のまま、添い伏しするのはユーリとて遠慮申し上げたい。
そんな訳で、夕食の後片付けも全て終わらせ、今夜も先にカルロスの部屋に戻って着ている服を脱いで畳み、主人の部屋に設えられたクローゼットの片隅に服を仕舞う、という日常的手順を踏もうとしたユーリだったのだが、
「ああ、そうそう。ユーリ、お前に部屋を用意しておいた。私物はそこで保管するように。
今夜からは、お前はそこで寝ろ」
階段を上りかけたところで、カルロスから、自分のお部屋を割り振っておいたという意向を告げられた。
「えっ……それは本当ですか、あるっ……!?」
「おっと」
ご主人様からまさかの思いがけないお言葉。
ユーリは段差に片足を乗せたまま、背後へと振り返ったせいでつんのめり、自宅の階段一段目でバランスを崩して転びそうになった。しかし彼女の背中を、ユーリの後に続いて階段を上ろうとしていたシャルが軽々と受け止め、一度彼女の両脇に手を差し込んで持ち上げ、改めてストンと床に立たせた。
「……ありがとうございます、シャルさん」
果たしてただ支えるだけではなく、小さな子供が怪我をする可能性を未然に防ぐかのような気遣いまでは、本当に必要だったのだろうか。ユーリは自分の足できちんと立てた筈だ。何か微妙にモヤモヤする。
「あなたはどうしてそう、落ち着きが無いのやら。お部屋に案内しますから、ついて来て下さい」
しかし、相変わらず何を考えているのだか不明なシャルは、ユーリと立ち位置を入れ替えるようにして先に階段を軽快に上ってゆき、カルロスもまた悠然と腰掛けていたイスから立ち上がり、一度行って見てこいと言わんばかりに頷いてみせた。
シャルとカルロスの間に挟まれた形で同僚の背中を見上げながら階段を上っていくと、何故に故郷で遊んだ某RPGの一場面を思い出すのだろう。階段は狭く、必然的に縦一列並びだからか。
職業的に、シャルさんは武闘家で、主は魔法使いで、私は……なんでしょう? あ、遊び人……?
自宅の階段に当然ながら愉快なトラップなどは仕掛けられておらず、勇者不在のパーティは短いエベレスト探索の果てに無事に二階へと辿り着き、まず右手にはブルータスが立ち塞がり……もとい、カルロスの私室であり、左手には書斎のドア。
シャルはその二部屋の前を通り過ぎ、廊下の角を曲がって彼自身のプライベートルームの部屋のドアノブを回して押し開き、室内の様子がよく見えるように身を寄せる。
「えーと?」
「さあどうぞ、ユーリさん。今日からここは、わたしとあなたの寝室です」
ユーリがエストの下へとお出掛けする以前とは、150度は様変わりした室内の様子に硬直するユーリを、平然と招き入れるシャル。
ユーリは一歩、室内へと足を踏み入れ、ぐるりと視線を巡らせた。
部屋の中央には簡単に動かせそうな仕切りが置かれていて、この部屋の主役であった筈の寝藁が綺麗に片側に寄せられている。そして仕切りで区分けされたもう片方のスペースには、新しくテーブルにイス、タンスや鏡台が設えられており、テーブルの上にはユーリの水鉄砲が乗っていた。促されてタンスを引き開けてみると、カルロスからのお下がりのお洋服全てと、彼女がこちらにやって来た際に着用していた衣服一式が仕舞われていて。
「まあユーリも知っての通り、この家に空いてる部屋は無くてな。
勝手にお前の荷物は移動させてもらったぞ」
ドアに軽く背を預け、カルロスはそんな事を言いながら軽く肩を竦めた。ユーリはそんな主人の姿をジーッと眺めながら、とある疑問を心に強く浮かべてみると、カルロスは微妙に頬を赤らめて気恥ずかしげに顔を背けてしまう。
どうやら、ユーリの心情を慮って下さった彼女の主は、ご自分が泥を被る事でしもべたるネコのガラスハートをお守り下さったようである。
「ところで主、シャルさん。この部屋には相変わらずベッドがありませんが、私は床で寝るんでしょうか?」
テーブルの足下には、どうやら帰宅した直後にシャルが運び込んでおいてくれたらしく、ユーリが出先から持ち帰った荷物である麻袋が置かれており。エストからのプレゼントであるぬいぐるみを取り出したユーリは、テーブルの上にそれを飾りつつ最も気になる点を問うた。
いかにシャルの部屋が広々としたイメージがあろうとも、それはあくまでも家具が置かれていなかったからに過ぎない。室内面積そのものはカルロスの部屋の方が広く、ユーリが過ごす為の家具が配置された現在、この部屋は些か手狭な印象を受ける。
「ご覧の通り、この部屋はもういっぱいいっぱいですからね。
申し訳ありませんが、ユーリさんのベッドを置くスペースはありません。わたしの寝藁でお休み下さい」
「はあ……」
同僚からのお達しに、ユーリは生返事を返して頷いた。主人のフカフカベッドから藁へ、就寝事情が見事な転落だ。いかにも、しもべらしい生活スタイルかもしれない。
今夜から、シャルと同じ部屋で一緒に過ごせと指示されたユーリの心情としては、困惑半分納得半分といったところ。
いつまでもカルロスの部屋に半分間借り状態というのも、多少居心地が悪かったが、だからといって今度はシャルと同室。よりにもよって共同部屋。
この家には空いている部屋が無い、という事はよく理解していたが、まさかシャルの部屋を半分明け渡されるとは、思いもよらない出来事。
勝手に頬が熱くなるのを感じつつ、ユーリは服を脱ぐ為に男性陣を部屋から追い出しにかかった。
カルロスの意向により、やはり今宵もネコの姿へと変化させられたユーリは、シャルとの共同部屋にてイスに腰掛けた主人の膝の上で丸くなりつつ、ごろごろしながらカルロスのお言葉に耳を傾けていた。やはり、どうせ撫でられるのならば、ご主人様やエストからの方が居心地が良い。
そんなユーリのすぐ側、イヌバージョンとなったシャルも、シーツを被せた寝藁の上に寝そべっており、尻尾や耳が時折パタパタと揺れている。
「噂ではな、一応名前ぐらいは耳にしてはいたんだよ、ナジュドラーダのブラウリオ。
まあ大半は、アティリオの野郎が独り言みたく愚痴ってた訳だが」
今宵の噂の的は、カルロスがルティと呼び親しんでいらっしゃる、怪しい貴公子ブラウについてである。
それにしてもアティリオは、昔からブラウには頭を悩ませていたらしい。確かに、ほぼ初対面である少女・ティカことユーリにも、ナチュラルにかの従兄弟に関して愚痴を零していたが。
「本人に会った事は無かったな。俺はあくまでもパヴォド伯爵家の使用人の1人で、貴人の前に顔を出せる身分でも無かったし。
今から思えば、ルティとしての面識があった俺と鉢合わせするのを、向こうも避けてたんだろうな」
私が思いますに、主。あのブラウさんが極悪人ではなさそう、という点は理解出来ます。
が、義理と人情、合理性と貴族の義務でならば、あの方は確実に後者をとると思われます。
にゃうにゃうにゃう、と、大真面目に発言するユーリに、カルロスは「だよなあ」と苦い笑みを浮かべる。
「ルティ……ブラウリオは、どうやらエストが気に入ったようだな。
アティリオの嫁に相応しいと熱烈プッシュしてたとなると、最悪こっちに妨害工作を仕掛けてくる」
実に厄介だと言いたげなカルロスの呟きに、シャルはちょっぴり首を傾げた。
「それならばマスター、いっそのことルティさんに事情をご説明して、味方になって頂けばよろしいのでは?」
「お前はとことん楽天家だな、シャル」
敵に回すと厄介ならば味方に引き込めと、大それた意見を述べるしもべに、カルロスはユーリを腕に抱き上げて立ち上がり、シャルの傍らにストンと腰を下ろして彼のお腹の辺りに頭を預けた。
「感情論だけで物事が動くなら、とっくに行動してるさ」
カルロスは疲れたようにそんな一言を漏らし、両目を閉じた。
主……?
しばらく待ってみてもカルロスが黙りこくっている為、ユーリが訝しみながら呼び掛けてみるも、カルロスは無言のまま。
主人の胸は規則正しくゆっくりと上下しており、どうやらシャルの毛並みにもたれ掛かりつつ、話の途中ながらぐっすりと寝入ってしまったらしい。
主、きっとよほどお疲れだったのですね。
んしょんしょ、と、カルロスの腕の中からもぞもぞともがいて抜け出しつつ、ユーリは主人のほっぺたにペタリと肉球をあてがった。
ネコ好きな主人が大喜びしそうな行動であるが、やはりカルロスはなんの反応も示さない。
シャルさん、いくら夏場とはいえ、このままでは主が風邪をひいてしまいそうです。
すみませんが、掛布か何か持ってきて頂けませんか?
主人からもたれ掛かられようが、モフられようが、単に度量が広いのか最早日常茶飯事で苦言を呈するのも面倒なのか、常に平然としている同僚は、今宵も組んだ両前脚の上に顔を乗せ、両目を閉じている。例の「ぐー、ぐー」まで、三秒前といったところか。
寝付きが良すぎであろう、この主従。
「んん……なんですかユーリさん?
マスターがわたしの側で勝手に休むのはよくある事ですから、放っておいて平気ですよ」
カルロスの肩の辺りから飛び下り、シャルの前脚をペシペシと叩くユーリを、鬱陶しげに片目だけ開いて見やり、眠りを妨げられる事を殊の外嫌がる先輩様は、唸りながらそんな返事を返す。
主はお疲れでいらっしゃるのですよ? 人間はシャルさんとは違って脆弱なのですから、夏風邪を召されてしまうかもしれません! この大事な時期に!
めげずににゃっ! にゃっ! と、鼻面にネコパンチを繰り出してくるユーリを、首を軽く振る事で寝藁の上へと転がし、シャルは面倒臭そうに「あふ」と吐息を漏らす。
仕方が無いな、と言いたげにしぶしぶという態度を隠しもせず、シャルはのっそりと立ち上が……
ちょっと待ったーっ!
「今度はなんですか、ユーリさん。注文が多い人ですねぇ」
もぞもぞと体勢を整え直したユーリの目の前で、ズルッと、カルロスの頭部がシャルの腹から滑り落ちかけて、彼女は慌てて制止を掛けた。シャルは心底から面倒そうに先ほどと同じポーズに逆戻りし、苛立たしげに尻尾がペシペシと寝藁を打つ。
い、今シャルさんが動いたら、寝ている主の体勢が大変な事になります!
「左様ですか。では、ユーリさんが存分に頑張って下さいね」
ユーリの訴えに、シャルはやれやれと鼻面を左右に振り、これ見よがしに寝入り体勢に入ってしまう。
主、寝ている。シャル、移動不可能。ユーリ、自由行動中。
確かにこの状況では、ユーリが頑張るしか無いというのは自然な理屈だ。
ユーリは使命感を胸に一つ頷くと、タッと軽快に床の上に飛び下り、一路ドアへとまっしぐらに駆け、駆け寄り……
うにゃ~んっ!?
ガリガリと爪で引っ掻く訳にはいかないそのドア、ジャンプしてもドアノブへと届かない現実を噛み締めたり、体当たりしても動かない不条理を味わったり、叩いてもうんともすんとも言わない無情を実感したりと、ユーリはドアとのいつもの激闘を繰り広げて半泣きになった。
そんな必死の努力を行う彼女の姿を、悠然と背後から見物していたシャルは遠慮も容赦もなく笑い声を上げるのだが、そんな愉快なしもべ達のやり取りの最中でも、やはりカルロスは目を覚ます気配も無い。
主……私の部屋を用意して下さるのは有り難いのですが、せめてこう、自宅ぐらいには要所要所にネコドアをですね……!?
ガックリと、敗者の惨めさを噛み締めながらすごすごと寝藁のもとへと戻るユーリに、シャルは声に愉快そうな響きを持たせつつ、
「そうそう、ユーリさん。
マスターがあなたの為に、キャットタワーを自作なさるおつもりなようですよ?」
そんな、彼女にとっては嬉しくともなんともない情報をくれた。
主……私、お家の中で高い場所が無くても困りませんし、ストレスが溜まったりもしません。
ガックリと肩を落とし、ユーリは寝藁の上に敷かれたシーツの端っこを銜えてグイグイ引っ張り、カルロスの体に無理やり巻き付けていった。