3
『限りなく黒に近い、と疑わざるを得ない状況下にあるグレーゾーンの娘・ティカ』などという認識をおのずと周囲に抱かれているユーリは、長老議会室での査問会をなんとか無事に終える事が出来た。
それはひとえに、ユーリが世界浄化派と繋がっているという確たる証拠が無いからであるし、魔術師連盟は慢性的な人員不足であるという問題も切実に絡んでいる。不確かな情報だけに、長老達はいつまでもかかずらってはいられないし、万が一ユーリが世界浄化派の弱みを突ける存在だった場合、連盟側に悪感情を持たせていては取り込みづらいという打算もある。
なんというか、魔術師連盟……というかエルフ族って、四面楚歌ですよねえ……
結局のところ、ユーリの処遇は『様子見』に落ち着いた。
連盟の重要人物であるベアトリスの側近くに居るのは具合が悪いという事で、彼女の弟子の中でも、活動拠点を本部や王都に据えていないカルロスが面倒を見るように、という方向へと話の流れを持って行ったベアトリス。
彼女の発言から推察するに、やはり彼女は『黒髪の少女ティカ』を『黒ネコのユーリ』と同一人物であると考えているようだ。手掛かりとしては外殻膜を見抜かれた、と考えるのが最有力だが、ベアトリスは何故、クォンであるユーリをそのままにしていたのか……シャルにたいして、執拗に魂を捧げるよう迫らないという態度を示しているのだから、弟子がクォンの魂の吸収するか否かに関しては、アティリオほど拘っていないのかもしれない。
どうやらベアトリスは、まだ議会室で話し合いを続けるらしい。そこから出されたのはユーリとカルロスとシャル、そしてアティリオの4人。
今回の事件について、知り得た情報を報告し終えた構成員や、部外者にはもう議会室に居て欲しくないという事だろう。
ユーリが思い付くだけでも『誰が何の為に魔術遮断結界を張ったのか?』といった点は、議題に上がった訳ではないが、単なる部外者や平の一構成員に、事件の全容を知らせる必要は無いと判断されたのか。
“お疲れ、ユーリ”
相変わらず重たい音を立てながら閉まる両開きの扉を背に、長老議会室から出たお陰で、主であるカルロスから早速労いのテレパシーが送られてきた。心の声が通じ合うようになって湧き上がってくる安心感から、ユーリもまたいつものように心の中だけで返事を返そうとしたのだが、ふと、そういえば今日初めて知った出来事がある事に思い至った。この問題はカルロスだけではなく、ベアトリスに関わりを持つ全ての人々と話し合うべき話題だろう、と考えゆっくりと唇を開く。
「あ……カルロス様」
うっかりいつもの調子で『主』と呼び掛けそうになったユーリは、慌てて主人の名を舌に乗せる。
「どうかしたのか?」
「まさか、ベアトリス様がおめでただなんて、私、知らされていなかったからびっくりしました」
議会室の扉を振り返りながらのユーリのしみじみとした発言に、
「……なにぃっ!?」
「なんだって!?」
「おや、そうだったのですか。それはお祝いを言いそびれてしまいましたね」
男性陣はそれぞれ、驚愕の意を表明してきた。
あまりにも鈍いその態度にやや苛立ちつつ、ユーリは唇を尖らせる。
「もう、皆さん今頃気が付いたんですか?
『外仕事は減らしてもっと体を労れ』とか、『君1人の体じゃないんだから』とか、妊娠した女性を案じる定番の台詞じゃないですか!」
「い、言われてみれば……そうか、ティカの唐突な『おめでとうございます』発言は、そういう意味だったのか」
「妊娠……? 婆さんが、妊娠? 25歳……いや、妊娠期間含めると26歳年上の甥に?」
「エルフ族の懐妊祝いには、何を贈るのでしょうねえ?」
ユーリの発言に、ますます動揺を深めるアティリオとカルロス。
今この場で冷静に思考を巡らせていて頼りになりそうなのは、彼女の同僚ぐらいだろうか。
「何を贈るんでしょうね?
でも、長老様方の態度からして、ちょっと心配です。もしかしてベアトリス様が私達に赤ちゃんの事を黙っていたのは、安定期に入る前に流れてしまう可能性があるからかもしれません……」
しゅん、と俯いて呟くユーリの言葉に、
「婆さん、あれで300歳越えだしな……難しいのかもしれん」
「そんな事になったら、師匠がどれほど悲しまれるか!」
腕を組み、苦々しい表情で唸るカルロスと、拳を握り締めて熱く叫ぶアティリオ。
「子供が安定期に入る前は、お母さんは安静にしているのが一番ですけど……
魔術師連盟の長老って、やっぱり激務なんでしょうか」
「あの様子じゃあ、婆さんは爺婆共にしか打ち明けてねえみたいだしな」
「さり気なく周囲が気遣って、師匠の負担を軽減して差し上げねば……」
真剣な顔で『ベアトリスおめでた発覚!?』を論議しつつ、ユーリは連盟本部内にある宿泊設備が整っている階へと連れて行かれたのだった。
そしてそれから数時間後の現在、ユーリは何故かベアトリスと共にお風呂に入っていた。
……いや、魔術師連盟本部の中にお風呂がある事は、前回のお泊まりの時でも子ネコ姿のまま主にお風呂場で洗って頂いたのでそれは存じておりますし、砂埃だらけの状態だったので素直に嬉しいのですが!
こ、こここここ、ここは共同浴場かつ女湯じゃないですかぁぁぁぁっ!?
脱衣場にて。ベアトリスの手によってユーリは強引に服をひん剥かれ、彼女本人も気楽に脱ぎ捨てて颯爽と風呂場へと向かって行ってしまい、ユーリは半泣きになりながら視線を壁へと固定させたまま恐る恐る浴室へと足を踏み入れた。
ユーリは正真正銘、身も心も性別女性である。
だが彼女の主人であるカルロスは、ごく大多数の男性諸氏と同じく女性を好む健康な成人男性。必要とあらばユーリの記憶や五感を共有したり追跡するかのご主人様を持つ故に、偶発的な事故であっても他人のプライバシー侵害の元となる出来事は、なるべく避けておくべきではないかと思うのだ。
そもそも、ユーリ自身の着替えや入浴タイムは考慮しなくて良いのか? という点もあるが、それは日常生活を送る上で防ぎようが無い部分として、とうに割り切られている。というか、割り切るしかないとマインドコントロールして開き直っている。
「ほら~ティカちゃん、そんなお風呂場で目をつむったまま歩いたりしたら危ないわよ?」
ユーリの苦労など、全く気にも止めていないのか単に思い至らないのか、ベアトリスは前を隠しもせずに彼女の手を取って湯船へと引っ張ってゆく。
温かな湯気が立ち上るそこへ、抵抗出来ずに引きずり込まれるようにしてダイビングしたユーリは、傍らで「ん~っ」などと両腕を高々と持ち上げて満足げに伸びをするベアトリスの、顔にだけ視線を固定させるという、涙ぐましい努力に腐心する。
何故私は、主人とは異なる性別に生まれてきてしまったのでしょう……お陰で、地味で細かい苦労を背負わされている気がします。
着衣を全て取り払って入浴しているベアトリスであるが、こんな時でも彼女は結界を維持したままであるらしく、相変わらず正確な顔立ちが認識出来ない。
「さあて、ティカちゃん。今は丁度人が入ってこない時間帯だから、安心してお喋り出来るわ」
不意にこちらを向いたベアトリスが、声に愉快そうな含みを持たせながらそう口を開いた。
突然風呂場に連れてこられたのは、ユーリが気にしていた事を彼女に直接問う機会を、わざわざ設けて下さったというのか。
「あの、ベアトリス様……その、いったいいつ頃から……?」
「そうねえ……初日から、かしら。何か違和感があるな~って考えながら撫でてたら、けっこうすぐに分かったわよ?」
最も気になると言えば、ベアトリスの妊娠発覚に関してだ。
そこで恐る恐る問うてみると、なんと妊娠初日からすぐに理解していたとは。常に自分の周囲に結界を張り巡らせているからには、自身の胎内での新たな命の芽生えという変化にもすぐ気が付く、という事なのだろうか。
「じゃあ、どうして今まで黙っていらしたんですか?
すぐにでも、周囲に報告なさるのが自然なのでは」
「報せても、無闇に波風を立てるだけだしねえ……色んな見方があるもの。誰しもが喜ばしい出来事として、すんなり祝える訳でもないし」
むむむ……やはり、ベアトリス様は順調に妊娠初期を過ごしている訳ではないのだろうか。
「なんでもかんでも、周囲に正直に打ち明けていれば良いってものでもないでしょ?
無闇に暴き立てず、黙ったままにしていた方が、結果的に上手くいく事だってあるわ」
「そういうもの、なのでしょうか……」
「そういうもの、よ。
現に、あなたもカルロスも、この前のフィールドワークから今日まで、特に憂う事も無くごく普通に生活出来てたでしょ?
何もわざわざ暴露する事も無い、あたしの胸の内にだけ秘めておけば良いか、ってね」
“婆さん……”
女湯の会話であるにも関わらず、しっかりこっそり聞き耳を立てていたらしきカルロスの、複雑そうな呟きがユーリの耳に入ってきた。
まあ、女性に関してはかなり礼節を重んじるらしき主人だ。わざわざこの場で、ユーリの視界を通して情景を眺めてみようなどとは考えまい。
まあでも、目隠しして、風呂場にて交わされる言葉と水音にだけ集中していたら、それはそれで淫靡なシチュエーションである気がしますねぇ。
“……お前のその、残念ではしたない思考回路はどうにかならんのか。仮にも嫁入り前の娘が”
ユーリが正直な感想を漏らすと、カルロスからは微妙な感覚を交えたツッコミが脳裏へと飛んできた。
それに答えようとしたユーリだったが、ベアトリスがザバリと湯を蹴立てながら勢い良く湯船から立ち上がったので、慌てて慎ましく視線を逸らす。
湯気にけぶる、ベアトリスの裸身のシルエットが僅かに視界を横切ってしまったが、その辺の事故にまではユーリにだってフォローしきれない。
「さて、背中流してあげるからこっちにいらっしゃい、ティカちゃん。
……そういえば今更だけど、ユーリちゃんって呼んだ方が良いの?」
湯船から出るなり、ユーリの腕を引っ張って洗い場のイスに彼女を強引に座らせたベアトリスは、ユーリの背後に座りスポンジ状の物で背中を流し始めた。ヘチマのような植物の一種らしい。
魔術師連盟の本部のお風呂場には、鏡があるんだなあと、ユーリはなんとなく感心してしまう。元の世界ではあって当然な気がしていたが、グリューユの森の家には、鏡は一枚しか無いのだ。
「こちらの姿の時は、ティカでお願いします……アティリオさんにユーリと呼ばれているところを目撃されたら、バレてしまう気がします」
「そうねぇ、アティは頭良いものね」
背後からクスクスと、愉しげに笑う声がする。
「そういえばベアトリス様。
私がそうだと気が付いたのは、結界に気が付いたからなんですよね?」
「ええ、ざっくばらんに言えば、少なくともティカちゃんがあたしと同レベルの結界術特化術士でない限り、姿変化させて自由に動き回れるなんて有り得ないわね。
カルロスに外殻膜の応用を教えたのは、そもそもあたしだし」
そしてふとベアトリスはそこで一旦言葉を切り、ユーリの背中をスポンジで洗う手を止めた。
「そういえば今日は、良いタイミングでシャルが飛び込んできて、命拾いしたわね。
あの子、昔っから妙に絶妙な場面でばかり飛び込んでくるのよねえ。カルロスとティカちゃんに割り振られるべき分から、シャルが幸運を吸い取って生まれ落ちたのかしらね?」
「……どうしてでしょう。何故か、否定したくても出来ない感覚がしてしまうのです」
今までのマレンジスでの生活において、実にナイスなタイミングでばかりシャルが助けに入ってきてくれたような気がするユーリ。
根源的な魂は同一存在であるのだから、シャルがカルロスとユーリの分まで幸運ゲージを満たして生まれた説は、何か本当にありそうで怖い。
「やあねぇ、冗談よ。
今日は、シャルがティカちゃんの身代わりになって、瘴気の砂を浴びたんでしょ?
そのタイミングでシャルが飛び込んでこなければ、ティカちゃん大変な事になってたものね」
背後からベアトリスの両腕が回されてきて、またしてもぎゅむ! と抱き締められてしまう。
「そうですね……あの時、偶然シャルさんが庇ってくれなかったら、今頃私、死んで……」
改めて人から指摘されてしまうと、今更ながらカタカタと震えてきた。冷静を保っていたようでいて、ユーリは実はまだ、全然落ち着いていなかった。それを今、ようやく自覚したのだ。
刃物が人を傷付ける場面も、悪意や殺意を目の当たりにする事も、毒によって人が亡くなるところも……ユーリは今日、初めて見たのだから。
あの地下通路では、無理やり自分を誤魔化していた。生き延びる為には感覚を麻痺させるしか無くて、考える事をひたすら拒否していた。泣き喚いているだけでは事態は何も好転しないと、そう、特にあのブラウは仕事の妨害をしてくる者には容赦しないだろうという恐怖が、本能的にユーリの口数を減らしていた。
「え? いやいや、例えティカちゃんが瘴気の砂を被っていたとしても、死なないわよ?」
湯冷めした訳でもないのにプルプルと小さく震えるユーリにたいし、散々ぎゅむっと抱き締めてきた挙げ句、「あたしの背中も流してね~」などと、実に気楽に促してくるベアトリス。
「あの、ベアトリス様。それはどういう……?」
疑問を口にしながら、ユーリがチラリと鏡へと視線を投げかけながら背後の様子を窺ってみると、早速背中を流してもらう気満々でこちらに背を向けているらしきベアトリスの、綺麗な背筋のラインが。
仕方がなくユーリもまたスポンジに石鹸を付けて泡立て、エルフ魔術師様のお背中を流させて頂く。ユーリが動かなければ、こちらを振り返ってでも催促がきそうだ。
「ん~? あれ、ティカちゃんはどうしてシャルが瘴気の砂を浴びても平気だったか、分かって無いの?
なんとっ、外殻膜は瘴気まで遮断出来てしまうのだ!」
『どうどう? スゴいでしょスゴいでしょ』と言いたげな自慢げなベアトリスの台詞に、ユーリは彼女の背中をスポンジで上下に擦りつつ小首を傾げた。
外殻膜は、物理法則が異なる異世界から召喚された使い魔達でも、環境変化による悪影響を受けないよう、フィルターの役割を果たす、簡単に言ってしまえば姿変化をも可能とするバリアである。
……という事は、あれ……
もしかしてあの時、シャルさんが飛び込んでこなかったとしても、私は死ななかったどころか、傷一つ負う危険性すら無かったって事じゃあ……?
おかしい。
例え単なる偶然が重なった結果だったとしても、シャルにたいして欠片程は抱いていた、身を挺してまで自分を庇ってくれたという感謝の念や感動が、どんどん削げ落とされていく。
まさか外殻膜が、そこまで強力な防護効果を発揮するとは思いもよらなかったが、よくよく考えてみれば、ここマレンジスにおいて、太陽から降り注いでくる危険物質Xも瘴気の砂も、『異世界人のユーリに害を為す、マレンジス特有の危険物』である事に変わりは無い。いや、本当に危険物質Xが存在するのか否かは定かではないが。
「という事は……私達クォンには、瘴気が毒にはならないのですか?」
「少なくとも、シャルの例からして前々からそうじゃないかな、とは思ってたわ。あの子、たまにレデュハベスの近くにまで平気で日帰りで飛んで行ってたし」
“……言われてみれば、シャルはデュアレックスの領土に足を踏み入れても、いつでもケロッとしてたな。
普通の人間は、デュアレックス近郊の瘴気を一週間ぐらい吸い込み続けていくと、体調を崩すんだが”
毒の回る速度は、意外と緩慢なのですね。世界浄化派の人達が精製した瘴気の砂が、強烈過ぎるのでしょうか。
ふと口を挟んできた……というかテレパシーを飛ばしてきた主人の納得の声に耳を傾けつつ、
「という事はつまり、あの時シャルさんが飛び込んで来なくても、私はなんの被害も受けなくて……それは、かなりマズい事態になっていたのでは」
ユーリはハタと気が付いた。
ベアトリスが言いたい事が、ようやく思い至ったような気がする。
少しでも浴びれば、即座に人体を融解させてゆく強烈な毒薬、致死量はほんの僅か……そんな瘴気の砂を大量に被っていながら、年端もいかない子供が無傷で立っていたとしたら? それは、明らかに怪しい。訝しめ怪しめ疑えと、よりにもよってアティリオやブラウ相手に大声で触れ回っているようなものだ。魔物と認識されて、その場で攻撃されていたかもしれない。
“……ユーリ。俺はこれから、シャルに褒美をやるという緊急命題が降って湧いた”
ユーリが窮地に追い込まれるという未来図を、華麗にして着実に防いだにも関わらず、水責めにして逆さ吊りという憂き目に遭わされた同僚を労るべく、ご主人様が何やら立ち上がったご様子である。
私ももっと、シャルさんに感謝の気持ちを表さなくては……そんな思いを抱きつつ、ユーリは全身を洗い流して再びまったりと湯を堪能するのであった。
「それでね、ティカちゃん。
大事な事を聞き忘れてたんだけど」
「何でしょう?」
ベアトリスと並んで再び湯船につかり手足を伸ばして縁に後頭部を乗せ、リラックスしていたユーリは、湯気が立ち上ってゆく天井を見上げたままのほほんと話を促した。
ザバリと湯を蹴立ててユーリの顔を覗き込んでくるベアトリス。
「あなたの外殻膜には、ちゃんと探知遮断が付与されてるみたいだけど、あたしに見破れたように、それも万能じゃあないわ。
本当に正体を隠したいのなら、魔術師には迂闊に触らせないように気をつけるのよ?」
ベアトリスからの忠告に、ユーリはギクリと身を強ばらせた。
「……あの地下道で、ブラウさんにおんぶして貰ってたんですけど……もしかして、あの人にはバレてるんでしょうか?」
「ブラウ?」
ベアトリスは小首を傾げながら彼の名を繰り返し、一拍置いて、
「あ~、あーあー。ブラウ、ブラウね」
ザバンと盛大に湯を揺らしながらユーリの傍らに腰を下ろしつつ、何かに納得したように幾度か頷いた。
「あの子なら大丈夫でしょう。
若手の中でも、まあまあ優秀な結界術特化術士カルロスの探知遮断をかい潜って見破れる程、術者としての技量は持ち合わせてないし」
流石は主、抜かりはないな……と、またしても主人への尊敬の念を深めつつ、ユーリは安堵と共に胸をなで下ろした。
「ふふん、おんぶ、ねえ……あの子、カルロスとよく似たティカちゃんにどうしても興味を惹かれちゃうようねぇ」
何やら含み笑いを漏らすベアトリスは、思い出したようにユーリの両肩を掴み、またもや顔を近付けてきた。視界に映るのはベアトリスの顔のみで、にもかかわらずここまで至近距離で顔を直視しても彼女の顔の造作が認識出来ず、やっぱり違和感も覚えないというこの現象はちょっと怖い。
「それで、アティは?
アティとの触れ合いはなかったの?」
何やらワクワクと弾む声音で尋ねられて、ユーリは今日の出来事を思い返してみた。
少し振り返るだけで、何かヤバいのではないかと思われる接触が幾つも浮かぶ。
「あ……ブラウさんが隠し扉を開けるのに、爆弾を使って……その爆発から私を庇う為に、アティリオさんが私を抱き締めたまま階段を転げ落ちたんですが」
「なんですって!?」
一番危険なのではないか、と感じた部分を端的に説明すると、ベアトリスは声をひっくり返らせた。
「それでそれで!?
ティカちゃんを腕の中に閉じ込めたまま階段を転げ落ちて、そんなアティとどんな会話を交わしたの!?」
「え? えーと……『大丈夫かい?』とか、『危ないから君はここに隠れてて』だったような」
「え~、たったそれだけ? そんな風にアティと急接近、ティカちゃんは心臓がバクバクしたりとかは?」
「ああ、急に爆弾が爆発したりしましたし、それは驚きましたよ?」
ユーリがしみじみとベアトリスに向かって頷くと、
「ん、も~っ、アティ! あなた、せっかくの好機になんで深く印象付けておかないのよっ!」
水面をバチャンバチャンと叩きまくり、暴れ出すベアトリス。
「それで、ベアトリス様。
これでもアティリオさんの私に対する態度が変わらないという事は、あの方は主の探知遮断を見破れないから安心して良い、という事なのでしょうか」
「それはどうかしらね」
水遊びを中断してユーリに向き直ったベアトリスは、思案げに口元に人差し指をあてがい、一度言葉を切る。
「階段で庇われた時はつまり、アティがティカちゃんを疑っておらず、同じように爆発に気を取られていて、そもそもティカちゃんの魔力の状態を見極めようとしていなかったから、だから未だに気が付いていない。そんな可能性もあるわ」
「え……」
「カルロスとアティの実力はね、昔から拮抗しているの。
ティカちゃんが接触する機会の多い術者の中で、最も警戒すべきはアティなのかも」
ベアトリスの悪戯っぽい囁きに、ユーリは温かい湯船につかっているというのに、ザーッと血の気が引いていく気がした。
「つ、つまり、私は今後、アティリオさんの姿を発見したら、即座に逃げ出すべき、と?」
「あらぁ、それはきっと逆効果よ?
声を掛けようとしただけで逃げられたりしたら、アティならきっと理由を尋ねようと追い掛けるわ。
そして捕まえられてごらんなさい。疑念の感情を抱いたまま手でも掴まれたら一発ね!」
ユーリは恐怖に慄き「ひぃ~」と抑えた悲鳴を漏らしていると言うのに、何故、ベアトリスの声音はこんなに楽しそうに華やいでいるのだろう。
「ほらぁ、逃げられたら追いたくなる習性が男にはあるらしいじゃない?
だからティカちゃん、頑張って近寄らせず避けすぎず、適切な距離感でにこやかにアティと接しなくちゃね。触れ合いそうになったら、さり気なく躱すの」
「そんな高等技術、私には無理ですっ!」
2人きりの浴室に、ベアトリスの笑い声とユーリの切実な叫びがこだました。
「師匠っ! お疲れ様です」
お風呂から上がったユーリは、素直にカルロスに貸し与えられた今日お泊まりする部屋へと足を向けるつもりであったのだが、風呂場の出入り口の前に陣取っていた人物がベアトリスに向かって声を掛けてきた。
身に着けているゆったりとしたローブとフード付きのマントは薄いグリーン、亜麻色の髪の毛に水色の瞳、片目にはモノクルをつけた……何か見覚えのある女性だ。
魔術師連盟にあっては珍しく、耳の形が丸い。
「お疲れ様、ルティ。首尾は?」
「ここでは少し……お部屋でご報告を」
ベアトリスは平然と、彼女に向かってルティと呼び掛けているが、それはブラウの連盟での呼び名ではないかと思われる。そしてブラウは、アティリオの態度から鑑みても、性別は男性である筈。
じっとルティと呼ばれた人物を観察してみる。
ゆったりとしたローブは腰の辺りや肩幅といった、全身の骨格を曖昧にしているし、フードの襟で喉元も見えにくい。
そして胸元にはまたしても、何を詰め込んでいるのだか不明な細やかな膨らみ。
声は柔らかく高いが、裏声という可能性もある。ちょっとした仕草や口調、歩き方……そんな些細な違いで、見事にぱっと見は女性にしか見えない。
「……ブラウ、さん?」
ユーリが恐る恐る呼び掛けてみると、ブラウは即座に反応した。ほんの一歩の大股で彼女との距離を詰め、人差し指でユーリの唇を軽く押さえる。
そして上体を屈め、彼女の顔を覗き込んできたブラウは、
「しぃーっ、ティカちゃん。例え気が付いたとしても、知らん顔してくれなきゃ。お互いに、ね?」
ブラウリオとしてのいつもの声音で、冗談半分のような台詞を低く小さく囁きかけてきつつ……ユーリの目を覗き込んでくるそのモノクル越しの眼差しに、ユーリは背筋に悪寒が走るのを感じていた。