そして、事件は迷宮入り?
純白の翼を持ち、銀色の毛並みの大きな狼は、このマレンジスにただ一匹。
ユーリの脳裏に蘇ったのは、薄暗い地下通路で目撃した、松明の灯りにゆらゆらと揺れていた黒ずくめの亡骸。瘴気の砂を被った部位は、原型を留めないほどに融解した……
“シャルッ!?”
「いっ……いやぁぁぁぁっ!?」
ユーリの視界を占めるのは、銀と白の色合いだけで……頭から黒い粉を被ったシャルが、彼女の悲鳴に応えるようにゆっくりと鼻面をユーリの方へと向け、琥珀色の瞳が彼女を捉えた。バサリと広げられた翼が、ユーリの頭上から彼女を包みこむように舞い降りてくる。ユーリは震える腕をシャルの方へと持ち上げた。
「追跡は!?」
「……! すまん、間に合わん!」
「っ! 大大叔父様、お怪我は!?」
「大事無い」
白と銀色で埋まる視界のその向こう側では、騒がしい物音や声が錯綜しているようであったが、ユーリにとって大事な事は、目の前にいる、彼女を助ける為に飛び込んできて、頭から猛毒を被せられたシャルの安否だ。
ユーリがシャルの鼻面へと指先を伸ばし、せめてその黒い粉を払い落としてしまおうと……
「シャルッ、無事か!?」
そんな混乱した場へ大急ぎで駆けつけてきたのか、バンッ! と、乱暴にドアが開かれて書斎に飛び込んできたカルロスの声に、
「マスター、そんなに慌ててどうなさったのですか?」
シャルはまったくいつもと変わらぬのほほんとした声音で尻尾を振りながら、あっさりとユーリの傍らから足取りも軽く主人の下へと一直線。思わず、手を差し伸べた体勢のまま硬直するユーリ。
銀色の巨体が目の前から退いたお陰で見渡せるようになった書斎では、体はテラスの方へと向けられたまま、首だけ動かして声も無くシャルを凝視しているアティリオ、そしてゲッテャトール子爵。
書斎と寝室を繋ぐドアを蹴り開けた体勢で口をあんぐりとさせ、呑気にほたほたと駆け寄ってくるしもべを上から下まで眺めやるカルロス。
「しゃ、シャル、おま……っ!?
ぶ、無事なのか!? 瘴気の砂を浴びたんじゃ……!?」
「瘴気の砂……って、なんでしたっけ?」
眠らされてからようやく再会が叶ったのか、主人へと盛んに尻尾をぶんぶんと振っていたシャルが首を傾げると、毛並みに絡まっていた黒い粉が少量零れ落ち……高そうな絨毯を一瞬にして溶かしながら消えてゆく瘴気の砂。
ユーリが思わず、先ほどシャルがテラスのガラスドアを破壊しながら飛び込んで来て、黒ずくめ達から瘴気の砂を浴びた着地点を観察してみると、やはり高価な絨毯にはところどころ大きな穴が開いている。
「~~っ!? 集え水よ! かの者を捕らえ、清き流れにたゆたい全てを押し流せ!」
「がぼっ!?」
聞き覚えのある術の詠唱と共に、カルロスがさっと頭上に掲げた右手。その背後から、これまた見覚えのある水流で出来た綺麗なツルが勢い良く噴き出し、シャルを頭から飲み込み……主人の魔術に飲み込まれたまま天井付近に持ち上げられ、哀れ、天狼さんはガボガボと水流の中でもがく羽目に。
あの水のツルは、水やりと捕獲して逆さ吊り以外にも、水流の中で溺死というオプションも付けられるらしい。
主……確か逆さ吊りの刑に処すのは、アティリオさんとブラウさんの2人の予定だった筈では……?
ユーリはあうあうと唇を無意味に動かしたまま、まるで洗濯機の中にでも放り込まれたような状態を披露するシャルの姿を追っていると、カルロスの背後、寝室の方から更なる人影が現れた。
「あらやだっ! シャルったら珍しくイヌバージョンじゃない!
ちょっとカルロス、遊んでないでシャルを降ろしなさいよっ。あたしモフモフした~い!」
相変わらずテンションの高い女性魔術師、連盟でもそこそこ高い地位にいるらしきカルロスとアティリオの師匠、ベアトリスだ。握った両手をぶんぶんと上下に振って、シャルの獣姿に大喜びしている。
今日も今日とて彼女の周囲には結界が張られているのか、相変わらずベアトリスの姿を正確に認識出来ない。声や仕草、顔を確かに見ている筈なのに、ベアトリスの姿を思い描けない。何よりも恐ろしいのは、それを理解していてもその点について何ら違和感を覚えないという、脳が誤魔化されているこの感覚。
「申し訳ありません、師匠。王都での世界浄化派の実行部隊、主軸を取り逃がしてしまいました……」
「婆さん! シャルが、シャルが瘴気の砂を頭からっ……!」
「ふん、魔術師連盟の亜人めが」
「ちょっとカルロス、あたしはモフモフしたいんだってば!」
しもべが瘴気の砂を浴びたせいか、カルロスが攻撃魔法をシャルに放つというご乱心っぷりを見せている最中のベアトリスの登場に、一時期静まり返っていた室内は一気に騒々しさを取り戻す。お陰で、誰が何を喋っているのだかさっぱり聞き分けられない。
ユーリはハラハラしながら天井付近を見上げつつ、水流の中でぐるんぐるんと回転しているシャルの姿をひたすら目で追う。……そろそろ、あの同僚の息が保たなくなりそうなのだが、いつまであの調子なのだろうか。
なんやかんやと大騒ぎの後、混乱していたカルロスが最もシャルを苦しめ、天狼さんのヒットポイントを極限まで削り取った一幕からしばらくして。
ようやく無事に降ろされたシャルは、イヌバージョンの姿のまま「おえっ、げふっ!」と、盛大にえずきながら、書斎の床の上にぐったりと腹這いになっていた。
現在、壁は一部爆破されていたり絨毯は水を吸って悲惨な事になっているゲッテャトール子爵の書斎に居るのは、ユーリ、カルロス、シャル、そしてアティリオとベアトリスの五名。
ブラウはあの騒ぎの中ユーリが気が付かない間に姿を消しており、ゲッテャトール子爵は王宮にて査問会にかけられるらしく、軍部に所属する者と見受けられた迎えがやってきて、身柄を確保され、馬車に乗り込みどこぞへと連れて行かれた。行き先はやはり王宮らしい。どういった部屋に置かれるのか、は定かではないが。
さてそんな最中、濡れそぼった同僚の毛並みを、子爵のベッドのシーツでゴシゴシと拭ってやるユーリの反対側では、べったりとシャルの腹に張り付くベアトリス。
拭く物が無いので勝手にシーツを拝借しているが、シャル本人はそれで拭われるのがなんだか嫌そうである。子爵の匂いでも残っているのだろうか。
ジーッと同僚の姿を眺めやっても、瘴気の砂をたっぷり浴びた筈の天狼さんは、それによって体を溶けさせた様子が全く無い。ユーリが地下通路で目撃した時には、本当に一瞬にして人体を溶かしていた強力な毒薬であったというのに。
絨毯への被害から考えても、瘴気の砂に見せ掛けた偽物という事も無さそうだ。いったいシャルはどれだけ頑丈な体をしているのだろう。
「アティ、現状の報告を」
そんなエルフ魔術師は、姿勢はともかくとして真面目な声で弟子を促す。
「はい。ウィルフレドではなく偶然僕が屋敷内に入る事になり、少々予定は狂いましたが、予め侵入していたルティと共に計画通り世界浄化派の一派を引きつけつつ、陽動に動きました。
魔術遮断結界が張られた地下に縛られ放置されていましたが、予想以上に潜んでいた敵の数は少なく、この部屋に飛び込んで容易にゲッテャトール子爵を確保する結果となりました」
師の前にかしこまったアティリオがスラスラと報告する声が、風通しの良くなった室内に響く。
カルロスは気分の悪そうなシャルの首筋を撫でてやりつつ、無言のままユーリに視線を寄越してくる。
“……で、だ。
お前がこの場に居るのも、世界浄化派の連中の思惑も、『どうしてそうなったのか分からない。身に覚えがない』のは、俺が一番よく理解している。
だが、婆さんとアティリオ、連盟本部のお偉方にたいしても、その言い分は通用しねえ。世界浄化派の連中は、いわば魔術師連盟の天敵だからな。根掘り葉掘り聞いてくるぞ?”
主人の眼差しは、これからどうするよ? と、お手上げ状態である事を伝えてきている。
ユーリがカルロスの使い魔、クォンである事を連盟の首脳陣を始めアティリオに正直に明かせば、ユーリの身の潔白や『世界浄化派なんて存在を、今日初めて知った。誘拐されて関わった』事は信じて貰えるかもしれない。カルロスが、世界浄化派に与している裏切り者だと疑われていない限り。
だが、それ以降はどうなるのか? またしても魂を吸収せずに使役していた2匹目のクォンの存在を隠匿したのは、連盟にたいして誠実にはなれぬとばかりに己の真の実力を発揮せず、奉仕を怠る為であったと断じられはしないか?
カルロスの立場はより不安定になり、連盟での信用を無くせば、彼の寄りどころが無くなってしまう。
そしてユーリは、たとえ魂の吸収という手段を使わずともカルロスの役に立つシャルとは違って、使役しようにも足を引っ張ってばかりの無力なユーリは。
大勢の連盟の魔術師達から、カルロスに命を捧げる事を迫られる事になるのかもしれない。
「……ふむ。肝心のルティは今どこに?」
カルロスとユーリ、そして主人とテレパスを交わしているのか彼女からは伺い知れないシャル。無言のまま心の中で大急ぎで打ち合わせをしている主従には話を振らず、ベアトリスはまずアティリオからの報告を吟味しているようだった。
「話は前後しますが、僕とあちらの少女、名はティカといいます……彼女と僕を攫ってきた世界浄化派の実行部隊と推定される2人組が書斎の天井から姿を現し、瘴気の砂を撒き散らし、時を同じくしてテラスから飛び込んできたカルロスのクォンがそれを全て浴び、2人組は直後にテラスから離脱、ルティは即時追跡に移りました」
アティリオが指差す天井を見上げてよくよく目を凝らしてみると、確かに板がズレている箇所がある。彼らはあんな高いところから飛び降りてきたのか。
いったいブラウはいつの間に姿を消して、どこへ向かったのだろうと頭の片隅で警戒していたのだが、あの昼日向では悪目立ちしそうな黒ずくめ2人組がとっとと逃走を図ったので、後を追いかけていったらしい。
それにしても、ベアトリスもアティリオも、ブラウではなく『ルティ』と当然のように彼を呼んでいるが、本当にユーリが知っているブラウリオ公子と同一人物なのだろうか。ひょっとすると彼は、魔術師連盟の中では『ルティ』と名乗っているのかもしれない。
そっちだって呼び名が似通っているじゃないですか、ブラウさん。
アティリオの淡々とした報告はまだ続けられた。
「僕らが地下で捕らわれていた最中、地下通路にて世界浄化派の手の者とおぼしき相手との交戦中、また、この書斎にてゲッテャトール子爵への聴取の際も、あの2人組は密かに僕らの様子をじっくり窺っていたのではと、ルティは推測したようです」
先ほどから引き続き大活躍しているのか、指先に例の光る矢印書簡を浮かべさせ、ブラウからの連絡を聞いたらしきアティリオは従兄弟の推測も言い添える。
「聴取によって聞き出したゲッテャトール子爵の言によると、卿は王都での世界浄化派の活動拠点提供、資金面での援助、情報漏洩及び、バーデュロイ国内における世界浄化派賛同者を密かに呼び集めていた模様です」
アティリオが長々と報告している最中、ドアの向こうから灰色のローブ姿の魔術師が静かに姿を現し、彼は一旦口を閉ざした。
現れた魔術師はベアトリスへと一礼し、魔術師連盟とは命令系統が異なる、国の保有する軍隊である王都の治安維持部隊の手によって、屋敷内に留まっていたゲッテャトール子爵の身内、雇われていた使用人全ての確認を済ませ、世界浄化派への関与が見受けられた人物は隔離してある事を報告してきた。
「そう……付近の住民への被害、目撃者は?」
ベアトリスは、ゲッテャトール子爵の屋敷付近に住まう住人達の様子を、ひどく気にかけているようであった。
真っ昼間から貴族のお屋敷で暴動よろしく爆発があったり、毒が撒き散らされたりすれば、それは近隣の住民とて不安がるだろう。どんなに速やかに事を運んだとしても、騒ぎを起こした事には違いが無いのだから。
しかし、どうやら子爵邸の広さが幸いしたらしく、連盟から魔術師が何人も押し掛けてきた事や、子爵本人が人目を避けて馬車に乗り王城へと連れて行かれた事は気付かれず、非難の声は寄せられていないようだ。こっそりと、影で噂が走る事になるのかもしれないが……
「現場の処理は治安部隊の管理下に移ったわ。あたし達は一旦撤収しましょう
……アティ、子爵が真実どういった行いをしていたのか、それは売国行為か否かを審議する権利は、あたし達に委ねられてはいないわ。そちらにまで介入するのは越権行為よ」
「はい、分かっています師匠。
僕はあくまでも、ゲッテャトール子爵が属するアルバレス侯爵家一門、その次期総領と目されているのであって、アルバレス侯爵ではありません。
今の僕はただの、魔術師連盟に名を連ねる一魔術師です」
濡れた絨毯の上で背筋を伸ばして佇み、静かに師を見返すアティリオ。おもむろにシャルの傍らから立ち上がったベアトリスは、そんな弟子に一歩近寄り、
「良い子ね、アティ。あなたは頑張ったわ。
辛くても、苦しくても、頑張ったわ」
「師匠……」
ぽんぽんとアティリオの背中を軽く叩き、ふわりと抱き締めたのだった。
う~ん、以前ご一緒させて頂いた、『ぶらり馬車、街道を行く。魔術師連盟より御用聞き奉仕の旅』の最中からずっと思っていましたけど、アティリオさんってお師匠様大好きですよね、あの人。
仲良しな師弟の姿に、主は何気に面白くなさそうな表情をなさっていますし。どっちがお師匠様から可愛がられているか、張り合ってる面でもあるんですか?
どうしよう……場所を移すって、これから本部の塔に行くんですよね? いっそのこと途中で姿を眩ませたりすれば……
“お前が二度と人間の姿に戻らん覚悟なら、やってやれん事も無いが?”
……無理ですね。この先の一生を、ネコとして生き抜ける気が致しません……
ユーリが絶望的な気分で小さく首を左右に振ったその時、
「ティカ、悪いんだけど、君には聞きたい事があるんだ。
すぐに家に送って行ってあげると、約束した身でおこがましいけど……連盟の本部にまで来て貰えるかな?」
相変わらず気分が悪そうなシャルの傍らに座り込み、シーツで水分を拭ってやっているユーリにしっかと目を合わせ、アティリオがそう尋ねてきた。口調こそ疑問系の任意同行であるが、そこに拒否権は見当たらない。
「あ……」
ぐしょぐしょの絨毯の上に座り込んで濡れたからではなく、ユーリは恐怖からカタカタと身に震えが走る。
カルロスの瞳が、僅かにスッと眇められた。
「ああ、そう言えば」
と、そんな緊迫感の走る書斎に、場違いに脳天気な声を発したベアトリスは、ポンと両手を叩いた。
彼女は横たわるシャルの背後を回り込み、震えて固まっているユーリの肩に軽く手を起き、アティリオへと顔を向けた。
「あなたには紹介してなかったわね、アティ。
彼女はあたしが、バーデュロイからず~っと東の方を旅してた頃に、お世話になった人の孫でね。あたしを頼って最近バーデュロイに身を寄せてきたのよ。
バーデュロイの事も、王都の事情にもとんと疎いからねぇ~。てっきり今頃は王都見物の真っ最中かと安心してたのに、まさか、アティと一緒に誘拐されてるだなんて。ティカちゃんったら、今日は大変だったわね」
畳み掛けるようにベアトリスは『黒髪の少女ティカ』を、自らが面倒を見ている娘だと言い切る。ニコニコと笑顔でそう同意を求められて、ユーリはベアトリスを見上げて困惑した。いったいぜんたい、彼女は何を言い出しているのだろう。
“……いーから、今は取り敢えず婆さんに話を合わせとけ、ユーリ!”
なかなか口を開かないユーリに、カルロスからテレパシーによって唆す声が届く。
「は、はい。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした、ベアトリス様」
ユーリが恐る恐るそう答えながらぺこりと頭を下げると、ベアトリスはぎゅむっ! と彼女を背中から抱き締めてきた。
「んもう、ティカちゃんったら、相変わらず他人行儀なんだから!」
「師匠が身元を引き受けていた子だったのですか。
なんだ。それならそうと、ティカも早く言ってくれたら良かったのに」
「えっと……」
どう相槌を打つべきか、困惑して口ごもるユーリに先んじて、カルロスが人の悪い笑みを浮かべながら口を開いた。
「どうせお前が、コイツを全力で追い掛け回したり脅かしたんじゃねえのか、アティリオ。ティカは繊細だからな~」
「……まるで見てきたかのように言うな、カルロス」
「なんですって!? 信じらんないっ! あれだけあたしが、女の子には優しくしなさいって言い聞かせてたのに……アティったら、またそんな事したの!?」
「ご、誤解です師匠! あれはあくまでも不可抗力であって……!」
慌てふためいて抗弁するアティリオと、益々ぎゅうぎゅう抱き付いてくるベアトリス。
……あれ? これと似たような会話、以前どっかでしませんでしたっけ?