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閣下への、きちんとしたご挨拶はまた後日となる。お忙しい伯爵閣下であるが、カルロスとの面会は頻繁に行っているらしい。
唐突に押し付けられたも同然のユーリを、とても可愛がって下さったレディ・フィデリアにも、改めてお礼を申し上げに行きたいとは思うのだが、向こうはこれから社交に忙殺される身だ。そうそう気軽に会えるとも思えない。
そんな事を考えつつユーリは、様々なお店が軒を連ねる繁華街を歩く主の後を懸命について行く。王都は祭りの期間でもなくとも、常に人でごった返しているが、ユーリは普段の速度よりも早足になりつつ、今日は以前垣間見た時よりも更に人が多いような気がして、首を傾げた。
歩き慣れない歩調に足がもつれ掛けたところを、繁華街の人込みに紛れ込んだせいですぐお隣を歩いていたシャルに、手を掴まれた。途端にドクンッと、彼女の胸が激しく高鳴る。
「あ……」
「まったく、何をしているんですか、ユーリさん。
あなたはどこまでも世話の焼ける人ですねえ。ほら、マスターに置いていかれますよ」
同僚が素早く腰に腕を回して体勢を整えてくれたお陰で、ユーリは人込みの中で無様に転倒しての圧死は防がれた訳だが、腰に回された腕はすぐに外してくれたというのに、相変わらず彼女の右手はシャルに捕らわれたままだ。その手を軽く引かれて先へと促されるものの、一度飛び跳ねた心臓はそう簡単には落ち着かない。
「あ……りがとう、ございます……」
「いいえ、どういたしまして」
俯いたまま、気恥ずかしさから小さく小さく口の中でお礼を呟いたというのに、この喧騒の中でもシャルの耳はユーリの声を正確に拾い上げてしまえるらしい。羨ましい、羨まし過ぎる生態である。
……ねえ、シャルさん。
私達って今、ケンカ中じゃありませんでした? それともシャルさんにとっては、あの程度の反抗や口答えなんて、気にもならない、取るに足らない態度なんですか?
私の機嫌が良かろうが悪かろうが、『そんなもの』はどうでも良いとしか、思っては下さらないのでしょうか?
シャルの体温が伝わってくる手に、ほんの少しだけ力を込めてみた。ユーリの歩調に合わせて、少しばかり速度を落としてくれた隣の同僚をチラチラと見上げてみるが、彼女の些細な行動に特に何かを感じ取った様子もなく、真っ直ぐに前を歩くカルロスの背中に視線を注いでいる。
ユーリは繋いだ手を少しばかり自分の方に引き寄せて、シャルの腕を見下ろした。
こーゆー事を、自然かつ簡単に出来ちゃうところに、シャルさんの女ったらしな遍歴が見え隠れする気がします。ですがどうせシャルさんにとって、私と手を繋ぐなんて行為には『迷子防止』とか、『歩くのが遅いどーぶつの手綱代わり』とか、そのくらいの意図しか無いんでしょうね……
されるがままに手を取られて歩いているのは、人込みの中でユーリがはぐれたりすれば、主人であるカルロスに余計な手間を掛けさせてしまうからだ。
決して、ケンカ中の同僚の譲歩っぽいサインだと浮かれている訳では無い。と、いくら自分に言い聞かせようとしても、正直な心臓はトクトクと跳ね上がる。
内心では唸り倒して、嬉し恥ずかしな状況にゴロゴロと転がり回っていたユーリだったが、カルロスが一軒のお店の前で足を止めたので、シャルの手を振り払って小走りで主人の傍らに駆け寄った。これで更に、同僚の顔色を観察してみる勇気は湧かないので、決して振り返らずに。
「主、こちらのお店に何か入り用な品がおありなのですか?」
王都の繁華街は、フィドルカの街の宝飾品などのお店が立ち並ぶ大通りと同じく、ガラス越しにディスプレイが展示されており、ユーリが覗き込んでみたところ、上品さを感じさせるお洋服や帽子などが飾られている。
「おう」
「お洋服屋さん、ですか?」
「んー、まあ既製服も置いてはあるが、むしろ仕立て屋だな。
ほれ、この道沿いに歩いてくと連盟の塔があるだろ? この近辺は連盟の連中が利用する店が多くてな。俺やシャルもこの店で服を仕立てて貰ったんだ」
「へ~」
主人が指差す方角には、真っ直ぐにそびえ立つ象牙の塔もとい、象牙色に塗られた連盟本部である長い塔が存在感を放っている。
ディスプレイの片隅には、確かに作りがしっかりとしていそうな、フード付きのマントも飾られている。ひっそりと、連盟所属の魔術師御用達らしい雰囲気を醸していた。
「つー訳で、今日はお前の服を作るからな」
カルロスはお店のドアを開いて、カランカランと軽やかなベルの音を響かせながらユーリを振り向き、そんな宣言と共に、さっさと店内へと歩いて行ってしまう。ユーリはカルロスから言われた言葉の意味を咄嗟に理解出来ず、まごついてしまったのだが、
「ほらユーリさん、あなたが出入り口を塞いでいては、通行の邪魔になります」
「うっ? あっ、ちょっ」
基本的には主人に忠実であるらしき先輩が、彼女の背中をグイグイと押してきて、ユーリは強引に店内へと連れ込まれてしまった。
きょろきょろと見回してみた店内には、仕立て屋さんという響きの通り、壁一面を占める棚に様々な色合い生地が並べられている。ハンガーラックに掛けられた既製服も何着か置いてあり、カラフルで視覚的な洪水に目がチカチカする。
「んまーっ、こっちの坊やが今日のお客様? 黒髪だなんて珍しいわぁ~」
唐突に甲高い声を浴びせられて、ユーリはギョッとしてそちらに視線を集中させた。カルロスと向き合っていた赤いドレスのご婦人が、足取りも軽やかにウキウキと満面の笑みを浮かべてユーリの側に近寄ってくる。頭の天辺から爪先までじっくりと眺められ、ユーリは無意識のうちに後退り、背後に立ったままのシャルの胸元に縋り付いていた。
「もう、カルロス君ったら、アタシの服を大事にしてくれてるのは嬉しいけど、何も女の子に男の子の服を着せることないじゃないの」
「気色の悪い言い方すんな。単に、服仕立てるまで俺のお下がりを渡してただけだろうが」
わざとらしくクネクネしていた、多分50代ほどの元気が良すぎる感のあるご婦人は、あははは! と、豪快に大笑いしながらバシバシとカルロスの背中を叩く。可憐なるレディのお茶目スキンシップ程度で、ゲホッと咳き込むご主人様のお姿に、しもべとしては救出に向かうべきか悩むところである。
まったくもって、リアルモテ野郎に違いないと睨んでいた我が主の交流がある女性方は、とても個性的な方々ばかりなのですが、気のせいなのでしょうか? こんなに個性的な女性ばかりを見慣れていたら、エストお嬢様のような清楚な少女に惹かれるのも分かるような気がします。
“……んな納得は要らねえぇぇっ!
つーかお前ら、いちゃついてねえでご主人様を助けろ!”
うむ、と頷いていたら、カルロスからそんなテレパシーが送られてきて、ユーリは意味が良く分からずキョトンと瞬きをし、自らの状態を改めて見直した。
彼女の手は両方ともシャルの胸元に添えられていて、上半身を捻りながらカルロスの方に向けて主人の様子を眺め。シャルの両腕はユーリの腰に回されて、顎が彼女の頭に軽く乗っかっている。
「んにゃ~~っ!?」
「急にどうしたんですか、ユーリさん?」
自らの状況を把握したユーリは、ネコ姿が長かった弊害か、おかしな悲鳴を上げながら無我夢中でシャルの腕を振り払い、大慌てでカルロスの背後へと身を隠した。
相変わらずのほほんとしているシャルは、同僚の愉快な奇行に不思議そうな表情を浮かべはしても、ユーリのように恥ずかしがる素振りもなく。
何てこと何てこと何てことーっ!
ユーリは自らの行動に頭を抱えてしまった。
ここ最近での子ネコ姿の際には、シャルの胸元に抱き上げられるなど、ごく当たり前程度の接触となりつつあったが……そんな行為に慣れすぎて、自分が今『人間である』という事を忘れてしまっていただなんて。このまま年頃の乙女として持っていて当然の、羞恥心や恥じらいが無くなり、見苦しい人間になってしまったらどうしよう。
やっている最中はまったくの無自覚無意識でも、こうして後から思い出してはのたうち回る羽目になるような接触など、ダメージが大きすぎる。
「あー、まあ、そういう事で、こいつを頼むわ。
既製服を買うか仕立てるかは、ユーリの自由にして良いからな。
ほれ、行くぞシャル」
顔を赤くしながらうーうー唸り、頬を押さえているユーリの頭を軽くわしゃわしゃと撫でたカルロスは、ご店主さんらしきご婦人の方に彼女を押しやり、首を傾げているシャルの首根っこを掴んでドアへと引きずってゆく。
「え、あ、主?」
「俺とシャルは本部で調べ物がある」
急に置いてゆかれるような口振りに、オロオロとカルロスとご婦人を交互に見やるユーリに、
“支払いは後で俺が出すから安心しろ。今日はまだやる事がある上に、長くなりそうなお前の買い物に付き合うのはごめんだ”
テレパシーですっぱりと断りを入れてきた。カルロスらしさに思わず納得してしまったユーリである。
“ああ、それから。
動きにくいかもしれんが、悪目立ちするから足を出すような服を仕立てるなよ?”
は~い。
カランカランと、再び軽やかなドアベルの音を響かせて、次の目的地へと向かう主人の背中に深々と一礼して見送ったユーリ。
「さあ、こっちで採寸しましょうね、ユーリちゃん!」
「は、はい……」
そして、どこぞのエルフさんを彷彿とさせるご婦人が、嬉々として呼び寄せたお針子さんと思わしき少女達の真っ直中、乙女の戦場へと引っ張り込まれてゆく……
長い、長い戦いであった。
ハイテンションなご婦人や、可愛らしいお針子さん方に囲まれて、頷き着せ替え人形状態になっていたユーリは、半裸からようやく一着のお洋服を身に着ける事を許された。
白い七分袖ブラウスに、レモンイエローを淡く薄めた色合いのロングスカートの組み合わせで、腰の辺りに胴全体を締め付けるのではなく、胸を強調するような形の前を紐で締めるコルセットを身に着けて、それを飾り結び用のリボンで飾り付けられた。ドレスの下に身に着ける物ではなく、服の上から身に着けるもので、太いベルトや着物の帯感覚に近い。靴も少年用の長いブーツから、少女達が履くローファーっぽい革靴が踝より上の丈である、フレアースカートの裾から覗いている。首や胸元を覗かせるのが昨今の流行らしいが、ユーリはブラウスの襟がきっちりと閉じれるタイプの服を選択し、ポーラー・タイを再び身に着けた。
仕立て屋のご婦人は、このポーラー・タイを興味深く観察していたが、そのうちファッションに取り入れられるとしたら、やはり少年服になるのではなかろうか。女性用は襟ぐりを開くのが主流のようであるし。
女性は表を歩く際、頭に何か被るのが当たり前という感覚があるらしいので、日除けも兼ねてスカートとお揃いの色合いの帽子を購入。……代金を支払うのはユーリ本人ではなく、主人であるが。
鏡の前で、クルリと回転して確認してみる。髪に結ばれたままのピンク色のリボンとの色合いも、違和感は無い。
さほどおかしな印象は受けないし、なかなか可愛らしいのではないだろうか。
シャルさん、可愛いとか似合うとか、言ってくれるでしょうか……?
期待感から心臓が再び、ドキドキと早くなってしまう。ユーリを異性として意識する事など全く無いシャルであるが、自分とは違う生き物を、綺麗だとか可愛らしいと感じる感性は持っている……とは思うので、ユーリがめかしこめば何らかの反応は返ってくると思いたいところである。
カルロスからは、よほどこちらの認識と食い違う奇抜なファッションでない限り、ユーリの好きなように服を仕立てて良いとのお達しであったが、一から生地を選んで形を相談して……というやり取りを行うには、ご婦人やお針子さん達のような気力が足りなかったので、既製服を選ばせて頂く事に決めたのであった。
基本的に、マレンジスでは洋服というものは主人から下げ渡された古着を着用するか、身内からの古着か、生地を購入して自ら縫うのが庶民の常識であり、仕立て屋さんに服を作ってもらうのは富裕層ばかりである、らしい。自分で作れるのならば頑張ってみるのだが、悲しい事にこちらの世界にはミシンが存在しない。
冬になる前に毛糸を買って、編み物にでも挑戦してみたいものですねえ。
シャルに手編みのセーターを編んであげたら、もしかしたら彼は喜んでくれるだろうか。
視界の端に毛糸の塊が並べられているのを確認し、そんな事を考えながら着ていた少年服を畳んで袋に仕舞い、一番上に改めてぬいぐるみを仕舞い直す。
履いていたブーツが入る大きさの袋をオマケしてもらえたが、両手が結構な大荷物になってしまった。
お世話になった仕立て屋さんの皆さんにお礼を口にしてから店を後にし、ユーリは通りに突撃する前にん~っと伸びをした。
「えーと、連盟の塔は、っと……」
賑わう繁華街の通りの左右を確認して、象牙色の塔を認めたユーリは、一つ頷いてそちらの方に歩き出す。
新しいお洋服を早く見てもらいたいと、鼻歌混じりに人波に合わせて歩いていたユーリだったが、思いがけない出来事とは、気が付かないうちに忍び寄って来るもの。
前方から敢えて流れに逆らいつつ早歩きで直進してくる、フードを目深に被ったマント姿の人物を至近距離に至ってからようやく発見し、慌てて避けようとユーリは身を捻ったのだが、距離を取る前に向こうの方がどんどん近付いてきて、正面からぶつかってすっ転ぶ羽目になってしまった。これだから、人出が多い場所は苦手なのだ。
「あたたた……」
尻餅をついてしまったが、幸いにして建物の近く、人が歩かない通りの端に転げ出た為、落とした荷物もユーリ本人も、誰かに蹴り飛ばされる心配をしなくて済みそうだ。
腰を押さえて呻くユーリの前に、すっと手が差し伸べられた。
「すまない、こちらの不注意だった。怪我はないだろうか、お嬢さん?」
この辺りは、連盟の魔術師が頻繁に出歩いているらしいと聞いていたので、フードを目深に被ったマント姿の人物にも、さして警戒していなかったユーリであったのだが、この衝突者の声には非常に聞き覚えがあった。出来れば聞きたくなどない、その声。
ユーリが恐る恐る、ゆっくり顔を上げてみると……そこには予想通りのイヌ派ハーフエルフ、アルバレス侯爵家の公子様らしいアティリオが、腰を屈めてユーリに向かって手を差し出してきていた。
バッチリと、彼と目と目が合うと、アティリオは何かに気が付いたように、目を見張る。
「君は……」
まずい。まずいまずいまずい!
ただ今ユーリは、カルロスやシャル、エストやベアトリスなど、結果的にアティリオへの牽制となり、ユーリの身を守ってくれるであろう人々の庇護下から外れた、単独行動中である。
今、アティリオに捕まえられたらユーリはどうなるのか? 考えるまでもない。……撲殺、だ。
命が懸かっているのだ。ぐずぐずと迷っているヒマは無い。即座にユーリは地面に落ちた荷物を全て拾い上げて素早く立ち上がると、アティリオからクルリと背中を向けて、裏路地へと身を踊らせ全速力で逃走を図った。
「なあっ!? こら待て!」
背後からアティリオの怒声が響き、即座に追い掛けてきたらしき足音が聞こえてくる。
ひ~んっ!?
死に物狂いで走りながらも、ユーリはどうしてこんな目にーっ!? と、嘆かずにはいられないのであった。