飼い主様、事件でやんす!
ユーリは居心地悪くシャルの腕の中でもぞもぞしていた。
のんびりとした道中を経て、昨夜遅くに一家は王都にあるパヴォド伯爵家のお屋敷に到着し。
今夜はシャルさん来ないのかな? まだかな? などと、ソワソワしながら待ち侘びるも結局同僚の訪いは無く。そのまま夜は更けてゆき、諦めてエストのお部屋の長椅子を占拠してぐっすりと眠っていたユーリだったが、朝も早くからセリアに抱き上げられて目を覚ましたのであった。
そして連れて行かれたお部屋、応接間にて、彼女は主の元へと返されたのである。
どうやらカルロスやシャルが来訪した時刻は、貴族階級の常識からすると非常識なまでに早い時刻であったらしい。
伯爵閣下やレディ・フィデリアはまだ寝室であるし、エストですら朝のお支度を調えていない。
という訳で、パヴォド伯爵家お抱え魔法使い的な、どうも多少特殊な立場であるらしいカルロスを出迎えたのは、本日も早朝から暑苦しくも生真面目に朝の鍛錬を行っていたグラのみ。
ユーリを腕に抱き、ネコ耳をつんつんとつついてちょっかいを出してくるシャルの手にネコパンチをお見舞いしつつ、ユーリは片方の前足でしっかりとぬいぐるみを抱き締めたまま、カルロスの背中を見つめた。
グラと挨拶や当たり障りの無い世間話を交わしている主は、どことなくよそよそしい。それはグラの方も同様で、妹であるエストとカルロスの親密さを考えると、やけに他人行儀である気がする。
むむむ……ぐらぐら様って、エストお嬢様と主の関係にあまり賛成ではないのでしょうか。単純に、誰にでもあんな風に素っ気ないのでしょうか。
「それでカルロス、仕事の方は順調か?」
「はい、お陰様で。有り難い事に、私を指名して下さるご贔屓の顧客もついてきております」
ここ数日間身近に接してきた公子様だが、思えばグラの笑った顔は見た覚えが無いなあ……などと考えているユーリのネコパンチ攻勢をものともせず、ネコ耳をみよんみよんと引っ張るシャル。
思索や観察の邪魔をしてくる同僚の腕を、ていていていっ! と、遠慮無く肉球で連打しつつ、主の背中をジーッと眺める。グラと会話する際のカルロスは、伯爵閣下と対面している時と同じように口調が改まっていて、両者の距離感は広そうだ……などと感じてしまう。
そんな事を考えているユーリの尻尾を、肉球連打になど痛痒を感じない様子で、しつこく撫で下ろしてくる同僚……
ええいっ! シャルさんさっきからなんなのですかっ!?
「お待たせしましたわ……あら?」
「フシャーッ!」と、威嚇的な鳴き声を上げつつ、ベシベシッ! と、シャルの顎にネコパンチを繰り出すユーリに、カルロスとグラがギョッとしたようにシャルの方を振り向き、それと全く時を同じくして軽やかに応接間に姿を現したエストは、いつも大人しいユーリの珍しい威嚇の声に、驚いたように首を傾げた。
「ユーリさん、下からアッパーは流石に痛いです」
ええいっ、さっきから止めて下さいって行動で示してるのに、執拗にざわざわしてくるシャルさんが悪いんでしょうがっ!
ユーリのネコ耳や尻尾を弄り倒していた手で、わざとらしく顎を撫でさするシャルに、彼女は「みゃみゃっ!」と、嫌なものは嫌であると示した。
「まあ、どうしましたの、ユーリちゃん。またシャルに苛められましたの?」
ユーリは居心地の悪い同僚の腕の中から、心配そうに歩み寄ってきたエストの腕の中へと、ぴょんと飛び移った。
「みぃみぃ」と朝の挨拶代わりに擦り寄って喉から甘えた鳴き声を出しつつ。やはり、エストの腕の中は安心する。
エストはユーリの頭を撫でてやりながら、
「もう、シャルはまたユーリちゃんに意地悪したのね。
カルロス、まだわたくしがこの子を預かっていましょうか?」
「いえ、エステファニアお嬢様、わたしは苛めてなど……」
厳しくキッ! と見据える無力である筈のエストの眼光に、とってもお強い筈の天狼さんは、気まずそうにたじろぎつつもごもごと口ごもる。
カルロスはシャルの頭をぐしゃぐしゃとかき乱すと、
「まあそう言ってやるな、エスト。シャルは多少ユーリを構い過ぎただけで悪気はねえよ。
もうしねえから、許してやってくれ」
苦笑気味にエストに執り成し、後半はユーリに向かって同意を求めてきた。
シャルさんはもう少し、小動物と接する時には加減というものを覚えて欲しいものです。
そう呆れつつも、シャルの抱っこは警戒してご主人様の腕に飛び乗るユーリである。
「……ネコという生き物は、やはりどうも落ち着かん」
黙して一同のやり取りを眺めていたグラは、低い声音でポツリと呟いた。
ユーリのご機嫌の起伏の激しさに、見た目が可愛いという感覚より何より、面倒臭いという実感の方がより強く感じ取れるらしい。
伯爵邸にて住み込みで働く使用人さんの為の一室をお借りして、こっそりと人間の姿に戻ってもぞもぞとお着替えをしながら、ユーリは小さく溜め息を吐いた。
自己嫌悪から、久々にお洋服を身に着ける機会であるというのに、ちっとも気分が向上しない。
“反省したなら、もう二度と同じ轍は踏まなきゃ済む話だ”
はい……申し訳ありません、主。
不意にカルロスからテレパシーが伝えられてきて、ユーリは心の中で素直に謝罪した。
シャルの気紛れなちょっかいに憤慨して癇癪を起こし、殴りつけた挙げ句にまたしても関係険悪に……自分は全く成長していないではないか。
ユーリは同僚と意志疎通が可能なのだから、彼にネコの扱い方を言葉で伝えてやんわりと窘めるべきであったのだ。それが大人の対応というものであろう。
うう……せっかく主とエストお嬢様の、短くもラブ甘タイムな逢瀬になる筈だったのに……!
バカバカ、私のバカーっ!
ユーリがギャーギャーと怒りを露わにしてしまったせいで、カルロスもエストもユーリを落ち着かせたり、ムッと苛立つシャルを押し止めたぐらいで、ろくに会話を交わすヒマも無く時間切れになってしまったのだ。
“らぶあま……? いや、グラシアノ様が同席なさっている場では、どのみちそんな展開にはだな……”
いいえっ! 空気状態がお得意なぐらぐら様ならばきっと、見て見ぬ振りをして下さると、私は期待しています!
頭から通した細い紐をシャツの襟の下に入れ、ポーラー・タイとして胸元で金具を調節しつつ、ユーリは重々しく頷いた。こちらでは紳士が身に着けるタイにこの手のタイプは存在しないらしく、一見すると風変わりなペンダントのように見えるらしい。
クラバットや他のタイの類いはなんだか息苦しい上に、ユーリには致命的に似合わない。
少しばかり伸びてきた髪の毛を指で梳いて、緩く三つ編みに編むと、子ネコ姿の時にもずっと身に着けていたピンク色のリボンを結ぶ。
「あっ」
髪留め用のゴムを留める際には楽々とこなせていた、そんな些細な身支度であるが、片手で髪を纏めておきながらリボンを結ぶというのは非常に難しい。
あまり時間をかける訳にもいかず、身に着け終えた服が入ったいた布袋にぬいぐるみを入れて肩に掛けたユーリは、今日もリボンを片手に握ったままドアを開いた。
「お待たせ致しました、主」
壁に背を預けて廊下で待っていた主人に向かって一礼すると、カルロスは短く「いや」と答えて、あまり待たされてはいないから気にするなと示してくる。
最近、ユーリのご主人様は彼女が人間の姿でも、多少甘くなってきたような気がする。相変わらず子ネコ姿の際のメロメロっぷりは突き抜けているが。
手にしたリボンに視線を落とし、無くさないようポケットにでも仕舞おうとしたところで、ユーリの指からスルリとそれが引き抜かれた。
そちらに視線を向けると、彼女の傍らに立った同僚は相変わらずむーっと眉をしかめつつも、ブラシで軽く彼女の髪を梳き、右サイドに纏めてリボンを結んだ。その可愛らしい蝶々結びは、相変わらずの早業である。
「……ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
重たい口を開いてなんとかお礼を口にするも、やけに気まずくてシャルの顔を見上げる事が出来ない。これで、『私はシャルさんとお揃いじゃなくて、三つ編みが良いんです!』などと言い出そうものならば、更に関係が険悪化しそうだ。
ごめんなさいと謝らなくてはならないのに、どうしてもシャルにそう素直になれない。
シャルさんってもしかして、いつもブラシを持ち歩いているんですか? という軽口を言い出して笑い飛ばす事すら上手く出来ない。
「さて、それじゃサッサと行くか。あんまり長居も出来ねえしな」
もじもじと気まずい沈黙を保つユーリの頭をポンと軽く撫で、カルロスが踵を返して歩き出してしまうので、ユーリは慌ててご主人様の背中を追い掛けた。シャルは当然のようにカルロスの右斜め後ろに付き従うので、ユーリは何となくカルロスの左側の半歩後ろを歩く。
シャルとは微妙な距離を開けて並んで歩いているようなものだが、ユーリがそちらにチラチラと視線をやってみても、シャルはいつもの何を考えているんだか不明な微笑を浮かべたまま真っ直ぐ前を向いている。
廊下を歩きつつ、ユーリはキョロキョロとあちこちを見回して観察してみた。普段、主人である伯爵家の方々やお客様が入り込む事の無い裏方に当たる場所であるせいか、この棟は飾り気も少なく非常に質素だが、隅々まで掃除が行き届いていてとても清潔な印象を受ける。庭が見える窓にはガラスが入っていて、非常に明るい。こちらの世界ではガラスは高級品らしいが、炎系魔術を扱う術者が比較的安価で販売しており、バーデュロイの王都では一般市民の家でも窓にはガラスが入っているとか。しかし防犯上の観点からみると脆いせいか、窓ガラスはヨソの地域の民家では普及していない。
グリューユの森の家に窓ガラスが入っていないのは、あの僻地に職人さんを呼ぶのが面倒だかららしい。
正面の玄関ではなく、通用口に向かっているらしきカルロスの後をついて行きながら、あちらこちらに視線をやっていたユーリは、通り過ぎた廊下の向こうに見知った人物の姿を認めて、目が合ったのでぺこりと小さく会釈をした。苦々しい表情でこちらを睨むように眺めてきていたおじ様執事さんは、忙しいのかスッと身を翻して廊下の奥へと姿を消す。彼が向かった方向は、伯爵家一家が生活する本邸になる。
あの方、結局普段は何をなさっていらっしゃる方なのでしょうねえ……常にぐらぐら様のお側に付き従っていらっしゃるでもなし。
主を頻繁に睨んでいらっしゃるようですし、やっぱり『エステファニアお嬢様に纏わりつく害虫がっ!』とか思っていらっしゃるんでしょうか。
「ほらほらユーリさん。そうやってぼーっとしているようなら、遠慮なく置いていきますよ。
本当にあなたは鈍臭いですねえ」
おじ様執事さんの背中を眺めてそんな疑問を抱きつつも、シャルからそんな嫌味を飛ばされて、ユーリはムッとそちらを睨み付けた。
「私が鈍臭いんじゃなくて、シャルさんがせかせかし過ぎなんですー。
もっと私の足の短さを考えてから発言して下さい」
「ああ、あなたは短足ですものね。これは失敬」
「え~え、私は短足ですよ?
シャルさんの本来のお姿のおみ足より、ほんの手の平半分長いぐらいしか無い短さですからね。おほほほほ」
レディ・フィデリアの笑い方を真似て、口元に手の甲を添えてお上品に笑い声を響かせてみたところ、同僚の顔に普段から張り付けられている微笑みの仮面に、ピシッとヒビが入ったような気がしないでもない。
嫌味に嫌味を返せるようにはなってきたようであるが、ユーリが目指すべき成長の方向性としては、何かが間違っているような。
「ぶぶっ」
「……マスター……」
そして、そんなチクチクとしたやり取りを交わすしもべを引き連れて街中に繰り出すべく通用口をくぐったカルロスは、シャルとユーリの会話に耐えきれなくなったのか、口元を押さえて吹き出した。笑いの発作を懸命に堪えているせいか、その肩はプルプルと震えている。
そんな主人の楽しげなご様子に、シャルは恨めしそうに呻く。
「ま、まあ女って生き物に口ゲンカで勝つのは難しいもんだぞ、シャル?」
バシバシとシャルの背中を叩きながら、遠慮なく大笑いし始めたカルロスの態度から考えると、どうやらユーリの成長はご主人様的に喜ばしい類いの育ち方であるようだ。