5
ユーリは自らの身を両手で眼前に持ち上げているシャルを見返し、溜め息を吐いた。
だいたいシャルさんは私に吐いた暴言、まだ謝って下さっていませんしー?
エストお嬢様の側で安全飼いネコ生活中の私が、どうして帰らなくちゃならないんですかねぇ?
「……ユーリさんも、相当意地が悪いと思います」
ユーリのにっこり笑顔での嫌味に、シャルは苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべる。
シャルさん、悪い事をしたら『ごめんなさい』はしなくちゃダメですよ?
「言い過ぎてごめんなさい」
はい、良くできました。
むーっと頬を膨らませながらも、謝罪の言葉を口にするシャル。ユーリの前足が届く範囲である前髪を再び軽く撫でてやると、胸元にギュムッと抱きすくめられた。
流石はあの主人に長年仕えてきただけあって、照れ隠しにしてもその抱擁は半端なく全力である。「ぐぇ~」とくぐもった呻き声を上げつつベシベシと殴りつけ、ようやくその力が緩められた。
やれやれ。これでめでたく喧嘩両成敗ですね。
抱きすくめる力が弱まりはしたが、相変わらずユーリはシャルの裸の胸元に抱っこされている。彼が肩から掛けていた筈の巻き付けていた黒っぽい外套は、床に滑り落ちて久しい。
恋しい人の胸に抱き締められる、なんて。ただでさえ落ち着かない状況であるというのに。せめて露わになっている素肌を隠すぐらいの気遣いをして欲しいものだ。
「では、家に帰りましょう」
だから、仕事があるから無理です。
ユーリを胸元に抱いたまま嬉々として立ち上がるシャルに、彼女はベシベシベシっとその腕に肉球連打をお見舞いしつつすかさずツッコミを入れた。
帰宅拒否されたせいか連打攻撃を食らったせいか、不満げに眉をしかめたシャルは、不意に何かに気が付いたようにハッとした表情を浮かべ、寝室の方に視線を向けた。
「水音が……エステファニアお嬢様が、入浴を終えられたようですね。
では、わたしは帰りますが……本当にユーリさんは一緒に帰らないのですか」
帰りませんて。
鍵が掛かった室内から、突如ユーリの姿が消えていたら大問題だ。
エストに非常に心配をかけてしまうだろうし、カルロスの事情でユーリはエストの下に預けられたのだから、無断で帰宅など言語道断だ。
「……分かりました。
では、明日もまた来ます」
エストやセリアが浴室から出たせいか、シャルはユーリの耳元に唇を近付けて微かな声音でそう囁くと、ペロリとそのネコ耳を一舐めしてから彼女を床に下ろし、拾い上げた外套の前後をバサリと逆向きに羽織った。
シャルさん……その格好はやっぱり私のツッコミ待ちですか?
それともその創意工夫っぷりに、私は感じ入るべきですか?
「仕方がないでしょう、わたしの翼は背中から生えているんですから」
喉元で留める外套のボタンを背中で留めるとあら不思議。背中だけ丸空きな、照る照る坊主シャルの完成だ。明日も晴れるだろうか。
背中が丸見えのシャルは窓に近寄り、中庭の様子を見下ろして見回りが回っていない事を確認すると、窓枠に足をかけた。同僚を見送る為に、再び窓の下の絨毯にちょこなんとお座りしているユーリにシャルは顔だけ振り向き、そっと呟いた。
「お休みなさい」
はい、お休みなさいシャルさん。
いつもの、何を考えているのか分からない笑みではなく。本当に嬉しそうにシャルはふわりと笑い、身を屈めてユーリの頭を優しく一撫でする。
そして彼は窓から飛び出し、一瞬にしてその背には純白の翼が広げられた。バサバサと力強く羽ばたいてゆく彼の羽音に気が付いた者が頭上を見上げても、最早はその時には既にシャルは遠い夜空の彼方だ。
白い翼は本当に綺麗なんですけどねえ……あの、照る照る坊主的外套の下はズボンしか着てないとか、その実態に思い至ると雰囲気台無しになるのが天狼さんの天狼さんたる所以なのでしょうか。
『何かちょっと、やり取りが甘くなかった~?』などと、主からニヤリとからかわれそうなお休みの余韻の照れ臭さを誤魔化すべく、違う方向に焦点を当ててみるユーリである。
窓枠にひょいと飛び乗って夜風に吹かれると、先ほどまでは止んでいた虫の音が届く。
「ユーリちゃん、お待たせしましたー!」
ふと気が付いた事実に、んん? と首を傾げつつ窓の向こう、シャルが飛んでいった夜空を眺めていたユーリだったが、突如として寝室と居間を繋ぐドアが開かれて、彼女はキョトンとそちらに首を向けた。
輝くような笑顔を浮かべたセリアが、ユーリの側へと歩み寄ってくると、彼女を両手でひょいと抱き上げる。
……セリアについてを問い詰めてないだとか、いったいいつからユーリの様子を窺っていたのだとか、明日も来るって明日はアルバレス侯爵家の居城にお泊まりですが本当に忍び込む気ですかとか、今更シャルに問いたい疑問が湧き上がってくる。
しかし、そんな懊悩を抱えているユーリをヨソに、セリアはエストの休む寝室へと足を踏み入れ、部屋の主人であるエストはフカフカなクッションに腰を下ろしていて、自らのメイドとネコに微笑みかけてきた。
寝る前であるからか、当然寝間着である。ユーリはさり気なく湯上がりのエストから視線をズラした。
エストは、何やら木製の箱や布の袋の中身を探って銀色の布地と針と糸を取り出しているところであった。あの箱はソーイングセットらしい。
「あら、ユーリちゃんはこれが気になるのかしら?
ふふふ、実はあなたへのプレゼントなのだけれど、出来上がりまでまだ内緒よ?」
エストの手やソーイングセットの方に重点的に視線をやっていたら、彼女は製作途中らしき作品を背後に隠して楽しげに笑う。
うーん、私、こちらの世界に来てから、誰かにプレゼントを貰ったのってエストお嬢様からばかりな気が。有り難い限りです。
私もお嬢様へお誕生日プレゼントぐらいは用意したいものですが、子ネコ姿で用意出来る品って何でしょう……
「ではお嬢様、浴室お借りしますね」
「ええ」
むむむ……と、考え込むユーリはさておき、寝室の更に奥まった位置にある、エストが先ほどまで使っていた浴室へと足を踏み入れたセリア。
考え事に没頭していたせいで、メイドさんにいそいそと連れ込まれたユーリは、盥に湯が張られる水音でようやく我に返った。
焦る要因であるセリアの着衣だが、彼女はメイド服のままだ。主人が深い罪悪感を抱く要因にはなり得ないようだと、ホッと安堵の吐息を吐く。
どうやら彼女は、ユーリをお風呂に入れて下さるおつもりらしい。
「さ、ユーリちゃん、キレイキレイしましょうねー?」
はあ……こんな姿のせいでお手数をお掛けしますが、よろしくお願い致します。
盥に張られたお湯を使って、丁寧な手付きでユーリの黒い毛並みを洗うセリア。
余計な手間を掛けているのだからと、大人しくじっとされるがままになって万歳したり何故か肉球をくにくにされつつ。
セリアが石鹸を泡立て始めると浴室内にふんわりと立ち上る香りに、ユーリはふと気が付く。グリューユの森の家でカルロスが好んで使っていた石鹸だ、と。
主……主のお手製香水で包むだけではなく、入浴で使う石鹸まで同じ物を用意して、眠る時に身に纏うのはお揃いの香り(はーと)とか……! もうどんだけあなた様はラブラブなんですか! ヤバいです主! 離れていても私のあなた様への崇拝度数がグングン上昇とか!
てゆかセリアさんも、エストお嬢様の愛用品の石鹸を私に使わないで下さいな!?
「あら、やっぱりユーリちゃんもこの石鹸好き?
そうよね、あなたのご主人様のカルロスさんが作った石鹸だものね」
大人しくされるがままになっていたユーリが、石鹸の香りを嗅ぎ取るなり「みーみー」と鳴き出して、セリアはにっこりと笑って「グッジョブわたし!」とか言っている。
「よく知っている香りの方が、やっぱり嬉しいものねー?
ふふ、ユーリちゃんすっかりご機嫌ね」
……すみません、セリアさん。これはご機嫌な鳴き声ではなくてですね。
飼いネコが自分の気に入りの石鹸を使ったところで、エストはさして気にしないのかもしれないが、ユーリの主は非常にロマンチストである。
セリアの手によって隅々まで洗い上げられつつ、ユーリは泡が入らないよう目を瞑って、この後カルロスへとどんな情報を伝達するべきか、今後の現在の自分を取り巻く状況について考えてみた。
主の様子や、一般の村人の皆さんの服装からして、こちらの世界では女性は男性の前でみだりに足をさらけ出さないのがマナーなのですよね。
“……”
日本ではこう、『巨乳』『爆乳』『美乳』という単語があるのに対し、美しい足を称える二文字に関しては『美脚』ぐらいしか思い付かない事からも、恐らく日本人男性は『足よりも胸!』を好む文化だと思われるのですが。
“……”
バーデュロイの貴族女性の夜会服は、胸元が大胆に開いているんですよねえ……エストお嬢様も、実にけしからんモノをお持ちでした。思い出すだにけしからんけしからん。
“さっきからお前は何が言いたい”
何気に考え事をしている最中に、主人へとテレパス回線を繋ぎたい時と同じぐらい、うっかり強く念じてしまっていたらしい。
セリアの手によって盥のお湯を流し掛けられつつ、ユーリは真剣に自らの主人へと問うた。
主、エストお嬢様のお寝間着を拝見して、ついでに添い寝してもようござんすか?
“……”
因みに伯爵家の居城に預けられた初日である昨夜はどうしていたのかといえば、ユーリはお城に着くなり泣き疲れて早々に眠ってしまい、目が覚めたら城主達の出発に向けて慌ただしい明け方前だったので、エストは早々に起き出して支度を整えていたのだ。
間違い無く、お嬢様の素足や足首やふくらはぎや、エストお嬢様の寝相によっては膝だって視界に収める事になりますが……
ああそれに、きっと薄ーい布地でしょうし、抱き締められたらエストお嬢様のけしからん膨らみにしっかりと押し付けられてしまいますねぇ。
“~~~っ!? ぜってー添い寝なんぞするなこのアホネコがっ!”
そのように怒鳴り散らしつつ、カルロスからのテレパス回線はブチリと途切れた。
何も知らないセリアは、相変わらず優しい手付きでユーリの全身の泡を流すと、ふっかふかのタオルで水分を拭ってくれる。
エストお嬢様の寝間着姿を見てもダメとは、念押しをなされませんでしたねぇ。殿方とは本当に悲しいサガをお持ちです。
ふ……と、自らの主人の可愛い純情っぷりに微笑ましさを抱きつつ、主の願い通りになるべくエストの寝間着姿からは視線を外し、寝台に誘う愛らしいお嬢様の声を断腸の思いで振り切り、寝椅子の上で丸くなるユーリであった。
移動初日、本日エストお嬢様の周辺に特に異常は無し。
パヴォド伯爵に逆恨みを抱く輩からの嫌がらせ及び、工作の気配無し。
エストお嬢様が共に寝ようと寝台に誘うお声を、サービスで思い返して差し上げつつ……以上、ユーリより我が主へ、本日の最終報告です。




