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「いったいあなたは何がしたいのですか?」
無人である居間にあって、ひたすらに子ネコ姿でのユーリの行く手を阻む、憎たらしい天敵を睨み据えていた彼女に向かって、背後からそんな呆れた声がかけられた。因みに何をしていたかと言えば、新たなる強敵に名付けるべく思索していたのだ。
この場に居る筈のない人物の声に、ユーリは慌てて窓の方を振り向く。
そこには予想通り、距離の制約なんてなんのその、な、行動範囲の広さとフットワークの軽さには非常に定評のある同僚が、普段着のズボンに、何故か上は黒っぽい外套を翼を羽ばたかせる分には邪魔にならぬよう両手で無理やり巻き付けるという、ファッションとしては微妙なるセンスでの組み合わせな『天使様』バージョンにて、窓の外で純白の翼をバッサバッサと羽ばたかせつつ、優雅に滞空なされていらっしゃった。
しゃ、シャルさんダメ!
今すぐ部屋に入って下さい!
「はい?」
大慌てで窓辺にまで駆け寄り、焦って辺りを見回しながら室内への侵入を促すユーリに、シャルは実に不可解そうな表情で首を傾げる。
エストお嬢様におかしな噂が流れますっ。乙女の機微を察してぇぇぇっ!
ユーリの悲鳴にやれやれとシャルは肩を竦め、その足を窓枠へと掛け、そのまま室内に……入ろうとしたところで、相変わらず翼の部分だけ横幅が合わず、ドガッとつっかえて止まった。彼の翼は、人を乗せて運べる事からも察して頂きたいが、飛翔する為に広げている状態ではかなりデカい。
……
「……」
無言で両者の視線だけが絡み合う、しばしの沈黙がその場に降りる。
……シャルさん、もしかして今、何気にツッコミ待ちですか?
それとも必ずつっかえなくては気が済まないとか、シャルさんなりの様式美でもお持ちなのですか?
窓辺の床、フカフカ絨毯の上にお座りして尻尾をゆらゆら揺らしつつ同僚を見上げるユーリは、静かに口を開いて問い掛ける。
それにシャルはぷいっと顔を背けつつ翼を消し、ヒョイと居間の床に降り立った。
「……どうせわたしは、光を大いに反射して夜でも悪目立ちな全身銀色の毛並みに真っ白な翼で、その上ガタイも大きいし。
ええ、ええ。隠密行動なんて全く向いていませんよ。何か文句でも?」
エストお嬢様のお部屋の窓の鎧戸が突如壊れていたら、謎の敵襲や侵入者に、お屋敷中上へ下への大騒動が勃発する事必至です。
拗ねたように唇を尖らせつつ言い返してくるシャルに、ユーリは追撃の一手を放つ。
どうやら、イヌバージョンではなくわざわざ『天使様』バージョンで飛んできたのは、少しでも人目を引かないよう苦慮した結果らしい。シャルはシャルなりに天狼と人間の生活で、ユーリとは正反対の苦労を味わっているようである。
即座に窓の外を確認した彼は、ホッと胸を撫で下ろした。
「なんともなっていません」
確認が出来たなら、なるべく窓から離れて下さいよ。見回りに見つかります。
やれやれ一安心と笑顔を取り戻すシャルのズボンを噛んで、くいくいと奥へと引っ張るユーリを拾い上げた彼は、居間の絨毯のど真ん中に座り込んだ。
同僚の真正面に下ろされたユーリは、ちんまりとお座りし、改めてシャルを見上げる。
急を要するハプニングが解決してしまうと、喧嘩別れしたシャルと、何を話せば良いのかサッパリ分からない。
えー、では改めまして。今晩は、シャルさん。
「……はい、今晩は、ユーリさん」
挨拶を口にしたら、いきなり次なる会話への弾みが途絶えた。
まさか、シャルがこの別荘に姿を見せるなど、予想外だったのだから仕方がない。
だがもしも、ユーリがしばし距離を取らず、あの家の中でカルロスの影に隠れてばかりいて、シャルから離れて過ごさなければ。こんなに早く彼ともう一度向き合って、話そうとする勇気はなかなか持てなかった筈だ。
可愛い子には旅をさせろという格言があるが、主人の選択も似たようなものだったのだろうか。
シャルさん、手、叩いちゃってすみませんでした。あと、嫌いって叫んだのも……
シャルがなかなか口を開かないので、ユーリは勇気を出してぺこりと頭を下げ、真っ先に謝るべきであった過失を謝罪した。
彼が何を言い出そうと、話し合いを拒絶する姿勢を最初に示したのはユーリの方なのだから、これは自分から撤回していくべきだと感じたのだ。しかし、謝れたのは良かったが、次なる言葉が浮かばない。
「……マスターが」
話題に困って言いあぐねているユーリよりも早く、シャルが口を開く。
「マスターが仰るには、ユーリさんは溜め込む傾向があって、わたしは一方的にぶつける傾向があるのだそうです」
どうにも彼の発言は曖昧だが、ユーリが知らぬ間に、シャルもまたカルロスからお叱りを受けたのだろう。
「この世界でわたしと同じ立場にいるのは、あなたしかいません。初めて対等な感覚を覚えて、わたしは無意識のうちに、あなたにばかり甘えとストレスをぶつけていた……のだそうです」
シャルが語る客観的なその見方は、恐らくカルロスの言なのだろう。
ユーリは小さく小首を傾げた。
その感覚は、私にも覚えがありますよ、シャルさん。連盟の本部の中で逃げ惑っていた最中に、『私だけ異物だー。いやいやシャルさんが居るなあ』といった気分をですね。
シャルはユーリの言葉に小さく苦笑する。
「なるほど……マスターが仰る通り、本当にユーリさんは理解していても、わたしは分かっていなかった事が多いのですね」
主から何か、厳しいお叱りでも賜りましたか?
上からの辛い評価に、慰め励ましあうのも同僚の役割であろうと、ユーリがおずおずと促しつつシャルの膝に前足を軽く置くと、彼は爽やかに笑った。
「マスター曰わく、『この激ニブでノータリンのアホイヌがっ! 女を苛めて泣かせる男の風上にも置けんアホは、去勢して元の世界に放り出すぞボケがっ!』だそうです」
いや、シャルさん。ソレ、笑い話として明るく爽やかに語る内容じゃないですよね?
主ってたまに、イエローカードな暴言吐きますねぇ……
「ユーリさんの場合は、子ネコ姿の方が饒舌ですよね」
唖然として感想を漏らすユーリに、シャルがそんな言葉を口にする。
……え、そうですか?
「ええ。わたしはユーリさんの短い鳴き声に凝縮された意図を汲み取っているから、人間の姿でいる時よりも多弁に感じるのだと思います」
ふ~ん……確かに、色んな気持ちを込めていても喉からは『にゃ~』としか出ませんが、元の姿だと頭の中で言いたい事を纏めるのにも、舌に乗せるにもタイムラグが生じますものね。
「ユーリさんは、もっと自分の気持ちを喋るべきです。
どうせわたしは、あなたよりも頭が悪いそうですから? 言われなくてはさっぱり分かりません」
唇を尖らせつつのシャルの言に、ユーリはぶぶっと吹き出した。
ははあ……さてはシャルさん。
今夜急に現れたのは、主に叱られてムカっ腹が立ち、衝動的に家を飛び出したのは良いけれど、真夜中で行く当ても全く思い浮かばなくて、ヨソに出張中の同僚である私のところに無意識のうちにやってきた……と。
「……見てきたかのように、ズバッと言い当てないで下さい。さては、マスターから思念でも飛んできましたか」
いいえ~? 単に、多感なる青少年の行動パターンを私なりに分析した推論です。
にまにまと笑いを含みながらのユーリの言葉に、シャルはむーっと不機嫌そうな表情を浮かべ、ユーリのネコ耳を指先でぐにっぐにと弄る。
痛い痛い、何気にソレ痛いですから、シャルさん。
文句を口にしながらも、ユーリは腹の底から喜ばしい気分が湧き上がってくるのを感じた。
主人であるカルロスから叱責を受けて家を飛び出し、咄嗟に思い付いた行く当てがユーリであったという事は。この同僚は口にこそ出さないが、カルロスの次に信頼しているのは必然的に彼女である、という事になる。
家からこの別荘まではそこそこ距離がある筈なのに、途中で思い止まらなかっただなんて、それほどシャルは内心ではユーリに『甘え』ている部分があったのか。
「ユーリさんなんて、いつも自分1人だけ何でも分かってます、って顔をして」
「みぎゃっ!?」
不意に両手で掴み上げられて、おもむろにはぐはぐと、シャルに弄られていた耳を噛まれた。加減されているのか痛みは全くないが、相変わらずこれは心臓に悪い。
夜道を飛んできたせいで、シャルはまたしても空腹なのだろうか。しかしユーリは何も食べ物を持っておらず、何気に激しく生命の危機だ。
そ、そういえばシャルさんはどうやって私達がこの別荘に泊まる事を突き止めたんですか!?
空腹感を覚えているらしい肉食獣の意識を逸らすべく、ユーリはそこそこ気になっていた点を尋ねてみた。
シャルは子ネコな同僚の片耳を解放し、
「パヴォド伯爵閣下が王都へ向かう際の旅程は、マスターと共に護衛として加わった事もありますから。例年の傾向からして、今年はこちらのアルバレス侯爵領を通過するだろうと。
後は、知っている人間の匂いを辿りました」
どうだ、どんぴしゃだ。凄いだろうと言わんばかりに胸を張るシャル。
シャルが護衛をするなど、まず伯爵家の馬車の馬が怯えて大変だと思うのだが……ああ、いつぞやのフィールドワーク中と同じく、シャルだけ空を飛んでいたのか。
ユーリは前足を伸ばして、ギリギリ届いたシャルの前髪を撫でてやる。
あー、シャルさん偉い偉い。凄い凄い。
……って。あるばれす、こーしゃくりょー?
やけに聞き覚えのある単語に、ユーリは自分の表情が引きつるのを感じた。
「マスターや師であるベアトリス様が、我々をイヌやネコとして持て囃す事を『そんなものは所詮偽物だーっ!』と苦々しくお考えの、アルバレス様のご実家ですね」
ああ……エストお嬢様とアティリオさんは、結局どういう関係なのかと思っていましたが……実家の領地が隣接してたのですね。
アティリオに関しては、ユーリとしては『なるべく関わり合いになりたくない』というのが本音だ。
向こうも、魔術師のフィールドワーク中に非情な手段を駆使してでも、積極的に攻撃してこようとしなかったところから察するに、彼の心中としては複雑なのだろう。例えどんなにシャルやユーリにたいして、アティリオが不満をぶつけようともカルロスが決して、アティリオを排除しようとしないように。
彼らは自らの信念こそ分かたれたが、その奥底では友人同士でもあるのだから。
シャルがその気になれば、アティリオなど簡単に血祭りに上げてしまえると、本人も認めていたぐらいだ。闘争派な肉食獣である同僚が今まで見逃していた理由など、『カルロスが望んでいないから』興が乗らないとしか、想像がつかない。
と、思索に耽っているユーリのヒゲを、シャルがむにっと軽く引っ張る。
痛みに我に返り、人のヒゲを勝手に摘まんでいるシャルの指先に、無言のままネコパンチをお見舞いした。
「ユーリさん、また黙り込んでいますよ。1人で考え事をするのなら、このまま持ち帰っても構いませんね?」
持ち帰り? って……グリューユの森にですか?
いや、まだ私、お仕事中なのでダメです。
きっぱりと断ると、シャルは再びむーっと不満そうに睨んでくる。
そんな顔しても、ダメですって。
シャルさん……意外と甘えっ子さんですか。それともクールダウン期間を経て、おもむろにツンデレのデレ期に突入ですか?