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このままじゃ駄目だ。早く一人前にならなくちゃ。と、思い立ち。自らの適性と合致するであろうお仕事に取り掛かり、ひとまずエストの側で周囲の様子をひたすら観察しているユーリであるが。
相変わらず子ネコ姿のまま窓枠の上にお座りし、ガラスが入っていない窓の向こう、日も沈んで風景に溶け込む森は薄暗く、見上げれば満点の星空と流れゆく雲は月に掛かり、時折細やかな虫の鳴き声が耳に届く。
そんな静かな夜の景色を眺めつつ、ユーリは溜め息を吐いた。
そして、クルリと振り向いて室内の様子を観察する。
「さあエストお嬢様! 気合い入れてドレスアップしますよー!」
「セリア、今夜は家族だけで晩餐なのだから、そこまでめかし込まなくても良くはない?」
「そんな油断はいけませーんっ!
よろしいですか、エストお嬢様? 美の道は日々の努力によって磨き上げられていくのです!」
「セリアはお洒落の話になると、人が変わるわね……」
今のところは、何らかの危険が予想される仕事内容ではなく、『エストお嬢様のお側に侍り、アニマルセラピー的に癒されて頂こう』の、真っ最中だ。
現状は特に、何か主にお伝えしなくてはならない情報もありませんねえ。
恋敵出現!? とか、閣下からの緊急呼び出し! とか。そういったドラマティック展開は、そうそう起こらないものです。
それにしても。向いてるとか、そういう事は取り敢えず置いといて。やっぱり私……好きか嫌いかで言えば、ヨソにお出掛けしてのお仕事よりも、在宅の作業の方が安心します、主。
お仕事なのだから選り好みなどすべきではないが、こういった苦手意識の克服もまた、ユーリに与えられた課題ではある。
現在エストの寝室では、セリアがどばーっと広げたドレスを選定したお嬢様が、疲れた様子でコルセットの紐を絞り上げられ、ようやくドレスを身に着け終えていたところであった。因みにアレは医学的観点から見ると、かなり体に悪いらしい。締め付け過ぎていなければ良いのだが。
化粧台の鏡の前の椅子に腰を下ろし、お化粧を始めたエスト。
それに一つ頷いたセリアは、クルリとユーリの方に向き直ってくる。
「さあユーリちゃん、どのおリボンが良いか選び終えられたかなー?」
そう言って、宝石でも乗せるような赤いビロードが敷かれた小さな台をユーリの眼前に差し出してくる。
セリアの台詞通り、そこに並べられているのは色とりどりのリボンなのだが……それには全て、重たそうな宝石が飾られている。
そんな高価なアクセサリーを平然と示してくるセリアに、思わず後退るユーリ。
あれはどうやって縫い止められているのかは知らないが、重さでリボンから、もしくはリボンごとおっこちたり、それによって傷が付いたりひび割れたりでもすれば、とてもではないがユーリには弁償出来ない。
「晩餐に出るのだから、ユーリちゃんもしっかりドレスアップしなくてはね!」
ひぃぃぃぃっ!?
に、人間は分相応という言葉を、しっかり弁えておくべきだと思いますセリアさんっ!
予想外なところで、高貴な人種に飼われるネコの実態を知ったユーリは、庶民的人間としての心情を覚えてすっかり逃げ腰。
笑顔で台を近付けてくるセリアと、警戒心も露わにジリジリと後退るユーリ。
窓から外へと飛び下りて逃れようにも、この別荘でのエストの私室は防犯上の都合でか、三階にある。逃げ場は徐々に失われてゆく。
夜の涼しい風が時折吹き込んでくる、それはまさに互いの信念と威信を懸けた、緊迫した無音の攻防戦であった。
だがしかし、背後で足の踏み場である幅の狭い窓枠が途切れ、これ以上の後退もままならなくなってしまう。
「セリア、ユーリちゃんにあまり無理強いはしないでちょうだい?」
万事休すか! と、焦るユーリの耳に、化粧台の前のエストからおっとりとしたお声がかかった。
「ですがお嬢様。美の道は一瞬の気の緩みが命取りなのですよ?
連れ歩くネコちゃんも、徹底的に磨き上げなくては!」
唇を尖らせて、セリアは熱弁を奮う。
「愛くるしさを引き立てる小動物は存分に活用せねば!」
「家族での晩餐では、そういった活用は不用なのではなくて?」
「いーえっ!
うちのお嬢様はバーデュロイ一の美少女なのですから、そこのところをまずは身内の方々に改めてしっかりと胸に刻んで頂きましょう! 今後の社交場でも、グラシアノ様にはきっちりとガードして頂かなくてはなりませんし」
エストお嬢様のお化粧の修正を行いつつ、セリアは懇々と諭す。
ぐらぐら様の名前はグラシアノ様なんですねとか、私は動くアクセサリーですかとか、エストお嬢様がバーデュロイ一の美少女って根拠はまさか、若かりし頃の閣下の評判……?などなど、彼女の言い分には突っ込みどころが満載なのだが、ユーリにはそれを口に出す術が無い。お化粧を終えたエストにうっとりして「お嬢様可愛い」と、頬を染めている姿を見るにつけ、セリアはかなり暴走型のメイドさんのようである。
エストの足下にユーリがトコトコと近寄ると、ドレスにネコの毛を付ける訳にはいかないからか、いつもならば胸元に抱き寄せてくれるというのに、お嬢様は彼女を両手で顔の前に持ち上げるのみ。
うーん、確かに夜向けメイクを施したエストお嬢様、滅茶苦茶可愛いです……
「ね、ユーリちゃん。うちのセリア、面白くて可愛いでしょう?」
まじまじと、美少女の風貌に見入っていたところ、エストから小声で悪戯っぽく囁かれた。
……確かに。端から眺めている分には、何やら笑えるタイプのメイドさんですねえ。
主人からそんな評価を得ているとは露知らず、クルクルでふわっふわなエストの髪に慎重に櫛を通すセリア。この国でも、髪を結い上げるのは大人の女性の証らしい。
軽く纏めていたり、丹念に櫛を入れて豪奢な印象を受けるヘアスタイルは頻繁に見掛けていたが、アップに纏めるのは今夜が初めてだとか。
お嬢様の両手からそっと床へと下ろされたので、ユーリは手近な椅子の上に飛び乗り、エストの髪が結い上げられていく光景を眺める。
エストは今年、16歳になる。
そして、カルロスは今25歳。
日本では問答無用で犯罪者扱いであるが、バーデュロイではこの程度の年齢差はさほど珍しくもないらしい。
マレンジスの他の国の事情は知らないが、この国の男性は伴侶を娶る為には一定以上の稼ぎや社会的地位が求められる為、結婚する平均的な年齢は上がるし、女性の方は逆に、適齢期は15歳からと若い。
主、見て下さい。
エストお嬢様の大人の装い、初お披露目ですよ。
“……”
ユーリの方を振り向き微笑むエストの姿を、懸命に主に向けて伝えると、声こそ聞こえないが、テレパシーは伝わったらしき感覚がする。
――なあ、エスト……あまり早く、大人にならないでくれよ?
かつて主が冗談めかして囁いた一言が、不意に蘇ってきて、ユーリは小さくゆっくりと息を吐いた。
エストが大人になるという事は、これから先、本格的にパヴォド伯爵家の看板を背負って、政略の表舞台に乗り込むという事。
ただでさえ、貴族の姫君と一般市民という身分差が横たわる彼らの間には、益々触れ合う事さえ叶わない壁が立ちはだかってしまう。
どれほど願っても、求めても。少女はいつか大人になるし、大人としての振る舞いを要求されるようになる。
カルロスが好きだと、そんな気持ちは『子供の戯れ』として捨て去れと強要されてしまう日が、近いうちにいつか必ずやってくる。
だからこそユーリは誰よりも早く、それこそエストの父であるパヴォド伯爵よりも先に、彼女を愛するカルロスに、大人の装いをしたエストを見て欲しかった。
その手が決して届かなくなる、その前に。
何故に自分まで参加しなくてはならないのか、全く不明な緊張しきりの晩餐を終え、ユーリは再びエストの私室の窓枠に乗っかって窓の外を眺めていた。
相変わらず満天の星は瞬き、先ほどよりも高く昇った月は煌々と輝いている。
そんな静かな夜半は、時折ザアッと吹き付けてくる風が木々を奏でるのみで、静寂を破る音も無く。
照明の一つも無いが、ただ夜を愛でる分には全く不自由は感じない。
ただ今エストは、セリアに世話を任せつつお風呂で入浴中である。貴族のお姫様は、やはり1人ではお風呂に入らないものらしい。
本当のところ、エストはユーリを連れてお風呂に入ろうとしていたのだが、「一緒にお風呂に入りましょうね」と言われて慌ててエストの腕の中から飛び乗りた。
もし万が一、カルロスからの緊急連絡を受けたりした時に、ユーリがエストと入浴などしている最中だったりしたら、うっかりエストの裸体を主人に見られてしまう危険性がある。
というかそんなタイムリーなハプニングがなくとも、後日必要に駆られてユーリの記憶を検索した際に、『ママとお風呂』映像が出てくる可能性が……
覗き見だとかそんなつもりはなくとも、想い人の裸身を見てしまったりしたら。あの妙なところで律儀な上に生真面目な主人が、とんでもなく強い衝撃を受け、罪悪感からしばらく立ち直れなくなるのは目に見えている。
という訳で、ユーリは断固としてエストと共に入浴するのは拒否の姿勢を貫いていた。因みに、着替え中に外を眺めていたのも同じ理由である。
お風呂、という言葉を聞いた途端に腕から逃げ出し、部屋の隅っこに隠れるユーリに、
「やっぱりネコは濡れるのが嫌いなんですねえ」
などとセリアが感心していたが、あくまでもこの子ネコの姿は姿形を真似ているだけであって、その生態まで忠実という訳ではない。ユーリ本人は風呂が好きだ。その点をきっちりと主張したいところであるが、エストにもセリアにも、ユーリの鳴き声の意味はさっぱり通じない。
ふふ……私もお風呂入りたいなあ……
だがしかし、それもこれも全ては主人の為にひたすら我慢である。
エストがお風呂に入ってしまって、手持ち無沙汰になったユーリは、ヒマを持て余して……あ、いや。もう一つのお仕事である情報収集を兼ねて、別荘の内部探検でもしてみようと窓枠から飛び下り、トテテと室内を駆けると、廊下と繋がっているドアの前に座り込んで無言でノブを見上げた。
ふ。流石は我が主がお世話申し上げたお嬢様。ドアはキッチリ閉めて出入りという行動基準を、忠実になぞっておいでですね!
というか、この場合はセリアがずぼらではない、きちんと物事に区切りをつけて仕事に勤しむ、しっかりした人種と考えるべきか。
やっぱり爪を立てる訳にもいかないので、バシバシと肉球パンチを繰り出してみるものの、当然というかなんというか、ドアはびくともしない。
ええいっ。日々、ネコ可愛がり主のスキンシップという名のネコじゃらし追っ掛け障害物競争で鍛えている飼いネコの実力、今こそまさに見せる時!
助走分の距離を取り、後退ったユーリは、全力でドアノブ目掛けてダッシュし、せいやぁっ! と、大ジャンプを行う。
両前足を巻き付けるようにしてノブに抱き付き、ふんぬっ! と、ジャンプの勢いと体重をかけてノブを回……回らない。
あ、あれ?
懸命にノブを回そうと身を捻るものの、それはがっちりと固く、決して動く様子も見せない。
流石に何十秒もドアノブにしがみついてはいられず、ユーリは無様にどてっと床に崩れ落ちた。
そーか。よく考えてみればここは伯爵閣下の別荘であって、「鍵? ここ何年も掛けてねえわ」とか笑い飛ばす、我が主の自宅じゃあないですもんね。ましてや、伯爵令嬢の私室で令嬢本人は入浴中……
それは鍵が掛かっていて当然です!
うんうん、と頷いて納得はいくものの、しっかりエストのお部屋に閉じ込められ状態のユーリは、ドアの前に再びお座りして、がっくりとうなだれた。
伯爵閣下! ネコが飼いたいと思われるのでしたら、お家にはネコドアの設置を切実に希望致します!