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六歳の悠里の日常は、視界がけぶるほどの煙草の煙と、四方八方から発せられるうるさいばかりの電子音、そしてはっきり聞き取れず意味も分からない店内放送に彩られていた。
今日も今日とて、母が走らせる自転車の後ろに座って、連れてこられたのは行きつけのパチンコ屋さん。
毎日毎日、悠里はここでパチンコにハマる母の傍らでウロウロしている。
パチンコ屋さんは、当然の事ながら子供の遊び場ではない。
というか、それ以前に十八歳未満の子供は入店する事も禁止されている。
だが、大のパチンコ好きである母は、幼い子供を抱えているからといって、店に通うのを断念せず……悠里を引き連れて、店通いをしていた。
今から思い返せば、よくもまあ母は通報されなかったものだ。
店側が入店を拒否しなかったのは、母が良いカモであったからかもしれないし、別のお店では真夏の車の中に子供を残して親がパチンコ屋さんで過ごし、子供が亡くなるという事故が実際にあったからかもしれない。
そして母が平然と娘を連れて来るのも、悠里がそこいらを走り回って騒ぐような性格ではなく、母の側で床に足が届かないスツールに座ったまま、大人しくお茶を飲んでいるような子供だったから、というのも大きいかもしれない。
それに悠里が張り上げる声よりも、周囲の電子音の方がよほど騒々しい。
母は別に、プロのパチスロという訳ではない。むしろ下手の横好きを体現したような人で、勝つ日は滅多に無い。
パチンコ屋さんで遊ぶ時間は、悠里とお夕飯のお買い物に行く前の大抵30分前後。費やす軍資金も微々たる金額。
夕暮れの中、自転車を漕ぐ母の後ろに座り、「今日もお母さん負けちゃったわー」と、嘆く母の背中を慰め撫でるまでがワンセット。
そしてその日もやっぱり、母が換金したパチンコの玉はケースから見る見るうちに減ってゆく。
どうやら今日もまた、何も交換してもらえないようだ。
悠里は自販機で買ってもらった紙コップのお茶を飲み終え、
「お母さん」
むむむぅ~、と唸りながらパチンコ台を睨み付ける母に声を掛ける。
だが、周囲の音に紛れて、見事に母の耳には届いていない。これもまた、毎度の事だ。
自販機はすぐそこだし、と、悠里はジリジリとお尻をズラしてスツールから降り立ち、空の紙コップを捨てにとてとてと自販機に歩み寄り、その横に設置されているゴミ箱の所定の穴へと放り込む。
そしてクルリと振り返った悠里は、お客さんが座っていない台、その埃っぽい床の上を這いつくばるようにしてじっくりと探してみる。
パチンコ中のお客さんの側の床を探していたら、やっぱりイヤな顔をされてしまうので、誰もいない列が一番である。
だが、その日はなかなかお目当ての物が見付からない。どんどん他の列を四つん這いのまま移動しつつ探し、
「み~っけ!」
悠里は隅っこに転がっていたパチンコ玉を拾い上げ、にぱ~っと笑みを浮かべて獲得した玉を掲げた。
ケースにパチンコ玉をたくさん入れ、それを積み上げたりしていると、どうしたって零れ落ちたりする。
そういった玉を、さながら宝探しのように拾い集めて母のところへ持って行き、「いけない子ねえ」などと、悪戯っぽく笑う母に渡すのが、悠里のパチンコ屋さんでの遊び方だった。
早速母のところへ戻ろうと、パチンコ台が並ぶ列を横断して覗き込んだ悠里は、(あれ?)と、瞬きをした。先ほどまで母が座っていたはずの台の前には、誰も居ない。
手のひらの中の鉛の塊をぎゅっと握り込み、うっかり列を間違えたのだと自分に言い聞かせて、その更にお隣の列に向かうが、やはりそこにも母の姿は無い。
その次の列も、その次の次のパチンコ台の並ぶスツールの前に座っているのは、悠里の見知らぬ大人達。
「お母さん、お母さん……」
どこ?
ぐしぐしと涙ぐむ悠里の視界に、その時ホールの照明とは異なる、眩いばかりの光が弾け飛んだのだ。
「お母さん……」
「わたしはあなたの母君ではありませんよ、ユーリさん。
あなたは何度、寝ぼけてわたしを母君と間違えれば気が済むのでしょうね」
皮肉げな声が耳に突き刺さって、ユーリはぎゅっと瞑っていた瞼を、なんとか持ち上げた。
歪んでぼやける視界の中、動くのは銀色の……
「シャル、さん」
雨に濡れたせいで、もふもふな毛皮はしっとりと張り付き、普段よりもスリムな見た目になっているシャルは、ユーリの掠れた声を丸無視して、ギランと鋭い牙が生えたあぎとを開き、くぁ~と、迫力のある天狼がするにはどことなく不釣り合いな気がする欠伸を漏らす。
ユーリはどうやら、自宅のキッチンの勝手口の側に寝かされていたらしい。ドアの向こうからは、相変わらず激しい雨音が響いてくる。
上半身を起こしながら辺りを見回し、まさか命綱になるとは思いもしなかった肩からたすき掛けにされていたままの幅広の紐を外してみると、シャルの牙が貫通したのだろう。見事に穴が空いている。
運ばれている最中に、よくもまあブチっと千切れなかったものだ。激流にも耐え、外れて流されずにいた水鉄砲共々、お前達は実によくやった。
ある意味、自分の育った世界の象徴的な品である水鉄砲を撫でてホッと安堵の息を吐き、ユーリは改めて同僚に向き直って頭を下げた。
「助けて下さって、本当に有り難うございました、シャルさん。
あなたが来て下さらなかったら、私はきっと今頃……」
「ええ、全くその通りですね」
ユーリが言い淀んで言葉を途切れさせると、シャルは無言ながらそこに込められた未来予測に対し、全面的な肯定をみせた。
「まったく、本当に信じられませんね。
わざわざこんなお天気の中、ひ弱なユーリさんが、単独で森に足を踏み入れるだなんて。探しに行かされるこちらの身にもなって欲しいものです」
キッチンに置いてあったタオルの上で人の姿に戻ったシャルは、髪の毛を拭いながら「ああ、無駄に疲れた」なんて愚痴りながら溜め息を吐く。
チラッと確認しただけですぐさま視線を外したが、カルロスの治療を受ける前には真っ赤に腫れていたシャルの背中は、今は傷跡一つ残っておらず、綺麗なものだ。
「ご、ご迷惑を、おかけして、しまって……」
シャルが人間バージョンになってしまったから、というだけではなく、彼の真っ当な言い分にも申し訳なさが募って、ユーリは益々俯いてしまう。
「確かに、急にわたしが不調になってしまった事が、そもそもの原因ですがね。
しかしまさか、病み上がりに何から何まで後始末に奮闘する羽目になるとは」
シャルから放たれる嫌気に満ちた言葉が、容赦なくぐさぐさとユーリの胸を突き刺してくる。
「あなたは本当に、何をさせても鈍臭いですし」
役に立ちたかった。
「かといって、放っておけば問題を起こして。なんですか、あの雨晒しの洗濯物は」
ただ、シャルに認められたかった。
「もうユーリさんは、ずーっと子ネコの姿のまま家の中に居て、大人しくマスターの側にでも控えていれば良いんじゃありませんか?」
私は、私は、
「なにしろユーリさんは、本当に脆弱で貧弱で惰弱な生き物なんですから。
ユーリさんが満足にこなせる仕事なんて、マスターの息抜きに付き合う程度じゃありませんか」
はあ、やれやれと、ユーリを探しに行く前にキッチンで服を脱いだのか、広げてあった服を彼の考えを口にしつつほぼ身に着けて、シャルはそこでようやくユーリが一言も喋らない事を訝しんだのか、クルリと背後を振り向いた。
少し屈み込んでユーリの顔を覗き込み、まだボタンを止めていなかったシャツの裾がはらりと揺れた。
「ユーリさん、ちゃんとわたしの話を聞いているんで……」
シャルは言い掛けた言葉を途中で詰まらせ、片手を伸ばしてきて……ユーリは反射的に、その手をパシンと払いのけていた。
「ユーリさん?」
「……らい」
キョトンとした表情を浮かべるシャルをキッと睨み付け、頬に滑り落ちる涙を感じながら、ユーリは抑えきれない感情の迸るままに叫んでいた。
「嫌い嫌い! シャルさんなんか大っ嫌い!」
私は、愛玩されるだけの価値しかない、ペットなんかじゃない!
目を見開いているシャルからクルリと背中を向け、勝手口から飛び出すと、勢いは弱まったが未だ降り止まない雨が、物干し竿の白いシーツを打っていた。
無我夢中でそれらを強引に取り込み、胸元に抱え込んでバシャバシャと地面の水溜まりを撥ね散らかしながらお風呂場に駆け込んだ。そのまま洗い場にペタンと座り込む。
濡れたままの衣服と、雨に濡れた洗濯物がやけに冷たい。
「う……あ、ひっく……」
抱え込んだ洗濯物に顔を埋めても、後から後から涙が溢れてくる。
けれど、大声で泣き叫んでは駄目だ。シャルはとてつもなく耳が良いから、そんな事をしたら彼に聞こえてしまう。
シャルに喜んでもらいたかった。
頑張れば、彼にもきっと認めてもらえると。『森崎悠里』という人間は決して、無能な役立たずなどではないのだと。
けれども、先ほどのシャルの無感動な眼差しと淡々とした口調、それはユーリにたいしての評価を益々下げている事ははっきりしている。
ここは、『私』が居て良い居場所じゃないって、シャルさんはずっと、そう思ってて……
雨晒しでみすぼらしい洗濯物が、自分の姿と重なった。
声を押し殺して涙を零すユーリは、寒さに震えながら瞼だけは熱く、熱い雫と共に後から後から様々な思いが心の底から溢れ出てくる。
しかし急に、ユーリの全ての五感が変化した。持っていた洗濯物の感覚が無くなると同時に、突如として頭上から濡れた布地に押し潰されて、その冷たさと重さに満足に息さえ出来ない。
もがもがともがくユーリの頭上の布が退けられて、体が持ち上げられた。
何が起こったのかを確認する為に顔を動かしたユーリは、自らの身が予想通り黒い毛並みの子ネコの姿に変化している事を確かめて、「ふみー」と諦観の念を吐き出す。
「ユーリお前、滅茶苦茶冷えてるぞ」
子ネコ姿に変化させつつお風呂場のドアから入って来たらしきカルロスは、ユーリを両手で持ち上げてタオルで包んで水気を拭い始めた。
濡れた服やシーツはそのままに、どこかへと歩きだす。
タオル生地から顔を出したユーリが主人を見上げると、寝間着姿で髪に寝癖を付けているカルロスは、眠たげに目をしょぼつかせながら階段を上って行き、自室のドアを開いて寝台へと倒れ込んだ。
先ほどまでカルロスが横になっていたそこは、掛け布団の中もぬくぬくと暖かい。
主……あったかいです。
「んー。無茶するからだ、アホネコ。
家の外が危ない事は、わざわざ俺が言わんでもお前は理解してる筈だろうが……」
申し訳ありません……
ユーリを抱いたままウトウトと再び眠りに落ちていく主人に頭をぱふっと軽くはたかれて、ユーリはしゅんと落ち込みながら謝罪した。
「ん……エスト、頭ごなしのアホイヌ、には、仕置き……だよな……」
よほど眠たかったのか、カルロスはそんな謎の台詞をもごもごと口にしつつ、再び深い眠りに落ちた。
急にエストお嬢様の名が出ましたが、もしや我が主は寝ぼけていらっしゃったのでしょうか?
単なる愛玩動物なんかじゃないと不満を抱いた割には、現実にこうして主人とはペットとして添い寝し、ぬくぬく加減に安堵しているという矛盾した事実に、ユーリは溜め息を吐きながら瞼を閉じた。
今日は、本当に酷く疲れた。