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とにもかくにも、見通しが甘かった。
焦りすぎていて、平静さを欠いてしまっていた。
世の中には予定通りにすんなりと進んでいく事の方が、よほど少ない。
……それを私は失念してしまっていたし、偉大なる魔法使いである主人のカルロス様と、常に精神的に繋がっているという安心感はぶよぶよと助長して、そう、いつの間にやらきっと、慢心の域にまで達していた。
だから今、私は……
「う、うぇっ! ぐっ、がぼっ」
豪雨が降り注ぐ、一寸先も見えなくなるほど視界が悪くなった森の中で1人、水嵩が増して激しい急流となった川で溺れそうになっているのだ。
さて、そんな危機的状況より、時間は少し遡る。
急いで洗濯物を洗濯板でゴシゴシと洗ったユーリは、裏庭にある物干しに洗濯物を広げつつ、空を見上げた。
時刻は既に昼を回っており、雲が出てきたせいで、日光が洗濯物に差してきているとは言い難い。
「日暮れまでに乾くかな……」
パンパンッ! と、シーツを綺麗に干しつつ、少し不安を抱くが、別に完全に空を雲が覆っている訳でなし、きっと気持ち良く乾いてくれるだろうと、余計な心配は横へ置き、勝手口からキッチンへと戻った。
お家の中の食材の管理は、基本的にシャルが行っている。
早朝から近隣の農村やフィドルカの街へと出掛け、卵やミルクなどの生鮮食品を買い求めたり、気ままに狩りに出掛けて新鮮なお肉を捕獲してきたりしている。いや、前者はユーリもお供をした事があるが、後者は現場を目撃した事は無い。捌く段階にてキッチンに入ろうとして、情けなくも度胸が足りずに回れ右をし、調べ物中の主の足下でネコ姿なのに更に小さくなって、ぶるぶると震える羽目になった。
調味料の棚を覗いてみるが、目当ての苺ジャムが見つからない。首を傾げながら食料品が並んだ棚の中を確認してみても、やはり見付からない。
「あれ……? 何か、蜂蜜やメープルシロップの瓶の中身も殆ど無いですねぇ」
お料理用のお砂糖が入った瓶も、残量が少ない。
こちらの世界にやって来て今まで口にした甘味は、苺ジャムにホットチョコレート(これは使い魔契約の為)、メープルシロップや蜂蜜のかかった物、後は全て果物だ。
ユーリは子ネコ姿で頻繁に、お家でも出先でもカルロスからお菓子や果物を食べさせて貰っている。
さて、この蜂蜜瓶の隣に苺ジャムの瓶も並んでいた筈なのだが……そう考えながら、かつてジャムの瓶が置いてあった場所を見つめる。そこには今、中身は空っぽで綺麗に洗われた瓶が一つ、ぽつねんと並んでいるのみ。
そこから導き出される自然な答えは。
「……お家の苺ジャム全部、私がペロッと食べちゃった!?」
改めて口に出してみるとその予想に強い衝撃を受けて、ユーリはぐらりとよろめいた。
いくら主の許しを得ているからって、シャルさんにとっても大好物である苺ジャムを、私が目の前でことある事にバクバクバクバク食べ漁って、ぜ~んぶ平らげられちゃったら……そりゃあ、怒って疎んじても当然ですよね……
ユーリはがくーっと、力無くキッチンの調味料棚にもたれかかった。
シャルはさぞかし彼女の事を、食い意地がはっていて体の割に大飯食らいだ、と思っていた事だろうとも。
このまま手をこまねいているだけでは、状況は全く好転しない。
けれども、シャルに喜んで貰うにはいったいどうすれば良いというのだろうか。
――グリューユの森の水辺に生ってた野苺が美味いつって、たっぷり摘んでジャムにしてたな。
主の言をふと思い出し、ユーリはすっくと立ち上がった。
「もうジャムが無いのなら……苺を採りに行くしか無い」
幸いにして、今現在の季節は春だ。出先でも様々な種類の果物を口にしたし、その中には苺っぽい物も含まれていた。
恋しい人に振り向いて貰う為ならば、歩きにくい森の中の探索がなんぼのモンだ!
ユーリは裏庭にある物置きの中から、ホルダー代わりに使えそうな紐と、摘んだ苺を入れるのに丁度良い大きさの袋を探し当て。後で入念に洗おうと井戸の脇に置きっぱなしにしてあった、唐辛子毒水がまだタンクの中に残っている水鉄砲を取り上げ、幅広の紐をグルグルと本体に巻き付けて、肩からたすき掛けにして腰の辺りに下げてみた。朝はずっと両手で持って歩いたら、少ししんどかったのだ。
落っこちる心配が無く、例え命中させられなくとも、咄嗟の状況にすぐさま構えて引き金を引ける事が出来れば、逃走時間が稼げるはず。それでこの水鉄砲の牽制意義は、十分に果たせられる。
「……刺激性の高い臭いを相手に振り撒いて、それに敵が怯んだ隙に逃走を図ろうって……この生き様、まるで私、スカンクのようです」
ふと、自らを省みたユーリは、ズドーンと落ち込みつつ、
「私、花も恥じらう年頃の乙女なのに……生き様を例えるとスカンク……」
ショックのあまり二度もそんな独り言を零しながら、そのまま前庭へ回り込み、門扉からグリューユの森へと足を踏み入れたのである。
本日二度目のグリューユの森探索に今度は1人で乗り出したユーリは、朝と同じように東に向かって真っ直ぐ歩き出した。
『グリューユの森の水辺』と言えば、ユーリが知っている場所は例の川しか無い。
あの辺りを探してみて、見つからなければ潔く諦めようと心に決め、カルロスやシャルが出入りして踏みならしてある獣道に沿いつつ、慎重に周囲を見回しながら歩みを進める。
しかし、何か視界が悪くて目印が見えにくいと訝しみ、空を振り仰いだユーリは「げっ」と呻いた。
お洗濯中に湧き出ていた雲は今や空全体を覆い、灰色の空へと変化していた。
「……マズい……雨が降ったらお洗濯物が……」
耳を澄ませば、かすかに川のせせらぎの音は捉える事が出来る。
だが、暗さに目印を見失って森の中で迷うだとか、あまつさえ雨が降ってきて干したままの洗濯物がずぶ濡れ……なんて事態に陥ったら目も当てられない。
ユーリは立ち止まって溜め息を吐いた。
グリューユの森は魔物が生息する、危険な森だ。悪条件を押してまで一人歩きをするには、彼女では明らかに力不足だ。
迷子になる前にお家に帰ろう……そう考えながら背後へとクルリと振り向いたユーリの眼前に、あぎとをグワッと開いた獅子の……
「ええぇぇぇっ!?」
咄嗟に全力で横っ飛びをしたユーリは、服が汚れるのも構わずゴロゴロと転がって木の根っこに引っ掛かる前になんとか様子を窺うと、今朝も邂逅した『ライオネル君』が、明らかにご機嫌斜めで吼えていらっしゃる。
つーかいつの間に背後に!?
彼が背後に居た事に、全く気が付かなかった。
恐らく、『ライオネル君』はユーリを弄んで憂さ晴らしでもするつもりなのだろう。
そうでなければ、背後から忍び寄る捕食者の存在に、獲物は全く気が付いていないという絶好の機会を、あの獅子がみすみす逃す意味が分からない。
シャルと激しい取っ組み合いの喧嘩を繰り広げた、身体能力抜群である巨大な獅子的モンスターがちょいと本気を出せば、ユーリなど一捻りに違いないのだから。
などと、冷静に思い返せば頭の中ではそんな考えを巡らせつつ、ユーリは寝っ転がった体勢から上半身を起こし、腰から下げていた水鉄砲を構えて闇雲に乱射していた。
ポンプの加圧が明らかに足りずに、赤い水流の飛距離は殆ど出なかったし『ライオネル君』に直撃などもしなかったが、要するにこの場から離脱する隙が出来れば良いのだ。
唐辛子毒水が空中に撒き散らされたせいで、ユーリの側には近寄りにくくなり飛びかかるのを敵が躊躇っている間に立ち上がり、全速力で『ライオネル君』とは反対方向へと駆け出した。
「どぇぇぇぇっ!?」
オマケに良かったのか悪かったのか、どんよりしていたお空が突如として激しく大泣きを始めた。その叩きつけられるような勢いに打たれて、思わずユーリの口からヘンテコな悲鳴が漏れる。
『ライオネル君』がどうやって獲物の気配を探り当てているのかは不明だが、この雨ではユーリの気配を察知するのは難しい……と、安堵したのもつかの間、濡れた地面を蹴りつけ、激しい草や枝の抵抗を物ともせぬ獅子様が、唸り声を上げつつ迫ってくる。
どうやら雨のお陰で大気中の唐辛子毒水は綺麗に流され、ひ弱な玩具と侮っていた獲物の挑発的行為に、『ライオネル君』は益々お怒りになられたご様子。
い、嫌ぁぁぁぁぁっ!?
声にならぬ悲鳴を上げながら、全速力でユーリは駆ける。
とにかく逃げなくてはと無我夢中だった為、そちらは家とは真逆の方向である事に気が付いたのは、雨で水嵩が増し、急流の激しい川にぶち当たった時だった。
朝の穏やかな眺めがまるで嘘のように、景色の印象が変わっている。
水辺は木が生えていない為、敵の勢いを削いでくれる障害物が無い。
となれば、どれくらいあるのかは不明だが、とっても凶悪そうな『ライオネル君』の脚力で飛びかかられ、ユーリなど簡単にガブッと……
川縁にまで追い詰められ、ユーリは咄嗟に追っ手の方へと振り向きつつ、素早く左右を見回した。
『ライオネル君』との距離は、まだある。
雨さえ降っていなければ、水鉄砲をまた乱射しているところだが、この激しい豪雨の中では威力のほどは微妙だ。
思わぬところで背水の陣となってしまったが、飛びかかってきた瞬間に左右どちらかに転がって、敵を川に落とせれば……!
しかし獅子は、喜び勇んで走って突撃してくるのではなく、のっそりとした足取りで一歩を踏み出す。ユーリもまた、それに合わせて一歩後退り。
互いの出方を窺うジリジリとした膠着状態に、また一歩敵が歩を進め、彼女もじわりと……
「あ……!?」
そこは既に川縁であり、雨でぐずぐずに柔らかくなった地面は、ユーリの体重を支えきれずにあっさりと崩れ落ちて。後方へとズラした右足の踵が、踏みしめるべき大地を見失っていた。
全神経を眼前の『ライオネル君』に集中させていたユーリは、なす術もなくバランスを崩して背中から川へと転落してしまったのである。
予想以上に勢いがある水の流れに、思うように泳ぐ事も出来ない。
なんとか水面から顔を出しても、叩きつけられる豪雨のせいで、満足に呼吸すらままならない。
「う、うぇっ! ぐっ、がぼっ」
激流に揉まれて流されながらも、ユーリは咄嗟に助けを求めようとして口を開き、汚れた川の水を飲んでしまう。
主……! 助けて……!
だが、頼みの綱であるカルロスヘ向けて懸命に救助を求める思念を飛ばしても、主人からはなんの反応も返ってこない。
ユーリの思念には大抵返事を返してくれる主人だが、魔術遮断結界の中や、カルロスが眠っているなどの状況下においては、決してテレパス回線が繋がる事は無い。
……そしてカルロスは、出張から帰ってきた翌日から早速、殆ど眠らずに調香のお仕事をして、休むこと無く病身のシャルに付き添っていた。
そろそろ疲労からダウンしていたとしても、なんら不思議は無い。
お母さん、お母さん!
何度水面から顔を出しても、ユーリは簡単に川の中へと飲み込まれてしまう。
助けて……
「……しゃ、る……!」
大雨のせいで、何も見えなくなっていた筈のユーリの視界に銀色の色彩が翻り、彼女は無我夢中でそちらへと腕を伸ばしていた。
肩からたすき掛けにしていた紐がぐいぐいと引っ張られて苦しい。けれど、水面から引き上げられて、ユーリはようやく息が出来た。
しこたま水を飲んだせいか、ぼんやりとしたままの頭を巡らせると、幅広の紐を銜えてユーリを持ち上げ、この豪雨の中でも翼を羽ばたかせて飛んでいる、銀色の毛並みの天狼さんの姿がそこにはあった。
シャルさん……雨の日でも飛べるなんて、その翼いったいどうなってるんですか。
やっぱり羨まし過ぎる生態ではないかと……
琥珀色の瞳と目が合い、深い安心感を覚えながら、ユーリは彼女を運んだまま空を滑空するシャルへと腕を伸ばし……そこで限界を迎えたのか、ふっつりと意識が途切れた。