わんこ・ぶいえす・にゃんこ ふたたび
手早くお風呂を済ませるなり、シャルの側へと舞い戻っていった主の背中を見送り、ユーリもまたお風呂に入った。
賑やかな入浴であった昨日とは違い、今日は長風呂をする気にもなれなくて、手早く体を綺麗にして早々に上がる。
どうしたって、シャルの病状が気にかかる。
外殻膜に守られた状態でも、少し浴びただけであんな風に肌が赤くなるだなんて、流石は地球でも兵器転用の研究がなされているらしきブート・ジョロキア(的なモノ)。
シャルが特別、あの唐辛子に弱いという事なのかもしれないが、心配でたまらない。
髪を乾かしてからカルロスがシャルを運び込んだ魔法部屋へと、無意識のうちに足を向けていたユーリは、ドアをノックをしようと右手を持ち上げたところで躊躇した。
この部屋の中へと入ったところで、ユーリは寝ているシャルの傍らでオロオロするだけしか出来ない。
それは、シャルの看病や治癒の術を使っている主の邪魔にしかならないのではないのか?
ノックをしかけた体勢のまま立ち竦み、ユーリは煩悶する。
苦しんでいるシャルのそばに、ただ近くに行きたいからと、それだけを考えてこの部屋の中に入ったとして、益々あの同僚から疎ましがられるだけではないのか。
ノブを回せば簡単に開く筈の、目の前にあるドアがひどく重たい。
ゆっくりと、息を吐く。
……しっかりしなさい、ユーリ。
あなたはカルロス様のしもべで、シャルさんの同僚で後輩でしょう!
パンパンと両手で自らの頬を軽く叩いて、ユーリは活を入れた。
同僚が体調を崩している時に彼女がやるべき事は、彼がこなす筈だった仕事のフォローであり、主人であるカルロスのサポートだ。
まだお昼ご飯の支度だってしていないし、今日は家の中のお掃除もお洗濯も済ませていない。
やるべき家事は山積みであるにも関わらず、ただ寝ている病人の横で涙ぐんでオロオロしているだけの、そんなお荷物になんて、なりたくない。
「私……役立たずなんかじゃないもん」
シャルが起きてきた時に、何もしていなかったのかと呆れられたり、益々失望されたりしないように。まずは、ご主人様の為にご飯作りだ。
以前、ベアトリスに連れられて農村の一般家庭にお邪魔した際、キッチンは別室として存在しておりその様子はよく窺えなかったが、カルロスの自宅も、同じように客人からは見えないようにキッチンは家の奥で分離されて存在する。
広間中央にある、暖房器具を兼ねた炉端を囲み調理するという文化ではなく、しっかり調理場としてキッチンは確立されており、煙が室内に充満する事もない。
さて、グリューユの森のカルロスの自宅のキッチンに備え付けられたかまど、その調理器具は要するに寸胴と中華鍋だ。
……紛らわしい言い方であるという事は重々承知しているが、ユーリには鍋であるその調理器具は、固定された中華鍋にしか見えない。
鍋底は丸く、鍋の周囲に回りこんだ火の熱も余すところなく利用できる。かまどと一体に固定して作られているので、ごうごうと焚く火は漏れず、熱効率も高い。
「あちっ」
調味料を鍋の中へと滑らせた際に、うっかり鍋の縁に触れそうになってしまい、ユーリは慌てて手を引っ込めた。
この鍋一つで、食材を煮たり炒めたりといった調理を行うのだが、その鍋が固定された位置は、ユーリには少しばかり高い位置にある。
底の丸くなった鍋底に食材が入っているのだが、その中身をヘラでかき混ぜ鍋肌を使って熱をしっかり通す、という作業が非常にぎこちない。
ああ、こんな事になると分かっていれば、日本に居た頃に中華鍋を使った料理の勉強をみっちりとしていたのに。
「もしかして私……チビな上に腕が短いのかしら?」
日本でも少し低いかもと感じていた150cmという身長は、マレンジスではかなり小さい部類なのだろうか。
悩みながらも、以前、伯爵家のお城から貰って帰ってきたベーコンを薄く切って、卵と一緒に炒めたものを、切れ込みを入れたパンにお野菜と一緒に挟んだ。
因みにパンは、昨日夕食を食べた後にシャルが薪のオーブンで焼いていた物だ。モチモチした食感とは言い難い微妙な固さで、丸っこい形状である。
ナイフもフォークも要らないサンドイッチ。
これなら、シャルの傍で付き添っているカルロスも、気軽に手掴みで食べられるだろう。
「シャルさんも、きっとお腹空かせてるよね」
彼もきっと、簡単に食べられる……と、思うのだが、体調不良のせいで気持ちが悪くなって、お肉や卵は食べたがらなかったらどうしよう。
寸胴の方は取り外し可能な品で、何故かそちらはつまみを調節する事で火加減の調節まで出来る。かまどの中がどうなっているのか、非常に謎だ。
シャルはちょくちょく寸胴を使って、じっくりと何日もかけて食材を煮込むスープの類いを作っているが、しばらく留守にしていたので当然今はその中身は空っぽだ。
シャルお手製の野菜スープがユーリの好物で、あれはサッパリしていて非常に美味しい。
むむむ……と唸りながら、ユーリは3人分のサンドイッチの皿と、お水を注いだカップを乗せたトレーを手に、キッチンから魔法部屋のドアの前に立った。
すう、はあ……と深呼吸をしてから、コンコンとノックをすると、カチャリと小さくドアが開かれた。
「どうした、ユーリ?」
ひょいと顔を覗かせつつ尋ねてきたカルロスは、ユーリが手にしているトレーの上に目を留めて「ああ」と、表情を綻ばせた。
「主、お昼ご飯作ってきました」
「わざわざ持って来たのか。有り難うな」
「はい。あの……シャルさんの具合は?」
またしてもカルロスから頭を撫でられて、何かくすぐったい気分を覚えつつ、『室内に入りたいです~』という気持ちを滲ませるユーリに、ご主人様は苦笑気味に体を引いて招き入れた。
逸る気持ちを抑えてユーリが魔法部屋に足を踏み入れると、淡く輝く魔法陣の中央で、銀色の毛並みを持つ天狼さんは「ぐー、ぐー」という、いつものいびきだか寝息だか分からない音を立てて熟睡していらっしゃった。
「見ての通り、シャルはぐっすりだ。
ま、起きたら元気になってるだろ」
カルロスは気楽な口調で保証すると、肩を竦めて床に座り込む。
ユーリも主人の傍らに腰を下ろすと、カルロスは彼女が作ってきたサンドイッチに手を伸ばし、パクパクと舌鼓を打つ。
「うーん、なかなかいける」
どうやら、カルロスの口に合ったようだ。
眠っているシャルの寝姿にチラチラと視線をやりつつ、ユーリもまたサンドイッチにかぶりついた。
シャルがご飯の匂いで起きてこないかな、と、少し期待したりしたのだが、彼は目を覚ます気配もない。
ユーリがこの魔法陣の上で治療を受けていた時も、後頭部の怪我や火傷が完璧に治るまで目を覚まさなかった。治療に専念する為に、シャルも同じように深く眠らされているのかもしれない。
「有り難うございます。
あの、主。シャルさんの好きな食べ物って、どんな物なんでしょう?」
ユーリの経験上、病気が治って起きた時に好物が用意されていて、それを母と一緒に食べるのはとても嬉しかった。
いつもはパチンコで勝った時にしか買ってくれなかった板状のチョコレートを、『快気祝い』と称して2人で分けて食べるのが、とても美味しかった。……激マズのお粥と、苦い苦い薬を強要された後なだけに、それはもう余計に。
カルロスはユーリの問い掛けに怪訝そうな表情を浮かべた後、ややあってニヤニヤと意味深な笑みを浮かべだす。
そしてカップを取り上げて水を口に含み、コクリと飲み込んでユーリに向き直ったご主人様は、実に慈悲深くも温かみのあるにっこりとした微笑を浮かべ、
「シャルの好物なんて、言わなくても分からねえか?
生肉だよ、生肉。特に好物なのは、やっぱ猪か山羊か。飛びかかってかぶりついてこう、バリバリと」
「さ、左様でございますか……」
爽やかに解説して下さった。
正直なところ、シャルが狩りをしている姿はさっぱり想像がつかないが、ユーリの乏しい想像力でも、それはもう大迫力なのだろうという見当はつく。
流石は肉食獣だなぁ……などと、天を仰ぐ。
「グリューユの森には猪も居るが、山羊は流石に居ねえなあ」
「……」
つまり、ユーリがシャルの好物を用意しておいてあげよう、などという気遣いをみせる為には、森の中に分け入って猪を生け捕りにし、おうちへとお持ち帰りしなくてはならないという事になる。
ム リ だ!
自らの気性を知り、実力を過信する事の無いユーリは、早々に結論付けた。
なんという事だろう。シャルの歓心を買うという目論みは、ものの見事に計画倒れとなってしまった。
うう……シャルさんに好かれたい作戦は、道のりを探すところから躓いてばかりです……
半泣きでサンドイッチを噛むユーリに、ご主人様はやれやれと溜め息を吐き、
「ま、ユーリも知っての通り、俺とずっと暮らしてきたシャルは、肉しか食わんつー訳でもない。
確か……グリューユの森の水辺に生ってた野苺が美味いつって、たっぷり摘んでジャムにしてたな」
「苺ジャム……」
カルロスのお言葉に浮上してきたユーリは、目を輝かせてサンドイッチを飲み込んだ。
いそいそと食事を終わらせて、空のカップや皿をトレーに乗せると、立ち上がってカルロスに軽く一礼した。
「主、私、やる事が出来たので、失礼しますね」
「おう。ま、今日はこの後特に用事で呼びつける事もねえ。好きに過ごせ」
「はいっ」
ご主人様から遠回しに、シャルを喜ばせたい作戦の許可を得たユーリは、足取りも軽く魔法部屋を後にする。
まずは急いでお洗濯を済ませて、その後はキッチンで苺ジャムの瓶を探す。
そして、ジャムで何かお菓子を作ってみよう。こちらの薪オーブンだと、クッキーが良いだろうか?
浮かれ気味に廊下を歩むユーリは、すっかり忘れていた。
彼女自身が甘党であり、バーデュロイと日本では甘味料の事情が全く異なるにも関わらず、召喚されたばかりの頃、日本で暮らしていた頃と全く変わらぬ感覚で、苺ジャムをパクパクと平らげていたが、最近では全くといって良いほど食卓には出されていない、という事実を。
そして何より、シャルがユーリを称して『いっそ贅沢なほどに甘い物好き』と皮肉っていた事も。




