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ご主人様からせっつかれ、お風呂の支度を調えたユーリは、一番風呂と洒落込んでいた。
グリューユの森にあるおうち、そのお風呂場は裏庭に面しており、のどかな森の情景が眺められる天井付きの露天風呂だ。
裏庭からは風呂場の様子が見えないよう、高い塀がついているし、井戸から頻繁に水を汲んでくるにも近くて便利。何よりも浴槽と洗い場は広々としていて、ゆったりと入浴出来るのが気に入っている。
作業部屋でお手伝いしていたせいで、着ていた服には匂いが染み付いていたし、そんな格好でお夕飯作りというのも遠慮したい。
なので、まずは自分の体を綺麗にしてから調理に取り掛かる事にしたのである。
調香のお仕事というと、作り上げられる品物などから華やかなイメージを抱いていたユーリであるが、現実にはとても強烈な匂いの中で作業しなくてはならない。
本人は麻痺してしまって気が付かなくとも、作業後のカルロスからは色んな匂いが漂っている事もままある。
そんな訳で、バーデュロイでは庶民は公衆浴場の利用が一般的という生活の中、貴族でもなければ自宅に完備されていない風呂を持ち、特に主は愛しのエストと会う前などは念入りだ。
主人の仕事と趣味を兼ねているのか、お風呂場には髪や体を洗う為のシャンプーや石鹸、ツヤツヤに保つ為のトリートメントや乳液などなど、ヘアケアスキンケアに関して充実のラインナップ。
エストから厚意で頂いた一級品の石鹸などもあり、初めてここに足を踏み入れた際「これが男2人暮らしのお風呂場のアメニティ!?」と、驚愕したのも懐かしい。
トリートメント剤でヘアパックした髪を頭の上でタオルで纏め、お楽しみの広い浴槽につかったユーリは、魔法部屋から持ち出してきた地球からの手土産を手に取ってみた。
「どっからどう見ても、水遊び用おもちゃ、水鉄砲……」
七歳以上対象の商品で、風呂に持ち込む前に剥いだパッケージに記載された仕様書によると、全長430mmで最大飛距離は約8m、タンク容量590ccの大型系で、タンク内を加圧するポンプを押す回数によって、引き金を引いた際の水の勢いが変化するらしい。加圧を加え過ぎると、タンクが破裂して壊れるので注意が必要である。
まあ、あのまま火事現場に放置されてても燃えただけだろうし、持って来ちゃったものは仕方がないよね! と気を取り直し、早速遊んでみるべく風呂場のお湯をタンクに詰め、ポンプを一回押して引き金を引いてみた。
チャキッ! と、格好をつけて水鉄砲を構えてみたものの、発射口からはチョロチョロと滴り落ちていくばかりなお湯。
「あら、加圧ってどれくらいが丁度良いんですかねえ?」
などと独り言を漏らしつつ、ポンプをしゃこしゃこと動かしてみる。
と、そんなのんびりとしたバスタイムの最中に、
「もう、鼻がおかしくなりそうですよ、全く……」
などと愚痴りつつ、器用に風呂場のドアを開け放つイヌバージョンのシャルが突如……
「って、えええ!? 私まだ入ってますー!?」
「ぶぶっ!?」
ユーリは反射的にドアの方へと水鉄砲を向け、銀色の塊に引き金を引いた。
先ほどのジョウロを傾けた程度の勢いの無さから、容赦なく飛距離8mの本領を発揮した水流が、乙女の機微など全く気が付かない天狼さんの鼻面に降りかかった。
「私がまだ使用中ですよシャルさん!?」
「ユーリさん、わたしは今、自分の体から発せられる悪臭のせいで、酷い頭痛さえする状態なのですが?」
慌てて浴槽に肩までつかって身を隠すユーリと、毛並みからポタポタと雫を零しつつ、憮然とした声で反論するシャル。
いかにも、ユーリが長風呂をし過ぎているせいで、多大なる迷惑を被っているのはこちらの方だと言わんばかりである。
確かに、普段のシャルならばユーリの水鉄砲攻撃など、狭い屋内というハンデを差し引いても簡単に避けてしまえるかもしれない。
顔面からまともに食らったという事は、それが出来ないほどに今のシャルは弱っている、という証明な訳で……
「ネコだろうが人間だろうが、ユーリさんはユーリさんですよ。
マスターに肌を晒す事を恥じらうのは理解出来ますが、わたしにまでそんな感覚を覚えられて今風呂場から閉め出されると、わたしはこの頭痛に苦しむ事に……」
ううっ、気持ち悪い……などと呻きつつ、ヨタヨタとした足取りで浴槽に歩み寄られ、ユーリは待ったをかけた。
「分かりました分かりました!
お風呂使って下さって構いませんが、まずは体を洗ってからにして下さいっ。お湯が汚れます!」
「では……」
ユーリの言葉にもっともだと頷いたシャルはおもむろに目を閉じ、その体が光……
「変わっちゃダメぇぇぇ!」
その些細な仕草に、シャルが何をする気なのかにハッと思い至ったユーリが慌てて水鉄砲を放り出し体当たりを仕掛けると、驚いて集中が解けたのか、変化する事なくシャルはイヌバージョンのままだ。
「人間バージョンになっちゃダメですシャルさん!」
「この姿では、自分の体が洗えないのですが」
「ダメと言ったらダメなんです!」
非常に億劫げに文句を口にするシャルに、ユーリは頭の中が混乱して、上手く自分の心情を口にする事が出来ないでいた。
シャルにとっては、ユーリがネコの姿だろうが人間の姿だろうが大差はなくとも、ユーリにとっては違う。
子ネコ姿で衣服を纏わずにいる事にさほど抵抗が無いように、イヌバージョンのシャルが何も身に着けていなくとも『そういうものだ』で済ませてしまえる。
しかし、本来の人間の姿で肌を晒すなど恥ずかしいし、人間バージョンに変化した直後でシャルで真っ裸なのも、非常に困る。
今現在も、シャルの変化を止めるべく浴槽から出てきたせいで、恥ずかしくてたまらず、彼の琥珀色の双眸から反射的に体を隠そうと……
――森崎さんってさ、野々村君をストーカー呼ばわりしてるんだって。
――ええ~、何ソレ、ひっどー。事実無根じゃん。
――自意識過剰だよねー? 野々村君、ホント困ってたよ。
――偶然目が合っただけで、悲鳴上げられたんだって。
――やだやだ、『世の中の男はみ~んな、あたしに気があるの!』とでも、思い込んでるんじゃない?
――うわ、それサイアク。
勝手に脳裏を駆け巡った声に、ユーリは俯いてダラリと力なく腕を下ろした。
彼女がとてつもなく気にしているだけで、シャルは異種族のユーリの裸体になど、何の興味も関心も抱いていない。
せいぜい、恥ずかしがって怒るユーリを滑稽だと嘲笑う程度で。
「どうして急に泣きだすんですか、ユーリさん?」
頬に温かいものが滑った。
鋭い牙の隙間から伸ばされた舌が、ユーリの頬を伝い落ちた涙を拭い取ったのだろう。
肉食獣の舌はザラザラしているものだが、天狼は人間と同じくネコよりも唾液が豊富なのか、舐められてもさして痛くはない。
「ちょっと嫌な事を思い出しただけですよ。
シャルさんが急に舐めたりするから、びっくりしてもう忘れちゃいました」
空笑いを浮かべると、シャルは訝しんでいるのか目を細めてユーリの顔を見返してくる。
「ほらほらシャルさん、私が体を洗ってあげますから、洗い場に横になって下さい」
追い立てるように急かすと、彼は大人しくのっそりと動き、ユーリのされるがままになる。
体を洗う為のブラシと、大量のお水とお湯を使って毛並みを洗ってみるが、こんなに大きな動物さんをお風呂に入れるなどした事が無いので、何かぎこちない。おまけに、鋭い爪に触れでもしたら、ユーリの肌など簡単にすっぱり裂けてしまうだろうから、どうしても動きは慎重にならざるを得ない。
「シャルさん、どの石鹸を使います?」
「……白いケースに入っているのを使って下さい」
「は~い。どこか痒いところはありませんかー?」
意志疎通が出来るシャルは、普通のペットとは違い、実に大人しく洗われてくれるので、顔や頭、尻尾などはブラシを使わずに素手で洗ってやっても、嫌がって暴れる素振りも無い。
翼はどうやって洗えば良いのだろう? と、疑問に思うものの、シャルの指示は「乱暴に扱わなければそれで良いです」という、とてつもない適当さ。
水に濡らしても大丈夫、という保証は受けているが、畳まれた翼を慎重に手で広げてそーっとお湯をかけてやる。
シャルの翼は、やっぱり羨ましいと感じるユーリである。
「うふふ、シャルさんの毛並みってモフモフしてますね~。
私、ちゃんと人間の姿でイヌバージョンのシャルさんと対面した事が無かったから、すっごく気になってたんですよー」
「そうですか。ユーリさん、もう少し下の方を……」
「よしよし、ここですか~うりうり~」
泡でモコモコ状態のシャルの毛並みを、手で揉むように洗ってやり……いやむしろ、ユーリがシャルの毛並みを撫で回してみたいという衝動に駆られた結果なのだが、洗われている方の銀狼さんも、なんだか目を細めて気持ち良そうである。
泡を流すべく、頭からお湯をざぶざぶと被せてやれば、ぶるぶると体を震わせて水滴を飛ばすシャル。
……な、なるほど。主がシャルさんを『イヌ』だと強固に主張する理由が、何となく分かったような気がします!
うっかり間近にいたせいで、その飛んだ水滴を被ってしまったユーリは、何故だかクスクスと笑みが零れてくる。
「ああ、やっと湯につかれます。
全く、マスターももう少しイヌ使いが荒くない方ならば良かったのですがねえ」
濡れそぼったせいで、毛並みのモフモフっぽさが減じて見た目が少しスリムになったシャルは、襲い来る悪臭からは解放されたのか、軽い足取りでざぶんと浴槽に突撃し、湯から顔を出した状態でご満悦。
どっ、どういう光景なんでしょうか、これは。
大型の天狼さんがつかるお風呂……なにこのほのぼの感!?
そーっと彼のお隣にお邪魔してみたユーリは、思わず湯の中でたゆたうシャルの毛並みを指で梳いてみたり、腕を回して首の辺りに抱きつき、頭のピンと立った三角形な耳をむにむにしてみたり……
「……さっきからわたしをつつき回したりして、いったい何がしたいのですか、ユーリさん?」
「ハッ! す、すみませんっ。
無意識のうちに触れたくなっていたようです!」
「……マスターといい、人間は皆そうしたがる生き物なのでしょうか……」
バスタイムを共にし、体を洗ってやって一緒の浴槽に並んでつかる、などという『ただの同居人の人間同士』という関係ではまず有り得ないだろう状況。
例えて言うのならば仲良しの飼い主と飼い犬状態だが、あの動物大好き主を差し置いて、自分がイヌバージョンのシャルとお風呂に入っていても良いのだろうか?
ユーリの脳裏に、ちょっぴり拗ねるカルロスの姿が浮かんでしまい、益々笑えてくる。
「そういえばユーリさん。
先ほどわたしの顔にお湯をかけてきましたが、あなたは水系の魔術が使えたのですか?」
シャルの何気ない問いに、ユーリはええと……と呟きつつ、辺りを見回した。
浴槽を横断して底を探り、沈んでいた水鉄砲を持ち上げる。
「私は魔法なんか使えませんよー。これはですね、水を勢い良く吹き出すというおもちゃなのです!」
じゃじゃん! と、もったいぶって水鉄砲を頭上に掲げ、首を傾げているシャルに実演して見せてやるべく、森の方に向けて構え……引き金を引くと、勢い良く射出されたお湯が、遠く離れた枝葉に当たって揺らした。
そして即座に振り返ったユーリは、ほう、と、感心したような呟きを漏らすシャルの顔面に照準を合わせ、引き金を引く。
「ぶぶっ!?」
「ふふ~ん。油断大敵ですよ、シャルさん」
不意を打って見事に同僚の鼻面に命中させたユーリは、えっへん、と得意げに胸を張る。シャルは憮然とした様子でそんな彼女を見返しつつ、
「面白そうなおもちゃですね……ええ、殺傷能力はこれっぽっちも無さそうなおもちゃですが」
何かを含んだ台詞を吐きつつ、顔面からポタポタと雫を零しつつ、如何にも『僕はな~んにも気にしてません』と余裕綽々な態度を貫く。
「おもちゃに殺傷能力は必要ありませんもーん。
えいえい!」
チャキッと再び水鉄砲を構えるユーリに、
「甘いですね」
シャルは浴槽につかった状態から、斜めに飛び上がってお湯放射を回避するという離れ技をやってのけ、着水と同時にバシャーン! と、派手に上がる水飛沫。
「こんのーっ、シャルさんの辞書には水抵抗の三文字はないんですかーっ!」
「そんな言葉は知りませんね」
連続放射ーっ! とばかりに、引き金を引きまくるユーリの水鉄砲のお湯攻勢を、風呂場の中をひょいひょいと駆け回って華麗に避けてみせるシャル。
銀の毛並みの天狼さんがジャンプして、空中でくるんと一回転する様は、やけに絵になる。水流は一瞬前までシャルが居た空間を掠めるのがまた悔しい。
「ええい、奥の手、最大速噴射ーっ!」
がしがしとポンプを押し、発射させる水流の勢いを増させて引き金を引く! しかし、その高速でさえ放射性という性質のせいか、シャルはまるでステップを踏むがごとき足捌きで簡単に避けてしまった。
「簡単に奥の手を見せるなど、まだまだですねユーリさん」
シャルは身体能力の高さを存分に見せ付け、フフン、と、鼻で笑っている。
キーッ! と、頭に血が上ったユーリが更に彼に向けて水鉄砲を構え……
“てめえら、風呂場で遊ぶな!
長風呂も大概にしろ! 俺がいつまで経っても風呂にも飯にもありつけねえだろうが!”
突如としてユーリの頭の中に、ご主人様からの叱責が大音量で響き渡った。ユーリはその勢いに驚き、よろめいてしまう。
送られてきたテレパシーにはカルロスの怒気もふんだんに含まれていて、周囲を見回した彼女は一気にザアッと顔が青ざめていくのが分かった。
シャルもユーリも、お風呂場の壁やドア、浴槽や洗い場、塀などを壊したりなどはしていないが、シャンプーや石鹸などのアメニティは洗い場に散乱しているし、肝心の浴槽のお湯は派手に飛び散りまくったせいで、半分以下に減っている。
カルロスから同じテレパスを叩きつけられたらしきシャルが、そろそろ……と、さり気なく風呂場から逃げだそうとしているその後ろ姿を視界の端に捉え、ユーリは迷わずその尻尾をガシッと掴んだ。
「どこに行くつもりですか、シャルさん?
一緒にお片付けして、急いで新しいお湯を張りましょうね?」
ユーリの笑顔でのお誘いに、シャルは深々と溜め息を吐いた。
「仕方がありませんね。
分かりましたから、尻尾は放して下さい」