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シャルの手によって、熟睡しているカルロスの下から引っ張り出されたユーリは、恨みがましい眼差しを同僚に向けた。
が、どれほどガンを飛ばそうとも、全く悪びれもせず柔らかな笑顔で見返してくるシャルに、ガックリと肩を落とした。
……助けて下さって有り難うございます、シャルさん。
主がそのまま寝入ってしまったので、寝間着への着替えをお願いしても?
「ああ、それもそうですね。では」
今度のユーリの頼みは実にあっさりと納得し、部屋の引き出しを開けて寝間着を取り出し……彼女の目の前で眠っているカルロスの着衣に手を掛けるので、慌てて主のベッドから飛び降りて背を向けた。
主が普段身に纏っているのは、ユーリがイメージする魔法使いのローブやマントではなく、仕立てのしっかりとしたシャツに飾り襟を付けたり、クラヴァット。そして膝下ほどの丈のゆったりとしたズボンに、ブーツを合わせている。
因みに仕事着だと、ローブというかチュニックのような物を着ている。
膝まであるブーツを履いたままでも平然とベッドに横になれるなど、ユーリからしてみれば信じがたい生活習慣だが、主に言わせれば、
『年頃の娘がみだりに足をさらけ出すな!
……家では裸足で歩き回って当然だと? なんというっ……!』
と、盛大なるショックを受けていた。文化の違いによる認識の違いはなかなかに大きい。
「さて、それではわたしは仕事に戻りますね。
ユーリさんはどうぞ、夕方までご自由にお過ごし下さい」
カルロスは横着して普段着のまま寝る事が多いのか、慣れた手付きでテキパキと着替えさせたシャル。彼は先ほどまで主が身に着けていた、皺が寄ってしまった服を片腕に掛け、ドアの方をジーッと無意味に凝視していたユーリの背中に向かって声を掛けてきた。
シャルさん、私も一緒に行きます!
慌ててシャルの方に振り向いて彼の足元でにーにーと訴えると、シャルは困ったように少し首を傾けた。
「それは構いませんが……今のユーリさんに足元をウロチョロされますと、偶発的に蹴りつける危険性が……」
うっ!? と、言葉に詰まるユーリに、シャルは「ああ」と呟いて表情を僅かに輝かせた。
「むしろ我々の身長差とユーリさんの鈍くささでは、わたしがユーリさんを踏み潰す可能性の方が高いかもしれません」
何故、そんな未必の故意的事件発生の懸念を、楽しげに語る!?
……私はもしかして、シャルさんから嫌われているのでしょうか?
魔法使いの家は、危険がいっぱいです……魔法云々や毒薬とかではなく、体格差的な問題で。
早く人間に戻して下さい、主……
仕事に戻るシャルの肩に乗り、ひたすらしがみついて落ちないようにする、という事で合意を得たユーリは、階段を下りて一階のキッチンへ向かった同僚の肩から屋内を見回した。
シャルの平素の視点は、彼女が普段見慣れた目線よりも遥かに高い。
先ほどカルロスに出したティーセット一式が乗ったトレーを一旦置いたシャルは、続いてランドリーに向かう。間取りとしては水回り関係はこちらの方に集中していて、それは裏の井戸水の水を使用する為だろう。
腕に引っ掛けていたカルロスのシャツとズボンに軽くブラシをかけて汚れを払い、ハンガーに掛けた。洗濯やアイロン掛けはまた明日行うようだ。
「せっかくですから、今日はユーリさんに畑のお世話の仕方をお教えしますね」
はぁ~い。
そんな諸々の動作をキビキビとこなすシャルの肩から滑り落ちないよう、必死に爪を立ててしがみついていたユーリは、それでも返事だけはなんとか返した。
カルロスに運ばれる際は、大抵腕に抱き上げられていたので移動も楽チンだったのだが。
同僚の腕の動きにつられてバランスを崩したりする、肩の上のユーリの体勢やバランスについて、シャルは全く頓着してくれない。
……こ、これがネコ好きと普通の人の対応の違いなのですね……
頑張るのよ、ユーリ! 万が一落ちたりしたら、蹴り上げられて踏み潰される……!
そんなこんなで、端からは微笑ましい光景に見えるのだが、本人としては割と地味に断続的な生命の危機を覚えていた。
先ほどから、今のユーリはネコであるにも関わらず、シャルと何故会話が通じているのかという素朴な疑問を本人に問いたいのだが。休むヒマ無く動き回る彼の肩にしがみつく事と、そんな同僚の様子に気を遣うでもなく、次々とご教授して下さるお仕事の説明をキチンと目に焼き付けて頭に詰め込む事に彼女はいっぱいいっぱいで、とてもそんな隙は無い。
シャルは肩にユーリを乗せたままキッチンの勝手口から裏庭に出ると、物置からじょうろを取り出し、ちょっぴりご機嫌なのか鼻歌混じりに井戸に釣瓶を落とした。
……シャルの肩の上から見下ろす井戸の中は、途方もない深さである。暗く、日が射し込まないせいで底を見渡す事も出来ないほどで、中がいったいどうなっているのか全く窺えない。
いつもの水汲みの際には、身長が足りずに見えなかった視点だ。少し怖いな……と、ぶるりと震えたユーリだったが、その時丁度シャルが釣瓶を引き上げようと腕を動かしたせいで、ズルッと前足が滑った。
お、おおおお落ちるーっ!?
「おやおや。ユーリさんは本当に、毎日賑やかですねぇ。
もしかしてやるかなー? とは思いましたが、本当に落ちそうになって慌てふためくとは。
見ていて飽きませんね、あなたは」
ぎゃにゃーっ!? と、パニックを起こしてシャルの服の鎖骨の辺りに全力で爪を立ててしがみき、下半身はブラーンと垂れ下がってしまっているユーリを、シャルはロープから手を離して抱き上げた。彼が引き上げ途中だった釣瓶はまた底へと落下してしまったが、ユーリとしてはそれどころではない。
「ユーリさんが井戸から転落してしまってはいけませんから、水瓶に貯めてあるお水を使いましょうね」
フーッフーッ! と興奮状態のユーリの前足を自らの服から離させ、宥めるように頭を撫でられた。
しばらく同僚から大人しく撫でられいたユーリは、もぞもぞともがいて再び彼の肩の上に乗ると、ショボーンとうなだれた。
すみません、シャルさん……お仕事の邪魔をしてしまって……
「いえいえ、お気になさらず。予想以上に面白かったですから」
……はい?
余計な仕事を増やしている、邪魔臭い存在でしかないと思われるユーリを肩に乗せたまま、シャルはクスクスと笑みを零している。
訳が分からず首を傾げるユーリに構わず、彼は水瓶からじょうろにお水を注ぎ、畑へと向かった。
魔法使いカルロスの自宅兼お仕事場所は、周囲を人気のない森にぐるりと囲まれた中にひっそりと建つ一軒家である。
二階建ての家屋と、井戸がある裏庭、そして前庭には広大な花畑が広がっていた。
門扉の向こうには、人工的に整えられ作られたと思しき小路が森の中へと続いていて、あの道を歩いていけばそこそこ大きな街道まで出られるらしい。
「花によっては、少しお世話の仕方を間違えただけで枯れてしまうような物もありますから、しっかり覚えて下さいね」
はぁ~い!
色とりどりのお花や薬木、食用のお野菜、それぞれに世話の仕方が違っている上に種類も多彩で、名前を覚えるだけでも一苦労だ。
ネコの姿に変化すると、人間の姿の時よりも耳や鼻がよくなったという訳ではなさそうだが、花畑に入ると様々な香りが鼻腔をくすぐる。
このお花、良い匂いがします!
肩に乗ったまま、この花からは精油が採れて……云々と、水やりをしながらシャルが行う解説を今の状態ではメモが取れないので必死に頭に叩き込んでいたユーリは、不意に好みの香りを漂わせる花を見付け、鼻を近づけてフンフンと匂いを嗅ぎ、うっとりしつつシャルに感想を告げた。
「こんなに様々な花に埋もれていて、どれからどんな匂いがしているのか、嗅ぎ分けられるんですか?」
ユーリの発言に驚いたようにシャルは水やりの動きを止め、まじまじと肩の上のネコなユーリを見つめる。
……何かおかしかったですか?
「ああ、いえ……大気中に広がる香りの濃度や勾配を嗅ぎ分けるのは調香師の基本ですから、ユーリさんにその素質があるのはマスターが喜びそうですね。
その点、わたしは駄目ですねぇ。うっすらした残り香や特定の匂いを嗅ぎ分けるのは得意なんですが、周囲をこんなに強い香りに囲まれると、逆に鼻が曲がりそうで」
それは、強い芳香は悪臭に感じるっていう感覚ですよね?
シャルさんは嗅覚が優れていらっしゃるんですね。
「わたしは鼻だけではなくて、耳も良いんですよ?
わたしの姿が見えないからと安心していて、実はわたしの耳に聞こえる範囲内でうっかりと愚痴や独り言を呟いたマスターの、恥ずかしい秘密なども拾い上げたり……」
ふふふ……と含み笑いをしつつ、人差し指を軽く唇に当てて内緒ですよ? なポーズを取る同僚に、ユーリは思わず身を乗り出した。
ええっ、なんですがそれ!?
なんだかとっても気になります!
「そうですね、ここだけの話なんですが……」
ワクワクと、肩の上で更にググッと身を乗り出したユーリだったが、笑みを浮かべていたシャルはふと言葉を切って表情を真顔に変え、門扉の方を振り向いた。
目を細めるようにして彼が見据える方向に、ユーリも同じように目をやってみるが、特に異変は見当たらない。
シャルさん、どうかしました?
小首を傾げて問い掛けるユーリに答えず、シャルはすっと片手を軽く宙に持ち上げた。
何事だろうかと息を詰めて見守るユーリの目の前を、ヒラヒラとした何かが横切る。そしてそれは、シャルの翳された人差し指に止まった。
思わず我が目を疑いまじまじと見つめてみるが、ユーリは初めて目にする不可思議生物としか言いようが無い。
例えて言うならばそれは……蝶だ。
光を発する真っ白い蛍光ペンか何かで一筆書きに蝶の形状を描いたら、こんな感じだろうか。それが動いて、どこからともなくヒラヒラと飛んできて、シャルの指先に止まっている。
彼はそれを、しばらく無言のまま見つめていたが、いつもは柔らかい笑みを浮かべている事が多い表情をやや固くして、ユーリに目をやった。
「ユーリさん、今日のお仕事の説明は中断します。
……どうやら、これからお客様がいらっしゃるようです」
お客様、ですか?
契約不履行として、ユーリがカルロスに再召喚されてしばらく経つが、この家に来訪者が訪れるなど初めての事だ。
それにしても、ただお客が来るだけにしては、シャルのやや強張った表情の意味が気にかかる。
「ええ。どうやら招かれざるお客様も、ご一緒にいらっしゃるようです」
……『招かれざる』?
いったいどんな方なんでしょう。怖い方ではないと良いのですが。