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悠里は大学への進学が決まると、それまでの十八年間を過ごしてきたマンションを引っ越す事にした。
1人で暮らすには広い上に、そこは母との思い出が深すぎて、ふと気が付けば暗くなってしまう自分に気が付き、心機一転して新しい環境で頑張ってみようと決意したのだ。
新しく借りたアパートは手狭だが1人で暮らす分には別段問題無く、悠里は慎ましく大学生活をスタートさせた。
彼女が通っていた高校はとある大学の附属であり、外部を受験した悠里は進学した大学に知人が誰も居ないという状況に不安を感じていたのだが、入学早々から新入生は皆一様に、漏れなく凄まじい勢いでのサークル勧誘活動の洗礼を受けた。
気が付けば同じ講義を受ける人達と挨拶を交わしているようになったし、サークルの歓迎会にも巻き込まれ……悠里の大学生活は順調なように思われた。
そんな暮らしがどこかズレ始めたのは、とある同級生の交際を断ってからの事だった。
彼は野々村といい、悠里と同じ学部で同じ授業を選択していた。同じサークル勧誘にも巻き込まれ、更に、暮らしているアパートも実は同じで部屋がそれぞれ三階と一階という近場である事が判明。
これはもう、ご近所付き合いは避けられないという事で、悠里は頻繁に顔を合わせる彼に、いつも笑顔で接するように心掛けるようにしていた。
そんな春も終わりのある日に交際を申し込まれたが、悠里にとって野々村はピンとこない男性であったので、迷わず断った。
それからだ。野々村から付きまとわれだすようになったのは。
初めはそう、偶然だと思っていた。
生活の範囲が重なっているのだから、ちょくちょく顔を合わせるのは当然だし、交際を断られたから話し掛けてくるのが気まずくて、距離を取って背後を歩いているのかな、ぐらいに思っていた。
それが毎日毎日、外出するたびに繰り返されるようになれば、流石に悠里も野々村の行動は異様ではないかと気持ちが悪くなってきた。
大学の知り合いに相談してみても、
「同じアパートに住んでて、講義も重なってるなら、行動時間が同じになっても当然じゃない?」
と、怪訝そうな顔をされるだけ。
野々村は品行方正な上に人が集まれば自然と取り纏め役を買って出るような、信頼感のあるリーダーシップを持つ男で通っており、逆に悠里は自分の考えを口にする事が下手で、内気で交遊関係は薄く浅く、掴みどころのない子という扱いでいた。
悠里が付きまとわれ困惑している、という事を相談した内の1人が野々村本人に直接その事を問い、
「は? 付きまといって何ソレ?
オレと森崎さんは、家近いってだけでグーゼン顔見る機会が多いだけじゃん?
あ、もしかしてオレが冗談で告ったのすっげー気にしちゃってる? 森崎さんって、自意識過剰だね!」
講義が始まる寸前の、同じ授業を受けるクラスメート達がほぼ全員集まっている中、大声で冗談として笑い飛ばしてみせたのだ。野々村に合わせるように、その場で聞いていた同級生達がクスクスと笑い出す。
衆人環視の中で侮辱されたと、頭の中が不満でいっぱいになった悠里が野々村へ抗議するよりも早く、静かに入室した教授が壇上へと立ち、教室は一瞬にして講義に対する集中へと空気が変わってしまった。
悠里が自らの口下手を、心底悔しく思ったその日。彼女は周囲から『自意識過剰』のレッテルを貼られたのだ。
付きまとわれ、精神的な被害を負っていこうとも、『偶然』の一言で片付けられるのは不愉快極まりない。
このアパートを出ようと即断した悠里は、大学に通える範囲でとにかくこのアパートからは逆方向に部屋を探した。
引っ越しの資金を稼ぐべく、大学からもアパートからも一駅離れた、幼児や子供向けのおもちゃ屋でアルバイトを始める事にした。
全ては少しでも、野々村から離れる為。
迷惑電話や家宅侵入や盗難など、実害がなければ「気のせいなのではないですか?」と、取り合ってもくれない警察は頼れない。
悠里が赤ん坊の頃から、彼女名義の口座に定期的な振り込みをしていく、正体を明かそうともしない『足長おじさん』にも、母亡き今、連絡を取る術など分からない。
悠里は自分の頭で考えて、自分の力で難局を潜り抜けねばならなかった。
幾日過ぎようとも、野々村の行動は止む気配など無かったし、アルバイトを終えた夜道でも、バイト先からアパートまでただ黙って身を隠しつつ後を着いて来る姿など、最早嫌悪感しか覚えない。
悠里は駅までの道でピタリと足を止めた。
頭上のカーブミラーに映し出された、悠里の背後で街灯の灯りに照らし出された電信柱にサッと身を隠す野々村を、無言でしばし鏡越しに睨み付ける。
これが、あくまでも私の自意識過剰の勘違い、偶然だなどと言い張るのか?
幼児や子供向けのおもちゃ屋へなんて、お前が頻繁に近寄る必要がどこにあると言うんだ。
なるほど、確かに悠里は暴行や盗難といった、直接的にも間接的にも迷惑行為は受けていないし、奴は決して距離を詰めてこようとはしない。
ただ気が付けば背後から、ねっとりと粘着的な眼差しが送られてくるだけだ。
悠里はふいっと視線を外すと、駅までの道を早歩きで歩き出した。背後からの足音も、全く同じ速度で付いて来る。
逃げなくては。
アレは危険だ。
何も被害が出ていないのだから、対処のしようがない? ふざけるな。『何か』が起こってからでは、遅いのだから……!
更に速度を上げようとした悠里は、突如黒い靄のようなモノに巻き付かれてつんのめった。
「な、何よこれ……!?」
逃れようともがくも、靄はギリギリと悠里の体に巻き付いて締め付けてくる。
駅前の明るい大通りへの光も、ざわめく声も途絶え、周囲の景色が一瞬にして真っ暗になった。
そして悠里の眼前に突如として、ゆうらりと巨大なアティリオの顔が浮かび上がってきた。
「捕まえたぞ、よくも散々引っ掻き回してくれたなこのアホネコが……!」
い、いやーーーっ!?
「さっきからうるさいです」
じたばたともがいていた悠里は、突然衝撃を受けて地面へと放り出された。
何がなんなのか、状況が掴めずに自分の体や周囲を見回してみる。
悠里は……いや、ユーリはまたしても、黒い毛並みの子ネコの姿になっていた。暗がりの中でも見えた、ピンク色のぷにぷに肉球は相変わらず無駄に愛らしい。
ついで、天井はそこそこ高くて壁は石造り。おかしい、ユーリの主であるカルロスの家はこんな冷たい雰囲気の壁や天井ではない。
床は薄いカーペットが敷かれているが、お世辞にもフカフカとは言い難く、ユーリは寝転がっていた床から身を起こした。
すぐそばにベッドの足と、シーツが今のユーリの目にはカーテンの如く垂れ下がっていて、大きな窓からはガラス越しに月夜が見える。
……確か、遅くまで写本作業を行っていたユーリは、カルロスの為に連盟が用意した宿泊用の一室で、主や同僚と共に休んだ筈だ。
相変わらず、カルロスの手によって子ネコの姿に変えられたが、部屋は一つでベッドも一つしか無いのだから、人間の姿である方が居心地が悪い。
寝る時はイヌバージョンになるシャルの見ている目の前で、カルロスと添い寝させられる状況が恥ずかしくて堪らなかったのだが、恒例の『寝ぼけた主に潰されかけてぐぇ~!?』を経て脱出し、そのままグッタリと眠りに就いた……筈なのだが。
何故今、私の目の前では、シャルさんにがっちり押さえ込まれてのし掛かられ、あわや爪で引き裂かれそうになっているアティリオさん、なんて情景が繰り広げられているのでしょう?
「全く……寝ているところを叩き起こすだなんて、命知らずですねアルバレス様?」
窓から差し込む仄かな月光に、ギラッと剥き出しにした牙を光らせながら、口調だけはいつもの呑気な調子で同僚は語りかける。内容は剣呑であるが。
「僕は、お前を起こしてなどいない」
「部屋に無断で忍び込んで来た挙げ句、ユーリさんにうるさく騒がれたらわたしが起きて当然ではないですか」
シャルは迫力満点のデカい口で、あふ~とどこか不釣り合いで間抜けな欠伸を漏らすと、
「アルバレス様、わたしは寝ているところを叩き起こされるのが、大嫌いです。このまま喉笛を食い千切ってやりたくなったので、噛んでも良いですか?」
「良い訳があるかーっ!?」
シャルさんダメですーっ!?
アティリオの悲鳴とユーリの制止が綺麗に重なった。
シャルはうっそりと、ユーリの方へと鼻面を向けてくる。
ユーリは慌てて、アティリオを押さえつけているシャルの側へと駆け寄った。
「しかしですねユーリさん。この状況なら、寝ぼけてうっかり……と、言い張れるような気がするんですよ。ああ眠い眠い」
……シャルさん、冗談じゃなく本当に寝ぼけてません?
それにですね、今アティリオさんをザックリ殺っちゃったら、お掃除とかお洗濯といった後始末が、物凄く面倒だと思います!
「……お掃除、ですか。確かに面倒ですね」
「何故今、口にする問題が掃除!?」
どこか琥珀色の眼差しはトロンとしていて、ユーリのかなりとんちんかんな懸念にて思い止まって欲しいという呼び掛けに、シャルはほけーっと考えた後に、こっくりと頷いて同意を示した。
ユーリの鳴き声の意味は、やはりアティリオにも分からないらしく、シャルの独り言のようなその言葉に、思いっきり納得がいかなさそうにしている。
ええい、黙れ諸悪の根源!
乙女と肉食獣の眠りを妨げるな!
にゃー! にゃー! と、激しく鳴き喚くユーリを、怪訝そうな眼差しで見下ろしてくるアティリオ。
のっそりと彼の上から身を起こして一歩離れたシャルは、
「アルバレス様、ユーリさん曰わく『乙女の寝室に夜這いを仕掛けてくるとは不届き千万! 一昨日来やがれ!』との事です」
「お、おと……よば……!?」
いつも通りののほほんとした声音で、シャルが同僚の発言をかなり意訳して伝えて差し上げたところ、床から起き上がっていたところであった紳士ではあるらしいハーフエルフ魔術師は、驚愕の眼差しで黒ネコを見下ろしてくる。
……嫌がらせでそんな言葉を選んだのか、シャルの耳にはユーリの発言内容はそういった趣旨に聞こえたのか、非常に不安になる通訳だ。
「今後はユーリさんを狙うのでしたら、わたしやマスターの目が行き届かない範囲でお願いしますね。迷惑なので」
シャルはそうアティリオに言い捨てると、この騒ぎでも目を覚ます事なく、ぐーすかと平和に寝入っているカルロスが横たわっているベッドの足下に、ごろ~んと寝そべった。
そして今宵もシャルの方からは、ぐー、ぐー、という大きな寝息だかいびきだかがやっぱり即座に聞こえてくる。相変わらず寝付きが良すぎなのではないですか。
唖然としているアティリオが我に返る前に、ユーリはサササッとシャルの前脚と肩の付け根の間辺りに身を寄せた。シャルのフカフカの毛皮は寝心地が良い。
「くっ……おのれ、暴虐クォンの次は、小賢しいクォンだとは……!」
アティリオは口惜しげに呟いたが、寝込みの襲撃は失敗したと判断したのか、「邪魔をした」などと言い残して、静かにドアを開け閉めして出て行った。
アティリオはそもそもシャルのイヌバージョンを知っていて尚、彼と真顔で対話しようとしていたらしい。結構肝が据わった御仁だ……
呼吸に合わせてゆっくりと上下するシャルのお腹と、前脚に擦り寄りつつ、ユーリは目を閉じた。
今のシャルは天狼でユーリはネコなのだから、こんな風に擦り寄っていたって良い筈だ。
彼はしっかり寝入っている事を確かめつつ、シャルの体温と、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ユーリはそっと日本語で呟いた。
『シャルさん、好き』
彼本人からは、自分など全く眼中に無いと理解していても。
ユーリの心は自由だ。