魔法使いのお仕事
羽ペンのインクが薄れた。また、ペン先をインク壺に浸すべきところだが、こう頻繁にインクが切れるせいで集中が途切れる書き物というのはユーリには初めてで、どうも上手く勝手が掴めない。
ボールペンや鉛筆、キーボード入力では、書きたいものを書きたいだけ書き綴っていられたものだ。世界が違えば事情も違うとはいえ、羽ペンというものは彼女には扱いが難しい代物であった。
あまりの字の下手さに、何年もの間書道に励んでいた経験があるが、羽ペンは小筆よりもずっとか細くて握りにくい。
チラリと、目だけを上げて正面の席に着くシャルを見やった。
重なった本や道具が机の上にはゴチャゴチャと散乱しているせで、ユーリからはよく見えない彼の手元に集中しているのか、その眼差しは机の上に注がれている。
しかしふと、ユーリの方からの視線を感じたのか、シャルは顔を上げて『どうかしましたか?』と尋ねるように小首を傾げた。真顔だったその顔に、ふわりと小さな微笑みを浮かべて。
勝手に頬に熱が集まるのを感じながら、ユーリは何でもないと示すように首を左右に振って、書きかけの紙に視線を向ける。
なんで……なんでさっきから、無駄に心臓が活発になったりしてるんですか、私ーっ!?
考えちゃいけないと言い聞かせても、何か色々な感覚がぐるぐる駆け巡ってくる。
よもや自分のこの慌てっぷりが主には筒抜けになっているのではないかと、こっそりと様子を探ってみるが、カルロスはひたすら作業に没頭しているようで、一安心だ。
今の私の心境を主に読まれたら……ヤバい、恥ずかしさで発狂する! テレパスなんて、なんでこの世界にはあるのーっ!!
カルロスから写本という仕事を与えられたユーリであるが、慣れない作業に苦戦しつつ四苦八苦している間に……非常事態の危機から脱出し、ようやく平常心が戻った彼女は、ふと自らの行動を振り返ってしまったのだ。
そうして、次々と襲いかかってくる様々な感覚や感情に、(私ってば何やらかしちゃったのよーっ!)と、羞恥に堪えない状態に追い込まれ、先ほどから挙動不審な行動を繰り返す羽目になっていたのである。
子ネコ姿のユーリはカルロスの使い魔であると、アティリオにバレた。
これはもうしょうがない。初めから条件が整い過ぎていて、敵の洞察力が予想以上に優れていたのだから。
クォン契約の現実を見た。
あの光景は思い出してはダメだ。思い出してはダメだ思い出しては……
と、とにかく。
私、シャルさんに何やった?
胸元に擦り寄ったり、主が迎えに来るまでべったり張り付いて離れたがらず……
いっぱいいっぱいだったんですよ、色々と。
怖いとかそんな状況を通り越していた時に助けられまして、すっごい安心して、ぐりっぐりすりっすりでブラッシング中はもういわゆる安堵と恍惚状態に……
再び、シャルの顔を眺めてみる。気配に敏感な彼は、じっくりと見つめる隙さえ与えずに本当に即座に反応して見返してきてしまう。
心臓が無駄に激しく高鳴る中、ユーリが頑張ってへらっとした笑みを浮かべてみせたら、シャルも微笑みを返してきて……それ以上は目を合わせていられず、慌てて視線を外して俯き、破裂するかと思った胸元を押さえつけた。
だからっ! シャルさんはいつも笑顔であって、あれはいわゆるポーカーフェースの笑顔版っ!
あの微笑みに意味なんかないんだってば!
何故だ。
何がどうしてこうなった?
目が合っただけで死にそうになるとか、側にいるだけで落ち着かないとか、そっちに視線をやらずにはいられないとか……
どうして、こんな事に。
――わたしはあなたとはかけ離れた種なのです。
シャルさんは、天狼さんなイヌさんですもの。
――異性以前の存在相手に、その態度は滑稽にしか見えないんですが。
シャルさんにとっては私なんて、『非常時に食べる為の家畜』だし。
――そんなに頼りない生き物なら、何故養う必要があるのか、わたしにはちっとも分からない。
何より私、シャルさんから疎ましがられていますし……いけない、落ち込んできた。
ユーリは頭を振って、仕事に集中しなくてはと、改めて原本に視線を落とした。
彼女が今書き写しているのは、『デュアレックス王国外遊録』という、マレンジス大陸の中心に位置する大国を訪れた人物の記録である。
かなり古い本であるようだが、その記述によると、デュアレックス王国はマレンジスのどの王国よりも王朝の歴史が古く、その開闢は一万年も前に遡るとまで記されていた。
にわかには信じがたい話ではあるが、デュアレックス王国はエルフ族の王国であり、王族であるハイエルフの寿命は千年を超えるなどと書かれている。
マレンジス大陸で唯一エルフ達が住む国であり、彼らのみに許された特別な能力である魔術によって、魔法文明で栄えた素晴らしい王国だ、と、本の中で筆者は絶賛。かなり傾倒していたようだ。
本を読みつつ書き写し、ユーリはその内容に首を傾げた。
この本が書かれてからどれほど経ったのかは分からないが、現実としてバーデュロイ国に魔術師連盟なる組合が存在し、多数のエルフ達が暮らしている。
カルロスはエルフではない魔法使いだが、ハーフエルフの魔術師が存在しているのだから、厳密に言えば純血のエルフのみが扱える特殊技能、という事でもないのだろう。魔法使いの素養とはつまり、この『エルフ族の血を引いている』事を指すのではないのか。
他国では魔法使いは迫害の対象になる、と、主は言った。
連盟が解体されて国の保護を失う事を、所属している術者達は非常に恐れている、だから国には表立って逆らえないのだ、とも。
つまり、エルフ達が住んでいるからといって、バーデュロイ国はデュアレックス王国が名称を変更した国家、という訳ではない。
では何故、エルフ達は自分達の王国に帰らないのだろう。
国におもねり、魔術師は役に立つのだと苦労しながらアピールして民衆の理解を得ようとするのは、ひとえに安住の地を求めているからではないのか?
疑問を抱きながらパラリとページを捲り、ユーリはそこに記された一文をじっと見つめた。
……大陸の中心に位置する、マレンジス随一の霊峰にして最高峰。レデュハベス山脈の頂上に、デュアレックス王国の壮麗にして荘厳なる王城が建てられている。
このような場所にここまで広大にして美しい建築物を建てられるなど、まさに神の御業に等しいと言わざるを得ない……
以前、物凄く高い山を見つけたユーリが、あれは何ですか? と尋ねた事があった。その時彼女の主は冗談めかして『魔王城』とお答えになった。
お城なんて影も形も見えなかったのに、魔王城と。
つまりあの山そのものが、王城を想起させる存在である事の証ではないのか?
間違いなく、あの地は主の祖先の故郷だとも口にしていた。あの山周辺が、デュアレックス王国の領土だったのだとすれば。それは彼が、自らをエルフ族の末裔であると自覚していたからで……
ユーリは、あの山から魔物が湧き出てくるのだと教わった。
エルフ達の王族が暮らしていたかつての居城は魔王城と呼ばれ、現在かの山からは魔物が湧き出てくる。
何万年もの間栄華を誇った、エルフ達の王国デュアレックスは現在、恐らくはもう存在しないのだ。
いったいどうして、魔術によって栄えた王国が魔物の住処になったのかは不明だが……
……こちらの世界も、色々複雑なんですねえ……
インク壺に浸した羽ペンを再び滑らせつつ、ユーリは内心嘆息した。
何気なさを装ってそろりと視線を向けただけで、すぐにパチッと琥珀の眼差しと合う。
すぐさま視線をバッと外すものの、どうにも落ち着かずにイスの上で小さくもぞもぞしてしまう。
今現在、ユーリの前に立ちはだかった解決が難しい懸案とて、彼女個人にとっては複雑極まりなくこの後の生活が左右される、まさしく人生が懸かった最大の難事である。
ほ、本当にどうしてこうなってしまったんでしょう……
シャルさんなんて、意地悪だし驚かしてくるし、私を役立たずのオマケ扱いしてくる人……いやイヌさんなのにっ!
けれども、彼が彼女の名前を呼ぶ時の響きはいつだって穏やかで。
非常に面倒そうにしながらも、ユーリの世話を焼いてくる手付きは優しかったり、撫でてくれる手のひらは温かかったり、する。
面倒に思われてるだけならば、頑張ればまだ挽回の余地があるのかもしれないけれど。
未だ役に立つと認められていないのならば、地道に働いてこれから着実に成果を出していけばいい。
けれど、どんなに想ったところで、どんなに頑張ったところで。
この世の中には、当人同士ではどうにもならない現実的な問題や明確な事情で、叶わない相手だって……いる。
私は人間で、シャルさんは天狼さんで。
例えば私が、ネコによく姿を変えられるからといっても、オスネコさんに惹かれたりするなんて考えられないように。
シャルさんだって、人間の姿にされるからって、人間の女の子に言い寄られても、そりゃあ困惑するだけですよね。
コツンと、机の上に額を落としても、それでも顔の火照りは引かない。
怖いと。
恐ろしいと。
独りぼっちだと嘆いて、泣き出しそうになっていた矢先に、この世界で恐らくは唯一同じ境遇の人に『迎え』に来られて。
ここに居れば安心で安全だ、なんて、そんな幸福感さえ覚えて。
そんな錯覚めいた感情から、こんな気持ちまで抱いたりして。
私、本当にバカだなぁ……
報われる事なんか、未来永劫有り得ないのに。