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まるでドーナツのように、ぐるりと綺麗な円形を描く廊下に飛び出たユーリは、直感的に左手に向かって走り出した。進行方向を左右どちらを選んだとしても、その気になれば一周して同じ場所に戻ってこられるのだから、悩むだけ時間の無駄だ。
周囲の様子を窺いつつ、走りながら建物中央の吹き抜けへチラリと視線を向ける。
エレベーターは使い方がイマイチ分からないし、起動には使用者の魔力やキーワードを口にする必要があるかもしれない。
だが万一、今のユーリにも利用可能だったとしても、だ。遮る壁も無い丸見えのエレベーターでは、追っ手を振り切れないから却下だが。
カーブを描く廊下は人気が無く、背後からは騒がしい足音がドタドタとユーリを追い掛けてくる。
このままあてどなく走り続けるよりも、どこかの部屋に逃げ込み、追っ手ことアティリオをやり過ごして休みたい。猛ダッシュしながら目星を付けた、適当な部屋のドアノブ目掛けて全力でジャンプ!
……届いた! やった、本部のドアノブは家よりも低い場所にあるんでしょうか?
両前足をドアノブに巻き付けるようにして、飛び付いた勢いを利用して、振り子のようにノブを回す。そして同時に全体重を乗せつつ、ドアに体当たりだ。
さあ、開けゴマーっ!
無意識のうちにそんな叫びを上げつつ、ユーリはドアを開……こうとしたのだが、開かない。ユーリが木製のドアとぶつかった際に、ガッ! と、盛大な音を立てただけで、それはビクともしない。
ノブはしっかり回ったので、鍵は掛かっていない筈。諦めずに身を捻って再び体当たりを仕掛ける。
先ほどの書庫のドアは、室内に向かって開くタイプだった。さほど離れていないこの部屋のドアも、同じように廊下から押して開れると予想していたのだが、ユーリの二度目の全力体当たりでも、そのドアはやはり動かない。
な……!?
まさか、このようなところで合間見える事になろうとは、イスカリオテのユダよ……!
相変わらず、許可なく勝手に命名したドアのノブにしがみついている前足が、ぷるぷると震えて痺れてくる。
流石にいつまでもそこにぶら下がっている事は出来ず、ユーリはついに力尽き、床へと滑り落ちた。
「ふっ……いい、ざまだな、黒ネコ……ごとき、が……!
身軽さが、仇と、なった、か……!」
ぜひゅーぜひゅーと、むちゃくちゃ息を乱しつつ、背後から走ってきたアティリオは、しかし台詞だけは余裕綽々な内容を言い放ちつつ、尻餅をついて呆然とドアを見上げるユーリに腕を伸ばしてくる。
彼の接近にハッと我に返ったユーリは、その場で体勢を整え直すと同時に、アティリオが踏み込む為に大股になった隙間へと全力で滑り込んだ。
秘技、トンネルくぐり!
ネコ超絶可愛がり主に、日々付き合わされている飼いネコを舐めんなーっ!
「なあっ!?」
床に転がっていた子ネコに意識を一点集中させていたアティリオは、獲物の予想外の動きに対応が遅れ、肩をドアへと強打する羽目になってしまった。
ぶつけた肩を押さえてうずくまるアティリオを尻目に、ユーリは再び全力で駆け出す。
どこか……どこか、時間が稼げるところは!
カルロスの用事が終わりさえすれば、しもべを危機から救い出してくれる筈だ。
それまではなんとしても、捕まる訳にはいかない。捕獲されたが最後、どのように魂が抜き取られるのかは分からないが、どのみちユーリに明日は無いのだから。
だいたいっ! 真正面から挑んでも勝ち目が無いから、シャルさん相手だと説得を選択したくせに、私は弱っちそうだから実力行使だなんて……納得がいかなさすぎです!
あの人にはやっぱり、様を付ける必要は無いっ!
うなーっ! と叫びながら逃げ場を求めて廊下を突き抜け階段の手すりを滑り降り、下階へと駆け込む。
どこか、逃げるのに適した場所は無いかと視線を飛ばす。すぐ上の階とは違い、こちらの階は廊下を行き交うローブ姿の人々が大勢見受けられた。
何か、魔術師や魔法使いって、耳が尖っていて美形な、エルフやハーフエルフだらけなのですね。我が主の耳は丸いですが、やっぱり美形ですしねえ……
どうやら本部の魔術師とは、エルフの血を引く者が大多数を占めているらしい。
きょろきょろと視線をさ迷わせたユーリの瞳は、年若い少女魔術師達が、きゃいきゃいお喋りしながら歩いてくる姿を捉えた。
あれだ!
ユーリは迷わず彼女らのそばへと駆け寄り、その足下に纏わりついてにーにーと甘えた鳴き声を出す。
「えっ、こんなとこにネコ?」
「リボン付けてるし、飼いネコよね?」
「じゃない?」
「可愛い~人懐っこい~」
突然廊下に現れたネコに懐かれて困惑している風の少女魔術師達だったが、幸いな事にネコ嫌いやアレルギー体質の少女は居なかったらしく、4人のうち1人の少女に抱き上げて頂く事に成功。
やはり、可愛い容姿という利点を生かさない手は無い。
人懐っこく可愛い生き物を、少女達ならば高確率で好意的に考えて頂けると期待したが、実に有り難い。
後はすりすりと頬擦りしたり愛想を振り撒いて、出来れば追っ手であるアティリオを追い払って頂ければ完璧である。
「誰のネコなんだろうね?」
「受け付けで聞いてみようよ。多分、連れて来た人把握してると思う」
一階に下りようか、と、少女達の意見が纏まったところで、
「きっ、君達……!」
階段を下りて来たアティリオがようやく追い付いてきた。被っていたフードは落ちていて、汗だくかつ、頬に可愛く小さく刻まれた格子模様が露わになっている。
「そっ、そのネコは、僕の……」
『僕の』なんと言うつもりだったのか、言い淀んで困惑したようにユーリを見つめてくる。
ユーリは勿論、アティリオが近寄ってきた段階で、彼に向かって毛を逆立ててフシャーッ! と威嚇。『私、この人キライ』を少女達に熱烈アピールだ。
「……アティリオ先輩の、飼いネコなんですか?」
「思いっきり嫌われてるみたいです、けど……」
「あははは、先輩ってば、この子に引っかかれたんですか!?」
「男ぶりが上がってますよ、セ~ンパイ!」
キョトンとした表情で見詰めたり、爆笑したりと、少女らの反応は様々だが、アティリオは小生意気な後輩達相手でもあくまでも冷静に、
「僕の飼いネコじゃなくて、知人から預かったネコなんだ。
だけどどうも、僕とは相性が悪いらしくて……」
ユーリの引き渡しをお願いしている。
一応、ユーリがカルロスの使い魔であるという事は隠すつもりであるようだ。
彼女のプランとしては、アティリオが少女達からやや強引にユーリを奪い取ろうとしたせいで少女達が反発して、結果的にアティリオを遠ざけてくれるのではないか、と考えていたのだが。
どうやらアティリオという男は、ユーリが考えていた以上に女性に対して紳士的であるらしい。オマケに、後輩達からの受けも悪くない先輩でもあるらしい。
ウチの先輩とはエラい違いです……あ、何故だか涙が。
「アティリオ先輩にも、意外な弱点があったんですね」
「もう嫌がられて逃げられないように、ちゃんと捕まえておかなきゃですよ?」
ここが敵のホームグラウンドである事が、見事に災いした。アティリオに元々好意的だったらしい少女は、腕に抱いていたユーリを彼に向かって差し出し……
「ああ、有り難う」
額の汗を拭って、受け取ろうと手を伸ばしてくるアティリオの笑みが、ユーリの目には悪魔の微笑みに見えた。
捕まえられる前に、遠慮なくガブッと奴の指を噛み、最早保護は望めない少女の腕の中から飛び下りる。
「つーっ!」
「見事な嫌われようですね、先輩」
「あんなに人懐っこい子なのにねえ」
「あー、ほら先輩、早く追い掛けないと見失っちゃう!」
「っ! 待てこのアホネコ!」
「アティリオ先輩頑張って~」
駆け出すユーリの背後で、そんな呑気な会話が段々遠ざかってゆく。
再び階段に飛び出したユーリは、何段も駆け下りて、更にもっと下の階へと逃走。元々、カルロスを待ちながらシャルとお喋りしていたのがどの階だったのかが曖昧だが、さして内装に変化が無い塔の内部を、無我夢中でぐるぐる回りながら階段を下りていたせいで、元の階からみて何階分を下ったのか、最早さっぱり分からない。
ユーリは廊下へ出て周囲の動きをさっと一瞥。
そこはまたしても、人気の少ない閑静な廊下。そんな中、彼女の間近で動くものがあるとなれば、自然と注意が向く。
それは丁度ドアを開いて室内へと入室しようとしている1人の魔術師で、ユーリはこれ幸いとその部屋を逃亡場所に決め、魔術師さんの足に蹴られないように気をつけつつ、コッソリ室内へと侵入した。
うっかり尻尾が挟まれるようなミスも無く、背後で無事にパタンと閉じられるドア。
先ほどアティリオは、ユーリ1人ではドアが開けられない様子を目撃したのだから、きっちりとドアが閉じられた部屋は無意識のうちに初動捜査からは除外する筈だ。
あとはこの部屋に入った魔術師に見つかって追い出されないよう、物影に隠れてやり過ごしてしまえばいい。
それにしても暗いですね……いったいここは、なんの部屋なんでしょう?
ユーリは室内をきょときょとと見回すが、窓には鎧戸が下りていて、光源は天井で小さく淡く輝く魔法の輝きのみ。
大きな魔法陣が部屋の床面積を占めており、家具らしき物は見当たらない。
ユーリは物音を立てないようそろそろと歩いて、床の隅に放置されていた分厚いハードカバーの本の影に隠れてうずくまる。
「理論は間違っていないはずだし、星の巡りも理想的な配置だ。
後はこの香が合えば……」
室内には先ほどの魔術師が1人きりで、魔法陣の中央で何やら香を焚き始めた。ユーリの位置からでは後ろ姿しか見えないが、声からするとどうやらまだ年若い少年らしい。やはり彼もまた、耳が尖っている。
彼は手にしたスタッフを一度振り上げて頷くと、魔法陣の上から下がる。
そして眼前に構えたスタッフを両手で握り、何やらブツブツと唱え始めた。呪文に反応してか、床の上の魔法陣が淡く薄青い光を放ちだす。
なるほどー。どうやらこの部屋は、魔法の練習場所とか実験室とか、そういった目的の部屋なようですね。
いったい彼は、どんな魔法を使うんでしょう。
楽しみですが……ここに隠れている私に、危険は及ばないのでしょうか? 何だかちょっとだけ、心配です……
魔法に集中している少年魔術師に決して気取られないよう、息を潜めてじっとしつつ、ユーリは彼の様子を見守る。
いったいどれだけの時間が流れたのか、体感的には既に10分は経過しているが、少年は淀みなく呪文を唱え続け、魔法陣の輝きは増しつつある。
と、不意に少年がスタッフから片手を離し、左手に握ったそれを高々と掲げた。
「我が呼びかけに応えよ、異界にて試練の磨礪に殉じし、我と根源を同じくする者よ。
門よ開け、我が魂の同胞よ、疾く、我が前に具現せよ!」
ユーリには何か気になるフレーズをふんだんに盛り込んだ呪文を叫びつつ、少年はスタッフを魔法陣の中央へ向けてビシッと示す。
ゆらゆらと薄い煙を立ち上らせていた香が、ふと歪んだ。それはまるで、真夏の太陽光に晒されたアスファルトの熱気により、空気が歪んで映る現象を思わせる小さなボカシ。
しかしそれは次第に大きくなっていき、青い魔法陣の輝きとも、黄色い香の色彩とも全く違う、全体的に緑色の何かが混じり始めた。
明確に、そこにそれは形作られていく。鱗のようなもの、水掻きのようなヒレ、全体的に緑色の鱗で覆われたそれは。
……マーマン!?
これは、もしかしなくても召喚魔法ですよね?
そして、ユーリが先ほど耳に拾い上げた単語から考えるに、十中八九。
使い魔召喚……ううん。
これは、『クォン契約の儀式』だ……!
「やった……!」
少年が歓声を上げる。
なんという巡り合わせなのだろうか。まさか、偶然訪れた魔術師連盟の本部の一室で、その術を成功させている現場を目撃する事になろうとは。




