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ただ今、本棚の影からこんにちは、なユーリです。
「まったく……本当にちょろちょろちょこまかと!
今すぐ出てこい、黒ネコ!」
アティリオ……様、が、憤慨も露わに怒鳴り散らしつつ、本棚を一つ一つチェックして確認して歩いておられます。
「いつまでも逃げ回っていないで、カルロスの馬鹿に、さっさと魂を差し出せ小動物!」
そう率直過ぎるほど明確に、目的を叫んでいらっしゃいますが。アティリオ……様、内密にという我々との約束を守って下さるつもりはあるのでしょうか?
本棚の一番上に乗っかって暗がりにじっと隠れたまま、ユーリはこっそりと溜め息を吐いた。
またぞろ、あの同僚の人の良さそうな微笑と口車にまんまと乗せられて、彼女1人が貧乏くじを引かされたような気がしないでもない。
さて、いったい何故こんな状況になっているかというと……
カルロスが連盟の方々の前へ出頭している間、一緒にくっ付いて来たシャルとユーリが暇を持て余しつつゴロ寝しながらお喋りしていた控え室に、アティリオの足音が近付いてきているという。
あのー、シャルさん。
ここは一つ、敵が接近してくる前に、サッサと逃げ出しませんか? 幸い、部屋の鍵は掛かっていないんですし。
ドアを見据えたままの同僚に、彼の膝の上に乗っかっているユーリが小声でそう提案してみると、頭をぐりぐりしてきた。
「ユーリさんは本当に、わたしとは根本的なところで考え方が違いますね。
先ほど、わたしが本部の中を好き勝手にうろつき回るのは、連盟の人々に嫌がられていると説明したばかりではないですか」
あ……
同じく小声で返事を返してくるシャルの声音に、ふんだんに呆れた気持ちが紛れ込んでいて、ユーリは自分のうっかり加減に頭を抱えたくなった。
命を狙われるという非常事態に浮き足立ちになり、逃走の二文字が思考の中で何よりも最優先されてしまったのだ。
勝手な思い込みで忌避してくる魔術師などこちらとて放って置くまでだが、シャルが塔の中を1人で自由に徘徊していれば、それは向こうの恐怖心を煽って攻撃的に変化する可能性もある。
「それにそもそも、何故わたしが逃げなくてはいけないんです?
ここで大人しくじっとしているというのに、わざわざ向こうから乗り込んできて殺そうとしてくるというのならば、堂々と返り討ちに出来て好都合じゃないですか」
ズーン、と落ち込んでいるユーリを抱き上げて顔を合わせ、シャルは爽やかなまでにイイ笑顔でサラリと言い放つ。
「ええと、なんでしたっけ? ユーリさんの世界には、自分の身を守るべくそういった行為が当然の行動である、という言葉がありましたよね?」
……正当防衛、ですか?
「そうそう、『セイトウボウエイ』良い言葉ですよね」
笑みを崩さないシャルに、またしてもあむっと耳を噛まれてしまう。もしかしなくとも、彼は今空腹なのだろうか。
肉食獣の腹を空かせたままにしておくなどかなり危険だと、今はどっかでお偉い魔術師様とお話しているであろう飼い主に、切々と訴え言い聞かせたい。空腹時に喰われてしまうのは、非常食扱いのひ弱なユーリなのだからして。
今度はたいして痛くないのがせめてもの救いだが、逃げ出したくてもシャルのデカい手から脱出出来る気がしない。
シャルさんは平気かもしれませんが、私は狙われたら死にます。それはもう、踏み潰されるだけで昇天です!
『闘争』タイプのこの同僚が、『逃走』タイプであるユーリの身の安全を気にかけてくれるとも思えない。
「ならこうしましょう、ユーリさん。
アルバレス様がわたしを狙ってきたらわたしが返り討ち、ユーリさんを欲しがったらあなたは1人、捕まらないよう全力で逃げるという事で」
な、なんですかその結論?
などと、彼らが小声で話し合っている間に、「ここか!?」という叫びと共に、部屋のドアがやや乱暴に開け放たれた。そこには予想通り、連盟の本部の中でもきっちりとフードを被り、肩を怒らせたアティリオの姿が。
「おやおや。ご機嫌麗しゅう、アルバレス様」
「見つけたぞ、クォン!
さあ、潔く今すぐカルロスに魂を捧げろ」
室内には入らず、平然とベッドに腰掛けたままのシャルを真っ直ぐに見つめて、アティリオはどこまでも直情的に要求を突き付けてくる。
そして、それに対するシャルの返答はというと、
「嫌です」
短くばっさりと、いつもの柔らかい笑みを浮かべたまま、これまた率直だ。アティリオの頬がヒクリと引きつった。
うーん、アティリオ……様、って、最初に思ってたよりも意外と可愛い性格なのでしょうか。
それになんというかシャルさんって結構、アティリオ……様、の事、意地悪し返して楽しんでません?
……あぅ、ちょっ、シャルさんダメ、どこ触っ……!?
呆れたような感想を漏らしたのが癇に障ったのか、ユーリはシャルの膝の上に乗せられたまま、彼の手によって尻尾の付け根辺りを撫でさすられ、身悶えする羽目になった。
手付きが妙に雑だが、もしやシャルは、カルロスが子ネコ姿の時のユーリとスキンシップする様を何とはなしに見物していたせいで、彼女の弱点を知っているのだろうか。由々しき問題だ。
「お前は、最もカルロスの為になる選択とは何か、考えた事も無いのか?」
「わざわざそんな問答などしなくても、わたしを殺したいのならば、さっさと仕掛けてきたら如何です?」
話すのも面倒くさい、とでも言いたげな挑発的なシャルの言葉に、アティリオはフンと鼻を鳴らした。
「生憎、場所が悪過ぎる上に十分な距離が無い。
僕は適わない相手に真っ向から殴りかかるほど、命知らずじゃない。
だから常に、言葉で説得している」
「おや、残念」
胸を張って言い切るアティリオに、なんじゃそりゃと思わず脱力し……そうになったユーリだったが、シャルの手が相変わらず敏感な箇所を撫でてくるせいで、ひっきりなしに変な声が漏れる。お陰で正常な思考が保てず、なんだか段々、頭の中がボーっとしてきた。マッサージ中に、睡魔に誘われる感覚と似ている。
「それに、だ。僕はさっきから気になっている事がある!」
魔術遮断結界外であるらしいドアの向こうで、相変わらず仁王立ちしたまま、アティリオはジーッとシャルの膝の上で「に~、に~」と鳴いているユーリに視線を注いできた。
「カルロスのクォン、『ソレ』はなんだ?」
「なんだも何も、見ての通りの黒ネコですが?」
「仮にもお前の膝に平気で乗ってる生き物が、『見ての通りの黒ネコ』なんかであるものか!」
アティリオの一喝に、シャルの手の動きが止まった。
お陰でようやくまともに働き始めたユーリの思考回路が、一瞬にして警報を鳴らしてくる。
シャルさん駄目、シラを切り通さないと!
「……ああ、何を言い出すのかと思えば。わたしがマスターの飼いネコの世話をしていて、何がおかしいと言うんです?」
「人よりも動物の方がよほど警戒心が強い。まして、凶暴な人食い熊でさえお前の気配を察知しただけで怯えるような獣だ。
あの動物好きが今の今まで、ペットを飼えなかった元凶の癖に、とぼけようとは片腹痛い」
アティリオの『どうだ、ぐうの音も出まい』と言いたげな言い分に、ユーリは頭が痛くなってきた。
確かに、何故あの主が、ユーリやシャル以外の『普通のペット』を飼おうとしないのか、謎といえば謎ではあった。
その原因が、シャルの存在に怯えてしまうからとはまた、予想外だ。そして、アティリオが本当にカルロスの事をよく理解しているらしき事にも。
熊を脅かしたってシャルさん……ナニ、やらかしてらっしゃるんですか、あんさん……
ユーリのその力無いツッコミに対する、シャルからの返答は流石に無い。
しかし、黙りこくっているシャルの態度から、自らの推測に真実味が増したと確信したのか、アティリオはにっと笑みを浮かべ、
「さあ、カルロスのクォンと推定2匹目のクォンの黒ネコ!
さっさとカルロスに魂を捧げろ。そして奴と師匠に、正しいイヌとはどんな生物か思い出させてやる!」
ドンッ! と開け放されたままの木製のドアを叩き、高々と息巻いた。
彼の本音らしき叫びに、ユーリは思わずシャルの膝の上でコケた。
……いや、私も常々、シャルさんは『イヌ』じゃないとは思っていましたよ?
こちらの世界には私の世界の『狼』や『イヌ』の姿と酷似した生物は居ないのかもなぁ……とまで、思っていましたとも。主はシャルさんを『イヌ』だと言い張るし、今日会ったベアトリス様も『イヌ』と称していましたし。
だからこそ、アティリオ……様、の意見はすんごく理解出来るんですが。理解自体は出来るのですがっ!
だからといって、そんなしょーもない理由で殺されるのは、マ・ジ・勘・弁っ!
ユーリの叫びを理解した訳ではないだろうが、うっかりと頭を噴火させ過ぎて思いっきり本音をさらけ出した事に、幾度か瞬きをして我に返ってから気がついたらしきアティリオは、慌てたように言い添える。
「ああ、いや……そう、才能を持つ人材が正しく評価されないなど、組織として正常に機能しているとは言い難い!
カルロスは魂の力を増して、より高度な仕事をこなしていくべきなんだ!」
ええい黙れ、誰に向かっての弁解ですか、このイヌマニアめが。
この世界の連中は、どいつもこいつも動物好きかこの野郎。
イヌだけ贔屓とかふざけんな。こっちだって、好きでネコになってる訳じゃないんです!
「ぷっ……あは、あはははははっ!?
あ、アルバレス様もユーリさんも、面白過ぎる……」
フシャーッ!? と、ユーリから急に威嚇されてムッと不機嫌そうに眉をしかめるアティリオ。そんな彼らの姿に、シャル自身は腹を抱えて大爆笑していた。
「ああもう、こんなに笑ったのは何年ぶりでしょう。アルバレス様は、意外に面白……いえ、ユーリさん風に言うと、『可愛い方』だったのですねぇ」
「僕を侮辱しているのかクォン!?」
大笑いしだしたシャルに、アティリオは怒気を滲ませて睨み付けるが、ユーリの同僚は彼の殺気程度ではびくともしないらしい。
「これでも褒めているんですが?」
そしてシャルは、膝の上でアティリオを威嚇し続けていたユーリを抱き上げて、おもむろにベッドから立ち上がった。
そのまま部屋の出入り口、アティリオの真正面にまでスタスタと歩み寄る。警戒心を露わにしつつ、一歩後退るアティリオ。
「アルバレス様。わたし、楽しませて頂いたお陰で、多少気が変わりました」
「はあ?」
「先ほどまでは、まあ一思いに殺ろうかなと思っていましたが、あなたがユーリさんを追い掛け回している分には、噛み付くのは止める事にします」
……ちょっと待って下さい、シャルさん。
つまりソレ、アティリオ……様、が私を狙うだけなら、シャルさんは妨害せずに放置しておくって事ですか?
きょとんとした表情のアティリオを尻目に、殊の外強いらしい同僚にユーリが慌てて確認を取ると、シャルはいつもの人の良さそうな笑顔で『うん』と言いたげにこっくりと頷いてくる。
「わたしはともかく、連盟に『2匹目』の事が知れ渡ってマスターの立場が微妙になるのは、アルバレス様も不本意でしょう?
ですから、ユーリさんの事は内密にお願いしますね」
「……という事は、やはりその黒ネコはカルロスのクォンなんだな?」
シャルさん、あっさりバラしたーっ!?
「さてどうしますか、アルバレス様。
あくまでもわたしを狙って返り討ちにされますか? それともユーリさんを狙って走り回りますか?」
「その黒ネコもカルロスのクォンだと言うのならば、是非はない。そのネコを寄越せ」
「なるほど……では」
迷わず即答したアティリオに、シャルはチラリと同僚に目配せをしつつ笑顔で……ユーリを彼の顔面目掛けて投げつけた。意表を突かれたのか、まともに飛びかかられて「ぶっ!?」と驚愕の声を漏らすアティリオの顔に、挨拶代わりに遠慮なく爪で引っ掻いて格子模様を刻んでから飛び降り、ユーリは一目散に廊下を駆け出した。
うわぁぁぁんっ! あの意地悪男、ホントに私を放流しやがったーっ!?
内心嘆くユーリであったが、そもそもアティリオにユーリの正体を感づかれた辺りで、反撃か逃走しか道は無い。
仮にも魔術師であるアティリオを撃退する術など持たないユーリが生き延びるには、カルロスの庇護下に入るか、気紛れを起こしたシャルに守ってもらうかだ。
そして現状、同僚の『気が変わって』しまったからには、後はもう、捕まらないように逃げ出すしか無い。非常に遺憾な事に。
「何をする!?」
「ほらほら、ユーリさんを見失ってしまいますよ、アルバレス様。彼女、なかなかすばしっこいですからねぇ。
マスターの面談時間内に捕まえられますかね?」
背後からそんなやり取りが聞こえてくるが、カルロスが魔術師のお偉方とのお話を終えるのは、いったいいつになるのだろう?
あてどなく本部の廊下を駆け抜けて、ドアが開きっぱなしになっていた手近な部屋へと駆け込みつつ、縋るような気持ちで主へと思念を飛ばすが、返事は返ってこない。お話している場所も、魔法的な効果がかき消されるところなのだろうか?
という訳で冒頭に戻り、無作為に飛び込んだ本棚だらけの書庫らしきお部屋にて。
有り難い事に、家の書斎とは違って床に本が段差をつけるように堆く平積み状態に重ねられており、ユーリはそれを足場代わりにひょいひょいと棚を駆け上り、暗がりに隠れているのである。殆ど間をおかずにアティリオもまた書庫まで追い掛けてきて、ユーリは肝を冷やしているところだ。
命と意地とを賭けた真剣本気な追いかけっこの、始まり始まり……
「見つけたぞ……!」
かくれんぼの基本、『高いところは見落としやすい』テクでやり過ごそうとしていたユーリは、上段の本を手に取る際に使用される梯子に上り、棚の上まで隅々と見渡していたアティリオと目が合い、尻尾をピーンと伸ばして一瞬硬直してしまった。
敵が腕を伸ばしてくる前に急いで本棚を駆け下り、またしても書庫から大脱走だ。
ほーほほほほ、アティリオ……さん、様? ドアをしっかり閉じて退路を断っておかないなど、失策にもほどがありますことよ!