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「そうだな……まずは、お前の世界との使い魔についての認識の食い違いから説明するか」
主の前に跪きひたすらミルクを舐めるユーリと、そんな彼女を見下ろしながらその背中をひたすら撫で回すカルロス。
……というと、どこかしら淫靡な何かを感じさせるが、ユーリはただいまネコの姿であり(舌でミルクを舐めとるのって、意外と大変なのですね)などと、呑気な事を考えていた。
彼女は精神を平常に保つ自衛策として、ネコの姿の時に主からベタベタと触られ撫でられる事に、何の羞恥も抱かないよう常に自らに言い聞かせている。いわゆるマインドコントロールだ。
基本、カルロスはユーリが人間の姿の時には横暴かつ乱暴かつ傍若無人であるが、ネコの姿の時には甘い。メロメロに甘い。
結局のところ中身は同じ『森崎悠里』なのだが、見た目のインパクトや雰囲気とは結構な印象の違いをもたらすものだ。
そんな訳で今は甘々モードな魔法使い様は、ユーリの抱いた疑問についておもむろに語り始めて下さるのであった。
「思考というものは、大別すれば言語によって成り立っていて、ユーリはお前の故国の言語である『ニホンゴ』で考える事に慣れている。
しかし当然だが、『こちら』で使われ交わされている言語は『ニホンゴ』ではない」
カルロスはそう告げて一旦言葉を切り、カップを傾けてお茶を一口含む。
ユーリはミルクを舐める苦行を中断して、皿の前にちょこんと座り込んだ姿勢で主を見上げて小首を傾げた。
こちらの世界で……主が暮らすこの国の言葉は日本語ではない。
地球でも海を越えれば全く違う言葉を喋っていて当然だったのですから、驚くには値しませんね、はい。
あれ? ですがそれならばどうして、異世界同士で使い魔同士な私とシャルさんは言葉が通じるのでしょう?
私達使い魔同士の間には、主と繋がっているテレパシー能力に相当するものはありませんのに。
「まだ気が付いてないのか、ユーリ?
お前がこの家で口にしている言葉は全て、『こちら』の言語だ。
大陸の共通語として統一化されていて、単純に『大陸共通語』と呼ばれている」
……私はそんな言語を習った覚えは無いのですが、主。
「お前はアホか? 契約を持ち掛ける際に、そもそも言葉が通じなかったら契約出来んだろうが。
使い魔契約の召喚に応じた時点で、お互いの母国語の知識が頭に刷り込まれるんだよ。まあ、喚んでみたら知恵を持たない獣だった、つー事例もあるらしいけどな。
しかしユーリ、お前は自覚しないほどナチュラルにこっちの言葉を喋ってたのか、へぇー」
カルロスは焼き菓子を一口かじって、楽しげに笑みを浮かべる。その眼差しは、興味深い実験動物を観察する研究者のように感じられて、ユーリは居心地悪く尻尾を揺らした。
感情を素直に表現するネコの耳が今どうなっているのか、あまり考えたくはない。
「つまり、だ。ユーリの世界では魔術師が少ない上に『***』に該当する術の存在が知られていない。
俺の出した条件から最も近いと判断した、あー、『ツカイマ』? その単語で脳内翻訳をしていたんだろう」
なんと、殆どノータイムで頭の中自動翻訳機になれるぐらい、私は主の母国語を完璧に使いこなすバイリンガル少女になっていたのですね。
……自覚してみれば、確かにたった今主が喋っているのは『大陸共通語』で、所々に日本語の単語を織り交ぜて説明して下さっています。
会話中に複数の言語が混ざる、コード・スイッチ現象が起きていますよ。
それにしても、私が『使い魔』として翻訳した本来の単語は発音が難しいんですね。えー、くぉ、こぉ……?
「恐らく、隷従をもっと全面に出せば『ドレイ』と翻訳したのだろうし、魂を強固に要求すれば『イケニエ』とでも考えたんじゃないか?」
しばらくポリポリと焼き菓子を噛みつつ、適当だと思われる日本語を思案していたカルロスは、そう結論付けてユーリの口元にも小さく割った焼き菓子を差し出した。
……これはいわゆる、ネコ好きな飼い主が大喜びな、ネコちゃんと一緒に食べられるクッキーですね、分かります。
カルロスの手ずから焼き菓子をモグモグと食べつつ、ユーリはううむ、と考え込んだ。
会話に苦労しないのが当然の島国に生まれ育ったせいか、(何故言葉が通じるのだろう?)という疑問すら沸き上がらなかった。自分自身で日本語以外の言語を操っていたにも関わらず、だ。この辺、確かに主がアホだと呆れて当然の呑気さかもしれない。
カルロスやシャルの発言に、不意に和製英語的な横文字が混じったりするなぁ、などと考えていたりもしていたが、微妙なニュアンスの違いを自分自身で勝手に解釈して脳内翻訳していたのだから、言語に統一感が無いのも頷ける。
つまり私は、カルロス様という魔法使いと契約を結んで従う存在、という点により重きを置いたから『使い魔』として認識していた訳ですね。
「だろうな。俺はお前の知識や記憶を写したが、ユーリには俺の知識を言語しか与えてねえ。
他人の記憶を丸々放り込むと、廃人になりかねねえし」
……主、何気に不穏当な発言をしないで下さい。
自分だけ私の知識を盗み取ってズルいです、とか考えてて申し訳ありませんでした。
だからその怖い笑顔は止めて下さい、切実に。
喋り続けて喉が渇いたのか、カルロスはゆったりとカップを口元で傾け、すっかり冷めてしまった茶を飲み干した。
そしてそれをカチャン、とソーサーの上に戻すと、床に大人しくお座り状態のユーリを抱き上げて運び、ベッドの上に仰向けになった。
主、お休みになられるのでしたら、お召し替えを……
まだシャルについての疑問が残っていたが、カルロスの気ままな行動の方がユーリにとって優先しなくてはならない事項だ。
ユーリは主の腕の中からスルリと抜け出て枕元にちょこんと座って進言したのだが、ゴロンと寝返りを打って彼女を眺めるカルロスは、そんなしもべの頭をぐりぐりと撫でつつ、
「んー……面倒。
お前が着替えさせれば良いだろ」
そんな事をのたまってきた。
……ネコの姿でどうやれと仰るのでしょう。
「シャルは自分の意思で人間とイヌの姿に変化出来るぜ?
お前も成せばなる、日暮れ前には起こせ……」
えええっ!? と、内心絶叫するユーリだったが、どうやらカルロスはいち早くテレパス回線を切断していたらしく、ユーリの体を再び胸元に抱き寄せて、スヤスヤと寝息を立てだした。
相変わらず主からは手加減抜きでグイッと胸元に押し付けられてしまい、ユーリは息苦しさにジタバタと暴れるのだがカルロスは気にする様子もない。
懸命にもがいて、どうにかこうにか体勢を整えて呼吸困難の危機からは脱したが、このまま主に寝返りでも打たれたら潰されてしまう。
ぬ、抜け出せれません……いつもの添い寝の時にはなんとか脱出出来るのにっ!
シャルさん、シャルさ~んっ! たーすーけーてーっ!?
に~、に~、と、胸元でネコが騒がしく暴れているにも関わらず、やはりカルロスは全く起きる気配が無い。
お仕事のスケジュールが詰まっているとかで、彼は昨夜も一昨日も殆ど眠っていないらしい。ユーリに手助け出来る仕事などたかがしれていて、半人前であるが故に与えられた夜の休息の時間は、何か非常に居心地が悪かった。
「そんなに切羽詰まった声を出してどうしました、ユーリさん?」
と、そこへ、コンコン、と軽いノックの音を響かせてドアが半分開けられ、ユーリが救助を求めた銀髪の青年が顔を覗かせた。
「……マスターから伽でも命じられたのかと思いましたが、問題はなさそうですね。
では、わたしはこれで失礼」
い・く・な!?
しっかりと室内の様子を見渡しておきながら、なんの困り事も問題も行っていないと判断を下し、笑顔でさっさと顔を引っ込める先輩に向かって、ユーリはフシャーッ!? と、毛を逆立てた。
「おや、何ですか、ユーリさん?
こう見えて、わたしもそこそこ忙しいのですが……ああ」
再び半開きのドアから怪訝そうな顔で覗き込んできたシャルは、ハッと気が付いたようにポンと手を叩いた。
そして室内に静かに入室すると、スタスタと歩み寄り……丁寧な手つきで持ち上げてユーリを笑顔で見下ろした。
「すみません、これを下げていませんでしたね。
では、お休みなさい」
シャルさん、それと違いますーっ!?
空になったカップや、菓子皿とミルクが入っていた皿が乗っているトレー。ベッド脇に放置されていたそれを手に、微笑んで就寝の挨拶を寄越してくるシャルに、懸命にユーリは訴えた。
訴えたのだが……主がふと寝返りを打って、本当にあわや圧迫死の危機に陥るまで、気が付いてもらえず、シャルから救助された時には最早、ユーリは息も絶え絶え。
それが本当に彼女の言い分を理解出来なかったが故の結果なのか、それとも分かっていてワザと嫌がらせに焦らしていたのか……シャルの本心がいったいどちらだったのか、ユーリには今ひとつ判別がつかない。
……シャルさんは、優しい親切な良い先輩だとばかり思ってましたが、もしかしたら、違うのかもしれません……