シャルの異世界往訪
ある日、王都にある我が家にミチェルが遊びに来た。
ユーリさんは、彼の事を忌み嫌っている。彼女の言によると、『私を貶め、精神的に攻撃する為ならありとあらゆる手段を繰り出してくるゲス野郎』であり、その最たる奸策は故郷でのダイガクとかいう群において、ユーリさんの信用を著しく失墜させた「自意識過剰なんだね」発言で、その真意を察するまでは深く傷付いていたらしいのだが。
「ちょっと、アンタのそのヘンテコな服はいったい何なのよ?
言っとくけど、私は向こうでわざわざアンタの世話なんか焼く気はないわよ」
「ドレスシャツのセンスも磨いてないとか……森崎さん、お屋敷でホントに役に立ってんの?
つーか、地球でアンタの助力なんてこっちの方がイラネ」
「人に頼ってきたのはそっちのクセに!」
「オレが頼りにしてんのはカルロスさんであって、森崎さんじゃないし」
異世界間召還を可能にする魔法陣が編み込まれた絨毯の上で、ぎゃあぎゃあと口喧嘩を始めるユーリさんとミチェルは、実に元気いっぱいだ。萎縮から抜け出して怒りから活力が湧くのは、まあ悪いばかりでもないのだろう。
それにしても、この2人は心底お互いを嫌い合いいがみ合っているのだな、と、わたしは毎度の事ながら首を傾げてしまう。ユーリさんもミチェルも、単体で向き合うと面白い人間だと思うのだが、彼らを引き合わせると途端に一触即発。不可思議なものだ。
「だーっ! お前ら少しは静まれ。術に集中出来んだろうが!」
送り迎えを担当するマスターに叱りつけられて不満げに口を噤む辺りなど、本当に彼らはそっくりだ。獅子型のあの友人の匂いを好むところに、ミチェルに不可思議な親近感でも抱くのかと思いきや、何のことはない。ミチェルはわたしのつがいとそっくりなのだ。それは親しみを覚えようというもの。
「ユーリちゃんの故郷の事は分からないけれど、無茶はしないでちょうだいね?」
「はい、エステファニア奥様」
ユーリさんとミチェルのやり取りから、お見送りの奥様が不安そうに口を挟む。しかし、何といっても脆弱なユーリさんがのほほんと生き延びられるような、そんな甘い世界なのだ。わたしが付いて行けば何の心配もあるまい。
……などと、高を括っていた時期が、わたしにもありました。
「ううっ……頭が、痛い……」
「お、おい、シャル!? しっかりしろ!」
マスターの術により、ユーリさんの故郷、『チキュー』とかいう世界に転送されて早数呼吸。わたしは騒音と悪臭のただ中に突き落とされ、絶え間ない頭痛と吐き気で息も絶え絶えとなっていた。目に映る世界は撓んで歪み、チカチカと瞬く千変万化する色彩がよりいっそうわたしの苦痛を加速させる。ぐらりと揺らぐ視界は、目に映るものの情報をわたしの頭に上手く運んでこず、はっきりとした像を結ぶ前にぐにゃりと回転し、眩暈を引き起こす。
ユーリさんと同じ場所に降り立っていたはずだが、気が付けばわたしは黒く硬い地面の上でうずくまり、わたしの体調不良に混乱気味のミチェルが背中をさすっている。
時折掠めていく風はねっとりと纏わりつくような湿気と熱気を含み、臭気をかき混ぜていくくせに魔力の欠片ももたらさない。
轟音と共にわたしの傍らを、金臭い上に瘴気を撒き散らす馬車の車体だけが牽く馬も無いまま猛スピードで走り抜けてゆく。
……この、とんでもない世界が、ユーリさんの故郷だというのか。
意識朦朧としたわたしが、ひたすらに頭痛と吐き気と戦っている間に、ユーリさんの気配がして、再び遠ざかっていく。
「やべー。まさか、シャルがここまで弱るとは完璧予想外。
おら、もうすぐ森崎さんが店からマスク買って出てくるから、もうちょっと踏ん張れ」
断続的に途切れる意識の中、不意に呼吸が楽になって騒音も遠ざかり、わたしは目をパチリと見開いた。
「シャルさん、大丈夫ですか?
この防毒マスク、効いてます?」
「ユーリさん……」
心配そうにわたしの顔を覗き込んでくるつがいの頬を、わたしは感謝を込めて撫でた。
何だか知らないが、ミチェルは気が付いたらサッサと立ち去っていたので、半分気絶しかけていた際に渡された冷たいお水のお礼はまた今度言う事にして。
わたしは防毒マスクと防毒眼鏡、耳栓を装着した完全防備姿で、ユーリさんに連れられて彼女の故郷を歩く事になった。
現在、『ニホン』は夜間であるらしいのだが、街はどこもかしこもピカピカと明るい。ユーリさん曰く、『デンキ』という魔力の代替品を使用する事により、蝋燭よりも明るい灯火を得ているらしい。
その『デンキ』を利用して走る『デンシャ』という乗り物の乗車券を購入し、乗り込む。長距離移動時に同行するわたしが乗り物扱いされないだなんて、いったい何年振りの慶事でしょう……!
マスターにこちらへと送り込まれるなり、異世界の洗練を受けてあっさりと死にかけたわたしは、ここは恐ろしく常識外れの世界である事を頭に叩き込まれた。
構造物や街並み一つとっても、明らかにわたしの知る物とはかけ離れている。理解するまでは、ユーリさんの指示に従って行動しなくては、恐らくまたこの世界は容赦なくわたしを殺しにかかってくるに違いない。
恐ろしく座席と利用客の多い乗り合い馬車のような『デンシャ』を降りて、ユーリさんがこちらの世界で暮らしていたという家に案内され、室内の臭いが緩和されるという道具をユーリさんが用意してくれ、わたしはようやく人心地ついた。
防毒マスクを外しても何とか我慢出来ない事もない。うっすらと瘴気が漂ってはいるのだが、この家の中はユーリさんの匂いが満ちている。
こちらの世界で一般的だという、背の低いテーブルの前に直に敷かれた薄いクッションの上に腰を下ろし、ユーリさんと差し向かいでお茶を頂く。元々、このコップには持ち手が無いようだ。
「ふう……」
「何だかお疲れ気味ですね、シャルさん」
「やはり、よく知らない場所を歩くのは緊張しますし、今の耳も鼻もまるで利かない状態のわたしでは、忍び寄る魔物の気配を察知出来ず不意打ちを食らってしまう危険性が高ですからね。ユーリさんは、よくもまあこの世界で何の警戒心も持たず、丸腰のまま平然と歩けるものですね……」
わたしがしみじみと呟くと、ユーリさんは何故か目を剥いた。
「……こっちの世界に、魔物はいませんよ?」
「なんと」
こちらの世界で日銭を稼ぐ手段が、いきなり一つ絶たれてしまった。かくなる上は賞金首でもとっ捕まえて稼ぐしかあるまい。問題は、人間の顔の見分けがつかないわたしの為に、賞金首の臭いを提供してくれる機関が果たしてこちらにあるのか……あ、いや。まずは、臭気と騒音からくる眩暈と頭痛、吐き気を完璧に封じた上で鼻が利くようにならなくては、対象を嗅ぎ分けられないではないか。
「……なんという事だ……」
「シャルさん、私、お風呂の支度をしてきますから、ゆっくりしていて下さいね」
わたしが糊口を凌ぐ手段を真剣に検討しているというのに、我がつがいは呑気に身繕いをするつもりらしい。まあ、たまの里帰りなのだから、ユーリさんにはあまり資金面の心配をせずに帰郷を楽しんでもらおう。
お風呂場の掃除に向かったユーリさんを見送り、何とかこの世界における悪条件を克服する手段を求め、わたしは元の姿に戻ると、手始めにこちらの世界におけるユーリさんの家の中から探索を始めた。
ユーリさんの家と外界を隔てる玄関扉とキッチン、リビングがほぼ一体化している一間に、お風呂とトイレ。後は収納スペースだというこの狭苦しい室内が、ユーリさん個人のおうち全容である。
……正直に言うと、狭すぎる。わたしでさえ翼を広げて寛げないので、日々の暮らしを営んでいたユーリさんはさぞ窮屈だった事だろう。
「ふうむ……用途不明の道具がごちゃごちゃしていますね」
さて、と見渡した室内は、テーブルやタンス、本棚といったバーデュロイにも存在するありふれた家具と並んで、銀の額縁の箱に覆われた謎の黒い絵画が棚の上にデンと飾られていたり、ヒンヤリと冷気を放つ箱があったり。
そして、正体不明なオブジェが無数に陳列している。外観からは正体不明なオブジェのうちの一つは例の悪臭除去具だというから、恐らくどれもこれもわたしのような平凡でごく普通のイヌには思いもよらぬ予想外の効力を持つ道具なのだろう。
一番正体が分かり易い本棚に歩み寄り、天井から床までを占める棚をジックリと眺める。
本好きなユーリさんらしく、こちらの世界でも本棚には大小様々なサイズの書籍が所狭しと詰め込まれていた。わたしのような外界での活発的な行動を好むタチでは考えられない嗜好だが、わたしのつがいは読書が趣味だ。
とはいえ、情報を得るのに本から学ぶのはセオリーだ。手頃な位置に収まっていた本を数冊、適当に抜き出してパラリと表紙を開いてみる。
「……文字が読めませんね」
思えば、ユーリさんはわたしよりも後にマスターと契約を結んだのである。
わたしにある人間が扱う言語知識はマレンジス大陸の、ザナダシアからバーデュロイに移住して育ったマスターから写されたものだけなので、異世界『チキューはニホンの言葉』など、わたしの頭の中に存在するハズもない。本を眺めて得られた情報は、街中で随所に見掛けた模様が、恐らくは純粋な模様だけでなく中にはこの地の文字も含まれていたのであろう、と推測出来たに過ぎない。
元々わたしは、文章の読み書きをあまり好む方ではないので、書物からスムーズに情報が得られないのであれば、それに拘る必要性を感じない。すぐさま方向性を切り換えるべきた。
「むう……となると、次は収納スペースですが」
確かユーリさんは悪臭除去具を取り出す時に、扉を丸ごと横に滑らせて開くという奇想天外な開け方をしていた。恐らく、隠し扉の一種なのだろう。
わたしは慎重に壁と扉の間に爪を差し入れ、ススス……と隠し扉を開く。
薄暗い収納庫は室内に応じて狭く、地下室や天井裏に通じている訳でもないらしい。
収納スペースは真ん中から板で仕切られており、上の段には分厚い敷物が畳んでしまい込まれていて、下の段には個別の収納箱が詰まれていた。
「箱がたくさんありますね……」
そんな中で目を引いたのは、流線型の箱の側面に車輪が付き、長細い蛇腹模様が途中からツルツルで硬く真っ直ぐな軽い棒が引っ付いた謎のオブジェである。箱の上部には取っ手が付き、いかにも持ち運びを想定しているような造りだ。
「ふぅむ……これはいったい……?」
矯めつ眇めつ、先っぽが左右に出っ張っている棒を眺め回してみると、なんと棒が半ばからスポンと抜けた。やけに軽いと思えば、棒の中身は空洞化している。
「……」
ちろりと背後の風呂場の様子を窺うと、ユーリさんはお風呂場の掃除に熱中しているようである。わたしは、壊してしまったオブジェを何気なく室内に置き、ユーリさんの裁定に任せる事にした。もしかしたら、そもそも初めから壊れていたオブジェであって、わたしがつつき回したせいではないかもしれないではないか!
収納スペースの中身を漁るのは危険だ。ユーリさんの腕力や握力の低さを考慮すると、この世界の物品はすべからく脆い形状である可能性も念頭に置いて行動した方が良い。
まずは、室内に放置されており比較的頑丈かと思われる品々から探るべきだ。
となると、まず真っ先に目に付くのが、あの棚の上に麗々しく飾られた黒い絵画である。
ユーリさんの目には何らかの絵が浮かび上がっている、という可能性もあるが、やはりあれも見た目通りの品ではあるまい。何より、額縁をわざわざ箱型にして絵が埋め込まれているというのが、まず怪しい。
「……おや、この出っ張りは何でしょう?」
今度はうっかり壊さないよう、慎重に眺め回していたわたしは、箱の片隅に出っ張りが主張している事に気が付いた。ツン、と爪先でつついてみると、何と真っ黒だった絵の部分が透過? し、箱の中身が露わになった。なんと、こんな小さな箱の中には小人が住んでいる!?
「ゆ、ユーリさん、ユーリさん!?」
もしやこの小人、ユーリさんが捕獲したペットなのか? という疑問をぶつけると、お風呂の支度を終えたユーリさん曰く、この箱は遠距離から送られてくる情報を映し出す為の道具なのだと言う。つまり、この部屋では小人が閉じ込められているように見えても、発信源ではごく普通の人間である可能性が高い。
何はともあれ、この道具が情報を得られる装置だと言うのならば好都合だ。素直にこの道具を眺めて、情報収集に努めよう。
「さ、お風呂湧きましたから一緒に入りましょう、シャルさん」
……と、意気込んだがユーリさんから風呂に誘われてわたしは尻尾を振って脱衣場に突進した。
「お風呂! それは嬉しいです」
出入り口からして狭いので人間の姿を取り、こちらの世界の石鹸やお湯の出し方等を一通り説明され、ユーリさん愛用のアメニティはわたしの鼻でもとくに不快ではないのでそのまま使用させてもらう事とする。
「こちらの世界の石鹸は、固める前の粘液状の物が主流なのですね……」
お風呂場で石鹸の香りを確かめつつ、脱衣場に立つユーリさんに話し掛けていたわたしの耳は、背後でパサパサッと布地が幾つも床に落ちる音を聞きつけた。ハッと慌てて振り返ったわたしの目に、先ほどまでユーリさんが身に着けていた衣服がことごとく脱ぎ捨てられ、床に落ちて山となっている様子が飛び込んできた。
……布地の山がもぞもぞと動き、隙間から黒い毛並みのネコがもがき出てくる。
「……ユーリさん」
「みぃみぃ(うちのお風呂狭い狭いと内心で困っていたら、主が気を利かせてくれたようです)」
マスターーーッ!?
わたしの内心での叫びにはまるっきりなんの返答も返してはこないクセに、マスターは何やら楽しげにユーリさんと心話を交わしているらしい。
ユーリさんがこちらの姿になると、いくらなんでもお風呂場で溺れてしまうので、湯につかる時は慎重に抱いてやらねばなるまい。
不満はあるが、ネコとなったつがいを洗ってやる。正直、ネコ姿のユーリさんをわたしが洗うよりも、本来の姿のわたしをユーリさんに洗ってもらう方が楽しい。
「ユーリさん、痒いところはありませんか?」
「みぃ!(もっと耳の後ろ辺りを丁寧にお願いします!)」
「こうですか? なかなか難しいものですね」
よくよく考えてみれば、ネコ姿のユーリさんと入浴を共にするのは初めてではないだろうか。力を込め過ぎないよう慎重に指先で毛並みを洗い、温かいお湯の雨に打たれて泡を流す。
膝を折り曲げてようやくつかれる浴槽に身を浸し、ユーリさんを落っことさないよう胸元に抱き寄せた。顎より下が湯の中でだらんと伸びているユーリさんは、両前足をわたしの腕に置いて後ろ足はわたしの腹の辺りで泳いでいる。
「ふう……今日も一日、よく働きましたねえ」
「……みー?(シャルさんはただ、主に送られてチキュウに移動してきただけなような?)」
「何を言うのですか。このような危険地帯の真っ只中へ、こうして無事に帰還を果たせられるよう常に神経を尖らせ、ユーリさんをこうして護衛してきたのですよ?」
ユーリさんが後ろ足でバタ足をして浴槽内で泳ごうとするので、腹を蹴るユーリさんのお尻の下に片腕を回して抱き留め、溜め息を吐いた。
「絶え間なく襲いくる悪臭と騒音、魔力枯渇……無防備な姿をさらけ出していては、この世界はわたしの命を容赦なく刈り取ってくる事でしょう。
このような地では鋭敏な感覚こそが徒となり、ありとあらゆる能力をある程度退化させ、世界に適応した生き物こそが頂点に君臨する……ただ強くあれば生き延びられるマレンジスとは、一線を画している。何とも恐ろしい世界です」
「みーみー(や、マレンジスも強けりゃそれだけで良い、とは限りませんが)」
濡れた毛並みを張り付け、前足の肉球でペチンペチンとわたしの腕を叩くユーリさん。
「みゃう(ニホンにも良い所はたくさんありますので、色々見て回りましょう)」
「そうですね……何しろわたしはまだ、こちらの世界の乗り物と夜の住宅街しか眺めていませんからね」
それに、だ。今回の入浴はうっかりマスターに先んじられてしまったが、誰にはばかる事なくユーリさんと2人きりなのだ。きっと、さしたる邪魔入りもなく楽しい休暇を過ごせるに違いない。
「に~(それに、こちらの世界も慣れたら平穏でまったり過ごせますよ)
みみ(人生、のんびりできるのが一番です。わたし、シャルさんとまったりしてるのが一番幸せです)」
もぞもぞと向きを変え、わたしの腕から肩に置いた前足、そして首を伸ばし、ユーリさんがわたしの唇に口をくっ付けてきた。自分は人間風の愛情表現をネコ姿で行うクセに、何故わたしが人の姿でユーリさんを舐めるのは拒否するのか……実に不可解だ。つがいからのそういった不公平を甘んじて受け入れてしまう辺り、わたしも世に蔓延るオスの定めには抗えないという事か。
膝を折り曲げなくてはならない狭苦しい浴槽の中で、頬擦りして甘えるユーリさんの頭を撫でて抱き直し、たゆたう湯の温もりに身体の力を抜く。
……きっと、ユーリさんと過ごすこういう何でもない日常の出来事、これもまた何故か忘れられない記憶となって。遠い未来でふとした拍子に何となく思い出したりして、そうしてわたしはまた反芻するのだろう。
今この瞬間が、紛れもない幸せな一時なのだと。