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いつの間にか瞑っていた目を開けると、懐かしくもある地球でのバイト先、おもちゃ屋さんのバックヤードにユーリは佇んでいた。

何もかもが、召喚される前の……より正確に言うと火事によって炎に包まれる前そのままで、殆ど作業終了したお菓子の賞味期限値下げ仕分けのオリコンが、目の前に置いてある。


「……火事になる前、の倉庫?」

「ん? あー、そういや危機感煽る為に森崎さんには幻覚見せてたっけ。

本当に火事になってたらさ、もっと慌ただしい上に消火装置作動してるんじゃね?」

「……ここがユーリさんの故郷ですか。物が所狭しとゴチャゴチャ置いてあるのは、マスターの散らかしっぷりと良い勝負ですね」


ポツリと漏らした独り言に背後から応えがあって、ユーリは慌てて振り向いた。

白いドレスシャツに黒いズボンという、ビミョーなファッションの野々村と、執事コスプレと言い張らざるを得ない、真夏の日本ではちょっと暑そうな服装のシャルが、あちこちをキョロキョロと見回していた。

どうやらカルロスは、ユーリの移動先に人間2人が問題無く送り込めるスペースがあるので、一緒くたにして送り出したらしい。


「……取り敢えず、シャルさん。ここは私のバイト先であって、私個人の家ではありませんからね?」

「……森崎さん?」


シャルの誤解を解こうと両手を腰に当てて言い聞かせていたら、事務所の出入り口の方から男性の声と共にドアがガチャリと開かれた。


「どうしたの? さっき、僕を呼んでたみたいだけど……」

「て、ててて店長っ」


不思議そうにスタッフルームから姿を現し、ユーリの方へと近寄ってくる若き店長に、ユーリは背後に目立つ男二人組を隠しきれず、あわあわと無意味に両腕を振った。

そう言えば、召喚される前にユーリは思いっきり大声で店長に警察を呼んでくれと叫んでいた。地球での時間が召喚時と連続しているとすると、ユーリの存在そのものはともかくとして、従業員ではないシャルと野々村の存在は不審者以外の何者でもない。


「ああ、食玩の仕分けが終わったんだね。お疲れ様、もう上がって良いよ。

残業してくれて有り難う、森崎さん」

「……!?」


眼鏡を掛けた年若い店長は、ユーリの足下のオリコンを確認し、にこやかに作業終了を承認する。彼女の背後には、まったく一言も触れない。

困惑して背後を振り向くと、先ほどまでそこに居たはずのシャルと野々村の姿が、影も形も見えない。……実は今までの出来事は、全てユーリの妄想でした、などと言われたらうっかり信じてしまいそうだ。


……さては野々村。店長からの面倒な追及や疑惑から逃れる為に、見つかる前に瞬間転移か姿隠しか、その手の魔法を使いましたね。


ユーリには一言も告げずに行動して慌てさせてきたのは業腹だが、一応、シャルに泥棒の嫌疑が掛からぬよう取り計らった点のみは百歩譲って評価してやらんでもない。


安心したユーリは、しっかりと店長の顔を見返して頷いた。


「はい。お疲れ様でした、店長。

それで、急な話で本当に申し訳ないのですが……」

「どうかしたの?」

「海外で暮らしてる親類と連絡が取れて、私、向こうに呼び寄せられてあちらで暮らす事になったので、バイト、辞めさせて下さい」

「ええっ!?」


生活の基盤をマレンジスに定めたのだから、こちらへは頻繁に戻ってはこられない。本来なら、数週間前より事前に辞める意志を伝えておくのが礼儀だろう。本当に急になってしまってたいそう申し訳ないが、バイトを続けられないのは事実。

しきりに残念がる店長に、ユーリは一つ慌てて付け加えた。


「あ、あと、うっかり夏物商品の水鉄砲を一つ、破損させてしまったので弁償させて下さい」


本当のところは破損どころか偶然とはいえ無断で持ち出して、遠慮なく使いまくってしまったのだが。



ロッカーにしまっていた荷物を取り出し、制服のエプロンとロッカーの鍵を返却。仕事仲間に急に辞める事になった旨と謝罪を伝え、ユーリがおもちゃ屋を後にした頃には、すっかり表は日が落ちていた。真っ黒な空は、今にも雨が降ってきそうな重たい曇り空だ。そう言えば、こちらでは丁度台風の時期だったか。


「ユーリさん……遅いです……」


久々の、空一面にキラキラと星が輝いていない、簡素に墨を流しただけのような見慣れた日本の夜空を見上げ、(やっぱり空ってこういうイメージだよなあ)とぼんやり実感しているユーリに、いったいいつからそこで待っていたのやら、駐車場の片隅からヨロヨロとまろび出てきた白い頭が、弱々しい声で文句を付けてきた。

夜闇に白く見える銀髪の旦那様は、片手で鼻と口を覆い、もう片方の手は耳を塞いでいた。


「……シャルさん、何だか弱っていませんか?」

「ユーリさんはこんなに劣悪な環境で生きてきたのですね……」


ガクリ、と、シャルはコンクリートの道路にうずくまり、力無く首を左右に振った。


「あちこちから眩暈がするほど騒音が襲ってきて、鼻がもげそうなほどの悪臭が漂い、トドメに大気中の魔力は希薄……むしろ存在しない……」


ふらり、とよろめくシャルの背を慌てて支えるユーリに、旦那わんこは真っ青な顔色をして呟く。


「常々、ユーリさんのように鈍く、脆弱な生き物がいったいどうやって生き延びてきたのかと疑問に思わざるを得ませんでしたが……なるほど。こんな環境では、逆にありとあらゆる感覚を鈍化させていかなくては、到底生き残れませんね……」

「……これ、人の故郷をこれでもかとバカにされてねえか?」


ポケットから小銭入れを取り出した野々村が、おもちゃ屋店舗の出入り口付近に設置されていた自販機に硬貨を投入し、ミネラルウォーターのペットボトルのボタンをピッと押しつつ、呆れた顔で呟く。何気に、ヤツも日本円を保管していたらしい。


「ほらよ、シャル。水飲むかうがいするか頭から被るかすれば、今よか多少は楽になるだろ?」

「……あ、冷たい……しかしなんです? この水の塊」

「あ、それは……」


ほっぺたにペタリとペットボトルを押し付けられたシャルは、不思議そうな表情で野々村からそれを受け取り、透明なそれを矯めつ眇めつ……ユーリが代わりに蓋を開けてやろうと手を伸ばした矢先、握力の強いわんこさんはやおらめきょっと握り潰し、本体部分に無理やり開けられた穴から一瞬勢い良く水が吹き出し、そしてダパダパと乾いたアスファルトに零れ落ちてゆく。


「ふうむ。力を込めると破裂、と。こちらの水は飲みにくいですね」

「シャル……おま……なんちゅー豪快な……」

「……取り敢えず私、近くのホームセンターで防毒マスクと耳栓買ってきますね」


多分恐らく、ペットボトルが透明だったのと悪臭騒音に悩まされ判断力が低下しているせいで、シャルは『水そのものが圧縮集積された氷にならない謎の段階の水』と認識し、柔軟性があるせいで、ガラスと同じような透明の容器だと想像が追い付かなかったのだろう。

ボトルど真ん中に穴を開け、水が滴り落ちてゆくそれを持ち上げ水を口に受けて、味そのものには問題がなかったらしきわんこさんは、眉をしかめてペットボトル容器を見下ろしている。

ここはとっとと、シャルをグロッキー状態から解放してやらなくてはならない。



駅前近くのホームセンターにて必要そうな品々を大急ぎで買い込み、作業場ではなく街の真っ只中で騒音悪臭対策としてシャルに装備させると……


「……」

「……」

「ふーっ、やれやれ。

ようやく人心地付きましたよ。このマスク、なかなか良い性能ですね、ユーリさん」


喜んでいるシャルには悪いが冷静かつ客観的に見て、夜間に暗がりにて不意に出くわしたら、思わず悲鳴を上げてしまいそうな怪しい雰囲気を醸し出していた。

粉塵マスクではまだ危険かと防毒マスク、耳に装着しているのにこちらの声はちゃんと聞き取れているらしきオレンジ色の耳栓、しきりと目を瞬かせていたので念の為に花粉症対策ゴーグル。そして身に着けている服装はクラッシックな執事コスプレ。

明らかに、このファッションはおかしい。


「あー、シャルの騒動で時間食ってもう夜も遅いし、墓参りは明日にする。

明日の昼過ぎにでも、森崎さんチに住所受け取りに行くわ」

「はいはい」


母である千佳の墓参りを目的とした野々村が何故、カルロスに送り迎えを頼むだけではなくユーリも地球へ同行する羽目になったのかと言えば、野々村は千佳の安置されたお墓の所在地を把握していないからに他ならない。

そしてユーリはお墓に向かう道のりそのものは大体把握しているし、もう一度足を運べるだろうが、それまでの暮らしでユーリにも千佳にも縁もゆかりも無い遠方の永代供養墓に納められたお陰で、正確な住所がパッと思い出せなかったのである。

地球のアパートに戻れば流石に住所のメモや地図はあるし、勝手に野々村に一人暮らしのユーリの部屋を漁られるよりは、ユーリが自分で住所メモを探した方がまだしも嫌悪感が少ない。


話は決まって、解散とばかりに背を向け、立ち去る野々村。サッサと瞬間転移すれば良いものを、ヤツはスタスタと駅に向かって歩き出す。

シャルが『地球は魔力が薄い』と嘆いていたのが、もしかすると無関係ではないのかもしれない。


「さて、それじゃあシャルさん。私の部屋に帰りましょうか」

「はい。これほど風魔力が薄くなければ、飛んでみたいものですがねえ」

「……バーデュロイ以上に大騒ぎになるので、絶対に膜反転しないで下さい。空も飛ばないで下さい。

シャルさんがそれをやらかすと、端的に結果を言って、異質な生き物として私は殺されます」


ようやく普段の調子を取り戻してきたらしき、街中徘徊中無作業者は、ユーリの言い分に目を剥いた。


「……マレンジスも充分息苦しい世界だと思っていましたが、チキュウとは何と恐ろしい世界なのでしょうか……」 


単に、シャルの生態そのものが、地球ととことん合わないだけである。



日本は、杉花粉といったアレルギーなどにより、マスクを着用し闊歩する人々が多く街中を行き交うお国柄である。とはいえ、今の日本の季節は真夏。耳栓はさほど目を引かないが、花粉と全力で戦う! と訴えかけるようなシャルのマスクとゴーグル姿には、流石に擦れ違う人々から奇異の眼差しが向けられてくる。無の境地を開拓出来そうだ。

ユーリに手を引かれて乗り込んだ電車の中で、窓の向こうを流れゆく風景に「おお……」と感嘆の声を上げて見入るシャルは明るい車内の下に晒された中で眺めると、色んな意味で目立っていた。まるで初めて電車に乗った子供のように座席に膝をついて窓に手を当て、景色を眺めるシャル。非常に目立つが、さほど混んでもいない車内で他人に無関心な日本人の気質故に、通報もされない。

せいぜい、行儀が悪いと嫌悪感に満ちた眼差しが時折寄越されるぐらいだ。


「ユーリさん、ユーリさんの故郷は夜であっても、どこもかしこも明るいのですねぇ」

「ええ、あちらの灯りは主のような魔法使いの魔法か蝋燭が主流ですが、こちらでは電気……雷のエネルギーを人工的に生み出して流通させ、色んな道具を動かしています」

「ほう」


そろそろ落ち着いた頃かと、シャルにきちんと座席に座るよう促し、地球講座を開く。因みに、両者の間で交わされる言語は相変わらずマレンジスの大陸共通語なので、例え誰かの耳に入っても不思議な響きの外国語だとしか認識される心配は無い。


電車を降りて切符の通し方をレクチャーしつつ駅の改札口を通過し、ユーリが借りているアパートに続く住宅街の夜道を、街灯に照らし出されのんびり歩く。

道中、シャルはやおら、ズポッとマスクを外した。


「……ちょっ、シャルさんマスク!」

「流石に、ずっとこれをはめているのは暑くて息苦しいです」


確かに気温が高く湿気でむわっとする気候ゆえに延々マスクを身に着けているのは大変であろうが、むしろ、今夜は大型台風が本州に接近してきている分、風が吹いて普段の熱帯夜よりもよほど過ごしやすい。

焦るユーリを尻目に、傍らを歩きながらはふー、と息を吐いた天狼さんは、次の瞬間ゲホゲホと咳き込み、再び防毒マスクを装着した。


「……チキュウの空気は手強いですね……!」

「本当に、便利なようでいて、思わぬところで大ダメージを受けますね、シャルさんの耳鼻」


しかし、このボケわんこさんを苦しめている日本の悪臭とはいったい何であろうか。排気ガスだけではなく、色んな匂いがシャルの鼻を刺激していそうだ。



何とか、通報されず職務質問も受けずにアパートに辿り着いたユーリは、押し入れにしまい込んでいた空気清浄機を取り出し、スイッチを入れた。

お風呂場を徹底的に洗ってお湯を溜め、お風呂の用意をする。

その間、シャルは狭いアパートの部屋をあちこち引っ掻き回して探索していた。慣れない場所で疲れただろうと、ユーリはしばし座って寛いでいて下さいと、シャルにちゃぶ台の前に敷いた座布団を勧めておいたのだが、好奇心旺盛なわんこさんがその上にちょこなんと座っていられたのは、五分にも満たない短い時間だった。

まあ、シャルに部屋の中をあちこち探し回られるのは初めから諦めている。


「あ。シャルさんの着替えが無いな……」


下着やパジャマ、タオルを取り出したユーリは、風呂の準備がほぼ整ってから、ようやく重要な点を思い出していた。


「ユーリさん、ユーリさん!

こんな小さな箱の中に、人間が閉じ込められています!」

「シャルさん、それ、遠距離伝達魔法と同じです。どこの家にでもあるごく普通の道具であって、不当に人間を閉じ込める檻じゃありませんから安心して下さい」


室内をアチコチ引っ掻き回す間に、テレビのスイッチを入れたらしきシャルが、異世界の異文化カルチャーショックを受けている。

大きなサイズのだぶだぶTシャツを引っ張り出してシャルにあてがってはみたが、やはりサイズが合いそうに無い。

時計を見れば既に夜11時に近く、こんな時間に買い物に行くのも躊躇われる。ホームセンターで適当に買っておけば良かったと、悔やんだところで後の祭り。


「うーん、シャルさん、着替えどうしましょうか?」

「本来の姿に戻るので不要です。流石にユーリさんの家の中でぐらい、自由にしていられるのでしょう?」

「はあ、まあ」


ユーリの切実な悩みに、天狼さんはあっさりと結論を下し、それよりも、と、シャルの眼差しは次々と映像が切り替わるテレビに釘付けだ。


「ユーリさん、これは何を伝えてきているんですか?」

「えーと、ニュース番組……色んな事件や事故、お知らせを一般に伝えるコーナーですね。

今は、日本列島に接近してきている台風情報のようです」

「『タイフー』って何ですか?」

「大規模な雨風です」


バーデュロイには台風がなかっただろうか? と疑問に思いつつ、簡単に解説すると、シャルはふんふんと頷く。

ニュースによると既に本州に上陸した台風はかなり大型らしいが、進路予測そのものはユーリが暮らすこの地域からは逸れるらしき軌道を描いており、一晩眠っている間にここからはかなり遠く離れた地を通過し、そのまま本州から去るようだ。


「シャルさん、お風呂沸きましたから、入りましょう。

うちのお風呂は、一緒に入るにはちょっとかなり狭苦しいですが、あちらとは設備が全然違いますので」

「お風呂!」


悪臭に悩まされていた天狼さんは、風呂の一言にガバッと立ち上がった。

本気で狭いのでせめて子イヌ化希望なのだが、あのラブリーな姿になるにはいったんカルロスに呼び戻してもらい、外殻膜設定をいちいち組み替える必要があるので無理そうだ。


狭苦しい風呂場でも大はしゃぎのわんこさんを宥めすかし、ようやく風呂から上がった頃には、ユーリはすっかり疲れ果てていた。

入浴している間に室内の空気もかなり脱臭されたようで、マスク不要な室内にて、湯上がりでスッキリとした爽快感のただ中にあるシャルは、すっかりご満悦である。


冷蔵庫にしまわれていた材料からあり合わせの適当な夜食を作って食べ、水道の蛇口から水の出し方閉め方だけ教えて後片付けは任せ、わんこさんが散らかしまくった室内を整頓していく。

押し入れにしまい込んでいた指先が、カツリと硬い物に触れた。


「あ……この箱」


贈答用のお菓子が入っていた缶を引っ張り出して蓋を開けると、若かりし頃の母と赤ん坊が写った写真と、百人一首に数えられるうたが書かれた一枚の札。


「せっかくだし、アルバムに綴じておこうかなあ」


母が何を考えこの缶の中に写真とうたをしまっていたのかは分からないが、ユーリとしてはこのままにしておく必然性は無い。

鋏やカッターといった切断用の刃物ではなく、いかにも人の手によって真ん中から半分に千切られた切り口をなんとはなしに指先でなぞり、ひっくり返してみる。裏側に記載された文字の一つを目に留め、ユーリの眉がピクリと痙攣した。


……そう言えば、ヤツの名前は『ミチル』でしたっけ?


棚からゴソゴソとアルバムを取り出すユーリの背後では、すっかりテレビが気に入ったらしきシャルが洗い物が終わるなりイヌバージョンになりテレビの前に陣取って電源を入れ、ワクワクとした様子でかぶりつきになっている。テレビ越しでは発言者の感情が伝わってこず日本語の大意は汲み取れないらしいのだが、言葉は分からなくともそれでも動きや映像を観るのが面白いらしい。


アルバムに写真を収め、母が眠るお墓の住所を記した手帳を取り出してメモ用紙に書き写し終え、さてそろそろ寝支度を……と顔を上げたところで、テレビから緊急速報を伝える効果音が鳴った。

シャルが現在、適当につけていた番組は深夜放送のバラエティー番組だったのだが、画面上部に緊急ニューステロップが流れていく。


「……暴風域で大規模土砂崩れ、麓の家屋が呑み込まれ?」

「どうかしたんですか? ユーリさん」

「今回の台風は大きくて、南の方では大きな被害をもたらしたらしいです。

今夜は大人しく寝ましょう」

「……ユーリさんの故郷は、わたしが想像していた以上の地ですねえ」


テレビの電源を落とし、ちゃぶ台を片付け布団を敷くユーリに、シャルはしみじみと呟いた。

この短い滞在で、感覚や捉え方がユーリとは百八十度異なるわんこさんが、日本という地にどういった印象を抱いたのかはさっぱり想像がつかない。

何となく、とてつもなく危険性の高い人外魔境だとでも思われていそうだ。


……よし。明日は冷蔵庫の中の残り物で適当なご飯じゃなくて、日本の美味しい料理を食べさせてイメージアップを図ろう。


やはり、この時期だとルーから手作りしている夏野菜たっぷりオムカレーを提供してくれる、ご近所の洋食屋さんか。それとも地元の無農薬栽培農家と契約していると触れ込みの、イタリアンレストランが良いだろうか。

それともシャルの嗜好的に、焼き肉屋か寿司屋かサラダ食べ放題のお店か。悩ましいところだ。

自分の料理の腕前では、スーパー主夫シャルを唸らせられる自信がまったく湧き上がらないユーリである。


「ユーリさん、ユーリさん、この道具は先ほどの熱い風とは違って冷たい風を起こせるんですね!」


うっかり扇風機のスイッチを踏んづけたシャルが、間近で巻き起こった強風に歓声を上げる。むしろスーパー主夫は、家電製品の数々に大喜びだ。


「ええ。こっちの冷たさを保つ箱で作った氷を洗面器にあけて、こうして扇風機の前に置くともっと涼しいですよー」

「なるほど……ユーリさんが何故、様々に突飛な思考や推測を巡らせるようになったのか、その土壌が窺えますね」


風呂場から持ち出してきた洗面器に冷凍庫の製氷皿から氷をあけ、扇風機の前に置いてやったユーリに対し、シャルは妙な納得をみせている。

ユーリとしては、どうやったらこんなボケわんこさんがすくすくと生育される環境下であるのか、シャルの故郷を見てみたいものだ。



明けて翌日。

疲れ果てていたせいで、布団に横になるなりぐっすりと寝入る事が出来たユーリは、今日も早起きなシャルに揺り起こされ、身支度を整え朝食の材料を買いに部屋を出た。

着替えが無いので必然的に執事コスプレ的な服装の同行者が、ゴーグルとマスクを身に着けずに玄関を出た事に焦って取りに戻ろうとしたのだが、シャル本人から制止された。


「どうも明け方に大気中へ風魔力が少し広まったようで、我慢出来る程度には悪臭を防げるようになりました」

「明け方に魔力が?」


明け方と言えば、関連しそうな事象は現在は日本海上にあるはずの台風が、この地域に最接近したぐらいの刻限である。

マレンジスでは普通に満ちているらしき魔力だが、地球の場合自然災害の付近が最も強く普段は希薄なのだとすれば、皮肉な話だ。


コンビニでパンとサラダを買い、コンビニという店舗そのものに興味津々のシャルを促して帰宅し、簡単な朝食を済ませ。

近所に建つ、全国にチェーン展開している超有名な格安服のお店に足を運び、シャルの身体に合うサイズの服を何着か購入する。

外見からして、明らかに海外の人種にしか見えない背の高い執事コスプレ男を連れて街中を歩くと、ただそこに居るだけで周囲から嫌でも視線を集めるのだが、コスプレファッションから格安シャツとジーパンに着替えさせたら……別な意味で残念さが拭えない。


シャルの服を買って部屋に戻り、またもやテレビに釘付けなわんこさんの子守はそのままテレビに任せ、ユーリは室内の整理整頓を始めた。

向こうで暮らすと決めた以上、収入が無いままこのアパートを契約していてもそのうち預金が尽きて光熱費や家賃滞納になってしまうのだし、通えない大学の退学手続きや、ケータイと同じく解約の準備をしておくべきだろう。

そうすると、ユーリは地球での拠点を完全に失って『住所不定・無職』になってしまうのだが。

『住所不定・無職』……重い響きである。


「現場では、今も必死の捜索活動が続けられておりますが、未だ安否は確認出来ておりません!」


シャルが熱心に見入っているニュースでは、土砂災害が起きた地域にて、台風が過ぎ去って本格的な救助活動が始まっている様子が幾度も番組の途中に挟まっており、今日のニュース番組はどこもそれを扱っているらしい。

何でも台風の大雨洪水で地盤が緩む事を警戒し、その地域一帯の住人には避難勧告が出されたのだが、土砂崩れが起きた麓の大きな屋敷に暮らす老人は避難指示に従わずそのまま屋敷で寝起きしていて、行方不明になっているらしい。


テレビに意識を向けていたユーリは、その時玄関のチャイムが鳴る音に我に返った。

テレビの前から玄関ドアに目をやったシャルは、スンスンと匂いを嗅ぐ。


「……ミチェルの匂いがしますね」

「ああ、ヤツが来ましたか」


恐らく、宣告通りに住所メモを受け取りに来たのだろう。

しかし、よく考えてみればヤツが借りている部屋も同じアパートの下階にあるのだから、何故わざわざ『翌日昼過ぎぐらいに』などと指定して、昨夜はサッサと立ち去ったのだろうか。


「もしもーし、森崎さーん?」

「ハイハイ、今開けますよ」


安普請のアパートをバンバン叩かれてはかなわんので、メモ用紙を片手によっこらしょ、と立ち上がったユーリは、玄関ドアの鍵を開けた。……ドアチェーンは当然、掛けたままである。


「おはよー、森崎さん。例の住所くれる? 一人で勝手に行くからさ」

「こっちだって、頼まれたってアンタと一緒にだなんて行きませんとも」


ドアチェーンの幅、狭い隙間のみ開かれたドア越しに、ふぁ~と眠たげに欠伸混じりに片手を突き出してくる野々村の手のひらに、ユーリはメモ用紙を叩き付けた。そしてそのまま、サッサとドアを閉めようとしたのだが、ヤツはドアに手を掛け「待った」と押し留めてくる。


「一個、忘れてた。

オレと母さんのツーショット写真、こっちにちょうだい」

「……はあ?」


野々村が言い出した謎の要求に、ユーリは眉を吊り上げる。

ユーリが知る限り、森崎家のアルバムに野々村の姿など一枚も写ってなどいない。

流石に昨日とは異なり地球製の服を着ているヤツは、胸ポケットから何かを取り出す。


「母さんが赤ん坊抱いてて半分に切れてる写真、あるんじゃないの。これがその片割れ」


野々村がピラリと翳したその写真には、ユーリの見知らぬ男性が優しい笑顔を浮かべて眠る赤ん坊を腕に抱いている姿が写っていた。それは確かに、一般的な写真のサイズよりも小さい。


「……オレが母さんと一緒に写ってる写真、それしか無いんだよね。だからこっちに寄越して欲しいんだけど?」

「この男の人、誰?」


思わずその写真をマジマジと見つめてながら零れ落ちた呟きに、野々村は肩を竦めた。


「深郷伯父さん」


野々村の言い分を、全て丸呑みにした訳ではない。けれど、母の面影を求めるこの狂人の要求を突っぱね、その結果暴れ始められたらことだ。

諦めて玄関先から引き返し、昨夜綴じたアルバムから例の写真を引き抜いてくる。


「これ?」

「そう」


短いやり取りと共に、差し出した母の写真の代わりのように、ユーリの手には深郷氏と赤ん坊の写真が一枚の札と共に渡された。

何で? と、疑問符を浮かべて無言のままヤツを見返すと、野々村は手元の母の写真に視線を落としたままポツリと呟く。


「伯父さんとアンタが一緒に写ってる写真、それしかないから」


じゃあな、と、ヤツは用が済むと実にアッサリと玄関ドアから手を離し、それは勝手にガチャリと閉まる。

元通り玄関の鍵を掛け、ユーリは手元の写真をひっくり返してみた。

左上部に大きく、

『母さんへ

僕らは幸せにやっています。』

と書かれていた。

写真に重ねて手渡されたのは和歌の札のようだ。


小倉百人一首、第11番。参議篁のうた。

『わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟』


「ユーリさん、ミチェルはもう帰ったんですか?」


玄関先で写真と和歌の札をボンヤリと眺めているユーリの顔を、テレビから離れたシャルが覗き込んでくる。ユーリはパチパチと瞬きをした。


「あ……これからお墓参りに行くらしいですよ」

「そうですか。せっかくですから、我々はしばらくこちらでのんびり羽根を伸ばしがてら、観光をしてから帰宅しましょう」


好奇心旺盛なわんこさんは、降って湧いた休暇を大いに楽しみにしているようだ。

最後のページに深郷氏の写真と和歌の札を滑り込ませたアルバムを、ユーリはそっと棚に戻したのだった。



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