epilogue
漫然と、緩慢に動かす事しか出来ない四肢と、霞がかかったようにボンヤリと鈍い思考。
手足を投げ出し、冷たく硬い床の感触をどこか遠く身体の右側側面に感じながら、悠里はゆっくりと瞬いた。
カツリ、という足音を立て、視界の半分に巨大な革靴の先端部が映り込む。
「……目が覚めたのか、ユーリ」
聞き覚えは無いが耳に心地よい声が、自分の名を呼ぶ。悠里は誰何しようと、口を開いた。
「みぃ……?(誰……?)」
喉から、悠里が発しようと意図したものとは全く異なる音が漏れた。敢えて例えるなら、弱った小動物の鳴き声のような……?
「意識の無い間に無断で変身させて悪いが、今、お前の姿は子ネコ姿になっている。そっちの方が癒やしの術が効きやすいんでな」
遥か高みから降ってくる声よりも、悠里は自らの利き手に付いたピンク色したぷにぷに肉球に目と意識が釘付けだ。いや、利き手そのものが、黒い毛並みのドーブツ的な足になっている。
確か、自分は、意識を失う前には火事の倉庫に取り残されていたはずだ、という記憶が思い出され、パズルのピースがパチリと嵌るようにユーリはこの事態に合点がいった。
「みぃみぃ!(なるほど、私は人間から小動物に転生したのですね!)」
「違うわボケ」
納得した所で、遥か高みからの声がちょっと高い場所からのツッコミとなり、ユーリはごろんと仰向けになった。
キラキラしい金髪と碧い瞳の美青年がしゃがみ込み、悠里を見下ろしている。
「みみぃ~(なるほど、このイケメンが今世のネコたる私の飼い主様ですか)」
「なあ。お前、分かってて現実逃避してるだろ? いや、そっちが望むのなら、飼い主になるのもやぶさかじゃねえけどよ」
イケメンはガシガシと自らの金髪頭をかき乱し、悠里の頭部を慎重に撫でた。
「ん、怪我は治ってるな。
さて、それじゃここらで今後の事について話そうか」
今後の事? と悠里が疑問を抱くと、その思考が聞こえたかのように彼は頷いた。
「俺はお前が暮らしてた『チキュウ』とは異なる世界の魔法使い、カルロスだ。
俺もユーリもまだ子供だった頃、召喚して使い魔の仮契約を結んだんだが……覚えてねえか?」
「にゃう(いえ、まったく)」
「そうか。単刀直入に言おう。お前には二つの選択肢がある。
このまま俺の使い魔として主従となるか、俺に魂を捧げて死ぬか、だ」
「にゃ!?(はぁっ!?)」
スッと立ち上がったカルロスは、遥かな高みから悠里を見下ろして、淡々と告げた。
「魔法使いと同一の魂を持つ生命と使い魔契約を結び、魂を吸収する。そうすれば、魔法使いは下手な修行や修練では得られないほど、強力な力を得る事になる。
本来お前は、『チキュウ』で寿命限界まで生き、そして俺達の死後に魂が融合するはずだった。それをお前は、俺が許可した覚えの無い死を迎える瀬戸際のようだったからな。立派な契約違反だ」
カツン、と、ブーツが硬い床を踏む音がやけに大きく響き、カルロスが足を踏み出したのが分かった。
「既に、仮初めの契約は幼少期に交わされている。だからこそ俺にはお前の考えている事、心が読めるし、俺の思考をお前へ強引に押し付ける事も操る事も出来る。
この意味が分かるか?」
つまりそれは森崎悠里としての意識や自我でさえ、この金髪碧眼イケメン自称魔法使い、カルロスに今後好きなように書き換えられてしまう危険性、あるいは既に心や記憶を操作されてしまっているという可能性を暗に示していた。
そんな危険を教えずにいる事とて出来たはずなのに、カルロスは敢えて悠里に非道な疑心暗鬼の種を植え付けてゆく。
常に疑い続けろと。安易に投げ出さず自らに問いかけ、物事を考える事を放棄するな、と。そう遠回しに強要してくるくせに。
絶対的な力の差を叩き込まんとしてくる、高圧的であり抗う気力を折り屈伏させるような、支配者としての言葉が降り注いでくる。
「理解力があるようで何よりだ。
さあ選べ。服従か、さもなくば死を」
「う……」
「ユーリさん、ユーリさん」
「んん……?」
「朝ですよ、起きて下さい」
ゆっさゆっさと頬の辺りが押し上げられ揺さぶられる感覚に、ユーリは瞼を開いた。
カルロスに召喚されたばかりの頃、その時の記憶が夢として現れ起床と共に溶け消えていくのを感じつつ。目を擦りながら開くと、枕元に鎮座していたちまい子イヌが胸元に飛び込んでくる。両手に乗るぐらいの手乗りサイズとは言え、勢いがつきすぎて胸郭が圧迫されたのか、一瞬息が詰まった。
「ふぐっ!」
「ああ、すみません。どうも、この身体は慣れませんねえ」
パタパタと、小さな翼や尻尾をフリフリしつつユーリの身体に乗り上げてくる子イヌさんを抱き上げて、ユーリは寝台から下り立ち、子イヌ姿のシャルを床に放した。
カーテンを開け放った窓の向こうは丁度夜が明け始めた頃合いで、顔を出し始めた太陽がユーリが寝起きしているベルベティー邸が建つ王都の街並みを徐々に照らし出している。新しい一日の始まりだ。
「……シャルさん、またそちらの姿という事は、主は相当お疲れですか?」
「ええ。きっと今頃は、寝室で泥のように眠っておいでですよ」
朝ご飯の支度の為、寝間着からお仕着せに手早く着替えたユーリは、伸びてきた髪の毛を後頭部でポニーテールに纏めてピンク色のリボンを結んだ。この同僚が普段の人間バージョンで居てくれていれば引っ詰め髪にしてもらうのだが、自力では無理だと諦めの境地だ。
それでも流石に、半年も経てばリボンで髪の毛を結う毎日の作業にも慣れてくる。
半年。
あのハプニングだらけの結婚式から、もう半年も経った。
その間、カルロスやシャル、ユーリは今まで暮らしていた森の家の荷物を纏めたり、ベアトリスから譲渡された屋敷の手入れをして暮らせるように整えたり、森の家から引っ越し荷物を少しずつ運び込んだり。
並行してパヴォド伯爵領での魔法使いとしての仕事や、連盟での仕事。そして展覧会にて一気に知名度が上がった調香師としてのお仕事と。目の回るような忙しさに追われて、殆ど休む暇も無い有り様だった。
……いや、より正確に言うと、その多忙さは現在進行形で継続中である。何故ならば森の家の調合部屋の整理がまだ済んでおらず、カルロスはシャルと共に、王都の屋敷とパヴォド伯爵領はグリューユの森にある家を往復するような暮らしぶりだからだ。
半年の間、ユーリは奥方様となったエストと共に王都に留まりパヴォド伯爵邸にお世話になりつつ屋敷を整え。カルロスとシャルは森の家と往復で引っ越し準備。
そんな日々に、かのご主人様はあまりにもストレスが溜まってしまわれたのであろう。癒やしが欲しいとシャルの外殻膜設定を人間バージョンから時折組み換え、シャルの子イヌ時代の姿を再現し、愛でているらしい。
将来は大型肉食獣に化ける片鱗など欠片も感じさせない、この動くぬいぐるみの如き愛くるしい子イヌ姿、あまりの可愛さにベアトリスを始めとする女性陣から熱い支持を得ていたりする。しかしながら当の天狼さんとしては、上手く飛べずに長距離移動が出来なくなるばかりか、普通に歩くにも時間が掛かって面倒臭いと、子イヌバージョンにされるたびに辟易している。もったいない話だ。
「新婚なのに……新婚なのに、ロクにシアとイチャつけねええええ!!」
と、先日ご帰宅なされた際、かのご主人様は魂の叫びを上げておられたが、ユーリを始めパヴォド伯爵邸の使用人の皆様方でせっせと整えた主寝室にご案内すると、大喜びで蜜月を楽しまれた。カルロスが王都に戻っていた事を知ったダミアン長老が呼び出しを掛けてきて、その際のエスト奥方様との蜜月は僅か二日で幕を下ろしたが。
恐らく今日からまた、仕事が入るまでご主人様は蜜月を堪能なさる筈だ。今度はもう少し長めの三日間ぐらいは差し上げたいところだ。しかしカルロスの帰還はどんなに隠そうとしても、王都の守護結界を司るベアトリスにはバレバレである。
ともあれ、住居として大方の設備を整えたベルベティー邸へ、エスト奥方様がご実家からようやく引っ越しする目途が立ったのが半月ほど前。
貴族街に建つお屋敷の中では小規模の為、使用人は通いの方を含めて十人で、殆どパヴォド伯爵邸に勤めていた方に請うてそのまま働いて貰っている。
エスト付きのメイドであった女性陣は、まずイリスが秋に王都に住まう商家の婚約者の下に嫁ぎ、セリアも彼女本人は頼んでいないのにパヴォド伯爵からにこにこ笑顔で整えられた結婚相手の下へ、つい先日、嫌々嫁いでいった。……よりにもよって、セリアの結婚相手はあの奇行子サマである。何がどうなってそんな政略結婚が成り立ったのかはユーリには分からないが、結婚式前夜まで、セリアは真剣な顔をして『この結婚を潰すには、いっそ……』などと、懐剣を鞘から取り出して眺めながらブツブツ呟いていて恐ろしかったが、少なくともあの奇行子サマの訃報はまだ耳にしていない。
いかな珍妙奇行子サマとて、パヴォド伯爵が実の娘のように可愛がっているセリアを、そう悪いようには扱わないはずだ。多分。
エスト奥方様付きメイドとして付き従ってきたラウラと、彼女の旦那様に屋敷の管轄をお任せし、忙しく走り回る日々は矢のごとく過ぎていき、気が付けば冬の寒さがだいぶ和らいできた。もうすぐ春がやってくる。
身支度を終えたユーリの肩に相変わらず子イヌバージョンなシャルが飛び乗り、ユーリは旦那わんこと共有している寝室のドアを開き、厨房に向かう。
「それでシャルさん、いつこちらに帰ってきていたんです?」
「昨夜遅くです。ユーリさんもエステファニア奥様も既に就寝されていましたが」
いつの間にかわんこさんからつがい認識を受けていた上に、国王陛下から夫婦として認められるという空前絶後の経緯を経て始まった、ユーリとシャルの伴侶としての関係だが。主人夫妻と同じく、基本的にユーリは王都で、シャルは森の家でと、離れて生活しながら仕事をこなしていたという実情もあり、実のところそれまでのカルロスの使い魔その1その2な同僚暮らしと、殆どあまり変わっていなかったりする。
いきなり夫婦らしくなれ、と言われても無理ではないかと思われるが、ここ半年間別々の生活基盤で暮らしていたお陰か、『恋人同士』程度には慣れてきた……ような気もする。
ユーリはシャルを肩に乗せたまま、先に起き出して厨房の竈に火を入れていたラウラと共に朝食の支度を整え、主寝室に向かった。
「主、エスト奥様、おはようございます。朝食をお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「……ん、ユーリか。入って良いぞ」
まだお起こしするには時間帯が早かったかな? と思いながらも問うと、寝室内からカルロスの応えがあった。寝汚い主がこんなに早起きだとは珍しい、などと軽い驚きと共にドアを開くと、夫妻が一緒に休んでも充分に余裕のある巨大な寝台に横たわっていらっしゃるご主人様がうっとりとした表情で、眠っている奥方様の髪の毛を指先で梳いていた。
エスト奥様はネグリジェを纏っているのに、どうして主は上半身裸なんですか? とは、多分尋ねない方が良いのだろう。
「おはようございます。早起きですね、主」
「ああ、寝てないからな」
「……」
朝の挨拶をするしもべに一瞥さえ寄越さず、ひたすら久々に再会したエストの寝顔を堪能しているカルロス。ある意味、新婚の身でありながら単身赴任のようなものだし、仕方がないのかもしれない。
ユーリの肩の上のシャルが、ミニサイズの羽根をパタパタと盛んに動かした。
「おはようございますマスター。夜も明けましたし、いい加減わたしをこのチビな姿から解放して下さい」
「ん? あー、そういや昨夜は到着が遅くなったから、そっちにしたんだったか……」
「ええ、ご自分だけちゃっかり楽しまれていたクセに、わたしは未だにこの有り様ですよ」
どうやらカルロスは、子イヌバージョンを楽しむ際はシャルが自分の意志で勝手に本来の姿に戻らないよう、外殻膜を固定化して自力反転を不可能にしているらしい。
本契約のユーリの外殻膜設定は簡単に変更可能だが、仮契約のままのシャルの外殻膜設定を変更するには、結界術の補助を可能とする魔法陣の上でないといけないらしい。一応、ベアトリスからこの屋敷を譲り受けた時には既に、ご立派な魔法陣が玄関ホールに敷かれた絨毯に模様として描かれていた。
「……動きたくねえな。
おいユーリ、今日はシャルの手が必要なぐらい忙しいのか?」
「いえ、今日は香料棚の目録作成ですから、むしろシャルさんは香料棚の部屋に入れませんね」
森の家から運び込んだり、結婚祝いに届けられた香料は、今度こそ香料棚の中で所在不明にならぬよう、ユーリはきっちりと種別目的別ラベルと棚番号を割り振り、一つ一つの香料専用保管場所を確保して陳列するという、地道な作業を行っていた。
森の家よりも調合部屋は広くなり、香料保管室は五倍以上となった為、初めからきっちり整理整頓しておかなくては、管理しきれなくなるのは目に見えている。
しかし、森の家にはまだ半分以上の香料が残されており、終わりは未だに見えない。
「……だ、そうだ。残念だったなあ? シャル。ま、たまの休暇とでも思って、今日は一日チビなままでいろ」
「ぐぬぬ……マスター、半年も経ったというのにまだ根に持っていらっしゃるだなんて、なんたる粘着質」
「一生モンだぞ? これから先、ことある事に取り沙汰されるんだぞ?
半年で許す訳ねえだろうが、ぶわぁ~~か!」
……どうやらご主人様は、一生に一度の結婚式にて巻き起こったハプニングを未だに許容出来ずにいるらしい。やはり、脚本家の方がわざわざ屋敷を訪ねてこられたのが、あまつさえお祖母様が嬉々としてオーケーを出されたのが原因か。
「ユーリ、朝飯はワゴンごとそこに置いといてくれ。食い終わったらワゴンは廊下に出しとくから、下がって良いぞ。
あと、しばらく人払いしとけ」
「畏まりました」
しもべから目線を戻し、スヤスヤと寝入るエストの頬を撫でるカルロスにお辞儀をしてから、ユーリは厨房に向かった。主人夫妻から特に用事を言い付けられなかったので、これからラウラとユーリ、そして旦那様達の3人と1匹でまったりと朝食タイムである。
子イヌバージョンのシャルに、千切ったパンやサラダを食べさせてやりつつ朝食を終え、香料の収納と目録作りを黙々と進めたユーリ。
昼食の為に香料保管部屋から出たところで、魔術師連盟から来客があった。きっとまた、カルロスに顔を出すように、とのお達しも付いて来るに違いない。
……ご主人様の今回の蜜月は、半日しか保たなかったようだ。
溜め息混じりに、カルロスへとテレパシーで呼び掛ける。非常にご主人様のご機嫌を損ねてしまわれる事が予想されるので、連盟からの言伝など出来れば退けて差し上げたいのはやまやまだが、今回は足を運んできた来客が来客だし、すわ、キーラとの連絡が取れず一大事と、過保護連中総出で屋敷に乗り込まれても困る。
主ー、主ー、ユーリです。
お客様をラウンジにご案内してシャルにお持て成しを任せ、ユーリはお茶の支度を整えつつしばらく呼び掛け。それでもお返事が返ってこない。昨夜はエスト奥様の寝顔に見惚れて徹夜なされたようだし、今頃は寝落ちしているのかもと疑いつつもしつこく呼び掛けると、ややあって返答があった。
“……何だユーリ?”
しばらく人払いをお命じになられたご主人様は、非常に不機嫌そうに苛立ちを滲ませテレパシーを伝えてくる。
お客様がいらっしゃいましたので、エスト奥様とご一緒にご挨拶なさって下さい。
“……俺とエストは留守だと伝えろ”
先方は主が帰宅している事をご存知です。
“じゃあ病気だ。体調崩してるから寝室から出られんと言え”
キーラの一大事と、連盟から過保護連中がどやどやと屋敷に押し掛けてきそうなので、仮病はお控え下さいませ。
“~~っ! じゃあ、新婚に気を遣えと言え!”
分かりました。では、『主は奥様を寝室に閉じ込め、蜜月をご堪能中ですのでご遠慮下さい』と、私の方からベアトリス様にお伝えしておきます。
「あら、ティカちゃんがお茶を入れてくれたの?
今日はシャルも子イヌバージョンだし、ラッキーな日ね」
「ベアトリス様、ユーリさんよりもわたしがお茶を淹れた方が美味しいのですよ?」
「子イヌの方が可愛いから良いの!」
“!?”
日当たりの良いラウンジにてシャルを膝に乗せ、ユーリがお出ししたお茶と茶菓子を堪能し、頬を緩めるベアトリス。
来客が祖母だと知ったカルロスは、動揺した感情を漏らした。どうやら、妻とイチャイチャしているのを祖母に知られるのは決まりが悪いらしい。
「あー、ベアトリス様。今、主とテレパシーで連絡を取ったのですが……」
“支度する! だから時間を稼げ!”
「……王都へは昨夜遅くに到着したので、主はまだ寝室でお休みだったのですよ。お支度がありますので、今しばらくお待ち頂けますか?」
「まあ、カルロスったら不規則な生活を送っているのね?」
「森の家は、ちょっと遠いから仕方がありませんねえ」
ぶつくさと文句を漏らしながらも、カルロスはちゃんと来客と会うつもりになったようだ。
昼間はベアトリスと歓談し、結局連盟に連れ出されて仕事を割り振られる羽目になったカルロスは、屋敷に帰宅し夕食まで書類仕事を片付けるべく書斎に引っ込んだのだが、仕事をする気が起きないのか机の上に顔面を伏せて唸る。
「ルティ、お願いだ帰ってきてくれ……そして寿脱退だなんて嘘だと言って、笑いかけてくれ……」
まるで、交際していた熱愛な恋人に二股を掛けられていた挙げ句、実は自分の方が浮気相手だった事を寿退社報告を人伝に聞いてようやく知った、恋人に逃げられた駄目男のような情けない有り様だが、カルロスの願いは切実だった。
万年人材不足の魔術師連盟において、ルティことブラウとカルロスは、同じ師について学び処理出来る職務の範囲が似通っている。更に、ごく一般的な連盟構成員の女性魔術師ならば、結婚しようが国からの保護を受け続けるべく脱退など有り得ないのだろうが、ルティの場合は立場が特殊過ぎる。
片や、結婚しそろそろ女装に無理が出てきた貴族の跡取り息子。片や、王都に本拠地を置く事が決まった平民の魔法使い。
ルティが担当していた仕事をカルロスが引き継ぐ事が決まるのは、ある意味当然の結果だと思われた。
「寿脱退とかマジ羨まし過ぎるぞ俺も結婚したから寿脱退出来る気がするんだが申請したら通ると思うか!?」
「主。ご自分の立場を、今一度思い出して下さいませ。
あと、バーデュロイで結婚を理由に仕事を辞めたがる男性がいたら、妻の両親が黙っていないかと」
ガバッと机から顔を上げたカルロスから、一息で笑えない冗談を放たれたユーリは、真顔で返した。
ガックリと肩を落とすカルロスに、相変わらず子イヌバージョンのシャルがよしよしと頭を撫でて慰めている。何とも微笑ましい光景だ。
夕食の支度が調うまでと、黙々と書類と向き合っていたカルロスだったが、昨夜から朝までどころか今までずっと眠らずにいたようで、ご主人様は羽ペンを握ってしばらくすると船を漕ぎだした。
カルロスの手から羽ペンを取り上げてペン立てに差し、書類とインク壺を遠ざける。
「おやおや。昨夜素直に眠らないから、こんな時間にうたた寝してしまうんですよ、マスター」
シャルはペシペシとカルロスの頬を叩くが、ご主人様が目を覚ます様子は無い。
ユーリは子イヌを抱き上げて肩に乗せ、溜め息を吐く。寝台に運んで差し上げたいが、ユーリの腕力ではご主人様を移動させるのは到底不可能だ。
「キール、お夕飯の時間ですわ……あら?」
コンコン、と、書斎のドアがノックされるのでユーリが開けて差し上げると、自ら足を運んでカルロスを呼びに来たエストは、机に突っ伏してしまっている夫の姿に首を傾げた。
人差し指を口元に当て、シーッと『静かに』というジェスチャーを示すユーリに頷き、足音を立てないように寝室に向かったエストは、毛布を手に戻ってきた。そしてそれを、カルロスを起こさないよう近付きその背にそっと被せる。
「本当は、一度起こして寝台で横になって下さると良いのですが」
「こんなに幸せそうな寝顔を見ると、何だか起こすのは忍びないわね」
「主、どんな夢を見てるんでしょうねえ」
しもべと妻の間にて、小声で交わされる会話を知ってか知らずか、カルロスはむにゃむにゃと寝言を呟く。
「ん……シア、ユーリ、シャル、……っといっしょに……」
「キール、本当に眠っているの?」
顔を覗き込むエストに気が付いた様子も無く、カルロスはすうすうと寝息を立てている。
顔を上げたエストと微笑みを交わし合い、ユーリとエストの間に顔を突っ込んできたシャルの頭を撫でてやる。
「ええ、ずっといっしょ、ですよ主」
シャルの子イヌバージョンを初めて目にした時、ユーリは忘れていた遠い日の記憶の中で、少しだけ思い出した事があった。
――しゃーちゃん、しゃーちゃん。そのはねってお空とべるの?
――え、わからない? じゃあ、ちょーせんしてみようよ!
――スゴいよしゃーちゃん! やっぱりしゃーちゃんお空とべたね!
――いいなあ、ゆーりもお空とびたいなあ。
――ねえ、きゃるろしゅしゃま……きゃるしゃま。ゆーりもはねほしい!
――ムリなの? ゆーりとしゃーちゃんがおおきくなったら、しゃーちゃんゆーりをのせてお空とんでくれるかなあ?
――ゆーり、またしゃーちゃんにあいにくる! だからまたつれてきてね、きゃるしゃま!
――えっと、えっと……しゃーちゃんにこれあげる。この丸いのは、チョコとこーかんできるんだよ! あまくておいしーから、いっしょにたべようね。
――だから、ぜったいぜったいゆーりのこと、わすれないでねしゃーちゃん……
それは、すっかり忘れていた子供の頃の思い出。
――悠里! な、い、今、何も無いところから!?
――おかーさんただいま! あのね、ゆーりね、きゃるしゃまのところにいってたの!
――きゃるしゃま?
――うん。ゆーりね、いせかいのまほーつかいのつかいまなんだって! ネコさんだよね?
――まあ大抵の映画だと、箒に乗った魔法使いの使い魔は黒ネコね。
――ゆーり、おおきくなったらきゃるしゃまのところでおしごとするの! おかーさんもいっしょにいこう?
「みぃ……(おかあ、さん……)」
「……ですから、わたしはあなたの母君ではありませんよ、ユーリさん」
昔の夢を見ても、今は寂しさに胸が締め付けられるほど苦しくはない。
それはきっと、今はシャルが居てくれるから。
今宵、シャルは就寝前にカルロスからようやくチビ姿から解放されたのだが、しかし何故か本来の姿ではなく珍しい事に人間バージョンで寝台に横になっていた。
そして、添い寝していた寝ぼけ眼な子ネコ姿のユーリの頭を撫で下ろし。
「はあ、まったく……いつになればこの状態から脱却出来るのやら……」
好きで寝言を漏らしてる訳じゃないんだけどなあ、と、シャルの愚痴にやや理不尽さを感じながらも、ユーリはシャルの手のひらに頬を擦り付ける。
「さあ、明日も早いのですからお休みなさい、ユーリさん」
「みゃう(はい、お休みなさいシャルさん)」
明日もその次の日も。
幸せな一日でありますように。