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足首を捻挫している人間が、長時間立ったまま姿勢を保持して痛みを堪えつつ、演奏を続けたらどうなるか。
当然、捻挫の症状は劇的に悪化する。
「痛たたた……」
「イリス、良いからあんたは部屋に下がってな!」
「でもラウラ、まだまだやるべき事は……」
魔術師連盟からパヴォド伯爵邸へ戻ると、館の中はある意味戦場と化していた。結婚式に関する殆どの下準備は既に粗方済まされているとはいえ、それ以外の様々な雑事……領地からここ王都へ向かっているパヴォド伯爵のご子息ご息女の滞在受け入れ体制だとか、続々と届くお祝い品の目録作成だとか、式当日のお祝い料理作りだとか、当日の勤務スケジュール確認だとか、それはそれはしっちゃかめっちゃかな大騒動である。
「……皆さん、大変お忙しそうですねえ、マスター」
「あー。昨夜からずっとゴンサレス様を見掛けてねえのは、まさか一晩中……」
ネコ姿のユーリをしっかりと抱きかかえたまま、シャルがのほほんと呟く。こんな戦場さながらの邸内をネコ姿で闊歩したら、ユーリはあっという間に踏み潰される自信があった。
引き下がらないイリスに仕方無く部屋の片隅の椅子に座らせ、伯爵家御用達の仕立て屋さん達と共に針仕事をしているよう指示を出したラウラが、決まり悪げに口元を押さえるカルロスを振り返る。
「ああ、ようやく帰ってきたのかい、カルロス。式の段取り練習を始めるから、あんたはホールに向かいな」
「はい」
キビキビと指示を飛ばしていた女将……もとい先輩メイドの表情に、余計な口を挟めないと判断したのか、カルロスは神妙な表情で頷く。三日後の結婚式本番までに、全ての手順を頭に叩き込み挨拶の言葉を考えねばならないとなると、確かにそれはカルロスとて休んでいるヒマもなさそうだ。
「それで? 結婚式全体の指揮を取っているのはパヴォド伯爵になるのかしら」
「……うん? あら、ベアトリス。珍しいね、あんたが塔から外出するなんて」
カルロスの祖母である自分が、孫の結婚式準備に欠片も携わらずハブにされてたまるかと、わざわざパヴォド伯爵邸にまで付いて来たベアトリスがラウラに問うと、部屋の片隅でお針子さん達と共にひたすらレースを編んでいたアルマ夫人が顔を上げ、目を開く。
「あらアルマ。あなたもあたしに黙って、この結婚計画に一枚噛んでた口なの?」
「そりゃね、大仕事となれば守秘義務が科せられるってものよ。ベアトリスはカルロス相手に黙っていられないだろうって、そう思われたんだろ?」
「うぐ……」
「ほら、婆さん。閣下はホールでお待ちらしいから行くぞ」
反論出来ずに詰まったベアトリス、そしてシャルを促して、カルロスはホールへと向かった。
パヴォド伯爵邸内でホールと呼ばれているそのだだっ広い広間は、以前、この屋敷で生活していたというカルロスが魔法陣を敷き、様々な儀式対応をさせているフロアである。
父伯爵とゴンサレスと共にホールの中央に佇んでいたエストは、ドアが開いた音に反応し、振り向く。そして入ってきた人物の姿を確認し、蕩けるような微笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、キール」
「ただいま、シア」
カツカツとホールの床を急ぎ足で横断し、抱擁を交わすカップル。そんな姿を目撃しても、パヴォド伯爵はいつもと変わらぬ笑みを浮かべ、ゴンサレスの方も、これまたいつもと変わらぬ不機嫌顔である。
孫カップルの様子には構わず、ベアトリスはつかつかとホールを移動し、片手を腰に当ててそっくり返りつつパヴォド伯爵と対峙した。
「ご機嫌よう、パヴォド伯爵」
「おや、これはこれはベアトリス長老。連絡も無しに我が家をご訪問されるとは、お珍しいですな?」
ユーリの気のせいだろうか。ベアトリスとパヴォド伯爵の間に、謎の火花がバチバチと散ったように見えたのは。
そ、それにしても。
ベアトリス様はこれまでずっと顔見えない結界を張り巡らせていて、今現在は素顔のままだと言うのに、会う人会う人全員何の違和感も感じず、対面したら『ああ、ベアトリスか』ってすんなり納得されて、誰なのか分からないという不信感も抱かれないのですね。
「いやあね? あたしの孫の結婚式計画らしいじゃない。それを聞いたら、いてもたってもいられなくなったのよ。
まさかとは思うけど、あたしを除け者になんかしやしないわよねえ?」
「ベアトリス長老がお手伝いして下さる、と? フィーが喜びますとも。さ、是非こちらへ」
謎の火花幻影を撒き散らし、ホールを後にするパヴォド伯爵とベアトリス。結婚式の計画は既に固まっているだろうから、いかなベアトリスとて無茶振りはしないとは思われるのだが、何らかの演出を強引にねじ込みそうではある。
なるほど……あれが、結婚につきものな『縁戚問題』というやつですか。
ゴンサレス氏からビシビシと扱かれつつ、式当日の手順打ち合わせを行うカルロスをパヴォド伯爵邸に残し、シャルとユーリは買い出しに出発していた。お買い物をしなければならないので、と、人間の姿に戻してもらい、人波でごった返す大通りを歩く。
「ほらユーリさん。はぐれますから手を」
「はーい」
思えば、以前、こうして人波に逆らいながらこの通りを歩いた時は、シャルと喧嘩中だった。あの時も、この同僚はそうだと感じさせない態度で飄々としていて、いつの間にか喧嘩していた事さえうやむやになって。
差し出された手を握ってギュッと力を込めると、シャルは不思議そうに「ユーリさん?」と呟いたけれど、特に文句がある訳でもないのか、咎める様子は無い。
これから先もきっと、ユーリとシャルは喧嘩してもこうしてなんだかんだと関係が回復するような、そんな近しい距離感のまま変わらず一緒に暮らしていくのだろうと考えると、愉快な気持ちが湧き上がってきた。
彼は私と同じ魂を持つ人……じゃない、天狼さん。
「それで、酒屋さんを回って不足分のお酒をかき集めて、市場に行ってお塩と果物を買うんでしたね」
「はい。出来れば、主とエストお嬢様の結婚祝いの品も見繕いたいですね」
元々、パヴォド伯爵家では食材関係は決まった商会と契約を結んでいるのだが、三年も前から『娘の結婚祝いのパーティーの為に』と発注しておいた隣国のお酒が、不作の影響で商会から提供出来る本数が思ったよりも少ないらしい。そこで王都中の酒屋を手分けして回り、お目当てのお酒をゲットせよ、という厨房からのお達しが下ったのである。ついでに、追加食材の買い出しも兼ねて。
ユーリとしては、お酒の善し悪しなんてさっぱり分からないので、商会が卸せる他のお酒でも良い気がしたのだが、パヴォド伯爵家の料理長にはこの料理にはこのお酒といった強い拘りがあるらしい。
無論、そんなユーリがお目当てのお酒を首尾良くゲット出来ようはずもなく、買い出し要員として頼りにされたのは鼻の利くシャルだ。ユーリはシャルに手を引かれ、同僚の後をひたすらついて行くのみ。
人通りの多い街中を歩いていると、三日後に執り行われる結婚式の話題で王都は持ちきりだった。
何せ、バーデュロイにおける結婚式と言えば、庶民はご近所さんを自宅に招いて内輪でのパーティーが主。貴族は屋敷で盛大に催し社交や外交の場となるが、要するに神格を信仰するという習慣を持たないこの国の人々は、『教会や神社に集まり式を執り行う』という概念自体が存在しない。
それを知ってか知らずか駄先代サマは、カルロスとエストの結婚式、王都の大通り中心部巨大噴水のほとりで国王陛下に見届け人となって頂き、身分の上下無関係に執り行ってお祝いしてもらおうゼ! ……などという計画を打ち立てたのである。笑顔で賛同してごり押ししてしまう権力者が存在する事が、与太話を現実に実現させてしまう運びとなった訳であるが。
確かに、カルロスはあくまでも身分的には庶民である。城の一画で執り行って頂く訳にはいかないのだろうが、国王陛下に直々に大通りにまでお出ましになられるようお願いするのとでは、果たしていったいどちらが分を弁えているというのか。
「やあ、これが結婚式会場というものですか。広いし、綺麗に掃除されていますし、我々が用意しなくても食べ物の屋台は出ていますし、言うこと無しですね!」
「そ、そうですね」
巨大な街門から真っ直ぐに伸びる、敷石で整備された幅広い大通りは王城の正門にまで続いているのだが、その通りの王都中心部には噴水があり、それを囲むように通りは噴水広場として円形に広がっている。
そんな場所なので、食べ物の屋台が出ていたり休憩を取る住民の姿がそこかしこに見られる、庶民の憩いの場なのだが。
今は軍服を身に纏った人々が警備をしつつ、職人の手により噴水の真正面に実に立派なお立ち台が組み立てられている真っ最中であり、人々は遠巻きにそれを眺めていた。
この噴水広場にて、国王陛下が立ち会いカルロスとエストを夫婦と認める宣言を発し、慎んで受けた後、陛下の退場をお見送りしてからパヴォド伯爵邸の中庭で結婚を祝うガーデンパーティーという流れである。当日、雨天だったらいったいどうするんだというツッコミには、ベアトリスが力強く「このあたしに任せなさい!」と請け負っていた。
ハイエルフは孫の結婚式の為なら天候でさえ左右出来るのか、王都結界を巨大な雨除けドームにでも変更してしまうおつもりなのか。
噴水広場が広大な面積を有している事も相まって、式を妨害しない限り当日は端の方に限り屋台も出したままで良い、商売を行っても良いというお達しが出ている。国王陛下のお姿を間近で見物出来る機会など早々無く、当日の混雑ぶりは想像するだけで今から眩暈がしそうだ。
……パヴォド伯爵は、娘の結婚をどれだけ多くの人々に祝ってもらいたいのだろうか。これだけ大事にする意図は、いったいどこにあるのか……とにかく大はしゃぎで立案し、自重を忘れているという線も捨てきれない。
「普通、結婚式ってそれ相応の会場で行うのであって、公共の場を借用したりはしないものですけどね……」
「でも行き交う皆さん、どことなく楽しそうですよ?」
「まあ、王都民にとっては格好のお祭りネタでしょうねえ」
社交界シーズン中、王都は全体的に商売が活性化し賑わうが、それでも社交など無関係な王都に住まう人々にとっては、表へ出れば人が増えて犯罪も増加しているだけで、目に見えた恩恵もさほど無い季節のハズだ。
殆ど、王様顔見せパレードのような雰囲気になるのだろうな。
「そこで考えたのですよ、ユーリさん」
「何ですか、シャルさん」
これまで広場に立ち寄る機会は少なく、改めてユーリがじっくりと観察してみると噴水は巨大な岩から彫りだした彫刻で、小丘のような場所に横たわったり、腰掛けて膝を立てているエルフの女性達が両手に抱えた壺から水が湧き出すデザインになっている。
そんな噴水を見上げているユーリの手を引き、シャルは弾んだ声を出す。
「お祭りだと言うのなら、我々も結婚式に華を添える何がしかの演出を目論んでも良いと思いませんか?」
久々に悪戯わんこの輝けるワクワク顔を向けられて、ユーリは不眠不休で青白い顔色をしていたゴンサレス氏を思い起こした。
「ゴンサレスさんの頭が常時ピカピカにならない程度の案なら、検討しましょう」
「何を言っているんですか、ユーリさん? ゴンサレスさんの頭は昔も今も、キラキラしていますよ?」
「えっ……?」
ゴンサレスストレス禿げの懸念が一瞬脳裏を過ぎったが、きっと同僚が言っているのはあの人の髪質は艶やかだという意味だ。きっとそうに違いない。と、自分に言い聞かせ。
お使いに戻りながら、シャルが考え出す悪戯……もとい、お祝い演出に突っ込みを入れたり却下したりしつつ、買い出しを済ませた。
復路のついでに、ベアトリスがカルロスに贈ると言い出した貴族街の端っこに建つお屋敷とやらを塀の向こうから眺めて見たが、こぢんまりとした造りや庭は最低限の手入れしかしていないようで、殺風景である。
屋内の様子は窺えないが、結婚式の準備で伯爵邸内がバタバタしている現在、本格的に引っ越し準備に入れるのは少なくとも結婚式が無事に済んでからになりそうだ。
「ここが我々の新しい住まいですか。今から引っ越しが楽しみですねえ」
「……私は今から、あの森の家の雑多な香料移動を考えるだけで憂鬱です」
「……地下室コレクションは、あのままでも良いですよね?」
「多分、引っ越すならパヴォド伯爵家にあの森の家は返還するんじゃないですかね?
あれ、主個人の持ち物じゃないんでしょう?」
恐らく、本来の用途はワイン倉だと思われる地下室の現在の状況は知らないが、シャルがガーン! とショックを受けている様子から察するに、香料棚に匹敵する雑然とした保管具合だと思われた。
「ユーリさん、エステファニアお嬢様を連れて森の家で隠遁しましょう」
「狭いから無理だと思います」
良いことを思い付いた! と、引っ越し話を蹴ろうとするシャルの提案をズバッと真っ向から切り捨てて、ユーリは同僚を促し帰途に着く。
家が整うまで、いましばらくはパヴォド伯爵邸に居候暮らしを余儀なくされそうだ。