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“今日、これまで俺が地道に準備を重ねてきた全てに、答えが出る”
夏のバーデュロイ、社交界シーズンを彩る、王室主催展覧会。その品評が下されるこの日は、同時に王太后陛下誕生日祝典が催される運命の日でもあった。
“ただの魔法使いじゃ駄目だ。しがない調香師でも不釣り合い。
婆さんからたまたま受け継いだキーラの地位は予想外だったが、それもデュアレックスが滅亡して久しい今、領地もねえ領民もねえ財産もねえ。ただの厄介事を呼び込みかねねえ血筋だっつー側面の方が強い”
煌びやかで豪勢でありながら、上品かつ優美。そんな優れた芸術作品ばかりが出品される展覧会で、今日遂に、多くの審査員達を唸らせた優秀作品を製作した職人へ、主催者たる王族自ら栄誉を与えて下さるのだという。
祝典へ向け、この日の為に誂えた正装に身を包むエストの身仕度をお手伝いしながら、ユーリは口を挟む事無くカルロスの独り言のようなテレパシーを受け止めていた。
恐らくユーリの主は、判決を待つ時間があまりにも長く感じられ、今にも緊張の糸がふっつりと切れてしまいそうな状態なのだろう。平静な思考力を保てずにいるカルロスが、登城するのに相応しい服装を、今現在きちんと纏えているのか、ユーリにはそれだけが心配だった。
“あー、うちのわんことにゃんこは、本当に常人とは違って感性が独特だなオイ。
シャルが余裕綽々で準備した礼服で人を着せ替え人形にして、今は禿げそうなほど髪にブラシ掛けてきとるわ”
ああ。それなら安心ですね、主。
本来の姿でエストの支度を手伝えるのは有り難いのだが、本日のお出掛けにもユーリは子ネコ姿で連れ出され、肝心の祝典ではセリアに預けられてしまうらしい。
「ティカちゃん」
鏡台の前で、ラウラの手によってお化粧を仕上げられたエストから、おっとりと呼び掛けられた。
鮮やかな新緑色の細く長いリボンを巻き込みつつ、お嬢様のふわりとした髪の毛の耳の後ろ辺りから下まで編み込んでいき、両サイドのそれを纏めて三つ編みを作る。完成系が綺麗に纏まるよう、三つ編みの右側を少し指先で広げて余裕を作ってから、毛先の方からぐるぐると渦を巻くように巻いて花の形を作り上げ、後頭部で留めた。エストお嬢様は髪が長いので、鮮やかに咲き誇る金色の花は大輪で絢爛だ。
難しい部分はセリアやイリスに任せ、人様の髪の毛にピンを差し込みまくれさえすれば、結構上手くいくものだ。自分で自分の髪も同じようにしろ、と言われれば無理だが。
「ティカちゃん?」
再度、エストから呼び掛けられて、ユーリはハッと我に返った。
「すみません、お嬢様。髪を結うのに夢中になっていました」
「どういった形になっているのかしら?」
鏡台に背中を向け、ラウラが差し出す手鏡を受け取ったエストは、自分では見えない後ろ姿からの髪型の仕上がりを見て、「可愛いわね」と、満足して下さったようである。
「エストお嬢様……素晴らしいです! 感無量です!」
「本当。出発前にきちんと纏まって良かった……」
イリスを練習台に、ユーリのあやふやな記憶から結う方法を推測し、モノになるまでみっちりと練習してきた、3人がかりで本番に臨んだ新しい髪型の完成に、セリアやイリスもホッとしたようだ。
バーデュロイの夜会での女性の髪型と言えば、基本、頭頂部でお団子のように上げて纏めるヘアースタイルが主流らしい。
そこで、よりいっそうエストを上品かつ優雅に飾り立てる事を自らの人生命題と捉えているセリアが、王太后陛下誕生日祝典という国内外を問わず大勢の貴人が集う場で、エストお嬢様を発信源として新たな流行を生み出したいと考えたのだ。
まあ、悩むセリアにユーリは地球でのパーティーヘアー(写真やテレビで垣間見た)を身振り手振りで話しただけなのだが、乗り気になったセリアを手伝い、何とか形になった。
「ティカちゃん、そちらのジュエリーボックスを取ってくれるかしら」
「はい」
ドレスを身に纏い、お化粧と髪型を調えたエストは、セリアが管理保管しているのとはまた別のボックスを鏡台の上に置いている。ユーリから受け取った小箱を開くと、そこに入っているのは伯爵令嬢の宝物にしては、繊細な細工も施されておらず質素で、碧い石も小粒と、アクセサリーの販売価格としては価値の低そうなピアスが一つ。一対ではなく、片方だけである。
「セリア、今日の耳飾りはこれを着けて行きたいの」
「はい、かしこまりまし……はっ?」
今日のドレスの為にと、選び抜いた宝飾品を取り出したセリアは、一拍置いて疑問の声を発した。
すると、今まで口を閉ざしていたラウラが静かに口を挟む。
「エストお嬢様。そちらの品を、普段使いとして私的な場で身に着けていらっしゃる分には、とやかく申し上げるつもりはございません」
花弁に見立てた三つ編みを纏めている部分に飾るべく髪飾りを手にしたままのユーリと、磨き上げた銀アクセサリーを乗せた台を手にしたままのセリア。エストの意思を優先したい両者は、カルロスからの贈り物であるピアスを身に着けたいと言い出したエストの気持ちが分からないでもないのだが、ラウラの眼差しは真剣だ。
「ですが本日お出ましになられる場は、一分の隙も許されぬ、パヴォド伯爵令嬢としてのエストお嬢様の真価が問われる祝典、デビュタントでございます。
パヴォド伯爵家は、デビュタントに相応しい装いで令嬢を御披露目するセンスも持たぬのかと多くの者共に侮られ、伯爵家の名に傷を作りかねませぬ」
「あたしも同感です。お嬢様。
セリアが選んだアクセサリーコーディネートは、誰が見ても賞賛するに違いない、祝典に相応しい品です」
イリスからも諫められるが、エストはきっぱりと首を左右に振り、自らの手でピアスを右側の耳朶に着けた。
「ピアス一つで堕ちるほど、我がパヴォド伯爵家は脆弱な家では無いわ。
それよりもわたくしは、デビュタントでわたくし自身の誓いと意志を表明したいの」
「……こうと決めたら曲げない頑固なところは、本当にお父上とよく似ていらっしゃること……」
ラウラはエストの表情に何を思ったか、早々に説得の努力を諦めてしまった。イリスはまだ、なんとか口を挟んでエストを思いとどまらせたかったようなのだが、お嬢様から『家に揺るぎなど出ない』と断言され、上手い言葉が思い付かない様子である。
ユーリは慌てて、いつの間にか途切れていたテレパシーをご主人様へと再び飛ばした。
主! 主!
エストお嬢様が、主から頂いたピアスを身に着けて祝典に臨むと仰っています!
“……そうか。俺もこれを身に着けるべき時が来たようだな”
ユーリがやや慌てふためいているというのに、テレパシーを返してきたカルロスは、緊張感を滲ませたままそんな呟きを漏らす。これとは何だろうと疑問を抱いたユーリの脳裏に、カルロスがわざわざ自分の視界に映るものを一瞬の映像として送ってくる。
それは、カルロスの手のひらに乗せられた、小ぶりの碧い石をあしらったピアスの片方……エストが今、身に着けている物と全く同じデザインだ。
主、穴なんか空けてなかったのに、実はピアスをお持ちだったのですね。
“ガキの頃の話だから、お前は覚えてねえのか。ユーリから聞いたんだがな”
え?
“お前の世界の昔の貴族は、恋人に一対のピアスの片方を渡す習慣がある。男性は左耳、守る者。女性は右耳、守られる者。
それでまあ、俺は一昨年のエストの誕生日にピアスを贈ったんだ。異世界の習慣をコッソリ教えながら、な”
あー、ああ、はい。ありましたありました。……昔の私、主にそんな話とかしたんですか。おしゃまさんですねぇ。
利き腕である右側を常に空けて男性は女性を守るという理由で、女性を左側にして歩いていた。その時、密着するのは男性は左側、女性は右側。
愛する女性を己の勇気と誇りを掛けて守ると言う誓いが左側のピアスに。対になった右側のピアスを女性に贈る事でその意志と想いを告げ、それを受け取った女性は愛する男性のその想いに答えると言う想いを込め、男性と密接する右側に付け、告げられた想いに答えた……
という、外国の習慣である。まさか、全くその意味が知れ渡っていない異世界で主人がそれを取り入れていたとは思いもよらなかったが、だからエストが身に着けていたカルロスからの贈り物であるピアスは、右側の片側だけだったのか。
……わー。つまり、エストお嬢様はずーっと『わたくしはカルロスの恋人』って、意思表示していたよーなものなんですね。単に、このバーデュロイでは誰もその習慣を知らないからスルーしてただけで。
“……っつ~! 意外と痛ぇな、ピアスを刺すのって。おおシャル、そのタオルは何だ?”
あ、主? もしや、そのままブスッとピアスを耳朶に突き刺したのでは……?
“ん? ピアス穴ってこうやって空けるモンじゃねえのか?”
カルロスはケロッとした声音で、何の準備も無しにピアスの針を自分の耳朶へ突き刺したと告げてくるが、恐らくもっと被害が少ないちゃんとした手順があると思われる。
いざという時は戦場にさえ出撃する主人は怪我が日常茶飯事なせいか至ってケロッとしているが、シャルがタオルを差し出したという事は、流血沙汰になっているのではあるまいか。
“おう、そのシャルから伝言だ、ユーリ。
『会場でお会いしましょうね』だそーだ”
あ、はい。今日はシャルさんも行かれるんですね。あちらで落ち合えるようでしたら、よろしくお願いしますとシャルさんにお伝え下さい、主。
“……お前ら、ご主人様をメッセンジャー代わりに使い倒しやがって……”
しもべ間にホットラインは引かれていないのだから、仕方の無い話である。
別室にて子ネコ姿に変身し、ネコちゃん用バスケットに入れられ運ばれる事しばし。
今日も華やかに着飾ったパヴォド伯爵家の面々は、展覧会の会場を訪れていた。今日、優秀作品が発表される段取りとなっているのだが、その後、大きなホールにて祝典が開かれる為か、集まった紳士淑女の皆様方は、より一層着飾っているように見受けられる。
ガ……なんとかギュゼル氏を従えた国王陛下が専用の出入り口から会場に姿を現し、陛下の為に用意された椅子に腰掛けると、審査員長に任命された紳士が陛下に向かって大仰にお辞儀をし、手元の紙を開いて厳正なる審査結果の発表に入った。
ユーリは、エストお嬢様の腕の中で展覧会の審査結果発表を固唾を飲んで見守る。
本年度の王室主催展覧会での出品作品数は全部で五十三点、その内特に優れていた作品の中から三つが、王族の方々より直接お褒めの言葉を賜る栄誉に与る事が出来る。
パヴォド伯爵家の方々が佇む場からは見えないが、栄誉を授かる職人の人々も会場の控え室にて待機し、発表の時を待っているのだろう。
一つ目は、来場者の目を引いたあの巨大な絵画。
二つ目は、巨大な宝石を幾つもあしらった見事な宝飾品。
そして三つ目、最優秀作品は……
「サラチェット伯爵推薦、ヴァイオリン奏者ビアンカ嬢の演奏」
審査員長の発表に、エストが衝撃を受けたように腕から力を抜いてしまうので、ユーリは慌ててお嬢様の腕の中から落ちない内に傍らのグラの肩に飛び乗った。突如として肩に重さが掛けられたグラは、無言のままユーリを肩から持ち上げて片腕に抱える。
震えているのを感付かれたのか、もう片方の手が一旦エストの腰から外されユーリの頭を撫でていき、再び妹に寄り添った。
「なるほど、本年度の最優秀出展作品はビアンカ嬢の演奏か……やはり、インパクトだけではなくあの幼さも今後に期待されたのかもしれないね」
周囲は明るい拍手で満ち溢れているのとは対照的に、エストの顔色は青褪め、グラは硬い表情を浮かべ。そんな中で、パヴォド伯爵はふっと、笑みを浮かべながら囁き、陛下から祝福を授かる幼い少女を見やる。そして傍らの息子と娘にチラリと目線を送り、おやおやと目を眇めた。
「何をそんなに悲壮な顔をしているんだい?」
「父上、カルロスの作品が表彰されていないというのに……」
「やはりお前はまだまだ甘いね、グラ。
『芸術作品』という分野において、カルロスの作品が頭でっかちな男性審査員達から高い評価を得られないというのは、分かりきった話だろう?
何故なら彼の作品のターゲット層は、『お洒落に敏感な貴婦人』なのだからね」
まあ見ててご覧、というパヴォド伯爵の言葉が全て言い終わる前に、国王陛下は椅子から立ち上がった。集った貴人達は自然とお喋りを止め、陛下に注目する。
「皆の者、本年度の展覧会も、実に有意義なものであった。
今後のバーデュロイにおける芸術への関心と質を高め、より美しく優れた美術、芸術を生み出し、後世へと末永く残ってゆく事を切に願う。
余からは以上だ。母上、どうぞ」
朗々と述べ上げた陛下が、自らが入室に使用した出入り口に視線を向けると、ギュゼル氏が扉を開き……口元に扇を広げた王太后陛下がしずしずと入室してきて、国王陛下の傍らに寄り添った。
「美しき美術品、素晴らしき芸術品、今年も才気溢れる出展作品の数々でしたね。
その中でもわたくしは、一つの作品が深く心に残りました」
王太后陛下は間を溜めるように扇をパチンと閉じ、一堂を見渡す。
「ただただ、わたくしの誕生日を祝いたい。わたくしへと献上し、気に入って愛用するに相応しい品を。
その一点のみに自らの技術の粋を集め、注ぎ込んだ作品を作り上げたその者に、わたくしはこの胸の喜びを伝えたいと思っております。
調香師カルロスを、これへ」
閉じた扇をスッと傍らの控え室の出入り口へと向け、それに応えて開かれる扉。
人々の注目が集まる中、礼服に身を包み、グリーンのリボンで髪をきっちりと一つに纏めていらっしゃるご主人様は、王太后陛下の前に跪いた。
「わたくしの、陛下との若かりし頃の思い出を呼び覚ます美しい香りでした。
調香師カルロス、見事です」
「身に余る光栄でございます」
周囲に拍手と笑顔が溢れ、レディ・フィデリアは感動したように瞳を潤ませているし、パヴォド伯爵はこうなる事が分かりきっていた、と言わんばかりの満足げな表情だ。
グラは肩の荷が下りたのか眉の位置が戻っているし、エストは……兄に更に寄り添い、深く深く安堵の吐息を漏らす。
こうして、王室主催展覧会の表彰式は温かい拍手と共に幕を下ろしたのだった。
展覧会の表彰式に集った貴人の方々は、この後は王太后陛下のお誕生日祝典の会場へと移動する。
基本的に身分の低い者から会場入りをする為、一旦パヴォド伯爵家の面々は与えられている休憩室に入った。ユーリはここでセリアに預けられ、祝典の間はお留守番である。
「まさか、カルロスがシンティア様から直々にお褒めのお言葉を賜るなんて!」
「カルロスちゃんなら、きっとやり遂げてくれると思っておりましたわ!」
そして休憩室に入るなり、エストとレディ・フィデリアは興奮を隠せない様子で瞳を輝かせている。
グラは暑くなったのか、休憩室のバルコニーに続くガラス戸を開け放ち、日が暮れ始めたバルコニーに出て、夜風に当たっている。その背中は無言のまま、喜んでいるようにも見えた。
妻と娘の様子を目を細めて眺めながら、パヴォド伯爵はソファーに腰を下ろし、ラウラに淹れてもらったお茶を口に含んでマッタリと休憩に入っている。
と、そんな興奮覚めやらぬ室内へ、扉の向こう側から声が掛けられた。
「パヴォド伯爵閣下、ご面会の方がいらしております」
「面会? さて、特に約束はしていないはずだが……」
「アルバレス侯爵令息アティリオ様、ナジュドラーダ伯爵令息ブラウリオ様、ワイティオール侯爵令嬢コンスタンサ様でございます」
……アティリオやレディ・コンスタンサはともかくとして、このタイミングで奇行子サマことブラウがパヴォド伯爵家の休憩室に足を運ぶなど、非常に怪しい。
何か裏があり企んでいるのだろうかと、ようやく緊張状態から解放され疲れきっているであろうと自粛していた主人へのテレパシー思念を、むむむ……と力みつつ発する。
「おや、そのうちの2人ならばともかく、3人でとはまた不思議な組み合わせだ。お通ししなさい」
パヴォド伯爵の許可を得て開かれたドアから、レディ・コンスタンサをエスコートしているアティリオと、その後ろからブラウが入室してくる。
「やあ、久しぶりだね、アティリオ君にレディ・コンスタンサ。婚約おめでとう」
来訪者が言葉を発する前にパヴォド伯爵が先制攻撃で出鼻を挫いたのか、ブラウは従兄弟の前にズイッと出て、パヴォド伯爵にお辞儀をした。
「ご機嫌よう、閣下。
有り難いお言葉を頂き恐縮ではございますが、我が従兄弟アティリオとワイティオール侯爵令嬢は、まだ家から正式な婚約を認められてはおりませんので」
「おや、そうだったのかい?
レディ・コンスタンサもアティリオ君も、私にとっては昔からよく知る我が子も同然だ。いつでも力にならせてもらうよ」
「我が身には過分なご厚意にあつくお礼申し上げます、パヴォド伯爵閣下」
だからあたかも既成事実のように扱うな、と牽制するブラウだったが、パヴォド伯爵閣下の更なるシレッとした発言に、アティリオは微妙に頬を引きつらせてお礼を口にする。
閣下の我が子も同然……どんな扱いが待ち受けているのやら、分かったものではない。バルコニーから戻ってきたグラなど、父伯爵の発言に微妙に眉をしかめている。胃薬が必須になるやもしれない。
「コンス、今日のお召し物も本当にあなたによくお似合いよ」
「有り難うエスト。あなたも今日のドレスはデビュタントに相応しい、気品溢れる美しさね。それにその髪型! 少し変わっているけれど、あなたによく似合っていて可愛らしいわ。
そのピアス……エスト、あなた」
「ええ。そうなの。コンス」
嬉々としてお互いの正装を称え合っていたのだが、レディ・コンスタンサは何かに気が付いたようにハッと息を呑む。
さり気なく、アティリオの礼服の胸元のポケットにはレディ・コンスタンサのドレスと共布のハンカチとか覗いている。彼らはワイティオール侯爵から深刻な妨害を受けず、今日まで漕ぎ着けたらしい。
「さて閣下。本日我々がこちらにお邪魔しましたのは、レオカディオ殿下より命を賜った故にございます」
「ほう? レオカディオ殿下は、私にいったい何をお望みでいらっしゃるのかね?」
ブラウが本題らしきものを切り出すと、レディ・コンスタンサが目を伏せ、エストの両手を握った。
「パヴォド伯爵令嬢エステファニア、本日の祝典への会場入りエスコートを、殿下自ら買って出られるとの事。
殿下がお待ちでございます。レディ・エステファニア、どうぞこちらへ」
普段の奇行子サマっぷりはどこへやら、至って事務的かつ、淡々とそう告げ、ブラウはエストへ向かって片手を差し出す。
「なるほど……殿下はまた、随分と焦っておいでのようだ。誰か、殿下の周囲には、振りかざすべき時を見誤ってはならないと、お諌めする者はおらんのかね?」
「閣下。それがパヴォド伯爵家の総意でございますか?」
唇を慄かせるエストをチラリと見やり、パヴォド伯爵は顎を撫でつつ殊更呆れたように肩を竦め、ブラウが表情を削ぎ落とした冷徹な眼差しで伯爵を見上げる。
「さて。エスト、レオカディオ殿下の名代殿はこう仰っているが、お前はどうしたいのかね?」
「わたくしは……」
父伯爵から笑顔で決断を迫られ、エストが唇を引き結んだ。
そして、レディ・コンスタンサからギュッと握られていた手を引き抜き、ブラウが差し出す手に……
「行くな、エスト!」
と、その時。誰しもがエストの動向に目を向け、注意が全く払われていなかったバルコニーの方から、カルロスの声が飛び込んできた。
ユーリがセリアの腕の中から振り向くと、礼服姿のまま箒に跨がったカルロスが、バルコニーから室内へと飛び込んでくるところだった。ご主人様の背後には、『照る照る天使サマバージョン』な同僚も滞空している。
王城の警備体制は、果たしてこれで大丈夫なのだろうか。ユーリがチラッと確認した今日の祝典の警備担当者のうちの1人は、無表情のままカルロスとシャルを眺めている。
「おやおや。王太后陛下自ら栄誉を授けた職人が不法侵入とはね。誰ぞ、あの招かれざる闖入者をつまみ出せ!」
カルロスの姿を認めるなりブラウはスウッと目を細め、両手をパンパンと叩いて室外に待機している筈の警備員を呼んで片付けてしまおうとしている。ご主人様はそんなブラウの言葉に被せるようにして、ビシッと人差し指を突き付けた。
「ユーリ! 足留め!」
はい、主!
ユーリはセリアの腕の中から飛び降りると、勢い良くブラウの広げられた腕に飛び込んだ。
そして、全力で奇行子サマの頬に擦りより、「みーみー」と盛んに呼び掛ける。
さあ、堕ちろ。このネコマニアめが!
「う、あ、な、ユーリちゃん!?
ああああっ!?」
混乱、驚き、使命、様々なものが過ぎったらしきブラウは、長年切望してきた状態が降って湧いた事に、果たさねばならぬ義務感との板挟みによる一瞬の葛藤の末、ガバッとユーリを両手で鷲掴みにし、頬ずりを堪能し始めた。
「ボクは……ボクは……今この瞬間に息絶える事が出来るのなら、本望だ……」
「……それは良かったな、ブラウ……」
ハアハアと、ネコ好きの唇から荒い呼吸と共に吐き出される万感の想いに、彼の従兄弟は実に生ぬるい眼差しで数歩後退りつつ、呟く。
キモさと加減の無い状態に、ユーリは早くも意識が彼方に飛びかかってきているのだが、足留めは抜かりなく成功したようである。
「エスト、行くな! 殿下にエスコートされて祝典に臨めば、お前は……殿下の側妃にされちまう!
俺は、俺はそんなのは許せねえ!」
「カルロス……!」
「カルロス。君は自分が何を言っているのか、きちんと分かった上で発言しているのかい?」
箒から飛び降り、エストへと手を伸ばすカルロスへ、パヴォド伯爵は冷ややかな声音で両者の間を遮り、睨み据える。
カルロスは大恩ある上司で雇い主を見つめ、ゴクリと喉を動かし、「はい」と答えた。
「申し訳ありません、閣下。
私は、私は……あなた様のご息女エステファニア嬢を、心から愛しているのです」
カルロスが真剣な眼差しでパヴォド伯爵を見つめ返し、はっきりと答えると、閣下は「ほう?」と、唇の端を持ち上げた。
「それはいったい、どの程度かね?」
「他の誰にも、たとえ王太子様であろうとも渡したくは無い、誰でもなく、私自らの手でご令嬢を幸せにして差し上げたいほどです!」
からかうような問い掛けに、カルロスが渾身の力を込め、想いの丈を叫ぶと、伯爵閣下はクルリと向きを変えて黙したまま見守っていた息子へと振り返り、「グラ!」と、力強く呼び掛ける。
「はっ!」
父からの呼び声に直立不動となるグラに向けて、パヴォド伯爵は右腕で真正面から右横へと素早くビシッと水平を切るように動かす。
「マル秘プロジェクト・プランα、実行!」
「はっ! プランα、実行に移ります!」
パヴォド伯爵から謎の指示を受けたグラは、礼服の袖の奥に片手を突っ込み……そこから見覚えのある金属片を取り出し、父伯爵からの命令を復唱しながら床へと金属片を叩き付けた。途端に、金属片からカッ! と放たれた眩い輝きが弾け飛んで、室内を満たしたのだった。