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「今年も盛況ですな」
「期待されている騎士達の出場が多いですからな」
御前試合、本戦トーナメント。初戦が開始されて間もなく。スッと、パヴォド伯爵の隣に腰を下ろした紳士がいた。てっきり、パヴォド伯爵のお隣に座れる強心臓の持ち主は奥方しかいないが為に空席になっているのかと思いきや、この紳士が席を予約していたようだ。
はて、この壮年の紳士には見覚えがあるが誰であっただろうかと、ジーっと見つめているうちに、思い出した。アティリオとブラウのお祖父様こと、アルバレス侯爵ドゥイリオ様だ。
ユーリは声につられて振り仰いだのだが、パヴォド伯爵はうっすらと笑みを浮かべて息子の試合の様子を観察する視線を外さぬまま、口を開いている。
アルバレス侯爵は観客席の歓声に紛れて、ふぉっふぉっふぉと笑い声を漏らす。
「我が家からもいずれは武に長けた騎士を輩出したいものじゃが、息子は数字に目がない上、孫達もどうにも騎士道には興味が薄いようじゃのう」
「おや。アティリオ君とブラウリオ君は、なかなか腕が立つと聞き及んでおりますが?」
「あれらは既に、自らの道を定めておる。
おお、そうそう。道と言えば」
アルバレス侯爵は不自然に言葉を切り、円形の中心部、試合が繰り広げられる会場へと目をやった。
そこでは、グラがランスで対戦者の兜を吹き飛ばしており、息を飲んで静まり返っていた場内にカラン、という兜が地面へと落ちた音が、やけに大きく響いた。
審判が手にしたフラッグをバッと掲げ、次の瞬間、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
「……どうやら、アティリオが儂の関知せぬまま動いたようでな」
「ほう。まあ、男の子とは知らぬ間に著しく成長し、親や祖父からは思いもよらぬ行動をとるものですからな」
馬を巡らせ、観客の歓声に応えるグラの姿に目を細めながら答えるパヴォド伯爵。グラの突飛な行動に、仰天した事でもあるのだろうか。
「そうじゃの。頑固なあれが、驚いた事に儂に諮る事もせず、自らのエゴだけでこれと思うた娘を自分の嫁にすると腹を据えよったわ」
……アティリオさん。もうお祖父様の知るところとなっているようですが、内密に進めて祝典で初めて意思表明するつもりだったのでは? これは、後で主に告げ口しておきましょう。
「さて。我が家ではそれはごく当たり前の行動ですが、アティリオ君が選んだレディは、問題のある令嬢なのですかな」
「いやいや。仮とはいえ、レディ・エステファニアとのめでたい話に、何の答えも出しておらぬ形であったからの。エスピリディオン殿にとっては、あれの決断は礼儀にかなわぬ所行やもしれぬと、心苦しゅうなってのう」
いかにも、大切なお友達から素敵なお話が申し入れられていたのに、うちの孫が勝手な上に礼儀知らずで申し訳ないと、人の好い老紳士が居心地の悪い思いをしているような言い種である。
……えーと、これは。
裏でパヴォド伯爵が何か関わっていると確信されていらっしゃって、それを当て擦っておられるのですか。アルバレス侯爵閣下。
「我が家は愛を貴ぶ家系ゆえ、アティリオ君が真実望むレディと結ばれるのであれば、エステファニアに否やはありませんとも。そうだろう、エスト?」
パヴォド伯爵はキラキラしい笑顔を浮かべてお隣の奥方を抱き寄せ、前列に腰掛けていたエストに唐突に話を振った。
エストお嬢様は父上様の呼び掛けに応えて振り返り、父から手渡された黒ネコ姿のユーリを両腕で抱き、微笑んだ。
「ええ、もちろんですわ、お父様。ドゥイリオのおじさま、アティリオ様へわたくしからも婚約おめでとうございますとお伝え頂けますか?」
「愛し合う恋人達……本当に素晴らしいわ。アティリオ様の意中のお相手は、どちらのご令嬢ですの?」
ユーリの頭を撫でるエストに微笑みつつ、レディ・フィデリアが瞳を輝かせてアルバレス侯爵に無邪気にお尋ねする。彼女は本当に何も知らないのか、はたまた何も知らないフリをして、わざと祝福ムードを演出しているのか。
「あなた方もよく知る、ワイティオールの息女ですよ」
「まあまあ、レディ・コンスタンサが! ああ、お祝いの品を用意しておかなくては」
いかに周囲が騒がしいとはいえ、ここには社交界に出入りし得る多くの人々が集う場所だ。耳を澄ませれば会話は聞こえてしまうというのに、アルバレス侯爵は、何故こうもあっさりとアティリオとレディ・コンスタンサが結婚を決意したなどと、自ら口に出せてしまうのか。彼らの仲を簡単には認めないはずではなかったのだろうか? ……いや、ワイティオール侯爵が難色を示すだろうとは話し合ってはいたが、アルバレス侯爵がレディ・コンスタンサをどう捉えているのかについては、当人含め誰も何も言っていない。
「ドゥイリオ殿。レディ・コンスタンサは素晴らしいレディですよ」
「エスピリディオン殿の『素晴らしい』は、即ち『エスピリディオン殿にとって面白い』じゃからのう」
「おや、これは心外な。もちろん、『美しい』や『心地良い』という意味合いである事もありますとも」
閣下、それ、否定の体をなしていません。
「ワイティオールは度し難い男じゃが、あれの姉君は誰しもが認める賢夫人じゃ。かの家は優れた女性が生まれ育つ環境であるのやもしれぬ」
……よくは分からないが、少なくともアルバレス侯爵当人は、孫の結婚相手として、レディ・コンスタンサを断固として認めない姿勢をとっている訳ではないらしい。
ワイティオール侯爵個人の事は気に食わないが、ワイティオール侯爵の姉君の事は認めている。その上で、この場で敢えてアティリオとレディ・コンスタンサの仲が、噂として流れようが構わないという態度をとるという事は……ワイティオール侯爵の態度の硬化や、失態を誘うのが狙いなのだろうか?
何はともあれ、ユーリがやるべき事は既に決まっている。テレパシーを使って、ご主人様への随時告げ口である。
御前試合のルールが分からず、ユーリは黙したまま周囲の会話に耳を傾けながら、勝負の行方をただ見守っていただけだが。やはり本戦と銘打たれているだけあって、実力者達が集う見応えのある試合が行われていたらしい。
全力疾走する槍を構えた騎馬同士がすれ違う刹那。もうその状況だけで、ユーリには足が竦む恐怖体験である。
騎士達の一騎打ちは、やはり迫力と緊迫感に満ち溢れている。瞬きにも満たない一瞬のうちに名人技の技量を披露して交差 (周囲の観戦中の紳士淑女方による、興奮気味の会話より。じっと観戦していたユーリには、どういった攻防が繰り広げられたのか、さっぱり分からなかった)し、再び素早く馬首を巡らせて体勢を立て直した方が、勢い良く対戦者へと突撃し、馬から振り落とす、兜の飾りを突き崩す。
グラは、仕えているお方から『最も騎馬の扱いに長けている』と評価されているらしいが、かの若君様は確かに人馬一体となって、まるで自らの手足のように阿吽の呼吸で騎馬を操っている。手綱を握らず、両手でランスを握って全力で突撃する場面すらあった。
強者同士のぶつかり合いによって、激しい接戦が繰り広げられていたらしいのだが、グラはトーナメント半ばで優勝候補筆頭に敗れてしまい、レディ・フィデリアはちょっと悔しそうであった。
そして、栄えある優勝者たる騎士に、高台の奥から姿を現した王族の方々が健闘を称え、会場は歓声と拍手に包まれている。
ユーリの位置からでも遠目に確認出来るのは、30歳そこそこではないかと思わせる威厳溢れる男性。そしてそのお隣に立つキラキラと輝く白銀の髪を結い上げた貴婦人の姿を、ユーリは思わずマジマジと見やる。
「ユーリちゃん、あちらにおわす方々こそ、我が国の国王陛下と、王妃殿下、そして王太后陛下ですわ。レオカディオ殿下は……今日の御前試合にはお姿をお見せにならないのかしら」
ユーリがあまりにも熱心にそちらを見上げていた為か、よく見えるようにと抱き上げ直され、エストが穏やかに解説して下さる。
国王陛下のお隣に立っていらっしゃるのは、見間違いでなければ先日の観劇の際に見掛けたグラが普段仕えているというマダムなのだが、そう言えばグラは近衛隊の騎士だったような気がする。王族の警護が任務で、普段仕えているとはつまり、あのマダムは王族であるという事実に他ならないと……
ユーリが驚いている間に御前試合の表彰式と閉会式も終わり、夜会に赴いた伯爵家の方々を見送って、ユーリにはさっぱり分からないが、イリスやセリアによる今日の試合についての熱い語らいを聞き流し。
明けて翌日。ユーリはまたもやネコちゃん用バスケットで運ばれ、ご機嫌な怖い笑みを浮かべたパヴォド伯爵によって、展覧会会場の方に連れ出されていた。
展覧会に出品する芸術作品は、これといった規定が定められていない……もしくはかなり幅広く認められているらしく、絵画の隣に宝飾品が展示されていたり、更にその隣ではふんわりとした生地の豪奢なドレスが飾られていた。
展示品と通路の間には柵すら無いのに、感心したように作品群を見て歩く着飾った人々は、不用意に作品に触れるどころか、近付き過ぎる事も無い。
「どうだいユーリ、どれも美しい物ばかりだろう?」
「みー(はい、閣下)」
パヴォド伯爵は妻をエスコートしつつ、レディ・フィデリアの腕の中で会場の様子を見回すユーリの顔を覗き込む。
後方では、グラにエスコートされているエストと、更に彼らに付き従っているメイドさん方も居るのだが、彼らは彼らで気に入った作品を鑑賞している。……グラはどちらかというと退屈そうであるが。
「お父様、カルロスの作品はどちらに展示してありますの?」
「ああ、それなら定刻に披露される手筈になっているよ」
「定刻に披露、ですか? 例年の展覧会では、全て一堂に出展作を並べていましたのに」
展覧会会場内を半ば見て回ったエストは、やはりカルロスの作品がどう評価されているのかが気にかかるらしい。
パヴォド伯爵曰く。香水を会場にただ展示していても、蓋をしたまま香りではなく入れ物の美術的価値しか見出されないのでは意味が無い。かと言って、観覧者が自由に香りを楽しむような形を取って、王太后陛下に『使いさし』を献上するのももってのほか。
そういった、無形物的な芸術作品でも出品を可能とする為、会場設営運営の方々は今年から趣向を変更し、定刻に御披露目というシステムを取り入れているらしい。
パヴォド伯爵が数年前から自分の推薦する作品は香水なので、ただ並べるのではなくこうしたい、と申し入れていたそうである。
「場内ご観覧中の皆様方にご案内申し上げます」
ふと、頭上から穏やかな声が降ってきて、ユーリは眺めていた夕暮れ時の大湖に映り込むレデュハベスと森林を描いた、大人が十人ぐらい並んでもまだ幅が余りそうな巨大な絵画から、天井へと視線を向けた。
巨大な展示物にも対応可能なようにか高い天井は、美しいレリーフが彫り込まれているが、スピーカーのような物は見当たらない。
「これより、中央特設展示物ステージにて、未展示出品作品の御披露目がございます。どうぞ、ごゆるりとお楽しみ下さいませ」
格好を付けたと言うか、非常に芝居がかった声のテンポ。何となくに聞き覚えがある気がするな……と、考えているユーリはレディ・フィデリアに抱かれたまま、パヴォド伯爵家の面々も人々の波に従い会場中央にあるステージが見渡せる空きスペースに向かう。
現在ステージに立つ司会者? か、進行役? のような人物が、恐らくは先ほどの声の持ち主であろう。丁度背中を向けていた、礼服に身を包み栗色の髪がクルクルとカールしている彼が、場内をクルリと見渡して何気なくこちらを振り向いた。
「お兄様。わたくしの目には、ギュゼル様が特設ステージの上でお辞儀しているように見えますわ。よく似ていらっしゃるだけの、別人かしら?」
「……あれは、あんなところで何をやっているんだ……」
恐らくは同僚である、ガ……フルネームを幾度も繰り返していたが、ユーリは覚えていないギュゼル氏の登場に呆れたように呻き、グラは額に手を当てる。
「ああして特殊な形で御披露目するとなると、他の作品とは異なる手間が掛かる。ナマモノを出品したいと言い出す人も居てね」
ナマモノて。と、ユーリが内心で呟いているのだが、笑みを崩さないパヴォド伯爵によるとそういった作品の出品を希望する貴族間で協議し、陛下の許可の下、それらの芸術作品をより最高の形で演出出来る『お手伝い要員』を選出したらしい。それで何故、どういった経路であのクルクルカール……じゃない、ギュゼル氏が選ばれたのか? それは不明だが、閣下にはギュゼル氏をああいったお立ち台的ステージで喋らせる事に、展覧会の権威失墜への懸念や不安は無い様子である。
そして広い会場内には、ギュゼル氏の張りのある声が堂々と響き渡る。
「エントリーナンバー一番、サラチェット伯爵推薦の奏者、ビアンカ嬢による演奏です」
無駄に陽気な笑みを浮かべたギュゼル氏の紹介を受け、ステージに上がってのは……多分、5歳かそこらの幼い少女だった。
今日の為に誂えたのだろうか。新品らしき晴れ着を纏い、子供用サイズのヴァイオリンを構えたビアンカは、紳士淑女からの注目を一心に浴びても臆する事なく。伸びやかにヴァイオリンを歌わせ始めた。
途端に、鑑賞者の唇から感嘆の溜め息が漏れる。
「これは……」
「まあ」
まだ幼いながら、彼女は一流の音楽家による演奏会で耳が肥えている筈の貴族の方々を唸らせる実力を持ち合わせているらしい。ユーリは音楽に造詣がさほど無いので、ただ(あんなに小さい子なのに凄く上手いなー)という感心を抱いただけだが。
「技量はまだまだ伸びしろに期待だが、あの年でこれほど豊かな表現力を持つ者がいたとは……!」
クワッと目を見開き、グラが低い声音で真剣に呟く。どうやら彼にとって、今年の展覧会の出展作の中で、ビアンカの演奏こそが最も関心を寄せた芸術であるらしい。
演奏を終えてお辞儀をし、ステージを降りる奏者にあちこちから拍手が送られる。
「今後、サラチェット伯爵夫人のお茶会には、是非招かれてみたいものですわ」
「無名の少女をこんな形で御披露目とは……サラチェット伯爵も、なかなか冒険心に溢れているではないか」
パヴォド伯爵夫人と閣下の、かみ合っているようで微妙に食い違っている会話はさておき、演奏中は下がっていたギュゼル氏が再びステージに現れ、次の作品紹介に入った。
「ご静聴有り難うございました。それでは引き続き、エントリーナンバー二番。パヴォド伯爵推薦の調香師、カルロスの作品」
進行役の発言に、傍らのエストが軽く手を握って緊張している様子が見て取れた。
どうやら、特殊展示枠の作品は製作した芸術家当人が、自らの作品を紹介させられる事になっているらしい。香水を手にステージに上がったカルロスは、一番手のビアンカよりも緊張しているように見える。
「私の作品はこちらの、香水です。白百合の香りを抽出し、高貴さと至高、気品と誇りの象徴を表します」
キュポン、と、カルロスは香水瓶の栓を抜き、瓶の上に軽く手をかざした。
「我が意に従い、風よ舞え。界に満ちたる大いなる光よ、我が瞼の裏に宿りし輝きに煌めく頂きを描け」
え、魔法使うのはアリなんですか主? と、驚くユーリをよそに、短いワードだけでフワリとカルロスの足下から舞い上がったそよ風は、会場内に柔らかな百合の薫風となって広がってゆく。
恍惚とした気分が高まる、あの甘い百合の香りが鼻孔を満たすと同時に、目の前にシンデレラ城を思わせる美しい城をバックにマルトリリーが咲き乱れる百合の園、白百合と雲が溶け合い境目さえ曖昧になる輝く空中庭園の風景が揺らめいて幻視された。
ハッと瞬くともう見えなくなったが、垣間見たあの風景はまさしくユーリが感動した美しいハイネベルダ宮殿の空中庭園だ。
「まあ……とても美しい場所だったわね、あなた」
「ああ。やはり、カルロス本人に、自分の作った香水を最大限人々に魅せるよう命じたのは正解だったな」
どうやらユーリの主は、伯爵閣下から毎度の無茶ぶりをされて進退窮まり、奥の手の魔術を利用して香気を広範囲に広げ、ついでにCMよろしく原材料の群生地映像も演出したらしい。
「なんて素晴らしいのかしら……あんな、あんなに美しい香りは初めてだわ」
好みの香りだったのか、エストは目を潤ませて感動にうち震えている。
展覧会会場に集った人々はどよめき、口々に先ほどの幻影風景について討論しているようだ。あれはいったい何処なのか、魔法使いが展覧会で術を使って演出するのはフェアであるのか、と。
「皆様、ご静粛に」
そんなざわめきの中、特設ステージ中央に再び現れた進行役ことギュゼル氏の、静かではあるが妙な威圧感すら伴う声に、会場内は水を打ったように静まり返った。
「今年度の展覧会におきましては、陛下が例年よりいっそう力を入れておいでであるのは、皆様方も既にご存知の通りでございます。
この特殊展示進行を王太后陛下より命じられたわたくしが、誤解無きよう判じておきましょう。たゆまぬ努力の末、技術を磨くは職人や芸術家、魔術師とて同じ事。
馥郁とした素晴らしい香りでしたよ、調香師カルロス」
「有り難うございます」
ギュゼル氏による、魔術使用による演出は不正に当たらないとの保証に、会場内は先ほどの香水を純粋に『芸術作品』として評価する向きに変化してきたようだ。
「ふむ、彼がああして壇上で取り纏めているのは、陛下の無言のご意志が伝わる最適な人選だ」
「……父上。ギュゼル殿が王太后陛下のお気に入りである事は、周知の事実ですが……
彼があの場に居るのは恐らく、偏にああいった目立つ場所を好む、当人の性質としか言いようが無いかと」
……若君様は、あの同僚によほど苦手意識をお持ちでいらっしゃるご様子である。