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カルロスが決断する前にエストの寝室からメイドを呼ぶベルが鳴らされ、ユーリが反射的にそちらへ続くドアを振り返った時には既に、素早く待機部屋から寝室に向かったセリアが、御用向きを伺いに向かっていた。
「お呼びでございますか、エストお嬢様?」
「ええ、このお手紙をコンスに届けて頂戴」
「かしこまりました」
「そうね、それからお茶が欲しいわ」
「ただ今お持ち致します」
セリアはエストから手紙を恭しく預かると、寝室のドアが閉まるなりクルリとユーリの方を振り返った。
「ティカちゃん、わたしはこのお手紙をワイティオール家に届けてくるから。上がり時間なのに悪いけど、お嬢様にお茶を淹れて貰えるかしら?」
「あ、はい。分かりました」
「ごめんなさいね、イリスの足になるべく負担掛けたくないから……」
「いえ、お気になさらず。行ってきて下さい」
現状、ユーリが1人で伯爵邸の敷地から出るのはあまり好ましくないので、例えお隣の敷地であるワイティオール侯爵邸へのお使いであろうが、頼まれると少し困ったところだ。
セリアが上からどう説明を受けているのか、はたまた何も知らされていないのかは分からないが、彼女は待機部屋のイリスにお使いに出る事を告げ、足早にエストの私室を後にする。
……さて、非常に困りました、主。
“ん? どうしたユーリ”
未だテレパシー回線が切れていなかったカルロスへ向けて、ユーリは主人との接続が切れる前にと大慌てで縋り付く。
三択問題です。ババン。
メイド修業を始めて間もない私ですが、お茶の淹れ方をキチンと習っていない場合、どうしたら良いのでしょう。
一、失敗上等、ぶっつけ本番でやってみる。
二、セリアさんからはああ言われたけれど、イリスさんに押し付ける。
三、主に私の身体をお預けし、直接ご指導頂く。
さあ、正しいのはどれ? チック、タック、チック、タック……
“……何でわざわざクイズ形式にするんだ……”
こうやって眺める世界は相変わらず、一枚の膜を通しているかのように、現実感の薄い感覚である。
ユーリの我が儘というか、余計なお節介に呆れ返りながらも、ご主人様は相変わらず、さも生まれた時からこの身体の本来の持ち主であったかのごとく、ユーリの身体を危なげなく操る。そして勝手知ったる他人の家とばかりに堂々と、厨房にて慣れた手付きで数種類の葉をブレンドしてお茶の用意をし、窓から差し込む傾き始めた夕暮れに染まる廊下を、ワゴンを押してエストの私室へと向かう。
テキパキと無駄無く動くカルロス、厨房でお湯が既に沸かされていたのを分けて頂けた事もあり、所要時間は体感で十分と掛かっていない。
主……いつもいつも、シャルさんに家事を丸投げしていたのに、実はお得意でいらしたのですね……!
身体のコントロールをカルロスに預け、今のユーリは脳内の片隅に陣取り見て聞いて主人に話し掛け、考える事しか出来ない。
そんなユーリがつぶさに眺めた、カルロスがお茶の支度を調える手付きは、非常に手慣れたものであった。
“お前なあ。人に手本を見せてくれとか頼んでおいて、何だその言い種は”
……主がご飯を作って下さった事、ありましたっけ?
“んー、無かったような気がする。
俺だって昔はエストの養育係として、一通り仕込まれたからな。お茶だって淹れてやったし、絵本の読み聞かせをしたり、基礎的な勉強を教えたりしてたんだぞ”
因みにシャルさんは、幼少期のエストお嬢様とはどのように過ごされていたんでしょう?
“どうって……たまに変身する飼いイヌとお嬢様?”
ああ、うん。なるほど。
カルロスが説明して下さるその端的な解説に、何かもうそれ以上の言葉は要らないような気がしてくるのが不思議だった。
カルロス操るユーリはエストの私室までワゴンを運び入れ、寝室のドアをノックする。
「エストお嬢様、お待たせ致しました。お茶の支度を調えてございます。どちらにご用意致しましょう」
「あら、ティカちゃんが淹れてくれたの?
……ああ、今日はラウラは出ているのだったわね。こちらにお願い」
「失礼致します」
カルロスはユーリの身体を操っているので、当然発する声の質はユーリのものだ。わざわざ女性の言葉遣いまで披露して、エスト相手にあたかもユーリであるかのように振る舞っている。
流石に想い人の寝室に足を踏み入れるのは緊張するのか、カルロスはゆっくりとドアを開き、先ほどまでの手慣れた様子とは異なり、テーブルの上にカップやお茶請けを用意するその手はやや震え気味だった。
「有り難う、ティカちゃん。
あなたも良ければ一緒にお茶にしましょう?」
「はい。でしたら、イリスも控え室におりますので呼んで参りますね」
「いえ、今日のところはわたくしとあなたの、2人の秘密のお茶会を開きましょう。
さ、座ってちょうだいな」
“……うぉぉぉい、ユーリ!
お前、実はエストへ事前に説明してから入れ代わりを提案したんじゃないだろうな!?”
どうやら、心の準備さえ整っていないまま、なし崩し的にユーリの身体を操った状態でエストの前に姿を現したご主人様は、実は内心相当強いパニックを起こしていたらしい。
イヤですねえ、主。そうだったら、そもそもエストお嬢様が私を私として扱う訳ないじゃないですか。
良いからウダウダ言ってないでさっさと正体を明かして、エストお嬢様の対面に座ったらいかがです?
本当は、気を利かせて2人きりにして差し上げたいところなのだが、いかんせんユーリはカルロスに身体を預けた際、自らの意識を閉じて早々に寝入る方法を知らないので、なるべく知らんぷりをして大人しく存在感を消すぐらいしか出来ない。
「それでは、お言葉に甘えて失礼します」
結局カルロスは、エストにどう話を切り出して正体を明かすか考えあぐねているようで、相変わらずユーリのフリをしながら席に着き、伏し目がちにティーカップの持ち手を手持ち無沙汰に指先で撫でている。
普段の強気はどこへ消えたのやら。
エストはカップを口元へと持ち上げ、香りを楽しむように目許を緩めてから一口こくりと含み……目を見開いた。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。何でもありませんわ」
カルロスはエストの些細な表情の変化を見逃さず、手落ちでもあったかと確認を取るが、彼女は首を左右に振るのみ。
カルロスもまた、カップの中の茶を含み、味を確かめているようだ。
“ん? おかしいな。ちゃんとエストが好きな茶葉を用意してきたんだが……好みが変わったのか?”
味覚は共有されたままなので、ユーリにもカルロスがお茶を飲めば味わう事が出来た。カルロスが用意した茶葉は、昼間にご馳走になったレディ・コンスタンサのメイド、ピアが淹れてくれたお茶とは風味や香りが全く違う。だが、これはこれで大変美味しい。
「夏も深まってきて、もうすぐ王室主催の展覧会の時期ね」
「はい。カルロス様も、ちゃんと自慢の香水を作りましたよ。明日にはこちらにお持ちします」
「そう、今からどんな香りなのか楽しみね」
ふわりと笑みを零すお嬢様に、カルロスは心持ち身を乗り出し、「ところでお嬢様」と、話を切り出した。
「何かしら?」
「その……お嬢様のデビュタント用に、と、カルロスが閣下にお預けした香水は、使って頂けるのですか?」
そう言えば、そもそもユーリがこの屋敷で1人出向してスパイ活動に励んでいるのは、引き換えに大切なエストのデビュタントを飾る香水、それをカルロスが端正込めて仕上げた自信作を使ってもらう為であった。
「とても残念だけれど、『条件を満たしていない』と、他の夜会用の香水を与えられたわ」
エストの返答に、カルロスはがっくりと肩を落とす。
しかしいつ、そのデビュタントとやらが行われたのだろう。エストの正式な社交界デビューの華やかなパーティー、だなんて、ユーリの記憶には無い。
敢えてそれらしいものは、アルバレス侯爵家での夏の夜の花見だが、そちらはカルロスも出席したので、エストがどんな香水を纏っていたか承知しているはずだ。
“……お前の世界では、社交シーズン開幕に開かれる盛大なパーティーが、デビュタントの令嬢方が主役の夜会なんだろ?
バーデュロイじゃ、王太后陛下のお誕生日祝典に初めて出席する令嬢を指す言葉だ。王族の前に出ても恥ずかしくない淑女に成長しました、って事だな”
「そうですか……力及ばず、申し訳ありません」
「いいえ、良いのよ。お父様は大変無茶な条件をあなたに出したのでしょう?」
「……」
迂闊に肯定も否定も出来ず、黙り込むカルロス。そんな、ユーリのフリしたカルロスの答えに窮する様子に、エストはもう一口お茶を口に運んでから、明るい声音で問うてきた。
「ところで、その特別な香水がどんな香りなのか、わたくしとても気になるわ。
お父様は芸術品を無為に死蔵なさるような方では無いし、いずれ記念すべき良き日に、わたくしにその香水を使わせて下さるに違いないもの。
やはり、甘い香りなのかしら」
エストの励ましに気を取り直したのか、カルロスは嬉々としてデビュタント用として預けた香水が、どれほど複雑で高品質で格調高い香りの自信作であるのか、力説しだした。
これはツッコミを入れるべきであるのかと多少悩んだが、ユーリは基本的に大人しく貝になる道を選択した。
「はい、基調には甘やかな花、やや高級感が零れる白薔薇のブーケをイメージして、淑やかな大人の女性への羽化を表現した香りに仕上げました。
トップに瑞々しさを、ミドルには花弁の愛らしさ、ラストにはどことなく切なげな雰囲気を隠しています」
「話だけでもとても素敵ね……
そんな香りを、早く楽しみたいわ」
うっとりとした表情で、エストは期待を寄せているらしい。
そして大きく溜め息を吐くと、「話は変わるのだけれど」と、少し寂しげな眼差しを揺らした。
「実はね、少し困った事があるの」
エストはそう言って立ち上がると、自ら書き物机に歩み寄り、引き出しの中から一枚の封筒を取り出した。既に開封済みで、表書きには何も書かれていない。
“……っ!”
だが、何故かカルロスはその封筒を一目見るなり動揺している。
席に戻り、便箋を取り出したエストは、文面に目を通して読み上げた。
「『親愛なるエステファニア、デビュタントおめでとう。
ついては、今年の王太后陛下のお誕生日祝典でのあなたのファーストダンスの栄誉を、是非私に授けて頂きたい』
……レオカディオ殿下からですわ」
ヒュッと息を飲むカルロス。
エストの言葉に、背後霊よろしく自分の身体の片隅でホケッとしていたユーリは、内心「おお」と合点がいっていた。恐らく彼女の主人は、チラリと見えた封蝋の家紋だけでその差出人を看破し、嫌な気分になったに違いない。
将来的にはエストを側妃に、と望む、バーデュロイの唯一の王子様にして未成年の王太子様。
まだどんな方なのかは曖昧な噂話でしか知らないが、エストに寄越した手紙の文面から察するに、人格的にもそう悪くは無いらしい。
「……レオカディオ殿下は、まだ成人なさっておられぬはず。
それでも夜間の公式行事に出席を?」
「ええ……デビュタントを果たすわたくしと、どうしても踊りたいと」
エストは手紙をテーブルの上に置くと、対面に座っているユーリの手を両手で握ってくる。そして、そっと視線を外してテーブルの上に落とした。
「殿下のご要請に応えるとなれば、わたくしは……」
「エスト!」
カルロスは声を震わせるエストお嬢様のたおやかな手をギュッと握り締め、真剣な声音で彼女の言葉を遮った。
「頼む……断ってくれ」
「……」
「王太后陛下の誕生日祝典で、お前が殿下とファーストダンスを踊れば、もうエストが将来的に殿下の側妃に召し上げられるのは、確定事項になっちまう……!」
隠れて想いを通わせ合う恋人達の邪魔はしないよう、大人しくしていたユーリは、ご主人様の発言に仰天してしばし考え込んでみた。
――仲が王太后陛下から祝福されたらもう婚姻許可は下りたも同然で、例え大貴族の当主であっても王族の顔に泥を塗るような真似はしにくくて、決定を覆すのは難しい。
アティリオさんは、王太后陛下のお誕生日祝典における、上流階級での暗黙の了解について、ああ言ってましたね。……つまり、エストお嬢様が殿下とダンスしようものなら、間違いなく王太后陛下の目に留まって、祝福を受けると。おお、ある意味逃れられない強烈な束縛の一面もあるんですね。
エストは顔を上げ、ユーリの身体を操るカルロスと目を合わせて微笑みを浮かべた。
「ふふ、ようやく演技を止めてくれたのね、カルロス」
「……は?」
細やかな悪戯が成功した事を喜ぶように、エストはクスクスと笑みを零す。
「せっかく来てくれたのに、ユーリちゃんのフリをしてわたくしを騙そうとするのですもの。酷いわ」
「え? な?
や、やっぱり事前にユーリから説明されてたのかエスト?」
だから、それは事実無根の濡れ衣です、主。
「カルロス。わたくしがユーリちゃんとあなたを見分けられないと、どうして思っていたの?
幼い時分から何年間も、ずっとずっとあなたを見つめ続けてきたわたくしが」
エストお嬢様は、私の身体を操れる主を、既にご存知ですしね。
「そもそも普段のユーリちゃんとは仕草や歩き方が少し違って、僅かに違和感を覚えたけれど。決定打は、このお茶ね」
エストは片方の手を解き、カップを持ち上げると、馥郁としたお茶の香りを楽しむように目を細めた。
「人によって、お茶の味わいは各々個性が出るもの。幼い頃からずっとこのお茶を飲んで、わたくしは育ってきたのですもの。例え、カルロスが直々にユーリちゃんへ指導したからだと言い張っても、あなただけが煎れられるお茶の味までは誤魔化せませんわよ、カルロス?」
カルロスは「参った」と、嘆息混じりに吐き出した。
「俺の事なんてお見通しってか。
それで殿下の話を持ち出すとは、心臓に悪いぞエスト」
「……あなたに、ちゃんと知っておいてもらいたかったの」
カルロスは席を立ちテーブルを回り込み、寝室の大きな窓から差し込む夕陽で茜色に染め上げられている、エストのフワフワと柔らかなカールを描く黄金の流れをそっと指先で梳いて、腰を屈めた。
軽く両手を繋ぎ合い、座ったままのエストの額に、コツンと軽くおでこを合わせる。間近でエストの瞳を覗き込み、そして緩やかに互いに瞼を伏せた。
「……絶対、上手くいく。
だから、その時がきたら……迷わず俺を選んで欲しい」
「ええ。わたくしは、あなたの手を取りたい」
例えユーリの身体であっても、抱擁を交わす事も、好意を具体的な言葉として発する事も無く。
密かな逢瀬は、ひっそりと締めくくられた。




