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お昼時。
わざわざ伝言を携えたウィリーによる送迎付きにてベアトリスから呼び出しを受け、ユーリは魔術師連盟本部の塔にある彼女の私室を訪れていた。
時間帯が時間帯なので、テーブルの上には昼食が用意され、ユーリはウィリーと並んでベアトリスの向かい側のソファーに腰掛けた。流石は長老格、わざわざ部屋に料理を運ばせたのだろうか。今日のランチは、サラダとパンとミートボール的なお肉の塊、そしてスープとカットフルーツ。
「無理を言って来てもらって悪かったわね、ティカちゃん……今更だけど、ユーリちゃんの方が良いのかしら?」
「……確かに、今更な気もしますね……」
元をただせば、黒ネコのユーリはカルロスの使い魔、人間の黒髪の娘は別の存在である、と、アティリオを始めとする魔術師達から同一視させる危険性を減らす為に始めた偽名である。
実はとっくの昔に気が付いて知らないフリをしていただとか、上層部に思いっきりクォンである事実をとうにバラしただとか、そういった現状を鑑みると、偽名を名乗り続ける意味は全く無いのだが。
「そう言えば気になってたんだけど、ティーって本名長いのか? 人によって色んな呼び名で呼ばれてるけど」
友人のウィリーは、そうさして問題視していない様子で、深い意味はなさそうな態度で疑問を差し挟む。
問題はこれだ。ずっと人間の姿では『ティカ』と名乗り続けていたので、ユーリは色んな人から『ティカという名の少女』という認識を受けているのである。いちいち訂正して回るのも、混乱の元である気がする。
「『チカ』は私の母の名だよ。私個人の名前は『ユーリ』で、名字は『モリサキ』。
ユーリと呼ばれてるカルロス様のクォンだって隠す為に、この姿ではお母さんの名前を名乗ってたの」
「ふーん……おれも『ユーリ』って呼んだ方が良いのか?」
「いや、何だか紛らわしいから、別にこのままでも良い気がする。
この先、フルネームを聞かれたら『ユーリ・ティカ・モリサキ』って名乗るって今決めた」
どうせ、こちらの国では戸籍登録などしていないのだ。別に今のままでも特に顕著な問題となっている訳でなし、訂正して回る手間暇の方が相手にも自分にも無駄な時間でしか無いだろうと、ユーリは面倒な案件を横に置いておく事にした。
「じゃあ、そちらの姿の時は、今まで通りティカちゃんと呼ぶわね。
それで、今日呼んだのは他でもないわ」
「分かっています。ベアトリス様と主が血縁関係であったというのに、主はろくに話もせず早々に森の家に引っ込んだ件ですね?」
先頃カルロスにベルベティーのキーラを譲って以来、ベアトリスは自身の周囲を結界で取り巻いておらず、遮るものが無くなり彼女がキリッとした表情を浮かべているのもつぶさに視界に収まる。
ユーリは即座に頷き、ベアトリスの台詞を先回りした。その言葉に、ベアトリスは片方の肩を落としてズルッと姿勢を崩した。
「いや、それもあるけど。そうじゃなくて」
「主は超弩級の照れ屋ですからねえ。今更ベアトリス様と祖母と孫の触れ合いをなさるのは、恐らくしばし心の準備が必要かと」
「ティー、今日の話はそっちじゃな……」
「やっぱりティカちゃんもそう思う?
あの若造は人を平気でこき使うクセに、いざとなるとヘタレるのよ。何とかならないのかしらね」
何やら口を挟みかけたウィリーの言を遮り、ベアトリスがテーブルに乗り出すようにしてまくし立て、ウィリーは目を白黒させた。
「ベアトリス様、ちょっ……」
「お師匠様」
「は?」
めげずにベアトリスを諫めようとしたウィリーに、彼女はピシャリと短く単語を叩き付けた。
「いいこと、ウィリー?
あなたは今後、あたしに師事して水属性の魔術を学んでいくのだから、きちんと師として敬いなさい」
「いえ、そうではなく……」
「ウィリー、弟子のあなたの失態は、これまであなたを指導してきたマルシアルの名に傷をつけるのよ。それが不本意であるのなら、礼節を持ってあたしを『お師匠様』と呼びなさい。
あたしの教えは厳しいわよ」
「はい、ベアトリスし、しょう……さま?」
再びキリッとした表情を浮かべ、ウィリーに厳しく愛の鞭を唸らせるベアトリスに、ウィリーは『ベアトリス師匠様』がしっくりとくる呼び名として彼の中に浸透しないのか、困惑している。ベアトリス先生辺りではどうだろうか。
「それでティカちゃん」
「はい、ベアトリス様」
改めてユーリに向き直り、ベアトリスはお茶のカップを片手に眉を寄せた。
「あの子、ここ最近は呼び出しもあって本部にも顔を出すようにしていたけど。
以前は、ずっと何年も森に籠もっていたのよ。いったい何をしているの?」
「それは……」
ベアトリスに、ユーリの口からカルロスの計画やら目論見を勝手に話しても良いのだろうか? という躊躇いが、率直に答えられず言葉を濁させた。
主人へと念の為にテレパシーで許可を求めてみると、どうやらタイミング悪く繊細な作業の最中であったらしく、『へいベイビー。オイラは今、ハートどっきゅんどっきゅんサ!』という返事だけで、プツッと回線が切断された。
因みに、あくまでもそういった意味合いのカルロスの感情がユーリの脳裏に直接送りつけられたのを意訳しただけで、彼女の主人はあんな口調で喋らない。
どうせ、照れ屋の主人が自分から事の次第をベアトリスに打ち明けるとすれば、かなり先の話になるはずだ。それこそ、結婚式当日に『婆さん。俺、今日結婚するわ』などと言い出しても、ユーリはあまり驚かない。
結婚式の招待状は、やはりユーリとシャルが各方面へ作成し配達しなくてはならないのだろうか。
じっくりと悩んだ結果。後から驚かせるぐらいならば、ここで祖母たるベアトリスに事情を打ち明け協力を仰いだ方が、後々の為にも良いのではなかろうか。
ここだけの話にして下さいと念入りにお願いし、実は……と、全て丸っと話したユーリに、ベアトリスは両頬に手を当て「まーっ」と歓声を上げた。
「カルロスったら、そんな面白い展開になってるのに、あたしにすら秘密にしてるだなんて!」
そう言えばこの方、若かりし頃に身分違いな恋愛結婚をなされたのでしたっけ? などと、遠い眼差しを明後日へと向けるユーリを置いてきぼりにして、ベアトリスは1人、テンション高く盛り上がっていく。
「ふ、ふふふ……なぁに、あたしに掛かれば根回しの一つや二つ、ちょちょいのちょいよ。
タヌキ相手に真っ向勝負……腕が鳴るわぁ」
「ティー。おれの気のせいか。
これ、焚き付けちゃいけない人を、その気にさせちまったんじゃ……?」
含み笑いを浮かべるベアトリスの姿に、腰が引けた様子で友人は耳元に囁いてくる。
ユーリとしても、うっかり判断を誤ったような気がしないでもない。
「まあ、実際のところ」
ソファーの上で腰を引きつつ、冷や汗をかきながらパンを千切る愛弟子のしもべと新参弟子を見やり、ベアトリスはふぅ、と深く息を吐いて無駄に上がったテンションを平常値に戻した。
「あたしがカルロスに譲ったベルベティーのキーラ、それに付随する秘術は、上手く取り込めるのならばそれに越した事はない。そう判断するに足る魅力を持っているものよ。
ましてやそれが対外的にも合法手段を使ってなら、尚の事、ね」
「……パヴォド伯爵が、主をより確実に自らに帰属する手駒とする為に、ご息女を体の良いエサにして取り込む、と?」
「利点と欠点を引き比べてそれでどう判断を下すか、あたしはパヴォド伯爵本人ではないから、確証は無いけれど。
身辺に配慮が必須という面倒はあれど、カルロスの血統に特典というか、付加価値が付いた事は間違い無いから、勝算が増したのは確かでしょうね」
どうやら、カルロスが偶然引き継いだベルベティーのキーラとしての立場は、上手く転がせば権力者の目には魅力的なものにも映るらしい。
それを聞いたウィリーが、何かに思い当たったかのようにスープスプーンを起き、目を見開いた。
「ちょっと待って下さい、ベアトリス師匠」
どうやら、友人の中でのベアトリスに対する呼び名が定まったようである。
「それってつまり、ティーは今後……色んな権力者から愛妾として求められたり、下手すれば強引に襲って無理やり孕ませてそれを盾に結婚を強要されたりするんじゃ……」
友人のとんでもない心配に、ユーリがお茶を吹き出すのを尻目に、ベアトリスは真顔で頷いた。
「そうよ。今日の本題はね、そっちなの。
キーラとは何かという事実と、ティカちゃんがキーラである事が広まれば、そういう唾棄すべき低俗な権力欲に取り憑かれた男は今後確実に出てくるわ。
だからこそ、キーラとは何か、担い手が誰であるのかは、知る者は少ない方が良いの」
どうやらユーリは、権力者が欲する強力な手駒を産む母体として、今後狙われる可能性が大いにあるらしい。
ユーリとしては正直、自分自身の身ではなく、卵子を狙われる事になるとは想定の枠を超えていた。
「おれ、いっそ国中の皆が知れば、皆でティーを守るよう動き出すんじゃないかって、それなのにどうして黙ってるんだろうって、ちょっとだけ思ってた……」
「人は、どうしたって自分の価値観で物事を考えるものよ、ウィリー。
情報が伏せられている現状で、最もティカちゃんの身柄を確保したがる権力者は……パヴォド伯爵とアルバレス侯爵でしょうね」
「うわあ」
今現在、パヴォド伯爵邸に身を寄せているユーリは、思わず呻き声を上げていた。
「幸いと言って良いのか、パヴォド伯爵ならティカちゃんの主人であるカルロスを確保しているのが実情だし、マイナス面を考慮すると……愛妾として召し上げる事を強要したりはしないと思うわ。
まあ、ご令息の誰かがティカちゃんを妻にと望んだら、ホイホイ承認しそうだけど」
……どうやら、ユーリはタイミング良く知らぬ間に最大の危難を乗り越えていたらしい。
「アルバレス侯爵って、アティリオ先輩のお祖父様ですよね?」
「ええ。先進的な考え方と先見の明を持つ、言うなれば好々爺の皮を被ったキツネね。
冷酷に実利を優先するくせに、立ち回りも上手いもんだから、人物評価や評判そのものは高い。あの、自身の正義と義憤に燃えるアティの祖父とは思えないほど、性格には隔たりがあるわね」
ベアトリスの見解に、人柄をよく知らぬユーリとしては、そうだったのかと固まるしか無い。むしろアルバレス侯爵の性格に似たのは、ブラウの方だとすれば納得がいく。
「もうね……それこそ、アティがジェッセニアのキーラであるティカちゃんの事を気に掛けていると知れば、孫相手に嬉々としてティカちゃんの身に降り懸かる懸念を吹き込んで、
『愛する娘が傷付くかもしれぬなど、到底放置してはおけん。そう、お前が彼女を娶って守り通し、幸せにしてやりなさい。儂も孫の恋を応援してやりたいしの』
とかなんとか、いけしゃあしゃあと言い出すに違いないわ」
「あの……誰が愛する娘で、誰と誰がいったいいつ恋仲に……?」
「目的に支障をきたさず円滑に果たす為なら、ありもしない感動的な恋物語を捏造する事だろうと辞さないおじ様よ、アルバレス侯爵は」
そう言いつつ、ベアトリスは意味ありげにユーリに目配せを送ってきた。
「なるほど……つまり、アルバレス侯爵のお涙頂戴物語作戦の対策を立てるなら、こちらが先に社交界の方々がうっとりするような、アティリオさんの恋物語をお膳立てして公に広めまくってやれば良い、って事ですね!?」
「……ティーの発想って、時々アレだよな」
「いや、あのねティカちゃん」
呆れたような眼差しを注いでくるウィリーはさておき、何かを訂正しようとするベアトリスに、ユーリは唇だけで問題の対象であろう奴の名を象った。
それを正確に読み取ったようで、ベアトリスもまた、安心したように座り直す。
そう。奴の性格を考慮すれば、まず間違いなく積極的にその手段を狙ってくるに違いない。
ナジュドラーダが誇る奇行子サマ……もとい、貴公子様たるブラウリオが。
合法的かつ、周囲の人間が納得せざるを得ない説得力を見出す理由付けな上、彼がユーリを……というか『子ネコ』を愛してやまないというのも、疑問の余地なく紛れもない事実。
お堅い従兄弟殿とて、ブラウが真剣大真面目な顔で、
『アティ兄さん……ボクがティカちゃん、ううん。ユーリちゃんに求婚しないだなんて、そんな事あるはずがないでしょう?
毎晩家に帰宅したら、子ネコ姿の最愛のお嫁さんがお出迎え! 何その理想郷!? ボクの人生最大の幸福はそこにあったんだよ、アティ兄さん!』
とか言われつつ女装趣味の従兄弟に詰め寄られ、ゲンナリする姿が目に浮かぶようだ。その熱意に呆れ、ブラウによるユーリへの求婚を阻止しようという思いが、あっという間に霧散するであろう事も。
……これは、ブラウさんに対する最強カードにもなり得ますが、使い方を見誤ったらこちらの破滅ですね……
これは、何としてもブラウの目から子ネコ姿を隠し通さねばなるまい、と、誓いを改めて胸に刻み込むユーリであった。