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昨日のレッドドラゴン襲撃事件から方々で大騒ぎになり、父伯爵閣下と兄君様がその対応に追われてお忙しくされている今、エストお嬢様はお1人で社交界にお出掛けなさる事は控えた方が良いと判断されたらしい。
すり寄ってくる有象無象を、未婚のご令嬢たるお嬢様が単独で撃破する事は難しい。お近づきになりたくない輩に限って、余計な身分やら地位やらをお持ちの場合が多い。
「こちらが完成したドレスになります」
「まあ、とても動きやすそうね。それに軽いわ」
「お気に召して頂けたなら、何よりでございます」
今宵はお出掛けにならないらしいエストお嬢様は、この機会に仕立て屋さんをお部屋に招き、先日お願いしていたドレスをじっくりと検分なされていた。
因みに、お喜びになっているのは着用なされるエストお嬢様ご本人ではなく、前回と同じように同席し、仕立て屋さんをお招きしたレディ・フィデリアである。
「こちらのデザインでコサージュを……」
「いいえ、それならレースを……」
部屋の片隅では、セリアとお針子さんが飾り付け方法について、喧々囂々と議論を繰り広げている。
「失礼しますよ」
イリスは自分の仕事に戻ってしまったので、所在なくユーリは部屋の片隅に控え、女の戦場を黙って眺めていると、ドアの向こう側から声が掛けられた。
ユーリがドアを開くと、1人の女性がしずしずと入ってきた。50代ほどのご婦人で、薄桃色とクリーム色を随所にあしらったドレスを纏った方だ。所作にはキビキビとした雰囲気が漂っている。
婦人はドアを開けたユーリを見て、(おや?)と何かに気が付いたように目を瞬いた。
「あら。以前、カルロス君に連れられて店に来た子じゃない。えーっと、ユーリちゃんだったわね」
「え?」
ご婦人から突如として名を呼ばれ、ユーリは思いがけない出来事に目をぱちくりとさせた。まじまじとご婦人のお顔を眺めてみれば、見覚えはあるような気もするのだが、しかしユーリには彼女の名前が全く思い出せない。
「オーナー、お越しになるならご一緒して下さればいいものを」
「伯爵家に、失礼な格好では来られないじゃないの」
先ほどまでレディ・フィデリアと歓談していたデザイナーさんがすすす……と、近寄ってきてご婦人を窘め、ご婦人はサラリと非難の眼差しをかわした。
「まあ、いらっしゃいアルマ。
ごめんなさいね、カルロスちゃんたら今日もお仕事が忙しくてこの屋敷に居ないのよ」
「ご機嫌麗しゅう、レディ・フィデリア。いいえ、先日アタシの店にもお仕事を依頼に来ましたし、元気でやっているのが一番ですよ」
「アルマ、今日のドレスもとても肌触りも良いし、動きやすそうよ。いつも有り難う」
レディ・フィデリアはいつものおっとりとした笑顔でご婦人を歓迎し、完成品である何着ものドレスを眺めていたエストは入室してきたご婦人を振り返って、笑顔でお礼を口にした。
ご婦人の名前はアルマというらしい。ユーリには彼女とどこでどう知り合ったのか今ひとつ思い出せず、しっくりこなかったが、アルマ婦人はユーリの主たるカルロスとも親しい知人であるらしい。
……元気なご婦人……仕立て屋さん……あ。主にお洋服を買って頂いたお店で、お針子さん達にテキパキ指示を出してたご婦人か!
ようやくアルマ婦人が誰であったのかを思い出し、ユーリは合点がいった。
アルマ婦人の営む仕立て屋さんは、魔術師連盟だけでなく、パヴォド伯爵家の御用達でもあるようだ。
一つ思い出せたら連鎖的に思い当たってくる。今もセリアとドレスの飾り付けに関して議論を交わしているお針子さんは、よくよく思い出してみればお店でユーリの採寸をしてくれた娘さんだ。
器用に測ってくれてたなあ、と、彼女の手を見ると、片手の小指に包帯を巻いている。不躾に眺めるユーリの視線に気が付いたのか、お針子さんはスッと手を引っ込めた。
「そういえば、その手はどうかしたの?」
「昨日、魔物の襲撃騒ぎがあったじゃないですか。その時に、転んでちょっと」
「それは災難だったわね。この辺りのお屋敷では、慌てて避難に走る人も居なかったし、落ち着き払ったものだったけれど。あなたも市場のパニックに巻き込まれたの?」
「え、ええ、まあ」
お針子さんの動きを目敏く見咎めたセリアは、事情を聞いてひどく同情した様子である。
イリスは直接的な生命の危機にみまわれた風でもなく、果物を駄目にした事が一番ショッキングだったようだが、お針子さんの方はもっと怖い思いをしたのだろう。泣いたのかまだ少し目は充血しているし、その騒ぎの体験をあまり話したがらない様子だ。
「ご幼少のみぎりからドレスをお仕立てしてきたお花のお嬢様が、もう社交界デビューなされるお年頃になっただなんて、感慨深いわ……」
伯爵家を訪ねてきた方に世間話を振るのもなんであるし、ひとまずお辞儀をするユーリの前を微笑み一つで通り過ぎ、アルマ婦人はエストの頬に手を添え、瞳を潤ませた。
「ええ、エストちゃんもすっかり綺麗になったでしょう?
そう遠くないうちにわたくしの手元から飛び立ってしまうだなんて、考えたら淋しくなるわ」
「お母様、気が早すぎます。
わたくしはまだ、嫁ぎ先さえ定まっておりませんのに」
ハンカチを握りしめ、早くも感極まるレディ・フィデリアと、呆れたように母を宥めるエスト、仲の良い母娘の姿に、アルマ婦人はふふ、と穏やかな笑みを零していた。
仕立て屋さんの一行が辞去し、さてエストお嬢様とお話が出来るぞと思いきや。ユーリはゴンサレス氏からの呼び出しを食らった。
そういえば、『帰ったら説教を覚悟しておけ』というゴンサレス氏からの伝言を受け取っていたのだった。
ご家族での晩餐に向かうエストお嬢様をお見送りし、ユーリは重い足取りを引きずって執務室へと向かう。
「ゴンサレス様、ティカです」
「入りたまえ」
邸内パヴォド伯爵閣下の執務室。現在はご家族と晩餐をとっておられる閣下は不在、その代わり細々とした雑務を執務室にて片付けていたらしきゴンサレス氏が、ノックに応えて入室を促してきた。
「失礼します」と声を掛け、執務室にユーリが足を踏み入れると、ゴンサレス氏は執務机から顔を上げた。ドアをきちんと閉め、ゴンサレス氏の対面に向かい、軽く会釈をする。
「来たか、ティカ。
早速だが、職場放棄の顛末と報告を聞こう」
今日もあまり時間的な余裕が無いのか、ゴンサレスは単刀直入に本題を促してくる。
ユーリはエストに頼まれ魔術師連盟にお使いに向かい、昼過ぎに庭先で貴族街のお屋敷から瘴気が立ち上っている事を知り、慌てて消しに向かった事、現場のゲッテャトール子爵邸に入れず難儀しているところを、謎の娘さんに導かれ地下室に連れて行ってもらった事、ゲッテャトール子爵邸地下通路に黒砂とおぼしき黒ずくめが待ち伏せしていた事……こうして挙げていくと、非常に色々な事があった。
ともあれ、ミチェルが実はユーリと同郷であった事実やクォンであり彼から逆恨みされていた事や、魔王を自称してカルロスを誘拐した騒ぎなども正直に話したが、氏族やキーラに関して触れないでおいた。ゴンサレス氏が知っておくべき立場にあるのならば、例えユーリが黙っていようともパヴォド伯爵閣下が知らせるだろう。
「申し訳ありません。結論から申し上げますと、閣下から命じられていた、ホセの相方らしき黒砂の正体も掴めず、取り逃がしてしまう結果となってしまいました」
「……ふうむ……」
そして、ユーリの報告を聞いたゴンサレス氏は羽根ペンをペン立てに刺し、片手を顎に宛てがい思案するようにしばし両目を閉じた。
「ミチェルの正体がよもや亡国女王のクォンであったとは意外であったが、アレの驕慢とも言える不遜な態度には合点がいった。
しかしそうなると……曖昧な情報を全て加味して乱暴な予想を立てるのなら、世界浄化派の首魁かそれに近い立場の人物は、亡き女王の身近に存在した者である、という事になるな?」
「え!?」
不機嫌そうに引き結んでいた唇を歪ませ、ゴンサレス氏が冗談でも口にするような素振りで言い出した内容に、ユーリはギョッとして目を見開いた。
「ふん、まあ良い。何にせよ推測の域を出ぬ。
さて、黒砂が潜んでいた地下通路とやらは、子爵邸崩落と共に埋まったのだったか」
「はい。巻き込まれ押し潰されたか、しぶとく逃げ出したか……確認してはおりません」
「逃げ出しておろうよ。そう簡単に潰されるようでは、間者など務まるまい」
ゴンサレスは疲労を和らげるかのように目頭を押さえ、言葉を繋げる。
「もとより、情報収集に当たらせた者はお前1人ではなく、ティカが間者を容易に捕獲成功させるような腕利きならば、迂闊に姿を現すような真似はせぬだろう。
どうやら、あちらは大掛かりな仕掛けによる波紋が、内部で相当、派閥同士による意見の相違をもたらしているようだな」
「……魔物を利用して、他国にけしかけるんですものね。
良識や諸外国からの外聞、安全性を懸念する保守的な派閥があるなら大騒ぎになりそう」
「既に、国境での網は張ってある。
強硬派の独断専行、遠慮なくつつかせて貰おう」
事態はユーリの手に余る様相を呈しているようだ。上司様に遠慮なく丸投げさせて頂き、ユーリは気持ちを切り換える。
ふん、と鼻を鳴らして吐き捨てたゴンサレス氏は「さて」と呟き両目を開くと、ユーリを冴え冴えとした眼差しで睥睨する。
「こたびの事件、比較的、緊急性の高いトラブルであった事に間違いは無い。
だが、報告や連絡を行い、指示を仰ぐ時間的余裕がお前に無かったかどうか、その点に関しては疑問視せざるを得ぬ。
現場の裁量権の範疇を飛び越え、配下にあるまじき好き勝手な行動を取っていると断じられても否定出来ん」
「……」
ゴンサレス氏から冷えた声音で淡々と告げられ、ユーリは無意識のうちに背筋を伸ばし、そしてガチガチに固まった。
「どうも、お前にはカルロスとの気軽な心のやり取りが可能であるせいか、組織における報告連絡相談の重要性という一点を、軽く甘く曖昧に認識しているようだな」
「……」
嘆かわしいと言わんばかりに溜め息を吐き出すゴンサレス氏に、ユーリとしては抗弁も出来ず、神妙に聞き入るしか出来ない。
敢えて言うならば、ユーリはパヴォド伯爵閣下から下命を頂戴しその任についた時点で、指揮権がカルロスからパヴォド伯爵、その代理のゴンサレス氏に移動された訳で。
ユーリはその後、ゴンサレス氏から懇々とお説教を賜った。
求められている役目はあくまで情報収集である、戦力外のユーリが自ら無計画に危険に飛び込むのは断じて許されない、と叱りつけられた点からも、ゴンサレス氏にもひどく心配をかけてしまっていたようだ。
今後はもっと慎重に行動し、危険から遠ざかる努力が必要だな、と、改めて反省の念を抱く。君子危うきに近寄らず。物臭なほど、滑稽なほど、慎重で臆病になってやる。
執務室を退室したユーリは、エストの私室に戻り、細々とした夜のお支度の準備に勤しむ。
具体的には、湯浴みの支度とお寝間着の準備と、寝台のシーツにポプリの香りをほんのり移しておく。
湯浴みのお手伝いはユーリでは出来ないので、香炉に使う香りをシャルから預かった精油の中から選別している間に、セリアの手で今夜も磨き上げられたお嬢様が、滑らかな絹のお寝間着姿で寝室に現れた。
「ユーリちゃん、それは香炉ね?
どんな香りがあるのかしら」
「私の好きな花の精油を選ばせて頂きました。ぐっすり眠れるんですよ」
ラベンダーに似た香りを放つ花の精油を皿に垂らし、小さな炎が皿を温めながら香りを寝室内に優しく揮発させてゆく。
今日のセリアの勤務時間はこれで終わりなので、寝室にはエストとユーリの2人っきりだ。そのせいか、ユーリへの呼び名を人間の姿での通り名『ティカ』ではなく、本名である『ユーリ』と口にして下さっている。
寝台に腰を下ろしたエストの、フワフワと波打つ黄金色に煌めく濡れ髪を、タオルで優しく丹念に水気を拭い取っていく。
エストは髪を弄られているせいか、香炉の香りが気に入ったのか、湯上がりの上気した薄紅色の頬を緩め、目を細めた。
「ねえユーリちゃん」
「はい、エストお嬢様」
「……カルロスはどうしているかしら?」
何気なさを装いながら、ゆっくりと、穏やかに問うてくるお嬢様に、ユーリはふと、何かを感じ取った。
……もしかしたらエストは、国境線での騒ぎやカルロスの誘拐騒動など、何がしかの情報を既に独自に得ており、それでいて尚、敢えて何も知らないフリをしているのではないのか、と。
エストが今回の騒ぎを知ったとなれば、カルロスや彼女を大切に思う人々が『エストに余計な心配を掛けさせてしまった』と悔やむから。だから彼女は、いつでも飛び立てる身でありながら、籠の鳥としてじっとしているのではないのか、と。
根拠など何もない、単なる勘でしか無いのだが。
「主はですね、今は森の家で展覧会に出品する作品を必死こいて作成中ですよ。
シャルさんが『鼻が曲がる! 頭痛と目眩が!』と、文句ばかり言うって、愚痴愚痴言っておりました」
「まあ」
髪の毛の水分をタオルで拭い終え、寝る前のスキンケアを施させて頂きつつ、森の様子を面白おかしく披露するユーリに、エストは深く安心したように明るい笑い声を響かせた。
「そろそろわたくしは休みます」
「かしこまりました。お嬢様が就寝なされてから香炉の火を消しますので、ご不快でなければ傍らについていてもよろしゅうございますか?」
「ええ、許します。お休みなさい、ユーリちゃん」
「ごゆるりとお休み下さいませ、エストお嬢様」
寝台に横たわるエストに掛布をそっと掛けてやるユーリに、お嬢様は両目を閉じながら呟いた。
「せっかくだからユーリちゃんの歌を聴きたいわ」
「お望みとあらば」
エストが横たわる寝台、その傍らのイスに腰を下ろしたユーリは、エストの安眠を妨げない声量で子守歌を歌う。
「……綿毛さんはまだ、風に舞っているのかしらね……」
聞き取れるか聞き取れないかの囁きが、香炉の仄かな灯りに照らされる寝室に溶けて消えた。