歌い舞い踊るは夢~社交界シーズン~
気が付くと、ユーリはいつの間にやらボーっと天井を眺めていた。意識が覚醒した境は、寝ぼけていたのか曖昧になっていて、どうもはっきりとしない。
この天井には見覚えがある。どうやらパヴォド伯爵邸でユーリが住み込みにお借りしている部屋のようだった。
カルロスから言語知識を刷り込まれた際も、全く違和感無く大陸共通語を操っていたが、気を失う前に新しく書き加えられた知識によると。
「……いわゆる、スイッチ入れても電気が点かない欠陥住宅、それが私」
自覚する前にはちょっぴりだけ、期待を寄せたのだ。自分も魔法使いになったのではないかと。
だがしかし、ユーリは相変わらず魔力とは何なのかが分からず知覚する事も出来ないままだし、ジェッセニアのキーラとしての秘術の知識はあれど、行使する事は出来ない。
「スイッチが埋め込まれた壁の向こうに、電気配線が接続されてるのかも不明だし、配線の取り付け方なんか見当も付かないし。
それどころか、そもそも発電所そのものが目に見えず触れない幻の存在ってか」
魔力を感知出来ないユーリは、つまりは材料も知識も無いまま自力でソーラーパネルを開発しなくては、照明 (魔法)を使う事が出来ないキーラであった。
ただ、キーラとしての知識そのものは問題無く馴染んでいるようだし、身の内に封印の鍵が存在する事も……何となく分かる。ユーリ自身に魔力が無くても、後継者に鍵を移譲する事も簡単に出来るようだ。
ジェッセニアのキーラが受け継ぐ『金翅秘術』とは何なのかを知った今、頭のおかしい野々村がこの秘術を操る資格であるキーラを保有する事の危険性を正確に悟り、ユーリはゾッとした。
端から見ると、ただ背中に魔法陣を背負っているだけに見えた『金翅秘術』とは、威力を強化し範囲を広げようと思えばほぼ何の制約も制限も無く、周辺から魔力を勝手に吸い上げて、使用者の思うままに魔術効果を強める事が出来る秘術なのだ。
敢えてこの秘術の限界値として上げるならば、このマレンジス大陸に満ちる魔力全てを費やすまで、強化する事が出来る、だろうか。どうやらこの世界に大量に満ち溢れているらしき魔力、その全てを注ぎ込んだ魔術がどんな効果を発揮するのか? 素人ながらにとんでもない結果を引き起こすに違いないと思われた。
「……確かに、ベアトリス様が『べらぼうに強い』って言う訳だなあ……」
先代ジェッセニアである野々村は、ユーリが知る限りこの秘術を主にテレポートの補助に使っていたが、きちんと制御出来なければ身を滅ぼす危険性を秘めている。
ユーリは寝台の上に上半身を起こし、両手を開いて握って、肩をぐるっと回し、両手を腰に当てて首を左右に軽く倒してみる。
特に別段、身体に問題は無いようだ。
「うん。これは、常人を装った狂人野々村が持ってたら確かに危ないわ。
結果から言うと、奴がマレンジス大陸が沈むぐらいの災厄を引き起こす前に、アイツからキーラを取り上げられてラッキーでしたね、これは」
先代キーラは秘術を発動させる事が出来ないし、一度世代交代を行ってしまえば、例え両者が望もうが先代に封印の鍵を返却する事も出来ない。
封印の鍵を預かるユーリが死ねば厄介な事になるのだから、今後野々村は、迂闊にユーリにちょっかいを掛ける事も出来ない。
そして、既にジェッセニアのキーラでなくなった野々村は、現在はただの魂を吸収した強力な術者である、マイスター。術者としては有能であるかもしれないが、最早、多くの相手から遠慮され苦慮され、顔色を窺い、理不尽を呑んでひたすら譲らねばならない存在ではない。
「いやあ、考えれば考えるほど、野々村の脅威と暴威を削ぐ、最良の結果に落ち着きましたね。シャルさんはこうなるって、分かっていたんですかねえ?」
“……おま、お前……
ユーリが起きたら何て声掛けてやったら良いんだと、道中悩んでた俺は何だったんだ……”
うんうんと頷きつつ寝台から下り立つユーリの脳裏に、ご主人様からのテレパシーが飛んできた。
主、おはようございます。
“おはようユーリ。もう夕暮れ時だがな。
身体に変調は無いか?”
普段通りです。
“……キーラを強引に継承されたっつーに、何でそう前向きなんだ……”
むしゃくしゃしていたストレス源が視界から消え、ユーリは今、実に爽快だ。敵が気紛れに核爆弾スイッチを押すのではないか、という不安に怯えなくても良いのだから、尚更。
ユーリの清々しいまでにスッキリとした感情が腑に落ちないようで、カルロスはしきりと疑問符を発している。
ご主人様へと、ユーリは自分の考えを整理して伝えていく事にした。
まずですね、野々村が意味ありげに嘯きながら移動し始めた時に、警戒したんですよ。『これは悪いものだぞーっ』て言いながら、私にキーラを押し付けてくる気かなぁ? って。
それで意識を失うまで、ずーっと考えていたんですよね。
やりたい放題な野々村から、それを確固たるものにしているジェッセニアのキーラとしての特権が剥げたら、むしろ私の方が溜飲が下がるんじゃないかな、って。
“……お前ら、どこまでもお互いがいけ好かない仲悪さだな”
ええ。
で、当代キーラが誰なのかって、そもそも一般にはあんまり知られてないじゃないですか。主だって、最近ベアトリス様から『後継者候補?』だから知らされたんですよね。
氏族のキーラという存在そのものを、知らない人の方が圧倒的に多いんじゃないですか?
“……連盟でもキーラや秘術に関しては学ばねえし、話題になった事もねえな”
ユーリは物入れに歩み寄り、中から着替えを取り出す。
継承されたあの場に居た方しか、私がキーラを受け継いだ事を知りません。もしかしたら誰かがよそに漏らすかもしれませんが、私自身は秘術なんか使えないし、例え自己申告しても真実かどうか怪しいレベルです。
そうだと広まらなければ余計な危険は寄ってきませんし、今後はいっそう用心しなくちゃなりませんが。そも、死なないように用心して万事気をつけるなんて、ごく当たり前の行動じゃないですか。
“……自分のせいで周りの連中が盾になる云々は、どうなんだ”
それは主にだって言える事ですが、まだ起こってもいないこれから先の危難を、今うだうだと考えてどうするんです?
そうならないように対策を練って、今後、いざという時はひたすら引き籠もります。
“……おかしい。俺は今ユーリと話してる筈なのに、端々にシャルのイメージがチラつく……”
シャルさんの超ポジティブさを、少しは私も見習おうかと思いまして。
“俺のにゃんこがわんこ化していく、だと……!?”
何故か衝撃を受けているカルロスに、ユーリが気を失ってからのあらましを問い詰めると、どうやらあれからさほど時間は経っていないらしい。
カルロスはパヴォド伯爵に簡単に報告を済ませ、現在は森の家に帰り、展覧会へ出品する白百合マルトリリーの香水を作るべく調香室で試行錯誤した後、強い香りを嗅ぎすぎてそろそろ鼻が繊細な違いの判別が利かなくなってきた頃合いなので、鼻を休めているところらしい。
“で、連盟の爺婆ども曰く、俺はともかく、ユーリの身に何かあったら大事だから、森の家に帰るのはまかりならん、だそうだ”
……なるほど、差別ですね。
もぞもぞと衣服を着替え、ユーリは早速訪れた最初の『キーラであるが故の不自由』に、苦笑いを浮かべた。
これから先、ジェッセニアのキーラであるが故に思わぬ苦労や困難、苦しみが待ち受けているのかもしれない。
だが、それでも。
ユーリが野々村からジェッセニアのキーラの地位と力を奪い取ったのは、今後の未来において『最良の選択』であった。受け継いだユーリ自身が、そう思えるように努力していかねばならない。今はまだ苦難や災難にみまわれていないが故の、安直な結論にはしたくない。
封印の鍵とは、誰かが必ず守っていなくてはならないもので、しかしあのままずっと野々村に持たせておいても良いものだ、とは感じなかった。あの場で引き取れるのはユーリしかいなかったというだけではなく、『アイツに任せておいてはならない』と考えた、他ならぬユーリ自身が人任せにせず自ら引き受けるべきだと思ったのだ。
“連盟に部屋を与えられて大仰に警護されてたら、むしろ何も知らないメンバーから見たら逆に滅茶苦茶怪しい、っつー婆さんの主張で、今まで通りユーリの身はパヴォド伯爵邸に預けられる事で合意に至った。
が、過保護連中は心底からは納得してなかったからな。伯爵邸で今後お前が何かやらかしたら、過保護連中がよってたかってお前の身柄を回収に向かうんじゃねえか、あれは”
……過保護連中、ですか?
“『無力なキーラは我々の手元で確固保護しておくべきだ』のユーリ幽閉強弁派と、『か弱い少女に過ぎた重荷を背負わせるだなんて無情過ぎる』のユーリ美談美化派の総称だ”
いわゆる、『ユーリの身体は、最早ユーリ1人のものではないのだ』という理論であろう。
個々の思惑は違えど、ユーリを放任して好きなようにさせておくなどとんでもない、という点では意見の一致を見ているらしい。
……誰がどちら派なのか、簡単に想像がついてしまう辺りがなんともはや。
と、カルロスとのテレパシー会話に集中していたユーリだったが、部屋のドアがノックされる音がして、無意識にそちらを振り向き身構えていた。
「はい?」
「ティカさん、目が覚めたの? あたし、イリス。お邪魔するわね」
「どうぞ」
誰かと思えばイリスが訪ねてきたらしい。
反射的に入室の許可を出したユーリに、まだテレパス回線が繋がっていたカルロスが声を掛けてきた。
“よし、それじゃ俺はそろそろ作業に戻る”
はい。お忙しい中、お時間有り難うございました、主。
“ん”
ふつり、とカルロスとの繋がりが途切れたユーリの目の前には、片足を軽く引きずりながらドアを押し開けるイリスの姿。
「良かった、ティカさんなかなか目が覚めないから、心配してたのよ」
「ご心配をお掛けして申し訳ありません。見ての通り、寝たらすっかり元気になりました。
それでイリスさん、その足は……?」
杖こそついていないが、壁に手をついて片足を引きずりつつ歩くイリスの足にユーリが視線を落とすと、彼女は包帯が巻かれた左足首を見やった。
「ああ、これ?
あたし、昨日はお休みだったから街にお買い物に出掛けたんだけど、例の大型モンスター襲撃事件で、市場のパニックに巻き込まれて足首挫いちゃったの。
せっかく買った果物は袋ごと落として、混乱した買い物客に踏み潰されちゃうしで、もう散々」
「そ、それはご愁傷様でした」
ぷんぷんと、怒りを露わにするイリスに、ユーリは殊勝に労りの言葉を口にした。
レッドドラゴンは街の中に炎を吹き付けたり、建物を壊したりといった直接的な被害を及ぼしていなかったようなので安心していたが、巨大な魔物が城壁のすぐ近くまで迫ってきた、という事実そのものが民衆に大きな不安を呼び起こし、集団パニック状態になっていたらしい。
「ティカさんこそ、パニックに巻き込まれて連盟に運び込まれた人達の手当てに、徹夜で大わらわだったんでしょう?
汚れてボロボロになったティカさんのお仕着せを見たセリアが、卒倒しかけてたわよ」
……どうやら、ユーリの不在に関しては、ゴンサレス氏かパヴォド伯爵が、そういった説明をなしておいてくれたらしい。
「あ、ええと、私は見ての通り元気いっぱいなのですが、服は……」
「あたし、しばらく立ち仕事は控えるから、染み抜きして、出来る限り繕ってはみるけど……」
イリスの憐れむような眼差しに、彼女の言わんとするところを嫌でも悟った。片袖が溶けたのが、恐らく致命的だったのではなかろうか。
こちらでは、衣服は貴重品であるというのに。
「さ、それはともかく、エストお嬢様がティカさんの事をたいそう心配なされているから、起きたなら挨拶に行きましょ。
それからティカさん、今日の仕事スケジュールは深夜番だから」
イリスに早く早くと急かされ、ユーリはエストお嬢様のお部屋に向かったのである。