わんこ・ぶいえす・にゃんこ
パンパンにはちきれんばかりに膨らんだお腹を抱えつつ、ユーリは必死こいて二階へと上る階段をヨロヨロしつつよじ登っていた。
うう……お、お腹が苦しい……
シャルの作っていたお夕飯のシチュー、ユーリはそこへ急遽、大量のミンチ肉を早速食べてしてしまうべく、即席ハンバーグを作成して煮込みハンバーグもどきとして食卓に提供した。
主であるカルロスがお風呂から上がってしまえばすぐにお夕食タイムと相成ってしまう為、急ピッチでの作業、オマケに材料も限られる最中、我ながらよくやった……と、自画自賛してみたり。
シャルの方は彼の知らない、ユーリの世界の料理をしげしげと興味深げに眺めているだけで手伝おうとはせず、お陰様で無駄に緊張感の漂う短くも濃密な時間となってしまった。
しかしそれもこれも、カルロスからは、「今日の夕飯は随分手が込んでるな。うん、美味い」と、お褒めの言葉を頂けたので万々歳だ。
その言葉を聞いたシャルが、僅かばかり憮然とした表情を浮かべたような気がしたのだが、瞬きした次の瞬間にはいつもの笑顔だったので、きっと気のせいだろう。
それは良かったのだが、お料理をする為に主にテレパスを送って人間の姿に戻してもらい、皆で食卓を囲んでお夕食をお腹一杯に平らげ、ゆったりバスタイムを満喫したユーリは……お風呂から上がってタオルで濡れた体を拭いてる最中に、再びネコの姿へと変化してしまったのである。
どう考えても、今日のお夕飯で食べた容量がこの子ネコの胃袋には収まりきらないのだが、この変化の術は本当に物量的な謎が多い魔法だ。
主……何故本当にあの方は、私をネコ姿へと変える事を好むのか。
答えは分かりきっている。カルロスが動物好きだからだ。
それはともかくとして、今の問題は目の前の長大なる階段である。
このネコ姿の際は、大抵カルロスの腕に抱き上げられた状態で運ばれて移動するので、自力でよじ登るとなると、改めて一階から階段を見上げて眺めたユーリは、あまりの高さにグラグラと目眩がしたほどだ。一段の高低差もそれなりにある。
人間の姿ならば……最悪、満腹で苦しい程でなければ、普通に上っていけたと思われる。
だが、今のユーリは腹痛を抱え込む程に満腹だった。先程の、湯上がりのミルクが特に効いた。
主の厚意だか、趣味の欲求だかを無碍にする訳にもいかず、忠実なるしもべとして大人しく飲んで……リバース寸前にまで追い込まれたのである。人として、最後の砦だけは死守するべく、懸命に耐える。とにかく耐える。
お、お腹一杯に詰め込むと、痛くて苦しくなるものなのですね……初めて知りました……
元の世界では、常に腹八分目かそれ以下で過ごしてきたユーリの胃袋は、滅多に無い非常事態に悲鳴を上げる羽目になった訳だ。
両前足を上段に掛け、懸垂の要領でググッと体を持ち上げる。
カルロスがいつもユーリを変化させる子ネコの体は、小柄な上に身軽だ。なので、主の腕の中や机の上など少し高い場所から飛び下りたり、窓枠やベッドの上に飛び乗ったりといった行為は、比較的楽々とこなしていたのだが……今はとにかく、お腹が辛くてジャンプなど無理だ。
いっそ、一階の食堂か応接間に勝手に横になっていれば良かっただろうか? と、弱気になって階段途中の踊り場で立ち止まり、今まで懸命に攻略してきた背後へチラリと目線をやってみる。
こ、これをまた改めて下りるのは、ちょっと……
上り始める前に、その結論を下すべきだったのか。階下に窺える一階は、子ネコの身には遥か遠く感じてしまう。
階段のド真ん中の踊り場にてちんまりとお座りし、立ち往生ならぬお座り往生状態になり、二階と一階を見比べてみる。
ネコへ変化しているからといっても、別段聴覚や嗅覚が鋭くなっていないのと同様、夜目が利くようになった訳ではない。
だが、カルロスが夜間の廊下には常に燭台代わりに光魔法を掛けている為、視界は良好。本物のネコに近い身体能力や機能が備わっていれば良かったのになー、ともたまに思うが、そうするとユーリをユーリたらしめる理性やら感情、知能までもがネコ並みになってしまうのかも? という不安もあるので贅沢は言わない。
蛇足だが、自宅での灯りにまで遊び心を発揮してはいないのか、発光する丸い球体が天井付近に止まっている。
これが様々な動物の姿だったりしたならば、ユーリはうっかり一つ一つをしげしげと眺めてしまい、視力に大打撃を受けていたかもしれない。
いくら耳を澄ませてみても、一階は勿論、残りの住人達が居るであろう二階からも、物音一つしない。夜の魔法使いの家は静寂に包まれ、そこにはただ、魔法に照らし出された無人の階段が浮かび上がるのみ。
ユーリは溜め息混じりに踊り場から重い腰を上げた。
せっかくここまで上ってきたのだから、今更階段を下りたり踊り場で無意味に踊ってみるよりも、初期の目標通り二階にまで向かおう、という結論に達したのだ。
再びよじよじと地道に階段を上る事しばし。
数々の苦労と困難、孤独なる奮闘の果てに、無事に自宅の二階という遠大なる遥か高みまで登頂を果たしたユーリは、廊下に倒れ込んで目を閉じた。
激しい戦いでした……私にとっては、チョモランマやモンブランに匹敵する強敵でしたね!
チョモランマとモンブランとは、地球に存在する高い山の事である。古来より魔の山などと呼ばれる、プロの登山家でも登頂成功率の低い山だ。因みに、当然ながらユーリはかの山に挑戦してみた事は無い。
自分の住んでる家の、一階から二階までの階段上りにて思いを馳せるには明らかに比較対象がおかしいが、ユーリはあくまでも大真面目だ。
やり遂げた達成感を胸に少しの間廊下でゴロンと大の字になっていたユーリは、もぞもぞと身動きをして改めて立ち上がった。このまま廊下で寝入ってしまっては、何の為に苦労して階段を制覇したのか分からなくなる。
テコテコと歩を進め、カルロスの自室のドアの前にちんまりとお座りし、心の中で念じる。
主ーっ、開けて下さいなー?
そのまましばし待つ。
……無反応。
小首を傾げつつ、もう少しだけ、待つ。
……応答無し。物音も無し。
よくよく考えてみれば。
私が盛大に苦労しながら階段で時間を費やしていたりすれば、主の性格からして迎えに来て下さるのでは……?
ユーリの状況を把握した様子も無く、テレパスにも全く反応がみられないとくれば。
昼間の短いお昼寝タイムと同じく、既にカルロスは疲労困憊で熟睡している、と考えるのが自然ではないだろうか。
見上げるドアはきっちりと閉じられており、ネコ姿のユーリでは例え万全の状態であろうとも、踏み台がなくては全力ジャンプでドアノブにまで前足が届かない、という検証結果が昼間に既に出されている。
な、なんという事……
おのれ、またしても貴様かブルータス!?
主の自室のドアに許可無く命名しつつ、ユーリはバシバシと肉球で憎いブルータスを叩く。
この小憎らしいこんちくしょうに、畜生の身の上で爪を立てでもすれば、彼女の方がご主人様から叱責されてしまうので、ガリガリ引っ掻く事も出来ない。実に歯痒い。
うう……魔法使いの家は本当に、困難と危険だらけです。
やっぱり、体格差とか体格差とかの問題で!
今のところ、ユーリが魔法使いの家にて、勇敢に立ち上がって真っ向勝負を挑んできた戦績結果は、
『ブルータス(ドア)二戦0勝。
されど天の高さを知る(井戸)一戦0勝。
エベレスト(階段)一戦一勝』
素晴らしく勝率が低かった。