遠く霞む空中楼閣
誰しもが経験した事はないだろうか。
――○○ちゃんは、大きくなったら何になりたい?
――将来、どんなお仕事をしたい?
そんな質問を、先生やお節介なご近所の方、家族やお喋り大好きな親戚から。
悠里の母、千佳は、そういった方面では見事に放任主義というやつだった。
『このお稽古事を習いたい』『部活には入りたくない』『この学校に進学したい』
悠里がそう、自分の意見を主張すると、母は反対らしい反対すらせずに悠里の本気度合いや掛かる費用のみを重視した。
思えば、母本人から尋ねられた事は無かったのではないだろうか。
「悠里は将来、何になりたい?」
と。
生前のそれらしき台詞は、
「悠里は大学に進学するの?」
だろうか。
まるで、途中経過こそ好きなように過ごさせているけれど、将来的にはどうなるのかを承知しており、それを覆す事を千佳は諦めているかのように。
……お母さん。
お母さんは、まさか最初から、私が成長したらああなることを知ってたの?
違うよね、お母さん……
――悠里は将来、……に行くのよねえ。お母さん今から楽しみだわ。
腫れぼったい瞼をこじ開けると、重苦しい雰囲気を滲ませる石造りの天井がぼんやりと視界に映し出された。視界の端っこにふよふよと揺れ動く魔術の光源が浮かんでいて、室内を非常に明るく照らし出している。
どうやら仰向けに寝ていたようだ。フカフカした感触からして、寝台の上だろう。
何をするでもなくボーっと天井を眺めているうちに、ユーリは段々思考が纏まってくるのと同時に、喉の渇きを覚えて頭を動かして寝台の周囲を観察する。
壁の一角には窓があり、外は墨を塗りたくったかのように黒い。時刻は既にとっぷりと日が暮れた夜間のようだ。
彼女が寝かされている寝台の他にも、等間隔で寝台が幾つか並んでいるが、特に誰の姿も見えない。
寝台脇のチェストの上に、ガラス製の水差しと透明なコップが置いてあったので、そろそろと上半身を起こして手を伸ばし、コップから水を注いでちびちびと飲む。
この部屋に全く見覚えは無いのだが、ここはいったいどこであろうか。
眠る前の状況を思い出そうと、懸命に記憶を振り返ったユーリは、ハッと目を見開く。
「そうだ、主!」
何故かこちらの世界にやって来ていた野々村こと、ミチェルにカルロスが連れ攫われてしまった事をようやく思い出し、懸命に心の中で呼び掛ける。
主、主、聞こえますか、主!
お互いが睡眠中ではなく覚醒状態である限り、大抵返事を返してくれていたユーリの主人は、全くテレパシーを送ってこない。
これは、カルロスがユーリに意識を割り振っていられないほど窮地に立たされているのか、魔術遮断結界の中に居るのか、単にカルロスが目覚めていないのか……
カルロスの置かれた状況が全く掴めず、落ち着き無く寝台から下り立つ。そんな時、軽いノックと共にドアが開かれて、ユーリは無意識のうちにそちらに向けて身構えていた。
室内に入ってきたのは、今日も今日とてバッチリと女性魔術師の扮装をキメている、ルティ姿のブラウだった。手には何やらバインダーっぽい板を手にしている。
「あら、目が覚めていたのね、ティカちゃん。どこか痛いところや、目眩や気持ち悪いところは無い?」
普段の変人奇人ぶりからは考えられない、ごく普通の人間であるかのような態度で話し掛けられて、ユーリは面食らった。
「ぶ……いや、る……かるっ!?」
「……とりあえず、コップは置いたら?」
カルロスの事を尋ねようとするも、息せき切って質問を口にしようとしたら舌がユーリの意志についてこれず、言葉にすらならない。
ブラウは呆れ顔で、ユーリの身構えたままの手から空のコップを抜き取り、チェストの上にコトリと置いた。
そしてユーリへは寝台に座るよう促し、ブラウ本人は寝台の傍らにあった丸イスに腰掛け、バインダーを膝の上に乗せる。
「まずは、ティカちゃんの体調の確認が先よ。
あなたは城壁の上で、突然倒れたんですからね。収容先の医療従事者に自己申告を行う義務があります」
「はあ」
ユーリの方から尋ねたい事は山盛りてんこ盛りなのだが、ブラウの方もユーリに確認や疑問をたっぷり抱いているようだ。だが、それを後回しにしてでも、ユーリの身体が変調をきたしていないかの方が優先されるらしい。
しかし、このブラウが医療従事者だと言われても、ユーリとしては胡散臭いと思ってしまう。
「えーと、頭も身体もどこも痛くないし、気分も悪くないです。
……あれ? そう言えば私、手を怪我していたはずなんですけど」
自分で痛みを感じていないと申告してから、違和感を覚えて両手のひらを眼前に翳してみた。擦り傷一つ負っていない、見慣れた自分の手がそこにはある。
ブラウはユーリと自らの額に手のひらを当て、熱を計りはじめた。
「手の傷が一番深かったけど、他にも膝や肘に頬とか、あちこち擦り傷だらけだったから、あたしが治癒しておいたの」
「有り難う、ございます」
この奇行子サマから治療を施されるのは非常に嫌だ、という反発心が湧き上がってくるが、意識を失ったところを助けて頂いた身の上である。意志の力で抑えつけて、ユーリは何とかお礼を口にした。
ブラウは膝に乗せていたバインダーを手に取り、サラサラと何事かを書き付け始めた。カルテのようなものだろうか。
カリカリと羽根ペンを滑らせたブラウが、バインダーを再び膝の上に置いて顔を上げた。口を開きかけるも、
「失礼しますっ! ティー、良かった目が覚めたんだ」
ガチャン! と、やや乱暴にドアが開かれたかと思えば、ウィリーが室内に転がり込む勢いで飛び込んできて、ブラウは開きかけた唇を一旦閉じ、丸イスの上から後輩を見下ろした。
「ウィルフレド」
呼ばわる声音が、ルティらしいきゃぴきゃぴさからは程遠い、低く男性そのものの質に変化しているのだが。
ウィリーは慌てて気をつけ! の姿勢を取った。
「今度、病室にノックもせずに無断で侵入してきたら、問答無用でちゅーするからね?」
「すっ、すっ、スミマセンでした~っ!」
表情や声色は確かに恐ろしい。だが、ブラウの脅し文句は、あれは脅しの範疇に入るのだろうか。むしろ、美人な先輩からの口付けだなんてと、役得をおぼえそうなものだが。
しかしウィリーは顔面蒼白になり、ガチガチと震え上がって謝罪している。ユーリには分からない世界だ。いや、ブラウからのちゅーだなんて罰ゲームは避けたいのは同意するが。
「それでウィリー、何事?」
「ああ、クリストバル代表が、ティーの意識が戻って体調が良いようなら、長老議会室に足を運ぶように、って」
「長老議会室……」
というと、確かあれだ。以前、査問会のようなものが開かれた、あの行動や魔術に制限が掛かっている、暗い部屋。
「ティーの身体が辛いようなら、クリストバル代表がこちらに来るってさ」
「ふぇっ!?」
ウィリーが携えてきた伝言は、思いがけない待遇を端的に示していた。ユーリが出向くのは理解出来るのだが、代表がわざわざ病室にまで足を運ぶ、というのは……事後処理で忙しい最中であろうに、良いのだろうか。
「体調は何ともないし、怪我も癒やして頂きました。
身支度を調えたらすぐに伺います」
「了解。伝えてくる」
ユーリの返答を受け、すんなり許可が下りるかどうか、窺うようにブラウの顔をチラリと見やったウィリーは、先輩の首肯を確認してから病室を後にした。
改めて自らの服装を見下ろしたユーリは、ダメ元でブラウに質問してみる。
「代表の前に出ても失礼ではない服、お借り出来ませんか?」
ユーリが身に着けていたパヴォド伯爵家のレディ付きメイド服は、昼間の奮闘の結果。片袖は七分丈に、スカートはあちこち鉤裂きだらけ、至る所に土埃をひっ被っているという、今から帰宅後の雷が恐ろしい無残な姿になっていた。
流石に、この格好のままで組織の代表の前に顔を出すのは気が引ける。
ユーリの頼み事を聞いたブラウは、ニヤリと何か企んでいそうな笑みを浮かべた。
ブラウがどこかからか用意してきた衣服に着替え、顔を洗って髪に櫛を入れてざっと身支度を調えたユーリはブラウに連れられて、寝かされていた病室とやらを出た。
建物の中心部には、見慣れたフワフワ浮き上がりエレベーターがあり、気を失ったユーリは治療の為、城壁の上から連盟本部の塔へ運ばれて来ていたようだ。
「さ、ティカちゃんこっちよ」
「……はい」
長いスカートにもたつくユーリの腕を引き、ブラウはエレベーターへと先導する。
このモノクル変態野郎に着替えを頼んだ結果、見繕ってきたのはどぎついピンク色した裾を引き摺るレース過剰ドレスだった。敢えて言うならば、初めて彼が女装をしている姿を目にした際の、着用していたドレスとデザインの方向性が似ている。爆乳 (文字通り)は入っていないのが幸いだ。
胴を締め付ける下着タイプのコルセットや、尻の部分のスカート生地を膨らませるバッスルは全力で断った。
このフリフリレースや奇抜な色合いは、果たしていったいどこの層に需要があるというのか。
長老議会室に案内されたユーリは、大人しく暗がりへと入室する。
必要な事をサッサと済ませて、主人たるカルロスが現在どのような状況下に置かれているのか、きちんと情報を集めなくては。
案内してきたブラウも、ユーリの後方に滑り込んできたのだろう。背後で大扉が『ギ~……バタン』と、閉じられる音を耳にしつつ、ユーリはゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「ティー、大丈夫?」
「うん、平気」
暗闇の中、手探りで位置を探って手を握って声を掛けてきたのは、ウィリーのようだ。ユーリは短く問題ないと答え、友人の手を握り返すと真正面をじっと見詰めた。どうして彼がここに居るのかは分からないが、たった独りきりで立つよりはよほど心強かった。
ふと、何も見えない暗がりに、天井から光が差し込んでくる。長老方がお出ましになられたようだ。
カッと、光量が増して半円形のテーブルが照らし出される。
そこに着いている人物は、真ん中のクリストバル代表と右端の女性長老様だけだ。他の長老方は、不在なのだろうか。
暗闇に沈む室内へサッと視線を巡らせると、ユーリが入室する前に待機していたらしきアティリオと目が合った。居心地悪く目礼を送ると、彼の方も今一つ態度を決めかねているのか、黙したまま目を伏せられるに止まった。非常に気まずい。
テーブルの上に両肘を突き、重ねた手の甲の上に顎を乗せてこちらを見据えてくるクリストバル代表が口を開いた。
「さて、ティカ。体調の方は問題ないようで何よりだ」
「お気遣い感謝致します」
「あなたには尋ねたい事が幾つもあります」
まずは穏便に話を進めようとしていたらしきクリストバル代表。彼に向かってお辞儀をするユーリに、代表は手緩いと言わんばかりに女性長老様から鋭い声音で切り込まれた。
「何でございましょうか」
「あなたはカルロスのクォンですね?」
「はい」
女性長老様に身体ごと向きを変えて真正面から見返すユーリに、彼女は冷ややかな眼差しで尋ねてきたので、これ以上の隠し立ては出来ぬと正直に肯定を返した。
「何故、今まで隠していたのです。カルロスに魂を捧げてあれば、あるいは今回の事件の被害も大きく減少して……」
「セラフィナ」
ユーリの手を握っていたウィリーが、繋いでいた手にギュッと力を込めた。
言い募る女性長老様の発言を、クリストバル代表が遮る。女性長老様のお名前は、セラフィナというのだろうか。
「自我を持つクォンを吸収する、という事は、術者自身を損ないかねない危険性を孕んでいるのだよ、セラフィナ」
「それは、そうですが」
「百年前……我々はあまりにも多くの宝を、知識や歴史、戒めを失い過ぎた」
クリストバル代表はユーリから目を離さぬまま、低く続ける。
「ティカは見ての通り、強い自我や意志を持っている。カルロスが魂を吸収せずに、彼女の事もペットとして飼っているのも頷ける」
……あ、やっぱり私、人間扱いじゃなくてシャルさん共々主のペットだと思われてるんだ。
「では、術者カルロスのクォンたるティカ、聞かせてもらいたい。
今現在、カルロスの状態はどうなっている?」
訂正するべきかなあ、いや、どっちだと思われていてもどうでも良いような気がするなあ、と、悩んでいる間に機を逸し、クリストバル代表から次なる質疑応答に移されてしまった。
「目が覚めて以来、幾度も呼び掛けてみましたが、カルロスからの応答はありません。
これまでの経験上、カルロスはキャッチした私からのテレパシーに応えなかった事例は無く、必然的に現在テレパシーが受け取れない状態にあると思われます」
「我々はクォンとの心話の経験が無く、その答えだけでは正確な状況を把握しかねる。
あなたはカルロスが、どんな状態だと思っているのですか?」
セラフィナから詳細を求められ、ユーリはしばし黙考した。
「可能性としては、カルロスは眠らされている。もしくは魔術遮断結界内に閉じ込められている。
その為、私との意志の疎通が図れない。
他には、既にカルロスは死亡している」
「え? 最後の一つは無いだろ?」
「え?」
「え?」
突如として脇からウィリーの仰天した声を浴びせられ、ユーリはキョトンと瞬きしながら友人を見詰め返した。
ユーリが理解出来ていない事が理解出来ないらしく、ウィリーからもキョトンとした表情で見返され、軽くお見合い状態になる。
「……そうだな。カルロスが既に死亡している可能性は、まず無い。
そもそも、そう簡単に殺すつもりがあるのならば、わざわざ手間をかけて誘拐などしたりはしなかろう」
ユーリには分からないが、クリストバル代表にとってもカルロスの生存は自明の理であるらしい。ユーリにはそこまではっきりと断言出来る根拠が分からないが、地下に封印されている杖の状態から推察出来るとか、魔法使いなりのそういう例でもあるのだろう。
「現状、カルロスと意志の疎通が図れぬ事はあい分かった。
それでは、あの黒い髪の男……ミチェルとは何者か?」
女性長老様は奴のふざけた言動を思い出したのか、眉根を寄せながら次の質問に移った。