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「ふーーん。こっちが知らない間に、オレの周囲を陰からコソコソうろちょろしてたみたいだな」
ミチェルは緩やかに舞い降りてきつつ、バカにしたようにユーリを見下ろしながら鼻を鳴らして嘲笑い、ストンと革靴の底を地下室の床につけ、体重を感じさせないふんわりとした動きで降り立った。
「な、にを言って……?」
何だろう、この人。
少なくとも人間の姿のユーリと、ミチェルがまともに顔を合わせたのは今日が初めてのはずだ。それなのに、こちらに向けられる強い侮蔑の感情はどうした事だ。
前回のこの屋敷に来る羽目になった時も、問答無用で背後から殴りつけてきたらしいが、ここまで憎まれるほどの何かをミチェルに行った覚えは無い。
ユーリが訝しむ眼差しを向けていると、ミチェルは小さく肩を竦めた。
「……アンタが大ボケ女だって事は、今更確認するまでも無いか」
よく知りもしない間柄であるにも関わらず、失礼極まりない男だ。
ミチェルは「それよりも」と眉をひそめ、足音を立てながら穴ぼこだらけの床を横切り、瘴気の煙立ち上るユーリの傍らへと歩を進め、立ち止まった。やはり、何のダメージも負ったようには見えないし、ローブも裾や袖はピラピラと健在だ。
「……アンタの魂の属性って露出狂なのか?」
うわー、そうなるとあの人も……などと、口元を片手で隠しながら呟いているミチェルに、ユーリは遅まきながら現在の自分の姿を思い出し、
「ジロジロ見るな!」
と、ミチェルの顔面目掛けて張り手を食らわせてみるも、敵は軽く背を反らして躱し、むしろ険しい顔をしてユーリの手首をむんずと掴み、手のひらを見下ろした。
「……ズッタズタ。何、この手」
片方の手を掴まれているせいで、自由になる手で情けなく胸元を隠し、半分腰を落として前屈みという何とも物悲しく羞恥に恥いる姿のまま、ユーリはミチェルを睨み付けた。
「女の子に上着を着せかけてあげよう、っていう紳士な気遣いを働かせられない訳?」
「ハァ? 何でオレが、好きでマッパになったアンタの為に、わざわざ脱いでやらなきゃなんない訳?
どーせ近くで服脱ぎ捨てたんだろーから、そのみっともない姿を少しでもマシにする為にサッサと着れば?」
ドンっと、掴まれた腕を振り払うようにして突き放されて瘴気の塊から距離を取らされ、床に転がったユーリは、ギッとミチェルを睨みながら身を起こす。言われた通りにするのは大変癪だが、ミチェルの前でいつまでも一糸纏わぬ姿をさらけ出しているのも業腹だ。
服を脱いだ場所まで戻り、急いで着込む。こちらの着替え姿を覗き見しないかどうか、ミチェルの態度を監視していたが、どうやら彼はユーリの事など眼中に無いようで、こちらに背中を向けている。そして、ユーリがいつの間にやら取り落としていた、帰化し続ける瘴気の塊を持ち上げた。
「ちょっと。何であんたはそもそも着てる服も何も溶けないのよ!」
「何ソレ、今そのアンタの些細な疑問は解決優先順位高いの?」
ユーリのごくごく当たり前の疑問を、ミチェルは振り返らぬままバカにしたような声音で答えた。
「簡単な話じゃん?
アンタが無能で、オレは有能だから、出来る事と出来ない事の範囲が違い過ぎるだけー」
詳しくは解説するつもりが無いようだ。今は噴き出し続ける瘴気を取り除くのが先とは言え、ミチェルの態度には一々、爪を立てられるように無駄な苛立ちを覚える。
「濃縮還元、ねえ。勝手に人のモン持ってった挙げ句、何作ってんだか……」
独り言を呟いたミチェルは、振り返らぬまま声量を上げた。
「ねー森崎さん。ゴミ袋持ってる?」
「……は?」
今何か、とんでもなくこの場に不釣り合いな単語が連発された。ユーリが呆然と口を開けたまま吐息を吐くと、ミチェルは理解力と対応力の無い、血の巡りの悪い奴はこれだから……と、首だけこちらに振り向いた体勢で、ぶつくさと盛大に文句を言っている。
「何、ゴミ袋……?」
「そう、ゴミ袋。ゴミはゴミ箱へって、常識じゃん」
いや、その常識に従ってゴミ箱に瘴気の塊を捨てたら、ゴミ箱が溶けてしまうような……?
コレじゃあ小さ過ぎるんだよね、と、ミチェルが床から持ち上げてぴらりとユーリに見せてきた白く半透明の薄い膜状の物体。よくよく目を凝らしてみると、それには日本語で『燃えるゴ』と記載されていた。サイズ的に、『ミ』の部分は切り落とされるか何かしたようだ。
「……ゴミ袋?」
「市の指定ゴミ袋」
ユーリが呆然と呟くと、ミチェルはこっくりと頷いて、反復する。
有料指定ゴミ袋を使っての従量制によるゴミの処分に関しては、もう軽く十年以上前という、かなり早い時期からその制度を導入された市に以前住んでいたユーリにも見覚えのあるそれ。どうしてそんな物が、突然目の前に現れるというのか。
「コレが下に敷いてあったから、放置されてても床が溶けずにいたんだけど。まさか、気が付いてなかった?」
理解が追い付かないまま、こっくり、と頷いておく。
「……まさか、オレもビニールがこう使われてるとは思ってなかったんだよなあ。知ってたら持ち込んできたのに」
いや、確かに以前、世界浄化派がプラスチックっぽい品を探してるみたいな話は聞きましたけど。本心では絶対、別物だとばかり思ってたよ。
てゆーか、瘴気の砂は何故にプラスチックを溶かさないのか。
「ひとまずそれ、砕いてもらって良いですか」
ユーリはゴミ袋を持ち歩いたりはしていない。
ゴミ袋は持っていないが、ポリエチレン製品ならば、今まさに足下に転がっている。
水鉄砲を持ち上げるユーリに、ミチェルはヒュウと口笛を鳴らした。そして、彼の背後に光輝く魔法陣が現れ、手にしていた瘴気の塊がフワリと浮き上がる。
「ウィンド・カッター」
ミチェルが一言呟くと、瘴気の塊はあっという間にスパスパとサイコロ大に切り裂かれていく。
ユーリが慌てて水鉄砲のタンクの蓋を開くと、真っ黒で小さな四角い粒が見えないベルトコンベアに運ばれて、宙を滑るようにタンクの中に次々と落ちていく。切り分けられた瘴気の塊が全て収められたのを見届け、ユーリはすぐさま蓋を閉めた。
これでこの水鉄砲で狙い撃てば、瘴気がブート・ジョロキアの成分をぶっ壊して変質させていない限り、赤色刺激性と黒色融解系の毒がどぱーっと放射される、という事になる。
最凶水鉄砲の完成です。やったね!
全く嬉しくともなんともない事実を噛み締めつつ、ユーリは水鉄砲を抱えたままガクンと床に崩れ落ちた。
見渡せば、地下室内のどこにも瘴気の煙は漂っていない。大穴の空いた屋根や天井の向こうの青空を、確認するべく目を皿のようにして観察しても、黒い煙は影も形も見えない。
と、空の真ん中にキラキラと細かな網の目のような謎の物が突如として浮かび上がった。
「な、何、あの光る網!?」
「王都の守護結界だ。しかし、あれだけの規模の結界を張れる術者なんて、この王都にはフレイセしか居ないが。まさか、予め術者不在で再起動するよう準備していたか……織り込み済みとは恐れ入る」
ミチェルが何か独り言を呟いているが、ぼんやりしているユーリの耳には右から左に流れ出ていく。守護結界は、眺めている間にすぐに肉眼では何も見えなくなった。
無事に終わったんだ……と、安堵感に包まれたユーリは、改めて自分の姿や周囲の様子に気を配る余裕が出てきて、瘴気の始末で夢中になっている時には全く感じなかった痛みがあちこちに走り、苦痛に呻いた。
両手を広げて見てみれば、手のひらは皮がめくれて血が出ているし、お仕着せのメイド服は片袖が七分丈になっているし、血が付いている。
立ち上がろうとしたが、疲れきった足が言うことをきかない。
頭の中は取り留めもない思考でボーっとするし、全身に襲いくる倦怠感。刺すような痛みが走るせいで、辛うじてその場に眠りこけてしまうのは防げている塩梅だ。
……そう言えば、通路に置いてきぼりにしてしまった娘さんは無事だろうか? いつまで経っても例の黒ずくめの男も現れないので、ユーリを襲うのは諦めて撤退していったのならば良いのだが。
大穴が空いたお屋敷の天井や屋根は、今にもガラガラと崩れ落ちてきそうだし、地下室の床は穴だらけで危険な上に壁もボロボロだ。
すぐにでも退避したいところであるが、少し休んでいかないと動くに動けない。
脱力しきったユーリが、水鉄砲を抱えたままボーっと虚ろな眼差しを天井に向けていると、カツン、と、ボコボコの床に転がっていた、天井から落ちてきたであろう欠片を蹴りつけた音が、やけに大きく響いた。
無意識に音がした方へと目をやれば、こちらに足を向ける漆黒のローブ姿のミチェルが、面倒そうに乱れた髪を後ろに撫でつけるところだった。
「おい……」
何かを言いかけたミチェルの声に被さるようにして、先ほど耳にしたばかりのドラゴンの咆哮が再度耳をつんざく。
だが、声量自体は先ほどよりもよほど小さいし、建物を揺らす振動もほんの僅かだ。レッドドラゴンが王都から離れているのか、それとも守護結界の効果による違いなのかまでは、ユーリには判断がつかない。
「……まだ決着ついてねーのか」
舌打ちしながら空を見上げたミチェルは、次いで目を見開いた。そして、どこか焦ったような表情を浮かべて、彼をボンヤリと見返すユーリを睨み付ける。
足下の穴ぼこに危うく足を取られそうになりながら、ミチェルはユーリが座り込んでいる傍らまで駆け寄ると、彼の言動や状況の変動が上手く飲み込めないユーリの腕を掴んで、座り込んでいた彼女を強引に引っ張り上げた。ユーリの腰に腕を回して、脱力している彼女を半ば抱きかかえるようにして立ち上がらせる。
「な、何……?」
「このうすらぼんやり!
サッサと引き揚げだ!」
驚きに目を白黒させるユーリに、ミチェルは頭ごなしに怒鳴りつけ、いつの間にか消えていた光る魔法陣を再び背中に展開させた。こうも頻繁に出たり消えたりするという事は、開閉式で省エネ的なモノなのだろうか?
ポカーンと口を開けているユーリの理解度などお構いなしで、爪先立ちになっていた次の瞬間には、青空のただ中に浮かんでいた。
「え、ええ!?」
「うるせえ! 耳元で騒ぐな」
ミチェルはいかにも、不本意であると言いたげにムスッと不機嫌そうに眉根を寄せて、低く吐き捨てる。
腕一本でユーリを抱えて空に浮かんでいる、言わばミチェルに生殺与奪を握られてしまった現在の状態で逆らうのは得策ではないと、ユーリは大人しく口を噤んだ。
こんな時でも手放さなかった水鉄砲を両腕で抱きかかえたままのユーリが、そろりと周囲を見渡せば、どうやらここは王都の上空のようであった。幾度も遠目に眺めた白亜の王城が、日の光を浴びて煌めいている。
上空から見下ろして確認してみると、王都がレッドドラゴンの襲撃を受けても、どうやら水際で都や王城の建物への攻撃は免れたらしく、壊れているところは見当たらない。唯一、真下の瘴気の煙発生源となったゲッテャトール子爵邸を除けば。
足下の子爵邸は、往時の優美な佇まいからは考えられないほど無惨にも半壊しており、屋根や壁面がガラガラと崩れ落ちていく。あのまま地下室で座り込んでいたら、今頃自分は良くて生き埋め、最悪重みで潰れていたな、と、ユーリはようやくミチェルの行動の真意に思い至った。
と、つぶさに王都の被害状況を確認していたユーリだったが、王城の反対側から突如として熱波が吹き付けてきて、何事かとそちらに顔を向けたユーリは、驚きに目を見開いた。
超特大級のレッドドラゴンが、大口を開けて炎を吐いている。いるの、だが。吐き出した端から、王都を横切って郊外を流れていく川の水がカーテンのようにドラゴンの回りを取り囲み、激しい水蒸気をもうもうと立ち込めさせるに止まっている。
まるで全身を雲に覆われているかの如き水蒸気に囲まれているせいで、ドラゴンの姿がすぐに目に付かなかった。
「あ、主はいったいどこに!?」
空からキョロキョロと見回しても、箒に乗って空を飛んできた筈のカルロスの姿が、全く見当たらない。
「あの辺じゃない?」
ミチェルが自由になる方の手で、レッドドラゴンとの距離が最も近い城壁の、その上を指し示す。そこには、灰色やら白やら、とにかくローブ姿の魔術師らしき人影が複数人見受けられた。王都に残っていた、本部詰めの術者達だろう。
そちらに向かって、王都上空を横切り移動を開始するミチェル。振り落とされないよう、彼の肩に片腕を回してしがみつき、大人しく運ばれていると、ぐんぐん迫ってきた城壁の上に陣取る面々の、各人の顔の識別が出来る程に近づいてきた。
以前、連盟本部の塔にある、長老議会室にて見掛けた女性長老様や、初めて本部の塔を来訪した際に見掛けた、感じの悪い灰色ローブ姿の案内役魔術師さんもいる。
何よりユーリの注意を引いたのは、両腕を天に掲げ、レッドドラゴンに向けて勢い良く振り下ろしたウィリー。
ウィリーの腕の動きに応えるように、川から更に巻き上がっていく水が、まるで剣のようにレッドドラゴンの背に突き刺さる。
「ウィリーーー!」
それで疲れきったように、城壁の上の通路にしゃがみ込む。ユーリは近付いてくる彼に向かって名を呼んだ。空から自分の名を叫ぶ声が降ってきたウィリーは、驚いたのか弾かれたように空を見上げて、ユーリと目が合った。
「ティー、良かった、無事だったのか!」
ある程度高度が下がった辺りで、ミチェルから邪魔くさいお荷物と言わんばかりに通路の上にドサッと放り捨てられたユーリは、疲れ切った身体では満足に受け身も取れずに、避ける事も受け止める事も出来なかった友人の胸元に激突し、2人揃って城壁の上に倒れ込んだ。ミチェルは本当に、ユーリへの態度や扱いが大ざっぱで乱暴過ぎる。
「あたた……ゴメン、何かたった今、無事じゃなくなった……」
「ティー、重い……」
呻き声を上げるユーリとウィリーの惨状や不満の意など一顧だにせず、ミチェルは通路にではなく、城壁の積み上げられデコボコした壁面の上に、フワリと危なげなく降り立った。周囲の人々が、突然の闖入者にざわめいているが、ミチェル本人は全く意にも介さず、レッドドラゴンを睨み据えていた。着地と同時に、彼の背後の魔法陣が更に輝きを増す。
「界に満ちし無限の力の源、照らす光を司るものよ。我が呼び掛けに応えてここに集え」
何とかウィリーの上からユーリが通路の床の上へと退避し、無事にむくりと、身を起こしたウィリーは、ミチェルの背中を見詰めながら盛んに瞬きを繰り返した。
「ティー、あの人、いったい何者?」
「えーっと、私もよく知らない。それよりウィリー、カルロス様はどこか、知らない?」
詠唱を開始した乱暴者のミチェルなんぞの事よりも、ユーリにとってはご主人様たるカルロスの安否の方がよほど重大事項だ。
あのご主人様がそう簡単にやられたとも思えないが、てっきりここに居ると思っていた城壁の上を見渡しても、昼日中ではとんでもなく目立つキラキラしい金髪頭が見当たらないのだ。
「カル先輩なら、あっちよ」
不意に、会話に割り込んできた人影があった。今日も今日とて女装姿に隙の無いモノクル変態野郎、ルティこと奇行子サマブラウだ。いつから居たのやら、手には片手廻し式ハンドルの弓……恐らくクレインクインクロスボウと似たような構造なのだろう。矢をつがえて弦を巻き上げながら口を挟んできた。
ウィリーはレッドドラゴンの方を指差し、
「あのデッカい魔物が城壁の周囲をうろちょろしないように、魔物の周囲を箒で飛び回って上手く牽制してる」
示された方を懸命に目を凝らして見やると、箒に乗って空を飛ぶカルロスらしき人影が、レッドドラゴンの頭上から光のシャワーを浴びせかけている。真っ昼間なので、多分攻撃魔法の一種だと思われる光があんまり目立たない。
ブラウは城壁のおうとつの間から狙いを定め、クロスボウを発射する。ヒュンッ! と、風切り音を立てながら標的に向けて真っ直ぐに飛んでいった弓矢は、狙い違わずレッドドラゴンの目に命中。暗器の扱いのみならず、こちらも恐ろしい腕前である。
「貫き弾ける閃光、衰えぬ輝きを放つもの。日輪よ、我の招きに応えて光臨せよ。
シャイニング!」
目を射抜かれたレッドドラゴンの怒りの咆哮が大気をビリビリと震わせる中、ミチェルの詠唱が完了した。