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凝固した瘴気の塊から、気化して上方に立ち上っていく暗い闇の中……ぶっちゃけ、ユーリにとってはただ妙な異臭がするだけで、その他にはこれといって何の苦痛も受けない単なる真っ黒な煙の真っ只中でしゃがみ込み、瘴気の塊に触れたは良いが。
……これ、どうやって煙状にばらまかれるのを止めたら良いんでしょう?
ペタペタと触って確かめてみると、大きさはだいたいユーリの手のひらに収まるサイズと、小さめ。厚みは小指の長さ程度で、ヒョイと持ち上げてみると……同じぐらいのサイズの石よりも軽いようだ。
ところで、ユーリが持ち上げて立ち上がったら、結果として当然の事ながら煙の発生場所も当初とはズレていく訳で、何も考えずに見上げた頭上の天井や屋根の穴が横に広がってしまうのが見え、慌てて元の位置に固定した。
あ、主、主ーっ!
王都に仕込まれてた瘴気の塊を発見したは良いんですが、私これからどうしたら良いんでしょうーっ!?
進退窮まったユーリは、瘴気の塊を両手で持ち上げたまま、困った時の主人頼みとばかりに大慌てでカルロスへとテレパシーを送った。
必死で声を送ろうと内心で喚きまくった結果、何とか再びご主人様と繋がったようだ。
“……おまっ、お前は何をやっとるんじゃーっ!?”
繋がったと同時に、ユーリの現状を把握したカルロスは、激しい驚愕の感情と共に、怒声を浴びせてきた。
えーと、空気清浄に赴いたは良いが、現場に到達しても汚染物の除去方法が思い浮かばず、立ち往生して途方に暮れております。
“……ユーリお前、ほんっっっとーに! 肝心なところでアホだな。
子ネコ姿でならそんなところも可愛いが、人間の姿でそんなうっかりポカをやらかされても、呆れるだけだぞ俺は”
中身は同じであるというのに、酷い差別、えこひいきである。ある意味、主人は自分の欲望に忠実で一本気だ。
がっくりとうなだれるユーリに、カルロスはしばしテレパシーを中断し、再度アクセスをかけてきた。
“こっちもこっちで、結構大事になってんだよ。国境線を脅かしてきた大物が一匹、防衛ラインを突破して国内に向けて一直線にぶっ飛んで行ってな”
……え、それってかなりマズいんじゃ……?
実力もあり、やや自信家な気のある主人が『大物』と称するぐらいだから、一般人では太刀打ち出来ない強さの魔物が、バーデュロイに攻めてきたのだとすれば、悠長に会話などしている場合ではないのでは。
“おお、この状況はかなりヤバいぞ。
何しろ、その大物のせいで防衛戦に参戦していた守備軍と砦は半壊状態、負傷兵だらけで追跡に出れたのは、俺と、その他空飛べる一名だけだからな!”
ボロボロ過ぎる。
じゃあ、主は今、シャルさんとご一緒なんですね?
“いや。シャルなら大物さんの咆哮の被害が一番深刻で、砦でひっくり返って泡吹いてたから置いてきた。
あいつ無駄に耳が良いからな……”
あのイヌな同僚は、どうしてこう、本来ならば長所であるハズの身体的特徴のせいで、深刻な被害に遭ってばかりいるのだろう。
そして、いったいどんな魔物を追跡しているのかというユーリの問いに、カルロスから見た方が早いとばかりに脳内へと送られてきた、国境線を超えてきた『大物さん』の全身映像に、ユーリは思わず奇声を上げていた。
トカゲにも似た姿形でありながら、比べ物にならない程の巨躯。緋色の鱗を全身に纏い、頭部には立派な角、背中には圧倒されそうになる巨大な皮膜の翼を備え、どんな物でも丸呑みに出来そうな程に大きな顎、ズラリと並ぶ鋭い牙。腕や足に相当する部分も、信じられないほど太く大きく、生やした爪は生半な刃物よりも鋭い切れ味を誇りそうな代物。
その威容はまさに竜。西洋ファンタジーで定番中の定番、灼熱の炎で全てを焼き尽くし人々を蹂躙する、伝説上かつ空想上のモンスター。
ドラゴン……どう見てもレッドドラゴンです。有り難うございました。
“ほー、やっぱりお前も同じ見解を抱くんだな”
落ち着き払って心の声を返してくるカルロスの様子からして恐らく、先ほどのドラゴン大暴れ脳内映像は一から十まで全て、現在進行中リアルタイムの中継ではなく、主人が見てきた過去の記憶映像なのだろう。
“今、俺らはそのレッドドラゴンが飛んでいく後ろ姿を全速力で飛行中だ。
濃い瘴気が無いと、生きていけない魔物が霊峰に引き返すんじゃなくて、バーデュロイ国内を横断していく理由は何か、分かるな?”
カルロスから疲れ切った声音で確認されて、ユーリはゆっくりと視線を手元に向けた。
そろそろ、持ち上げているのが重たくて両腕が辛くなってきた漆黒の塊がそこにはある。
……レッドドラゴンさんにとって、これってつまり酸素ボンベ的な品?
“多分そんなもんだろ。サッサと霊峰に引き返さねえのには、戻るに戻れん理由があるのかもしれん”
満足に呼吸が出来なくなる、そんな状況を想像して、ユーリはゾッと身体を震わせた。恐ろしくて悲しいとも思う。
しかし何よりも、あのレッドドラゴンを利用し謀を企てたどこかの誰かは、バーデュロイの王都が破壊され国家の中枢が混乱の渦に叩き込まれる様を、高みの見物を決め込み笑っているに違いないのだ。
“王都の結界が壊されたのも、また新しい結界をすぐに張れないのも、何よりも王都へ魔物どもが惹き付けられていくのも、ユーリ。全ての元凶はお前の手の中のそれだ”
カルロスが格好をつけて渋い声音で告げてくる頃には、ユーリは重さに耐えかねて瘴気の塊を床にぽんと置いていた。その際うっかり、発見時よりもズレた場所に置いてしまったらしく、瘴気の塊は建物の土台をズブズブと溶かして斜めに傾いで埋まり初めてしまったので、慌てて掘り出して最初に見つけた位置へと安置し直したところであった。実に扱いの面倒臭いブツである。
“ユーリ、お前な。
今の自分の一連の行動に、なんか解決策があるような気がしたのは気のせいか?
ん? どうしたよ。レッドドラゴンが減速? これは確かにマズいな……少しでも注意をこっちに引き付けるぞ!”
カルロスは溜め息混じりにそんなテレパシーを伝えてきて、そして一緒にレッドドラゴンを追跡しているお連れさんに話し掛けられたようで、主人の思考はそのまま連れとの会話と現在の状況に移行したらしく、ふっつりと繋がりが途切れた。
どうやらこれで本当に、カルロスはカルロスでユーリとのお喋りに意識を割り振っていられなくなったようだ。しばらくの間は例え熱心に話し掛けようとも、返事は返ってこないだろう。
「主、具体的な指示を頂きたかったです」
ユーリはしゃがみ込んだ体勢のままがっくりと肩を落とし、取り敢えず瘴気の塊をガンガンと握った拳で殴りつけてみた。石よりは硬くないが、布の束を叩いた時よりも確実に痛かった。
しかし、どうやらこれはそう頑丈な物質でもないらしく、ユーリがグーで殴った際の衝撃で端っこが剥離して、欠片がポロリと床に零れ落ちる。即座にシュウシュウと床を溶かしてゆく瘴気の欠片。
「わわっ」
慌てて欠片を片手で拾い上げると、その小さな破片からも本体よりは細いが瘴気の煙が立ち上っていく。そして、床を溶かしていた時よりも一回り小さくなっていた。
「物質や空気に反応して、固形から気化したらもしかして、体積も縮小変化してる?
放置しておけばどんどん気化して、瘴気が煙状になって大気が上空に流れ出て汚染されていくけど……むしろ造形物を溶かしていく方が縮小率は高くて、いつかは瘴気も無くなる、のか」
このまま何もせず、ただ待っているだけでもいずれは全て気化するのかもしれないが、この調子では何日掛かるか分かったものではないし、放擲など出来ようはずもない。
大気に撒き散らすよりも、いっそ細かく砕いて床をどんどん溶かして穴ぼこだらけにしていけば、消滅も早まるだろうかと、拳が痛むのを懸命に堪え、瘴気の塊へと、両手でガツガツと駄々っ子パンチを食らわせてやっていたユーリの耳に、遠くから何かが聞こえてきた。
いったい何だろうと、手を止めて耳を澄ます。
「グォォォォォ!」
今度は先ほどよりも、より大きく響いてきた。同時に、ガタガタと地上の建物が小さく揺れた振動が地下にまで伝わってくる。
ユーリは目を見開いた。
レッドドラゴン……もう来たの!? いくら何でも速過ぎる!
こうなってはもう、地上の王都に住まう一般の人々にとっても、非常事態であり大変マズい状況である事は理解されたはずである。
それこそ大勢で一斉に、安全に逃げのびれる場所も無い。追い詰められて狩り立てられる獲物のごとく。
「早く! 早く壊れてよ、もうっ!」
既に瘴気の塊は安置場所を移動させ、床をどんどん溶かして沈み込んでいくのだが、床を溶かして体積を縮めていくその速度はじれったいほどに遅い。眺めていても、発見した当初と全体的な大きさは殆ど変わりないように見える。
焦るユーリの耳に、またもやレッドドラゴンの咆哮が大きく響き渡り、柱や壁がビリビリと小さく揺れ動いた。穴ぼこを空けられ脆くなった屋根の建材が、振動によって更に崩れ落ち、ユーリの頭上に到達するよりも先に瘴気の煙によって溶かされ消えていく。
どうしよう、どうしたら良い!?
焦る気持ちばかりが胸を切り裂く。頭上を見上げても、そこに見えるのはただただ視界を遮る忌々しい黒煙のみ。
レッドドラゴンが王都近郊、もしくはこの瘴気の煙立ち上る上空を旋回でもしているのだとすれば、主は主で大変な思いをしているはずだ。
手助けの手も期待出来ず、瘴気はそう簡単に消え失せてくれる気配も無い。
ガン! と、ヤケクソになって足で踏みつけた瘴気の塊から、またしても剥離していく小さな欠片。いっそ、一撃で粉々に粉砕されてくれれば、この地下室中に投げ捨ててやるのにと、やるせない気持ちで欠片を拾い上げる。
勝手に小さくなるのを待てる余裕は無い。王都の貴族街ど真ん中という現在地からでは、この瘴気の塊を持ったままユーリが独断で郊外へ移動する間に、周辺へ被害が拡大すると思われる。
まず第一に、瘴気を振り撒く塊を余所へと持ち運ぶとなればユーリ自身の身の安全は望み薄だろう。きっと、瘴気を撒く元凶の魔物呼ばわりされて、『恐怖や正義感や義憤に駆られた善良な人々』の手によって、数の暴力がふるわれ全ての凶器を瘴気の煙で防ぎきれる訳もなく、弓矢が山ほど突き立てられサボテンにされるのがオチだ。
切羽詰まり冷静さを失うほどの窮地に陥った人は、時にとんでもない挽回策を繰り出すものだという。ユーリもまた、普段の生活の中でならば決して思い付きもしなかったし、取らなかったであろう、通常ならばまず即座に却下する行動。
ユーリ自身の周囲にフィルターこと外殻膜が張られており、今のところ瘴気が何の障害も引き起こさないのだから。
欠片をつまんでいる指先を、顔へと近付ける。
いっそ、この塊を飲み込んでユーリ自身の身体の中へと封じ込めてしまえばいい。
昔、何かのバラエティー番組でやっていた、海外の密輸人の古典的な手口だ。そんなものを、実際に挑戦する羽目になるだなんて、テレビを視聴しつつ母と「世の中、怖い話があるんだねえ」などと、呑気に話していた頃には想像の範疇外だったのに。
口を開いて舌で軽く舐めてみる。まるで焼け焦げた料理の失敗作のような、ただ苦いだけの味は広がるが、舌が溶け始める事は無い。こういうのは勢いが大事だと、無理やり口の中に放り込んで強引に飲み下す。
疲労と緊張からあまり潤っていなかった喉は、水も無いのに食べたくも無い物を強引に飲み込んだせいで、ゴホゴホと激しく咳き込んで吐き気を催す。ある意味、食物に適さず危険な物質が胃に送り込まれた事にたいする、生物として至極正しい反応を引き起こした。
生理的な涙が浮かび上がってくる中、屈みながら必死で吐き気を堪える。ここで戻したりしたら、せっかく勇気と根性を出した毒物処理が元の木阿弥だ。
ユーリは懸命に、ズブズブと床を溶かして埋まりかけていく瘴気の塊を持ち上げ、拳を握って振り下ろす。もう、両手ともあちこち打ち身だらけになっている。
「……え、何?
そういう、常人には理解しがたい特殊な趣味思考に味覚とか、お持ちだったの? 正直引くわー」
その時だ。
ユーリの頭上から、聞き覚えのある男の声が降ってきたのは。
瘴気の煙が立ち上がっていく最中、この周辺にはマトモな人間ならば近付く事さえ困難な、汚染区域であるはずなのに。声がする方向へと、ユーリがハッと顔を反射的に向けると、煙があちこちから立ち上っているせいで広がった屋根や天井の穴から、ふわふわと舞い降りてくる人影。
真っ黒な瘴気の煙をその身に浴びても、ただ裾が微かにそよぐだけの漆黒のローブ。
緩やかに波打つ紅蓮の髪は肩口で切り揃えられ、新緑の瞳は真っ直ぐにユーリを貫いてくる。
とうに滅亡しているデュアレックス王国の、本来ならば君主にしか与えられるはずのない秘術、背中に光を発する魔法陣を浮かび上がらせ、気分次第で強力な魔術を放つ事が出来る災厄の申し子。
『ジェッセニアのキーラ』の称号を名乗る資格を持つ男。
何故、彼がここに居るのか。
どうして、濃い瘴気の中でも何のダメージも受けず、平然とした顔をしていられるのか。
「……ミチェル」
いつの間にか激しい咳が収まったユーリが、無意識のうちに発していた呟きが、耳に入ったのだろうか。ミチェルは片方の眉を器用に持ち上げて、ユーリに向けていた眼差しを更に強めて眇てくる。
そして皮肉げに唇の両端を、ニィ……と小さく引き上げた。