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ただもう、そうしなくてはならないという義務感で、恐怖を無理やり押しやって降下に挑んだユーリである。

だが案の定、何の技術も体得しておらず装備も整えていなかったユーリは、ドサッと、天窓から床へと落下する羽目になった。

下で受け止めたというか、下敷きになった娘さん共々、打ち付けた痛みに呻く。


「あたた……ちょっと、無様な落ち方して、足とか捻ったりしてないでしょうね?」

「大丈夫、みたいです」


問題はむしろ、手だ。ヘロヘロと立ち上がったユーリが手のひらに視線を落としてみると、ロープの痕に擦り剥けて血がダラダラと零れている。


「……弱っ!? どんな生活してれば、こんな薄くてやわな手になるんだか」


娘さんは毒づきながらもポケットからハンカチを取り出し、ビリッと裂いてユーリの両手に巻き付けた。


「あ、ありが……」

「無駄口叩いてる隙があるなら、サッサと行くわよ!」


娘さんは、自分はユーリに向かって軽く罵るくせに、ユーリからは娘さんに対して質問はおろか、礼すら言わせるつもりが無いらしい。

またもや強引に腕を引っ張られて、ユーリは大慌てで足下の水鉄砲を抱え上げた。ベルトを肩から斜めに掛ける。手が痛いだとか、そんな問題は天災に近い緊急事態対処の前には些細な問題だ。


「さっきから気になってたけど、何なのよ、その荷物」

「大気中散布型毒水噴射即席兵器です」

「……は?」


娘さんは重たそうな金属製の扉を押し開きながら、意味が分からないとばかりに目を丸くした。人が通れるぐらいに扉を開かせると、手燭を掲げて埃やカビの臭いが鼻につく地下道を走り出す。

ユーリも懸命に後をついて走るが、この状況はどこかデジャヴを感じてしまう。

あの黒煙が瘴気であると判別出来た事、ゲッテャトール子爵邸の内部構造を把握している事などから考えると、彼女はゴンサレス氏のお仲間さんなのだろうか?


「こ、この地下道を走って行ったら、ゲッテャトール子爵の書斎に繋がる螺旋階段に辿り着くんじゃ……?」

「あんた、本当にバカね!」


そろそろ、もともと多くはないユーリの体力が限界に近付いてきて、ゼイゼイと荒い呼吸の合間に、何とか疑問を露呈すると、先導していた娘さんは振り返りもせずに、バッサリと一言で切って捨てた。


「何でわざわざ、真っ昼間から三階の書斎に侵入する為に地下室に潜り込むのよ。

瘴気の発生源が、地下にあるからに決まってるでしょうが!」

「目的地も知らされて無いのに、無茶言わんで下さい」


手燭の火を消さない程度に小走りな娘さんに、出会ってからこっちバカバカと頭ごなしに文句を言い続けられ、そんな彼女に半ば引き摺られるようにして日の射さない地下にまで連れ込まれたユーリであるが。

ああ、この人はきっと私に文句でも言わないとやっていられない精神状態というか、ピンチに追い込まれてやや錯乱気味なんだな、と、生ぬるい眼差しで得心したところで。

本当に、むしろ我に返ってはいけないタイミングで、ユーリはようやく自分の状況を客観的に分析するだけの冷静さを取り戻した。


昨夜からずっと落ち着かずにいたユーリであるが。誰も止める者がいなかったが為に、『ユーリさん、何を勢いのまま突っ走ってんの?』と、ごく自然な抑制さえなされずに、軽燥に突き動かされて後先考えずに飛び出してきた。

……という現在の状況に、ようやく気が付いたのである。出掛けにウィリーも強硬に引き留めなかった辺り、恐らく彼も浮き足立って正常な判断が下せないでいたか、予想外なトラブルで困惑していたのだろう。もしくはユーリを、カルロスの使い魔だという点だけで過大評価したのか。


「前、あんたがここに来たときっ」

「はい」


娘さんの後をついていくのがやっと、息が完全に上がっているユーリを気遣う素振りもなく、彼女は前を見据えたままだ。

一時的な興奮状態による突き抜けた行動意欲が、ユーリの胸の内よりまやかしのごとく消え失せてしまった今。本来の小心かつ臆病者な気質がこの場から逃げたいと訴えているが、前回の地下通路逃走中と同じく、今回もユーリ一人では脱出出来そうにない。そもそも、ユーリが臆病風に吹かれて逃げ出し、瘴気の煙をこのまま放置しておくと事態が好転するどころか、悪化の一途を辿るのは明らか。かといって、このまま進んだところでユーリに何が出来るのかは分からない。

娘さんは角を曲がりながら、続きを口にする。


「通路のあちこちから、邪魔者が出て来たでしょ?」

「ああ、散発的な戦力の逐次投下……」


などと、女装変態野郎が言っていたような覚えがある。


「違うわ。正確には、経路の誘導、よ」

「……工事現場かっ!?」


左右に折れたT字路の別れ道があったとしよう。右に進もうと視線をやったら、右側の道には『工事中』と書かれた通行止めの看板が立っていた。よっぽど捻くれた人でない限り、素直に左側に進んで迂回するだろう。

ユーリはあの日、ただ必死で従兄弟コンビの後をついて行っただけであるし、周囲を観察する余裕など欠片も無かったので地下通路マッピングなど行ってはいないが、彼らが地下通路の造りを事前に承知していたかどうかも分からない。


だが、ひたすら地上を目指していたのならば、階段に辿り着きさえすれば地下をくまなく探索などしないと踏んで、あの黒ずくめ達はさり気なく道筋を誘導して……発見されたらマズいものを、見付からないようにしていた?

実際、地下室に結界を張っていたという子供の術者を、ユーリはあの日、この地下通路逃走中に見掛けていない訳だし、その子からは遠ざけられる通路に誘導させられた可能性は充分にある。


「だけど、地下は勿論、この屋敷の中はもう、王都の保安? 治安? を担当する軍隊がくまなく捜査したはずじゃあ……?」

「時限式だったのよ」


記憶を探って疑問を抱いたユーリに、娘さんは吐き捨てた。


「あの子供の魔力遮断結界が切れたら、順番に封じが解けていく仕組み……あたしにだって魔法の事はよく分かんないんだから、詳しくは聞かないでよ?

ホセが『これは、知らされてたのとは違う』って」


とうに亡くなったはずの男である、ホセから云々、と口にする娘さんの言に、ユーリの頭の中は疑問符で満ち溢れた。彼女は何を言っていて、何を知っているというのか。


「下がって!」


が、唐突に前を走っていた娘さんから腕を捕まえられて、後方へと跳ねるようにして引っ張られ、ユーリは危うく転びそうになった。手燭の火が大きく揺れ、前方の床に何か黒っぽい物が撒き散らされる。石造りの床に、ジュワッと穴が空いた。見間違えようもなく、例のアレだ。


「な、なな……?」

「何をする気だ、鳥」


狼狽えるユーリに手燭を押し付け、娘さんが庇うように半身前に出る。

暗がりの向こうから、頼りない灯りの範囲に黒い布地を身に纏った人物の姿が、半ば闇に沈み込むようにして浮かび上がっている。低い声音と体格からして、男のようだ。


「そっちこそ、こんなカビ臭くて辛気臭い地下で、屋敷と心中希望? ずいぶん物好きね」

「そこの小娘の訪れを待っていたまでの事。鳥、疾く去ね」

「お生憎様。あんたはあたしの主人じゃないし、あたしの主人はこんな馬鹿げた騒ぎを望んじゃいないのよ」


よく分からないが、どうやら目の前の黒ずくめはユーリが瘴気の煙を片付けようと動く事を予想し、こんな場所でわざわざ待ち伏せしていたらしい。ご苦労な話である。

黒ずくめは懐から、鈍く光る金属製の何かを取り出し……地下通路の中では薄暗くて見極められないが、多分リーチの短い刃物か何かだろう。瘴気の砂を投げつけられるのは、ユーリにとっては痛くも痒くもないが、腕力に訴えられたら無理だ。


「あたしがあいつを引き付けるから、あんたはこの通路を真っ直ぐ走り抜けなさい」


互いに隙を見計らって対峙している黒ずくめと娘さん。彼女の囁きを耳にしたユーリは、庇うように半歩前に出ている娘さんの前に進み出ながら、彼女の視界に入るように何気なく黒ずくめに向けて水鉄砲を構え、


「じゃあ、遠慮なく」

「うおっ!?」

「きゃあっ!?」


黒ずくめ相手に躊躇していたら、こっちの身が危ない。狭い通路で適当に毒水を乱射、という暴挙に出て、ユーリは頭に被っていた防毒マスクを引き下げ、水鉄砲発射前に頭の中でシュミレートしていた逃走経路を、水鉄砲と手燭を片手に、もう片方の手でポンプを加圧しつつ、残り少ない体力を費やし全力で走り抜ける。

娘さんの方は、ユーリが走り出す前に、悲鳴を上げながらも視界の片隅で背後に飛び退いたような、そんな地面を蹴る物音が聞こえた気がした。


防毒マスクで視界が狭まった中、黒ずくめの傍らをすり抜けた辺りで、ヒュンッと空気を切る音が聞こえてユーリの気配を察知して攻撃を加えてきたようなのだが、顔を隠している黒い頭巾とマスクの間、そこだけ見えている黒ずくめの目に、最初の水鉄砲射撃で噴霧された毒水が運良く命中したような気がする。暗くて、ヒットしたか否か、正確には判別出来なかったけれど。だが、近距離に居ながらにして空振りをした点からも、激痛で上手く捉えられなかったのだろうか。

男がいそうな背後の空間に向けて、更に連撃で水鉄砲を発射しておく。

敵の攻撃は当たらなければどうという事は無いが、こっちの攻撃手段は敵味方無差別なだけに、攻撃効果範囲が無駄に広い。


とはいえ、このまま一人で走り出したところで、娘さんが追い掛けられない状況を作り出してしまったので、黒ずくめの男に追い付かれてしまっては危険だ。

あの娘さんが、見るからにヤバくて危なそうな黒ずくめに、真っ向勝負で勝てるのかどうかも分からなくて。粘膜に触れれば結構な確率で大ダメージを与えられる毒水を浴びせかけられるチャンスがあるとすれば、真正面から顔面目掛けて不意打ちしかないと、咄嗟に考え、相談も無く予告もせず発作的に撃ち出したが、娘さんに被害は無いと良いのだが。

事前に水鉄砲を指して『これは毒水を撒く物です』と知らせてあったし、娘さんは咄嗟に後ろに飛んでたっぽいから多分無事だと思いたい。


地下通路なんて、ただでさえ閉塞的な空間で、噴霧された毒水を大量の水で洗い流す事も出来ず、皮膚がむき出しになっている部分はとても痛くて面倒な思いをすると思うのだが、効果範囲から抜け出てしまえば痛みが継続するのは、目や口、喉や鼻腔など、直接ダメージを受けた粘膜だけだ。それはそれで、黒ずくめの男にとってはかなり不利な状態のはず。


男が咳き込む音を小耳に挟みつつ、背後の様子は不明のままユーリは手燭を掲げて足早に通路を渡る。走りたいのは山々だが、もう体力が保たない。

黒ずくめの男とて、多分恐らく普通の人間であるはずだ。それならば、濃い瘴気の煙の中に駆け込んでしまえば男はそこまで追い掛けてくる事は出来ない。

ユーリは手燭を掲げて、今も屋敷を壊し続けているであろう瘴気たる黒い煙を探す。どこだ、どこから漏れている?


ひたすら暗い通路を進んでいくうちに、別れ道に行き当たる。キョロキョロと行く手を見比べてみると、片方の通路の先には遠くに光が差しているのが見えた。

大急ぎでそちらへ駆け寄ると、床や天井が侵食されたように壊れている場所に行き当たった。地下通路の床や天井を壊して、一階や二階の窓から太陽の光が地下にも差し込んでいる。

そして、やっぱりユーリの目には、モクモクと火事の黒煙として立ち上っているようにしか見えない瘴気の煙が、足下から建物の屋根まで一直線にぶっ壊して、王都上空へと大量に吹き上がっている。

ユーリは顔面を覆っている、視界を遮る上に暑苦しい防毒マスクを、再び頭上に押し上げた。


「あ……こ、この下?」


建物を壊すようなヤバい物質だ。ひとりでに地面を溶かしつつ地下へ地下へとめり込んでいっているとしたら、どんだけ深い場所なのか……と、躊躇ってもいられない。

ユーリは慣れない壁下りに、また挑戦しなくてはならないのかと、黒煙の発生源を求めて地面を眺めやり、真っ黒で何も見渡す事が出来ずに慄いた。

右手を黒煙の中に、そっと突き入れてみる。ユーリの手そのものはなんともないのに、娘さんが包帯代わりに巻いてくれたハンカチとパヴォド伯爵家のお仕着せの袖が、一瞬にして溶けて消えた。大ショックだ。


「……服、脱がなきゃダメなんですかっ!?」


頭に乗っけていた、同僚の荷物袋から拝借した防毒マスクを石床に叩きつけつつ、ユーリは半泣きで叫んだ。

瘴気の砂は、石でさえ一瞬にして溶かして穴を空けるのだから、布だって簡単に溶かされてしまうのかもしれない。それにしたって、これは酷すぎる。


とはいえ、ここまで来て瘴気の煙の前で躊躇っていてもどうしようもない。半ばヤケクソ気味にユーリは身に着けていた服を床に脱ぎ捨て、水鉄砲と靴もその場に置き、素っ裸で黒煙の中に探るように片足を滑り込ませ……


僅かな段差こそあったが、そこに予想していたような深い深い穴は存在せず、爪先が石の床を踏んだ感触がした。黒煙の中に降り立ち屈み込んで地面スレスレから覗き見てみると、黒い固形物のような物から煙が立ち上っていて、それは上空にのみ上がっているようだった。


「……つまり、あの黒い塊を、なんとかすれば良いのね!」


視界が真っ黒で手探り状態のまま、ユーリは時々屈み込んで目標物との位置を確かめ、ようやく排除すべき瘴気の塊に手を伸ばした。



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