4
現実感が伴わず、ただ空を見上げてどれほど呆けていただろうか。どうすれば良いのかも分からず、ただただ主人へと懸命にテレパシーを送り続けていたユーリは、ややあって猛然と周囲を見渡した。
これほどの大事件が起きたというのに、ユーリが現在ボーっと佇んでいるパヴォド伯爵邸の裏庭には、通りや建物の中から誰かが騒ぎ出している喧騒が、全くと言っていいほど聞こえてこない。
……そうか。きっと、魔術師でもない王都に住んでいる大多数を占める普通の住人にとっては、現在の状況が正確に把握出来ないんだ!
ユーリとて、ウィリーがあれらは濃い瘴気の塊と王都結界だ、と説明してくれなかったら、見聞きした物事だけで判断を下し、現状を正しく把握出来ていたかどうか、大いに怪しい。
だが、逆に考えれば王都中が集団パニックを起こして暴動やら大騒動が起こるには、情報が僅かなりとも伝播していった後になる。つまり、まだ対応を取る時間があるという事だ。
「嘘だろ……」
呆然としているウィリーをひとまずそのままに、ユーリは踵を返して裏庭からほど近い、住み込み使用人の為の住居となっている建物に駆け寄った。表に回り込んでいる時間も惜しい。
幸いにして、ユーリが借りている部屋は一階、更には彼女の同僚が窓に仕掛けたイタズラが、そのまま残されている。
「あ、おいティカ!?」
驚いたように走り寄ってくるウィリーに構わず、ユーリは部屋の窓から垂れ下がっている、よくよく注意しなくては気が付きそうに無い、目立たない紐を思いっきりグイッと引っ張った。室内の鍵の留め金が下がり、ユーリは外側から窓を開け放って、室内に飛び込んだ。
「な、何やってんだよ!?」
「ここ、私の部屋なの!」
無断で他人の部屋に不法侵入したのではない事を友人に弁解しつつ、ユーリは靴を履いたままベッドに転がり込みそのまま床に着地してベッドの下に手を突っ込んだ。
目当ての物をベッド下から引きずり出し、ついでに傍らのリュックから同僚愛用の品を拝借。何しろ彼女の武器は、敵味方使い手全く関係無く、効果範囲に入った相手へ無差別に効果を及ぼす。
ユーリは窓越しに室内を覗き込んでくるウィリーに、水鉄砲の貯水タンクを開きずいっと差し出した。
「ウィリー、水を出せるならこの中いっぱいにして」
「は?」
「早く! 事は一刻を争う事は明白でしょ!」
恐らく、出会ってから初めて怒鳴ったユーリに、ウィリーは困惑しつつもタンクに手をかざし、念じる。
と、そこへ彼方から弓矢っぽいモノが飛来してくるのが、ウィリーの肩越しに見えた。いつか見た、アティリオの作成した伝書矢とかいうのに似ている。
タンクの中を要求通り水で満たしたウィリーが、矢に手を差し出すと、それは彼の手のひらの上に滞空する。
誰かからの連絡を受けているらしきウィリーを横目に、ユーリは服の下から小袋を引っ張り出し、毒水の素をタンクに投下し、水鉄砲にセットした。軽くポンプを押して加圧する。
幅広で長いベルトを水鉄砲に巻き付けて肩からたすき掛けにし、すぐ構えられるようにセット。同僚愛用のガスマスクを、こちらも即座に引き下げられるように頭に乗せる。
そしてメイド服。何とも珍妙なスタイルだが、四の五の言ってはいられない。
「ティカ、おれ、招集が掛かったから行ってくる」
「こっちも、あの瘴気、何とかやれるだけやってみる」
「……はあ!?」
あの瘴気が立ち上ったせいで王都の守護結界が壊れたというのならば、原因を取り除かねばならないと思うのだ。そして恐らく、今現在、王都の中で濃い瘴気の中でも活動可能なのは、ユーリしか居ない。
「なん……!?」
『何とかって何を言い出してるんだ!?』と、無謀だとか無意味だとか、その手の意味合いを叫びかけたであろうウィリーの手を、ユーリは強く握り締めた。たったそれだけで、ウィリーは理解出来たのだろう。言葉が不自然に途切れた。
「あなたになら、判るでしょう? 私が、本当は何者なのか」
驚愕に表情を強ばらせたウィリーは、次の瞬間、ギュッと手を握り返してきた。
「……前は、カルロス先輩に、仕えてたって?」
「ええ。そして今も、ね」
泣き笑いのような顔を浮かべるウィリーに、ユーリはコクリと頷いた。
「だからもうとっくに、『向こう』にも王都の現状は伝わってる。
そして私は、外殻膜が瘴気を無効化する」
「例えそうだとしても、あの濃い瘴気はどうやってだか結界を内側から破るような代物だよ?」
ウィリーに言われるまでもなく、その点だけが懸念されるところではある。異世界を渡る際に纏わりつく世界の気泡ごと包み込まれて二重にされてある、という事実によって、他の結界よりは頑丈なのではないか、という希望的観測を抱いているに過ぎない。
ユーリはスッと、ウィリーの手のひらの上に滞空したまま発光している伝書矢を指差した。
「ウィリー、その矢、もう使わないなら私が借りる事って出来る?」
「出来る、けど……」
「パヴォド伯爵閣下へ、伝言をお願いします」
「それは大丈夫、ちゃんと伝えたい相手に飛んでいくから」
ウィリーの手から差し出された矢は、勝手に移動したり消えたりせず、ユーリの手へと移る。目を閉じて、言葉を考える。確か録音は、強く心で思えば良かったのだったか。
「閣下、大気汚染を企むけしからん輩が居るようなので、ちょっと空気清浄に出向いて参ります」
「何ソレ!?」
念の為に伝言を声に出して吹き込んだら、隣で聞いていたウィリーがツッコミを入れてきた。しかし、既に伝書矢は録音を終えて解き放たれた後である。
「……おれはもう行くけど、無茶だけはするなよ?」
「そっちもね」
緊急事態発生の招集ともなれば、ウィリーはすぐに集まらねばならないはずだ。そして、彼が駆り出されるとすればきっと、例えるならば灯りに寄ってくる虫の駆除。
身を翻して裏庭からほど近い、使用人が使う勝手口から駆け出していくウィリー。ユーリもまたそちらから出て、そのまま黒煙にしか見えない瘴気が立ち上る貴族街の屋敷へ向かってひた走る。
ろくに散策もしていないので道など知る由も無いが、目立つ目印があるので方角を見失う事は無い。閑静な貴族街には人通りも少ないが、あちこちのお屋敷の使用人らしき人々が、黒煙を指差し噂しあっている。
今のところ、それは本当に天に向かって上っているだけで、瘴気の被害が広がってはいないようだが……あれが下りてきたら非常にまずい。大惨事だ。
問題の瘴気が発生している屋敷の前は、流石に大騒ぎになっていた。あの煙にまみれたら溶かされてしまうのだから当然だが。何より驚いたのは、ユーリにはこの屋敷に見覚えがあった事。
このお屋敷は確か、先日ユーリが誘拐された場所。アルバレス侯爵家一門の、ゲッテャトール子爵のお屋敷だ。
屋敷の出入り口には王都治安部隊の兵士さん達が数名見張りに立っていて、他にも魔術師のローブを纏った人物が数人、懸命に屋敷に向かって腕を上に振り上げている。何をしているのだろう。
ジーッと観察しながら近寄ったら、門の前で通せんぼをしていた兵士の一人が、ユーリに鋭い一瞥をくれた。
「そこの君、ここは危険だ。
今すぐ自分の勤め先に戻りなさい」
危険な毒薬が、今ももわもわと立ち上っているというのに何とも呑気な話だが、兵士さんとて今この屋敷から瘴気が云々とは、流石にただの野次馬にしか見えない通行人ぽいユーリに、伝える訳にもいかないのだろう。
押し問答をしたところで正門からは入れそうに無いと、ユーリは兵士さんに頭を下げてその場を離れる。どこか人目に付かない場所からこっそり侵入する方法を、考えなくては。
「だけど、真っ昼間からどうやって」
正門から距離を取りつつ、ゲッテャトール子爵邸敷地の塀沿いに当て所なく路地を移動する。今のユーリの扮装は奇妙極まりなく、悪い意味で目立つ事この上ない。先ほどの兵士も、見張っている屋敷から突如として瘴気が吹き上がるなどという予想外の事態に、軽くパニックを起こしていたのかユーリを追い払う事に終始していたが。平常心を保っていれば、もっと訝しがられていただろう。
と、角を曲がったところでユーリは路地に立ちふさがっていた女の子と、危うく正面衝突をしかけた。
「わ!? すみません」
「……こっち」
小走りになっていたユーリは、慌てて立ち止まり謝るも、彼女は問答無用でユーリの腕を掴み、路地の奥へと走り出す。
「え? え? ちょっ」
「早く! あの魔術師達、瘴気が王都内に降り注いでこないよう、強引に上空に巻き上げてるけど、長くは保たない」
彼女の服装そのものは、平凡なお洋服だ。ユーリが身に着けているような、一目でどこの家のメイドか判別が付くような特徴は無く、無地で生地も安そう。エプロンドレスに茶色い髪を引っ詰め髪にし、顔立ちも平凡で街中のどこにでも居そうな娘さん。そんな彼女が、ユーリをグイグイと引っ張って行く。
「あなた、いったい誰?」
何かの事情を知っているらしき娘さんにユーリが誰何をすると、前を向いていた彼女は走りながらチラリと振り返って、バカにしたようにフンと鼻を鳴らした。
「呆れた……! 何度となく顔を合わせてるのに、素顔のままでも判らないだなんて」
「ええと、スミマセン……?」
どこかで会った事があるらしいのだが、ユーリには彼女に見覚えがあるような無いような。そんな曖昧な感覚しか抱けない。
「あたしが誰か、なんて些細な問題よりも、今はあれを何とかするのが先でしょ」
娘さんは路地の一角で立ち止まり、止まる様子も見せない瘴気の舞い上がる上空を指し示した。
そして、ゲッテャトール子爵邸の敷地内、塀のそばに生えている庭木に、腰の辺りから取り出した重り付きのロープを投げつけて、太い枝振りにそれは見事に巻き付いた。……は?
娘さんはぐいぐいと手の中のロープを引っ張って具合を確かめ、それを手掛かりに塀を蹴りつけよじ登って行く。塀の上部には侵入防止の返しがあるのだが、エプロンのポケットから片手で器用に取り出した、小瓶の中身の黒い何かを振りまくと、金属のそれは溶けて足場に早変わり。
娘さんは塀の上から、ユーリに向かって手を伸ばしてきた。
「早く!」
正体不明の娘さんは、ゲッテャトール子爵邸に不法侵入を試み、ユーリも連れ込むつもりでここまで連れて来たようだ。
彼女が何者かは分からないが、ユーリの目的は、とにかく瘴気の元凶を取り除く事にある。娘さんの手を借りて人生初の壁登攀に挑み、予想外に力強い娘さんによって強引に引っ張り上げられて塀を上り、敷地内に降り立った。
娘さんは枝からロープを解くと、長いスカートのままいとも容易く着地。……軽業師さんだろうか?
ゲッテャトール子爵邸の内部構造は今一つ分からないユーリであったが、降り立った場所は裏庭っぽい地点であるようだ。当主はまだ王宮で監視されている筈だが、残された身内の人々はちゃんと避難出来ているのだろうか。
「地下室に行くなら、こっちからが一番早い!」
娘さんはそう言って、ユーリの腕を再び掴んで母屋の片隅に引っ張る。建物の出入り口のような物は見当たらず、一面壁がそびえ立っているのだが、娘さんは足下の壁の一角に強烈な蹴りを入れた。ガシャン、と、ガラスが割れたような音。そのまま何発か食らわせる毎に、硬質な破砕音が響き渡る。
よくよく娘さんの足下を観察してみると、その一角だけ半透明のガラスが入れられていたらしい。
重り付きロープを、近くの大樹の幹に巻き付けガラスを取り除いた穴の中に垂らし、「先行くわよ」と、スルスルと降下していく娘さん。
驚いた事に、この壁の向こう側の部屋は地面と同じ高さではなく、低い位置に床がある地下室であるようだ。
「……えっ。私もここ、入るの?」
呆然と成り行きを見守っていたユーリは、娘さんの姿が穴の中に完全に消えてから、誰にともなく呟いていた。
何の取っ掛かりもついていないロープ一本で降下だなんて、そんな高難易度のアスレチックはやった事も無い。
ひとまず地面に這いつくばい、穴の中の様子を覗き込んでみる。薄暗くてよく見えなかったが、無事に地面に下りた娘さんが、ポケットからチビた手燭に蝋燭と石を取り出してあっという間に火を点けたので、室内の様子が見渡す事が出来た。
「……ここは!」
床までの距離は相当遠く、建物の二階分はありそうな深さ。長い柱が支え、出入り口らしきものは分厚そうな金属製の扉が一つ。
床は板張りで、荷物らしき物は何も見当たらない。壁は石材で出来ている地下室。室内面積は、人が五歩も歩けば壁にぶち当たる狭さ……以前、ゲッテャトール子爵邸に誘拐されたユーリが、最初に目を覚ました場所である地下室と同じ造りか、もしくはそのものだ。確かに、高い位置に天窓があったな、と、記憶を掘り起こす。
「早く下りてきなさいよ!
あんたが来なきゃ、話が進まないんだから!」
灯りを確保した娘さんが、手燭を掲げてがなり立ててくる。ユーリは懸命にロープを握って、
「私には登攀も、降下技術もありませんっ」
「げ」
半泣きで訴えると、娘さんはめちゃめちゃ面倒臭そうに舌打ちし、手燭を部屋の片隅に置いた。
「ロープの真下に居てあげるから、ちょっとだけそれ伝って、後はロープから手を離して飛び降りなさい! 受け止めてあげるから!」
ふと思う。こんな事になるのなら、自由自在に自分自身の意志で子ネコ姿に変身可能な方が、難易度は低かっただろうに、と。
「時間が無いんだってば!
このままじゃ瘴気に惹かれた魔物がどんどん王都に集まってくる!」
娘さんの悲鳴に、ユーリは水鉄砲と巻き付けた幅広ベルトごと地下室に落とし、次いでロープを両手で握って穴を潜り抜け、壁に向き合って空中に腰を突き出した体勢から、そろりと壁に足を着けた。
両足の自重を支える支点が壁の穴の端から垂直の壁に移った途端、革靴の爪先は石組みの壁の隙間にあるデコボコからあっさりと滑り落ち、手のひらからはロープが物凄い勢いですり抜けていく。摩擦の痛みに耐えかね、ユーリは悲鳴を上げてロープを手放して地下室へと落下していった。