3
無事にお使いを終えて伯爵邸へと戻ったユーリは、メイド控え室にてセリアに早速疑問をぶつけてみた。
「え、誰がティカちゃんの通学を連盟に依頼したか?」
「はい。今日、塔へお使いに行ったら魔術師の友人から急に言われてしまって、驚いて」
「うーん、わたしは聞いてないけど……」
現在、ユーリがレディ付きの見習いメイドとして勤めているのは、表向きに装う為の仮初めの職である事を承知しているセリアは、お手紙の代筆の手を止め怪訝そうに言葉を濁した。
と、そこへエストの私室から茶器が乗ったワゴンを下げてきたラウラが通りかかり「あたしだよ」と、口を挟んだ。
「まったく。ゴンサレスらしからぬ不手際だよ。あたいらは今、社交シーズンで王都に滞在してるって言うのに、未就学のティカの通学手続きを申請してなかったって言うんだから」
ラウラは一旦ワゴンを止め、両手を腰に当ててユーリを見下ろした。
「ええと、私が連盟へお勉強に通っても、良いのですか?」
「当たり前じゃないか」
恐る恐るユーリが確認をとると、ラウラは即答した。
「いいかい、ティカ。
あたいらはパヴォド伯爵閣下と主従の契約を結んでエストお嬢様にお仕えして、その上で自分を磨く機会を与えられてんだ。
お嬢様に恥をかかせないよう、若いうちにしっかり学んできな」
「はい」
勉強をするにも一部の裕福な人間に限られるこの国で、パヴォド伯爵は希有な事に使用人に教育を施す事を推奨している。なんと有り難い話であろうか。
しっかりと頷くユーリに、ラウラもまた満足げに唇の端を持ち上げみせ、そうしてワゴンを片付けに向かったのである。
「ティカちゃん」
勉学意欲がふつふつと湧き上がってきたユーリが、頑張るぞーと拳を突き上げると、そんな彼女の背中へ机に腰掛けたままのセリアが呼び掛けてきた。
「連盟本部の塔へ通ってお勉強するのは良いのだけれど、そもそもティカちゃん、閣下から下されたご命令の方は上手くいっているの?」
「……あっ」
エストお嬢様のお世話にグラお坊ちゃまの求婚騒動、行儀見習いの修練に魔物の軍勢国境線侵犯事件噴出。
色々あってすっかり後回されていたが、そもそもユーリへと下された任務は『亡きホセの相方と目される黒砂スパイ探し』である。
舞い上がった気持ちが一転、思わずずどーんと床へとへたり込んでしまった。
「ティカちゃん、昨夜からずっと変よ。
妙に前向きで意欲的かと思えば、すぐに落ち込んで」
セリアもまたユーリの傍らへと膝をつき、ユーリの顔を覗き込むと額に手のひらをあてがった。
短い間に躁鬱の差が激しく見るからに情緒不安定だなんて、確かにそれは周囲に与える心証も危うい。
ユーリは咄嗟に上手く誤魔化す事が出来ず、セリアから外した目線を泳がせた。口にしてはいけない情報なのだから、決して気取られる訳にはいかないのに、馬鹿正直に狼狽えていたが為にこのザマだ。
「も、もう何日もこちらでお世話になっているのに、う、上手く情報が集まらないなー、と」
「わたしには諜報の技術も知識も無いけれど、子ネコのユーリちゃんにはバーデュロイの普遍的な習慣を早急に知る事も必要だと思うわ。
そうでないと、何が怪しくて何が異常かを判別出来ないじゃない?」
まったくもって正論である。
本来、パヴォド伯爵邸に留め置かれたユーリの務めは王都で密かに活動している、と思われる黒砂なスパイの潜伏先やら表向きの顔、素性を掴む事にある。主人たるカルロス達、魔術師連盟の戦闘に長けたメンバーの多くが国境防衛戦に打って出た今、王都に残されたユーリが主人の役に立つには、しっかりと伯爵からの任務を果たして後顧の憂いを断つぐらいしか出来ないのではあるまいか。
私、戦力になんかなりませんしねえ……
第一、今、単純に考えて王都に残ってる魔術師さん達は普段の半分ぐらいなんですから、隣国のザナダシアが王都に何か仕掛けてきたら大変……
ユーリは自分で自分の思考に、愕然とした。
普通、敵対する陣営の戦術というものは、軍勢がぶつかり合う前線、戦場で繰り広げられるものだ。だが、敵の本陣を直接引っ掻き回す事が可能ならば、激しい動揺を与えられるというのは自明の理だ。
国境で魔術師達が疲弊しているに違い無いこの状況で、社交シーズンの真っ只中、王都に集まっている有力者、実力者、それに国王が暗殺されたらどうなる?
果たして、バーデュロイ王国は万全の状態で国防に努められるのか?
敵国のスパイは、とうに王都に忍び込んでいるというのに。
ユーリは慌てて立ち上がった。
「どうしたの、ティカちゃん?」
セリアの腕を押しのける勢いで飛び上がって立ったユーリに、セリアは唖然とした表情で問うてくる。やっぱり、彼女の目には今日のユーリの精神状態は、躁鬱の緩急が異様に激しく映るのだろう。
「お昼ご飯時に、連盟から先生が今後の打ち合わせに来るそうなので、出迎えに行って来ます!」
行かせて下さい、と、真っ向から頼み込み、昼休みの時間を少し長めに取っても良いとの許可をもぎ取ったユーリであった。
「でもお昼休みにはまだ時間があるからその前に、貨幣のお勉強からね」
バーデュロイに流通している通貨の実物さえ見た事が無いユーリは、エストから命じられるお使いに備えて、まずはお金の種類をセリアからレクチャーされる事となった。次回はきっと、エスト御用達のお店やら、流行のお勉強だろう。
パヴォド伯爵邸の、使用人が出入りする通用口にてウィリーの到着を待ち詫びていたユーリは、本部の塔からやって来た彼を急かすようにして早速裏庭へと案内した。
敷物を広げて、ユーリとウィリーは並んで座る。
「今度はやけに張り切ってるな。勉強、楽しみになってきたの?」
のんびりと持参の昼食を広げるウィリーに、ユーリは厨房から借り受けてきたティーポットからカップに茶を注ぎ、手渡す。
今、ユーリが抱く不安を相談出来ると真っ先に思い付いた相手はウィリーなのだが、かと言ってこの懸念をどう尋ねれば良いのやら、上手く考えが纏まらない。
「あの、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「何?」
多分、本部の塔の食堂で頼んだお弁当の他に、道々の屋台で買い込んだと思しき串やらパンやらの袋を両手にたっぷり抱えて来たウィリーは、気持ちの良い食べっぷりを披露している。しかしいくら成長期とはいえ、一抱えもの料理が本当に彼の胃袋に全て収まるのかどうかは疑問だ。
「つかぬ事をお伺いしますがウィリー君。君、普段からそんなにたくさん食べるの?」
「ああ、これ?
いや、毎日の瞑想だけじゃなくて、今からたくさん食べたら魔力に変換されるかなあ、って思って」
「魔法使いはご飯を食べると強くなる、の?」
「なるなる」
痩せの大食いかと思いきや、どうやらウィリーもまた、王都に居ながらにして有事に備えておくべく、魔力確保に努めようと考えたらしい。
平行世界の同じ魂を食らい己の強化を図るこちらの世界の魔術師は、普通の食事も多目に取ればそれすらも自身の強化に繋がるようだ。その割には、主人やベアトリス、アティリオの食事量はごく一般人並みであったように思えるのだが。
「まあ、飯食って魔力溜め込んでも、時間が経てば大半はそのまま大気に抜け出るけど」
「一時的な強化なんだ」
「魔術師は例え毎日食っちゃ寝してるだけでも、魔力が増える事はあっても落ちる事がない」
なんだその引き籠もり絶賛大歓迎な職業。そうやって魔力の高さだけ誇っていても、技術や勘そのものは鈍りそうだな、との所見は胸の内にしまい込み、ユーリは話題を変えた。
「ところでええと、そもそも連盟でのお勉強って、先生の選定基準は何かあるの? 元々の知り合いが優先されるとか?」
「あ、さてはティー、おれに先生が務まるか心配してる?
人を見た目で判断すると、痛い目見るぞ」
「いや、見た目で判断するならウィリーはまんま魔術師だから、普通の人はまず甘く見ないと思う」
城壁付近の警備兵が、当然のように職質の必要無しとスルーした実績持ちだよ、君。
「……ガキ扱いされて軽く見られないって、何か新鮮」
「塔の中だと、皆、魔術師さんやら魔法使いを志してる人ばっかりで、物事を判断する基準が年齢になるんだろうね」
「ええと、それで、何でおれにティーの先生の話が回ってきたか、だっけ」
「うん」
「基本的に、連盟から出す人材は決まってる。
一つ、外部へ緊急かつ長期間出張する可能性の低い本部所属のメンバーである事。
一つ、生徒と比較的年齢が近しい事。
一つ、基礎教養を優秀な成績で修めている事」
ユーリは思わず、ウィリーを頭のてっぺんから爪の先までじっくりと眺め回した。どこからどう見ても、ローティーンの少年エルフである。
そんな彼と年齢が近しいと判断されたと言うことは、これは嬉しいと喜ぶべき点であろうか? どうやらバーデュロイの住人が客観的にユーリの年齢を判断すると、どうしてもウィリーとほぼ同年代であると判別されるらしい。
「他にも、できたら同性が良い、ってのがあるんだけど。おれより年下の女の子はまだ学院で勉強中だし、年上の先輩達は国内のあちこちの領地で働いてるか、防衛戦に出て行っちゃって。
本部に今残ってるメンバーからだと、ルティ先輩かおれにって話だったから立候補したんだ」
「有り難うウィリー! とても嬉しい」
あの変態女装野郎と2人きりでお勉強だなんて、そんな状況を想像するだけで憂鬱になる。
歓声を上げて喜ぶユーリに、ウィリーの方が面食らい不思議そうに呟いた。
「ルティ先輩の事、苦手なの?」
「出来れば、一生関わりたくない人種です」
あれは危険だ。
もぐもぐ、と、串焼きを片付けたウィリーにユーリは問うた。
「今ってやっぱり、連盟本部の中は人手不足で著しく戦力ダウンしているんですよね?」
「かなりね」
「そんな時に、世界浄化派がバーデュロイの王都に何か仕掛けたら、大騒ぎになったりしませんかね?」
ユーリが恐る恐る呟くと、ウィリーはパンに齧りつこうとした体勢のまま固まった。
「王都と、アルバレス侯爵領の国境線は、伝令が全速力で馬を飛ばせば片道半日も掛からない距離ではあります。
でも、軍隊が往復するならどう見積もっても強行軍で丸一日以上は掛かります」
「ティー、ちょっと待って。
要するに、何が言いたいんだ?」
「陽動作戦による守備戦力の分散と、一時的に薄くなった守りの隙を突いての、要人暗殺への懸念です」
落ち着こうと茶を口に含んだところだったウィリーは、ユーリの突拍子も無い不安に、んぐっとむせかけた。
「王都に拠点を構えてる騎士団は今、国境防衛戦のせいで警戒態勢なんだぜ?」
「その、即座に動かせる軍隊の一部は、既にアルバレス侯爵領の国境線に向かって出立していて、平時と比較すると王都の戦力が下がっているんですよね?」
「そりゃ……仮に王都が大変だから今から引き返せ、とか上から命令がいっても同じぐらい時間が掛かるだろうけど」
だからって、と、反論しかけたウィリーの声に被さるように、どこからか、バーーン!! と、まるで花火が炸裂したかのような大きな破裂音が響き渡った。
「きゃっ!?」
「うわ!?」
呆気に取られた次の瞬間には空気の津波のような鋭い衝撃が伝わってきて、ティーカップや敷物が煽られる。咄嗟に腕で目を庇ったユーリの狭まった視界の中で、ウィリーのマントや敷物が一瞬、バタバタ! と、音を立てて翻った。
だがそれもほんの僅かの間の出来事で、発生時と同じように謎の怪音も衝撃波も、一瞬にして収まったのである。
ユーリは恐る恐る腕を下ろし、裏庭の様子を見回した。木はもちろん、枝葉が薙ぎ倒された様子は無いし、平穏そのものだ。どこからか吹っ飛んできたらしい、洗濯物のシーツが一枚、枝に引っ掛かっているけれど。
「な、何だったんだろうね、今の」
「ああ……」
ユーリと同じく、周囲をきょろきょろと見回していたウィリーはしかし、ユーリの背後のある一点に目を向けるなりギョッと表情を強ばらせた。
何だろうと振り返ったユーリの目に、どこかのお屋敷の方角から、もくもくと真っ黒い煙が立ち上っているではないか。
「大変、今の急な突風で火事が起きたのかも!?」
慌てて立ち上がるユーリに、ウィリーは顔色を変えて「違う!」と叫んだ。
「あれは……あの気配は単なる煙なんかじゃない、瘴気だ! しかも、あんなに濃度が高いなんて!?」
ユーリの目には火事の黒煙と見分けがつかないそれに慄き、ウィリーは呆然と叫んだ。
「濃度?」
「マレンジスの大気で全然薄まってない、あんなものが風に乗って王都中に広がったら、殆ど瘴気の砂を吸い込むような危険物だ!」
慌てふためきながらのウィリーによる質疑応答に、ユーリもようやく事態の緊急性と危険性が把握出来た。
本物の黒煙と見紛うほど、ただただ上空へと立ち上っていく様子から、僅かに猶予はあるようなのだが、
「そんなの、すぐに除去しなきゃ……!」
「方法が分からない!」
即座に断言され、ユーリもまた愕然とした。
そう言えば、瘴気の砂が地面を溶かして消える様子は眺めたが、防いだり無効化したのは、ユーリの同僚である外殻膜持ちのシャルのみだ。その彼とて、ただ溶けないだけで砂そのものを消滅させる技術など持ち合わせてはいなかった。
焦るユーリの耳に、今度はキン、と、ガラスが軽く打ち鳴らされるような音が届いた。
ハッと息を飲んで頭上を見上げたウィリーが、呻き声を漏らす。
「王都の守護結界が……!」
「え?」
「あの瘴気の煙、上方に立ち上らせて結界を破る気なんだ!」
黒煙は一筋しか立ち上ってはいない。あの量と広がってゆく速度で、王都中の人間の命をすぐさま奪えるとは到底思えない。上手く誘導する事が出来れば、大半の住人は避難が間に合うだろう。
けれどそれは、何千人もの人々が一斉に、かつ安全に逃げられる場所が近場にあるのならば、の話だ。
瘴気は、魔物にとって大切な成分である。
王都の中心部から濃い瘴気が立ち上っている事を近隣の魔物達が感知すれば、いずれはとり囲まれてしまう。そうなれば王都の人々は安全区域まで脱出する事もかなわず、緩慢と広がる瘴気を次々と吸い込み命を落とす。
そうでなくても結界が消えてしまえば、早晩空を飛ぶ魔物が飛来する。恐怖と絶望によって、死と怨嗟の都と化してしまう。
見上げた頭上、普段は可視化などされていない王都の守護結界が、まるで透明度の高いガラスに日の光が乱反射するかのように、あちこちで煌めいて……撓む。
ユーリとウィリーが、なす術も無くただ頭上を見守る中で。キン、キン、と、場違いなほど涼やかな音色を響かせて結界はキラキラと輝き、やがてガシャーン! と、儚い終幕を告げて無残にも砕け散った。そしてそれは季節外れの透明な粉雪のように……音もなく王都へと降り注ぎ、地上へ到達する事もなく溶け消えていったのだ。