来襲の王都
「残念ですわ。ああっ、わたくし、ユーリちゃんを名実共に娘として迎え入れる日を、心待ちにしておりましたのに」
ハンカチを握り締め、しきりと惜しむレディ・フィデリアの肩を、彼女のお隣に寄り添ってソファに腰掛けていたパヴォド伯爵が抱き寄せた。
「泣かないで、フィー。仕方がなかったんだよ。
私は最初から、十中八九こうなるだろうと思っていたしね」
「まあ」
奥方の髪を指先で梳いてやりつつ、ナイトウェア姿の旦那様は優しく諭す。奥様は、些か驚いたように目を丸く見開いた。
深夜にシャルの来訪を受け、出立を見送ったユーリは、それから眠る事も出来ずにまんじりと夜明けを待ち、ソワソワと落ち着かぬまま厨房の支度を手伝っていた。本来、行儀見習いで令嬢付き見習いメイドとして住み込み中であるユーリには、料理の下拵えや皿洗いといった業務は含まれていない。しかし急な人員不足が発生したらしく、夜明け前から食堂でボーっとしていた彼女に白羽の矢が立ち、ピンチヒッターに呼ばれたのだ。
そして忙しくあれこれと言いつけられていたら、今度は当主夫妻の朝食の配膳を言いつけられてしまい、こうして朝のご夫婦の寝室に控えているという訳だ。
「ディオン、わたくしには分かりませんわ。グラちゃんはどうして、こんなに急にユーリちゃんへの求婚を取り下げるだなんて」
レディ・フィデリアは未練が残るのか、息子からの走り書きの手紙に目をやり、溜め息を吐く。
「それは早く我々に話を通して済ませなければ、出陣の間に勝手に決定事項として進んでいたら大事になるからだろう。
元々それを見越して、私はグラとユーリの話を誰にもしてはいないから、特に揉み消しに動く必要も無いけれど」
パヴォド伯爵本人は息子からの『あの話は無かった事にして下さい』との手紙に、全く動じていない。
「ワイティオール侯爵には、何と申しますの?」
「特には何も?
せいぜい、数ヶ月後にでも『不肖の息子はどうやら口説き落とすどころか、意中の令嬢から見事に振られたようです。いや、情けない限りです』と、愚痴るぐらいかな」
「酷いわディオン。グラちゃんは数ヶ月後にも、やはり恋人が出来ていないと予測していますのね」
「あの子にはあの子のペースがあるのだろう。我々がせっついて、どうなるものでもない」
パヴォド伯爵は結局、グラとユーリの結婚など纏まりはしないだろうと、最初から決め付けていたのだろう。だからこそ、賛成も反対もせず、ただ身内が騒ぐ姿を傍観していたのか。
閣下の眼差しを向けられて、ユーリはスッと伏し目がちに目線を下げた。
「ユーリ、君には我が家の家訓についてを話した事はあったかな?」
「『パヴォド伯爵家男子たる者、家の力に頼らず、自らの魅力と実力で妻として迎え入れる女性を口説き落とすべし』」
「そう、それについてだ」
かつてグラが述べ上げていた、何かおかしいとしかユーリには感じられないパヴォド伯爵家家訓を口にすると、伯爵閣下は話が早いとばかりに頷く。が、閣下の言い種では他にも『パヴォド伯爵家家訓』とやらがあるのだろうか? と、穿った感想が過ぎる。
「年頃になりその家訓に従おうにも、首尾良く意中の女性と親しくなれるとは限らない。対人関係というものは、話術や人間性、信頼感がものを言うからね。一朝一夕でそれらが磨き上げられるべくもない」
そう言って閣下は食後のお茶のカップを口元に運び、喉を潤した。
「そして辺境伯として封ぜられるからには、生半な精神力や交渉術の持ち主では務まらない。それ故の家訓だ」
「なるほど……」
一見、単なるヘンテコ家系の象徴のように見ていた家訓であったが、受け継がれていく背景にはそれなりの理由が含まれていたらしい。ユーリはコクリと頷いた。
「そして、交渉術、対話、対人関係に磨きを掛けるべく、我々パヴォド伯爵家の人間は幼少期より身分を問わず親しく会話を交わす仲となる、異性の『友人』をつけるのが習わしとなっているのだよ。
私の幼馴染みは今はエスト付きとなっているラウラだし、幼少期のエストの守り役はユーリも知っての通り、カルロスだ」
要するに、大抵の相手とスムーズなコミュニケーションを図れるような、そういった跡継ぎを残すべく定められた家訓なのだろう。
「ラウラさんは、長年パヴォド伯爵家に仕えていらっしゃるのですね」
年齢不詳のメイドを思い浮かべ、ユーリは瞬きを繰り返した。道理でゴンサレス氏への対応があっけらかんとしたものだった筈だ。長い付き合いなのだろう。
かの伯爵閣下のご幼少のみぎりを想像してみようとして、ユーリにはどうしても具体的な情景が思い浮かばなかった。
何というか、パヴォド伯爵閣下が幼かったり未熟だったりする時分、というものが全く想像出来ないという結論に達し、ユーリは内心唸った。ラウラとどんな会話をして過ごしていたのか、予想もつかない。
しかし、一見、20代に見えなくもなかった彼女がパヴォド伯爵の幼馴染みという事は、ラウラの実年齢は……?
「ラウラはエルフの血を引いているらしくて、わたくしとディオンが結婚した当時からあの姿なのよ。羨ましいわ」
「ふふふ、君は結婚したあの日以来、夜毎日毎に綺麗になっていくよ、フィー」
拗ねたようにメイドを羨ましがる奥方の頬に、パヴォド伯爵は唇を寄せた。相変わらずこの夫婦は、朝っぱらからアツアツだ。
「そうそう、それでグラの話だったね。
しきたりに沿って、彼にも幼少期から異性の『お話し相手』が居たんだ」
「それが、お隣のお屋敷に居を構えるワイティオール侯爵家のご令嬢、レディ・コンスタンサ……」
「グラとレディ・コンスタンサの場合、身分も釣り合っているからね。単なるしきたりに従った幼馴染みとは言い難い、当人同士が望めば即結婚に繋がる、一種の擬似的婚約関係にあったと言っても過言ではない」
……という事は。結婚相手にだなんて、お互いに欠片も望んでいなかったんだろうなあ、きっと。
「歴史ある我が家の家訓は、その性質上パヴォド伯爵家内だけに収まる話でもなく、国内に知れ渡っていてね。グラの『お話し相手』がレディ・コンスタンサである事は、社交界でも周知の事実だった。
だが、通例ならば10代で『卒業』する筈の『お話し相手』から、グラは長年『卒業認定』を受けられなくてね」
「グラちゃんは優しい子だけれど、口下手で恥ずかしがり屋ですものね」
「そ、卒業認定……」
日本語に当て填めるならばこれが一番相応しいと、脳内翻訳機能が働いたに違いない。
しかしよりにもよって、他に適当な語彙が無かったのだろうか。無かったんだろうな。『免許皆伝』とかだと、グラが女好きの口説き魔になるべく躾られていくイメージが付きそうだし。
「その、『卒業認定』は、誰がどうやって決めるんでしょう?」
「お話し相手の皆の報告を踏まえ、無論私が下すのだよ、ユーリ?
グラは本当に不器用な子で、なかなか私の納得のいく自発性を発揮してくれなくてね。けれど、このままでは自分が『お話し相手』のままでいたせいで、レディ・コンスタンサの婚期を逃してしまうと、大いに焦っていた」
「その『お話し相手』は、既婚者では不都合で、未婚女性でないといけないのですか?」
「レディに、夫や結婚が決まった婚約者を放り出して、うちの息子と親しく話してくれとは言えないだろう?」
どうやら、他の異性に目を向けずにいて欲しい、という前提がある習慣らしい。だから支障が出ないよう、グラやエストの『お話し相手』は、些か年齢が離れた相手だったのか。
擬似的恋人だの婚約者だのと言われる訳だ。
「父伯爵である私が認めぬ以上、グラとしては早く自分の結婚相手を……『口説くと決めた相手』を探して『お話し相手』から彼女を解放しないと、ワイティオール侯爵はレディ・コンスタンサをグラに貰ってもらうつもりで構えていたからね」
「そこに可愛いユーリちゃんと出会って、グラちゃんは結婚したいと思ったのね。
わたくしも、張り切ってグラちゃんの恋にまつわるお話をお友達に話しましたの」
レディ・フィデリアのうっとりとした眼差しはさておき。何を堂々と、噂を流していらっしゃるのですか奥方様。
『お話し相手』以外の女性に求婚すると決めた以上、真っ先にグラの『お話し相手』のレディ・コンスタンサに話を通し、関係を解消して義理を果たすのが望ましい、と。
「社交界に今流れている噂は、まあこんなところだろう。
『レディ・コンスタンサと長年の友情を育んでいたパヴォド伯爵令息グラシアノは、とあるレディと運命的な出会いを果たし、コンスタンサ嬢との結婚話は流れた。寡黙な伯爵令息が恋に落ちた相手、謎のヴェールに包まれたレディの正体は? そして彼女の出す求婚への回答に注目されたし』」
「……『謎のヴェールに包まれた?』」
愉しげにゴシップ予想を語る閣下のお話に、ユーリは腑に落ちない点に引っ掛かった。
「先ほども言っただろう? 私もフィーも、グラが求婚しようと決めた人物の個人情報について、何も話してはいないよ。無闇に衆目から好奇の目を向けられる事もあるまい。
興味の的の渦中に居るのは、グラ1人で充分だろう」
何気に、息子さんに厳しくないでしょうか、閣下。
それに、そもそも私はどうして、グラシアノ様のご事情を延々と聞かされなくてはならないのでしょう?
疑問が顔に出てしまっていたのか、閣下は笑いながら軽く片手を振った。
「いやなに、私の息子の求婚をバッサリと幾度も振ったユーリが、その事を気に病んでいないかと思ってね」
……これは、閣下流の遠回しな嫌味なのでしょうか。あ、何だか背筋に悪寒が。
ユーリを着せ替え人形にしたいと望む、レディ・フィデリアの可愛らしいおねだりを何とか退け、ユーリは当主夫妻の朝食の後片付けを終えると、エストのお部屋へと足を運んだ。急なピンチヒッターで呼び出されてしまったが、もしかしたら初めから伯爵の指示だったのかもしれない。
行儀見習いのメイドとして、お辞儀の仕方に始まり失礼の無い言葉遣い、お客様の応対や引き継ぎ、ご案内などの基礎研修をラウラから受けていたユーリは、女主人であるエストが鳴らす呼び鈴の音を聞きつけた。
「おや、お呼びだね。
さあティカ、早速練習の成果を見せておいで」
「はい」
同じく、呼び鈴の音を聞きつけたラウラは、どっしりと構えて教え子を千尋の谷に突き落としてくる。
ユーリは緊張しつつエストのプライベートルームのドアの前に立ち、コンコン、と、ノックをしてからドアを開いた。室内に向けてお辞儀を一つ。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「ああ、ティカちゃん。
あなたにまた、お使いを頼みたいの」
書き物机の前に腰掛けておられるエストお嬢様は、両手に連盟からの借り物の本を抱え、ほう、と溜め息を吐いた。
昨夜の緊急事態発生の報や、カルロスが深夜から出陣していった事実は……この様子から察するに、エストの耳には入れないよう情報規制が敷かれているようだ。もしも耳にしていれば、いくらなんでもここまでカルロスへの心配をちらりとも態度に出していないだなんて、流石に有り得ないだろう。
「お使い、ですか。連盟へ返却して、その本の続きをお借りしてくればよろしいのでしょうか?」
「ええ、『プリンセス・ヒルデの恋と罪、幻想に涙し夢に臥す』の三巻をお願いね」
「エストお嬢様。プリンセス・ヒルデ……面白いですか?」
「とっても」
ユーリが恐る恐る、恋愛小説に興味がある素振りを匂わせてみると、お嬢様は満面の笑みで太鼓判を捺して下さった。
お預かりした書籍の二巻を返却して、三巻を借りてくる前に、図書室で一巻の冒頭部分を読んでみても許されるだろうか?
メイドさんの控え室から、お使い用のバスケットを借りると、エストお嬢様からお使いを頼まれた旨をラウラに告げ、ユーリは意気揚々と伯爵邸を後にした。
腕を翳して日差しを遮り、午前中の明るいお日様が天頂へ向けてゆったりと昇ってゆく様を、まったりと見上げる。
……早朝には、主もあんなに頻繁に話し掛けてきて下さいましたけど。伯爵家の皆さんが起き出してきた頃合いには、パッタリとテレパシーが飛んでこなくなりましたね。
主人と同僚は今頃、国境線沿いの砦に立て籠もっているだろう。もしかしたら既に、魔物の大群と交戦中かもしれない。
けれど、国境からは遥か遠く離れた王都の真ん中では、そんな緊迫した空気は全く感じ取れない。住民の多くは、国境で今、何が起こっているのかなど、知る由も無いのだから当然だ。
戦の実情など、何も知らないであろうエストやレディ・フィデリアには、知らせないまま普段通りに過ごしてもらいたい。そう思う一方で、本当に知らせないままでいても良いのだろうか、という焦燥にも似た感情も湧き上がってくる。
てくてくと、目立つ象牙色の塔へと足を進め、ユーリはふうと溜め息を吐いた。
シャルさん、主、早く無事に帰ってきて欲しいです。
ただヤキモキと落ち着かずに過ごすしか出来ない我が身が、ユーリにはとても歯痒かった。