5 ※流血・残酷描写あり
「な、なんですか、今の……」
爬虫類がこっちに顔を向けた途端、視界を埋め尽くした強い閃光にも似た輝きと、毛皮がチリチリと焦がされたのではと錯覚を覚える程の熱さ。
わたしが体験した紛れもない事実を総合すると、『結界の向こう側にいるデカい爬虫類が、口から火を噴いた』という結論に達するのだが……口から火。火? 爬虫類のクセに何と非常識な生き物だ。
「ファイアブレス。発動まで溜めの時間が掛かるのが唯一の隙っぽい」
ミチェルはわたしの疑問に律儀に答え、再び攻撃魔法を詠唱し始めた。霊峰が折れてしまうので大技が使えない以上、小技を連発するつもりらしい。
わたしは背中の翼をバサバサと羽ばたかせて砦上空を飛び回り、改めて戦況を見渡した。
デブい爬虫類のファイアブレスとかいう火吹き攻撃、どちらかというと結界の向こう側に甚大な被害をもたらした事は疑いようが無い。
戦場のあちこちに折り重なっていた魔物の死骸は、結界で跳ね返った炎に焼かれて全て消し炭になっているし、爬虫類と結界の間の大地は高温に曝され、ガラス化している。当然、デカい爬虫類以外に生きて動いている魔物は見える範囲に存在しない。
この状況、あの空飛ぶお城並みにデブな爬虫類が魔物の軍勢を率いていたにしては、味方への被害を全く考慮していない点が不可解です。
最初から捨て駒だったというよりはむしろ、こいつらの目的は合致していても、ハナから協力関係にある『軍勢』では無いのか……?
……ガーベス砦とガベラの森の間、剥き出しの岩石がゴロゴロしているだけの場所で良かったです。砦付近にも森林が広がっていたら、今頃大火災が発生していたでしょうねえ。
わたしは砦を観察してみるが、どこからも黒煙が上がった様子は無い。ベアトリス様が張った防御結界は、ファイアブレスの熱波こそ全て防ぎきる事は適わなかったようだが、見事に火を跳ね返してのけたのだ。
屋根が邪魔臭い屋上の魔術師達様子は、回り込んで見に行くのも時間が惜しいので置いておくとして。
パッと見たところ、砦の中庭に存在する巨大な置物の周囲に、わらわらと人が集まって何かを準備している。その置物、喩えるならばブランコのような形をしている。一番上に梁のように渡してある置物の横木に、両脇から下げられたロープ。その中央部に、何かを乗せられるように座れる(?)部分が……え、あのブランコでその辺にいる人を飛ばすのか? 人間は変わった装置を考える物だ。
わたしは改めて真正面を見据えた。事態は刻一刻と悪化している。
先ほどから幾度も修復されている防御結界、その綻びが直されていくペースがどんどん落ちている。
恐らく、昨夜からほぼぶっ通しで働いている魔術師達の身に、限界が近付いているのだろう。
どれほど研鑽を積もうが、巨大な魔法陣で補佐させようが、彼らはたった二十名ほどしかいない。大魔術を使い続けられる時間には限りがある。
弱々しく瞬く結界へ、爬虫類が一歩、足を踏み出す。そのたびに、辺りにはズシンと重たい地響きが広がっていく。
咆哮、ファイアブレス。それらを跳ね返し続けてきた壁に、ヤツが次は何をするつもりなのか。一歩、一歩、前進を進める姿にわたしは戦慄した。
……搦め手が効かぬならば、真正面から力ずく、か……!?
“シャル、アイツの攻撃を止めろ!”
魔法陣の上で緊張状態を強いられていると思しきマスターから、何ともアバウトな指示が飛んできた。
止める? あのデカブツを? わたしが?
だが、このまま手をこまねいていても、あの爬虫類が腕を振り回して結界を殴りつけ続ければ、儚いガラスの如くひび割れ砕け散るのは必定。
イエス、マスター。
「あっ、こらシャル!?」
「あなたはあの爬虫類を、ひたすら攻撃していなさい」
デブい爬虫類に向けて全速力で飛び出すわたしの背に、ミチェルから驚いたように呼び止める声が掛かるが、わたしは構わず彼の傍らを駆け抜けた。
背中の翼を思い切り羽ばたいて、風魔力を従え速度を上げ、
「シャル、ちょっ、本気で接近戦挑む気か!?」
ミチェルの驚愕の叫びを声援のつもりで背中に受けて後押しに変え、勇んで向かった結界の壁に鼻面が当たり……わたしの身体は、防御結界を何の抵抗も感触も無くすり抜け国境線を越えた。
攻撃と侵入を阻む防御結界は、内側からの攻撃は透過するし、当然脱出する事だって容易に出来る。ただ一度出てしまうと、二度と戻れませんが。
光の壁からポンッと躍り出、爬虫類目掛けて飛び出すわたしを、ヤツも警戒したように目線で追ってくる。
“な、何やってるんだ、お前ーっ!?”
接近戦です。肉弾戦とも言いますが。
お忘れですか、マスター。わたしは遠距離攻撃用の武器の類を扱った事がありません。
“だからって、結界を飛び出せって意味じゃねえんだよこのアホイヌーッ!?”
結界の向こうのマスターが怒声を浴びせてきますが、致し方がないのです。時間を稼ぐには、もうこうするしか無い。
絶えず浴びせかけている、槍を撃ち出す装置だけでは頑丈な鱗を貫くには威力が足りない。ミチェルの散発的な小技魔術だけでは、短時間で仕留められない。けれど、我々の生命線である防御結界はもう、目の前の小山にも匹敵する爬虫類の一撃を耐え続けられるほど、魔術師達に余力が残されていない。
地上を駆ける騎士達が死を覚悟の上で城塞から出陣して結界を出て、爬虫類の足下へ突撃を敢行して踏み潰されるか。空を飛べるわたしやマスター達が、爬虫類の頭上からちょっかいをかけて注意を引き付けるか。騎士達が結論を下せないのならば、わたしが単独ででも向かうしか無い。
わたしはヤツの頭上を飛び回り、鉤爪や長い尾の一撃を避け、蹴りを一発入れて再び距離を取り、わざと目に付く至近距離を飛び回る。
虫が嫌いなユーリさんが、以前こう言っていました。
「私のそばを飛び回られて視界に入るから、余計嫌なんです。その存在を意識から閉め出して、初めから無いものとして振る舞えるのが、一番心穏やかに過ごせます」
こうやってわざと周囲にたかってやれば、うんうん。予想通り、デブ爬虫類は鬱陶しそうにわたしを追い払おうと、頭上に注意が振り分けられて、前に進むペースが落ちている。
わたしが爬虫類の頭上を飛び回っていようが、砦の防衛部隊からは容赦なく弓矢や槍が飛んできます。おや、巨大な岩まで飛んできましたが、あんな物をぶっ飛ばす装置……ああ、庭の置物はこの為の物だったんですね。少しはわたしの安全も……考えて下さる訳ありませんね、ええ。
前進する爬虫類に、砦からの攻撃も熾烈化している。雨霰と降り注ぐ矢は、やはりデブい爬虫類とて鬱陶しいのだろう。鉤爪や尾で振り払っている。わたしも雨の中を飛ぶのには慣れていますが、流石に弓矢や槍の雨の中を飛ぶのは初めてです。まあ、この程度ならば全身に纏っている飛行用の風魔力で、左右に逸らせて命中しないのですが、城塞からの岩は流石に直撃を逸らして受け流せる自信がありません。おや、冷や汗が。
周囲を飛んでいく弓矢が立てる、ビュンビュンと鳴る風切り音のただ中を潜り抜け、わたしはひたすら爬虫類の頭上からヒット&アウェイを繰り返す。爬虫類の鱗は生半な金属よりも堅く、わたしの爪はあっという間に全て折れてしまった。
しかし、攻撃を止める訳にはいかない。ここで、諦める訳には。
いい加減、もう止まれ! 霊峰に帰ってくれ!
わたし以外の、城塞に詰めている面々全ての本音だと思われるそれを、わたしもまた内心で毒づきながら、弓矢と槍の降り注ぐ、真夏の青空晴れ渡る雨模様の空中でクルリと一回転し、全力で蹴りを食らわせてやる。
“……避けろ、シャルーッ!!”
ズガッ! と、妙に綺麗に一撃が決まった。それと前後するように、マスターの警告が飛んでくる。わたしは条件反射的に……いや。むしろ、自分で意図して動かしてはいなかった。勝手に翼が羽ばたきを止め、ピタリと風魔力がわたしの周囲で滞る。宙に浮かんでいられずに、身体が墜落していく。
そんなわたしの頭上ギリギリを、ブワン! と、物凄い勢いで爬虫類の尾が通過していった。慌てて飛行の魔力を取り戻して安定させ、わたしは爬虫類の後方から距離を取る。
今のは、マスターが?
だが、悠長に考えている暇は無かった。巨大過ぎる爬虫類は、人間達の必死の抵抗も虚しく、悠々と結界に辿り着き、その腕を無造作に振り下ろす。
パァンッ……と、薄くて硬質な物が弾けるような音が周囲に響き渡る。
一撃。たったの、一撃しか保たなかった。
魔術師達が必死に保ち続けていたそれは、ほんの一発の攻撃で破壊されてしまった。
……いや、逆に考えて、今までよく保った方なのか? あの大量の魔物の軍勢による攻勢と、バカデカい爬虫類の咆哮と火吹き。防御結界は、確かにそれらの脅威から守り通してきた。
しかし今や、爬虫類の直接攻撃は城塞に向けて揮われ……爬虫類の鉤爪からは距離があったにも関わらず、屋上の屋根が半分吹っ飛んだ。
「くそっ……」
わたしは全速力で追いすがり、懸命に爬虫類の頭上で牙を突き立てた。鱗に歯が立たず、折れる。
そんなわたしは次の瞬間、激しい衝撃を受けてまたもやぶっ飛ばされていた。
衝撃に呼吸が詰まっていたところに、堅い壁のような物にぶつかってめり込み、更に落下。比較的に落下距離は短かったようで、あっさりベシャリとわたしの身は床に投げ出された。
「なっ、今度はシャルか!?」
「治癒術士は!?」
「屋上にいるのは、ベアトリス長老とカルロスだけです!」
「今すぐアティリオを呼び戻せ!」
全身を襲う激痛から察するに、わたしは爬虫類に跳ね飛ばされて、あちこち骨が折れたりしたようです。……翼が痛い。これは、治療して貰わない事には飛び立てそうに無いですね。
周囲の聞き覚えのある声から察するに、どうやらわたしは屋上の魔法陣の上に逆戻りさせられたようです。
それにしても、わたしの怪我だけにしてはやけに周囲の血の臭いが濃い。オマケに騒がしい割にはマスターの声が掛からないなと、いつの間にか閉じていた瞼を開いて周囲の様子を見回すと……惨憺たる有り様だった。
爬虫類の鉤爪一撃風圧で半壊していた屋根は、多分わたしがトドメを刺したのだと思う。最早柱しか残っていない。
その衝撃は、屋上に立っていた魔術師達にも及んだのだろう。周辺には、半数ぐらいの魔術師達が倒れていて……見覚えのある金髪の男女も、血を流して倒れていた。
ああ、ベアトリス様、頑張ったんですね。いつもご自身の周囲に張り巡らせている結界が、解けてしまっていますよ。
「ます、たー……?」
そちらに歩み寄りたいのに、四肢に力が入らない。起き上がれない。
金髪の男が金髪の女を庇うようにして、床に倒れ伏している。男はピクリとも動かないが、頭から流れ落ちてゆく血溜まりだけが、ゆっくりと広がっていく。
「ますた……」
痛いよ、わたし、怪我してしまいました。いつものように、「しょうがねえな」って言いながら、治療して下さらないのですか?
「ベアトリス、ベアトリス、起きろ! 目を覚ませ!」
金髪の男女の傍らにしゃがみ込んだマルシアル長老が、懸命に呼び掛けて……女の目が、ゆっくりと開かれた。
「ベアトリス!!」
「ん……マルシアル、うるさ、頭に響く……え、あ、何、これ……?」
不愉快そうに、文句を口にしていたベアトリス様は、眼前をぬるりと汚す赤に呆然と呟いた。
「か、かる、カルロス……?
う、ウソでしょ?」
「落ち着けベアトリス、無闇に動いて傷口を広げるな!」
ベアトリス様は、自身の上に覆い被さって気を失っているマスターの肩に両手を当て、血を流す彼の顔を覗き込んだ。頭だけでなく背中が真っ赤に染まっている姿からも、どう見ても、マスターには緊急治療の必要がある。だが。
「ベアトリス。すぐに自分の治癒術に専念しろ」
意識がはっきりしてきたらしきベアトリス様に、マルシアル長老は断固とした口調で命じた。
わたしの倒れている位置からでは、ベアトリス様の怪我の具合は図れない。だが、重傷者という意味では、この屋上で見える限りマスターが最も深手を負っているように思える。治癒の術が遅れれば、命に関わる。
……だが、今この屋上に居る魔術師達が、満足に術を操れる程の魔力が残されているとは、到底思えない。
「……あたしに、この子を見捨てろと、言うの」
「自分の役目を忘れるな、ベアトリス。お前の命は、俺やカルロスよりも重い!」
早口でまくし立てるマルシアル長老に答えず、ベアトリス様は痛みを堪えるような吐息を漏らしながら、マスターの血に染まった前髪をそっとかきあげた。
「あたしには、真実を知るのが怖くて、確かめるのを躊躇っていた事がある……」
「ベアトリス!」
「それは、この子が本当に、あたしの孫なのか、どうか……」
呟くような吐息と共に、ベアトリス様はゆるゆると瞼を伏せた。
「カルロスを孫だと認めてしまったら、あたしの息子は、もう、この世に居ない事をも、同時に認めてしまう事に、なる。
……あたしには、それが耐えられなかった」
「ベアトリス、お前……」
ベアトリス様は両目を開き、震える腕をマスターの首に回した。
「そうやって、時間を無為に過ごして、あたしとこの子は、この子の父親の話を、一つもしてはこなかった。
もう、イヤ。怯えるのも、失うのも、イヤ」
ベアトリス様の腕がマスターの頭の位置をそっと移動させ、額と額がピタリと押し当てられた。
「おい、まさか……」
「我、ベルベティー家当主たるベアトリスの名に於いて、ここに当主の証キーラを後継者カルロスに譲る。
汝、ベルベティー氏族の長にして、栄えあるディベルキュルス一族を継ぐ者なり。
汝が命は世界なり。汝が心は光となりて、闇を照らさん。
新たなるベルベティー、カルロス・ベルベティー・キーラ・ディベルキュルスよ、汝の前途に大いなる祖霊の祝福があらんことを」
合わせられたら額の辺りから、パア……と優しい癒やしの光が溢れ出て、辺りを照らした。
ベアトリス様の身に残されていたなけなしの魔力は全てマスターに譲渡され、ベアトリス様は最後の力を使い果たしたように、両腕と頭をことりと床に投げ出した。同時に、マスターが「う……」と、呻き声を上げる。
「ベアトリスー!!」
「な、何だ……何がどうなって……婆さん?」
呆然としている、重傷患者なはずのマスターを脇に押しのけて、マルシアル長老がベアトリス様の手を取る。
「師匠!?」
丁度その時、ダカダカ! と、荒い足音が響いて、階段を駆け上がってきたらしきアルバレス様が、下階から姿を現した。
「……金髪碧眼エルフ、みーつけた」
屋根が吹き飛んだ上空からは、そんな声が降ってきた。
「ちょっ、待て、こっちも何が何やら……
落ち着けユーリ、何だって?」
例の癒やしの光で怪我さえ癒えたのか、呆然としていたマスターは不意に片耳を押さえて独り言を漏らし始めた。
「貴族街から黒い煙が立ち上って、王都の結界が、……砕け散った?」
と、その時だ。グァァァァァァ!!! と、城塞に押し迫ってきていた巨大な爬虫類が、耳をつんざくような叫び声を上げた。
防御結界越しでもかなりの衝撃をもたらしたそれが、何の備えも無い無防備な状況で炸裂したのだ。これにはたまらず、わたしの周囲の面々も耳を押さえてのた打ち回る。
苦しむ我々を尻目に、爬虫類はブワッと皮膜の翼を大きく広げ……飛び上がった。