15
母が自らの死後に備えて、葬儀の段取りを生前既に葬儀会社と打ち合わせ済みであったというのは、葬儀会社から担当者が派遣されて、悠里は初めて知った事実だった。
病院の手術室前でひたすら祈っていた悠里に、中から出てきた医師から告げられた母の臨終に、呆然としている暇はあまりにも少なかった。
本当に偶然の事故なのか、事件性のあるものなのか。母の死因から警察による調査も入り、手続きをこなさなくてはならない事項はあまりにも多く、また、母の遺族は娘である未成年の悠里のみ。
不運な事故であったのだろう、と結論付けられたその日。
命の戦場たる病院や警察で、悠長に涙を零す事さえ許されぬまま、母・千佳の手荷物から出てきた葬儀会社へ慌ただしく連絡を入れると、霊安室からようやく運び出された遺体と共に、悠里は葬儀会場の控え室で担当者と向かい合い、呆然と腰掛けながらその事実を聞かされたのだった。
式場に設える祭壇のサイズから、お香典返しの品、霊柩車の種類に遺影に使用する写真。火葬が終わった後に、骨壷を納める墓は永代供養墓である事。更には湯灌の後に棺に収める木製の数珠に、式の後に割るご飯を盛っておくお茶碗に至るまで、担当者と煮詰めるべき点は生前決定され。きちんと母の字で葬儀に必要となる品はどれを用いるのか、記入されている。
というか、母は十年前の若かりし頃のお着物姿の写真を遺影に指定したのか。
「あのう、こういった葬儀の段取りを、生前全て取り決めておくのは、ごく当たり前なんでしょうか?」
「全く無い、とは申せません。
ご本人様が、ある程度ご希望をご親族様にお伝えして、予めご準備なされるというケースも無論ございます。その場合も多くは、『こちらの葬儀会社で葬儀を依頼するように』といったお言葉ですが……
ですが私どもの方でも、森崎様のようなケースは初めてでございました」
悠里の母、千佳はまだ40代の若さであり、何の持病も患っていない。それでいて自然死を見越して自らの死後の葬式の契約を締結しておくなど、不自然に過ぎる行動だ。
警察や保険会社は、事故に見せ掛けた自殺による保険金詐欺を疑っていたが、他ならぬ警察の調査によって、千佳にはなんの過失も見当たらない事故死だと断定されたのだ。
悠里と千佳が住むマンションと路地を挟んだ反対側の潰れた店舗、その古くなった看板のボルトが経年劣化によって外れ、路上を偶然歩いていた悠里と千佳目掛けて落下。千佳の頭部に直撃し、すぐさま救急車で搬送されるも死亡。目に見える事実は、たったそれだけだ。
だが、と、悠里はぼんやりと考える。
死後の準備を整えていた事からも、母は勘付いていたのではないだろうか。自らにひたひたと迫り来る、悪意を持った何者かが放った死神の足音に。
悠里が全く気が付かぬ間に、自分達の周囲には真犯人に辿り着けぬ『未必の故意の種』が幾つも幾つもバラまかれていたのだとすれば。
「喪主様。今からなら間に合いますが、明日の朝刊のお悔やみ欄にお名前をお載せするよう、依頼されますか?」
「新聞、ですか?」
「はい」
葬儀会社の担当は、まだ若いお姉さんといった風体だが、話の進め方はキビキビと無駄が無く、また、こういった冠婚葬祭事情に慣れぬ悠里にも丁寧に説明してくれる。
「特にご年配の方などは毎日目を通され、そこから知人の訃報を知るケースも多いようですよ」
「なるほど……」
となると、悪意を持った何者かが本当に存在していた場合、わざわざこちらから大々的に作戦成功を喧伝してやる事になる。もちろん、根拠は薄く、悠里の被害妄想に近いものであったが。
「いえ、母の知人で遠方に住まうご年配の方はおりませんし、隣近所の方々が葬儀会場の連絡網を回して下さいますので。新聞はけっこうです」
「承知しました。
参列されるご親族の方は、喪主様お一人……で、ございますか?」
「母の親類は、今はもうありませんので」
訃報を知らせるべき親戚を探す事も出来るらしいのだが、母が生前、娘である悠里に知らせなかったのならば、きっとそれなりの理由があるのだろう。母は天涯孤独の身の上だと、悠里はそう割り切る。
通夜の前夜、静まり返ったお葬式の会場。その中で、独りきりで泊まり込む親族控え室にて。母の眠る棺桶の前で、悠里はようやく静かに涙を零したのである。
葬儀は慎ましく進み、火葬後の、まだしゅうしゅうと熱を放つ母の骨を拾いながら、悠里は未だに、自分は悪夢の檻に閉じ込められているのではないかと、目の前の現実を受け入れる事が出来ないでいた。
……お母さん。
……お母さん。どこ?
「ユーリさん、ユーリさん」
「おかぁ、さん……?」
ぐっすり寝入っているところを、ゆさゆさと、乱暴に揺さぶられる感覚に意識は覚醒へと急速に追いやられ、悠里……ユーリは瞼を擦りながら目を開いた。
また、あの時の夢を見ていたらしい。
「これを口にするのはもう何度目ですかね。
わたしはあなたの母君ではありませんよ」
朝日も顔を昇らせていない薄暗い真夜中、手にした燭台の灯りを銀色の髪の毛で弾いて輝かせ、シャルは眠っているユーリの顔を覗き込んでいる。彼女が眠っているうちから、いつの間にか窓の鍵を開けていたのはともかくとして、眠れる乙女の寝室へ勝手に踏み込むとはどういった了見であろうか。
「しゃ、シャルさん……?」
寝ぼけ眼かつ掠れた声で同僚の名を呼べば、シャルはやや強引にユーリの上半身を抱き起こした。
「悠長にしている時間がありませんので、失礼」
「ああ、はい。何事でしょう?」
この、眠るの大好き同僚が、深夜にパヴォド伯爵邸へと足を向けたのは、何か重要な要件があるのだろうと、ユーリもパジャマ姿で居住まいを正す。相変わらず、居場所はベッドの上だが。シャルもまた、ベッド脇にイスを置いてユーリの枕元に腰掛け、真面目な表情で視線を合わせてくる。
「マスターから、魔物の大群お山から大移動大会の話は聞きましたね?」
「……そんな、大運動会的な雰囲気ではないお話なら、はい。耳にしました」
カルロスからテレパシーで伝えられた緊急性の高い知らせは、意外な事にアルバレス邸の夏夜の花見夜会に訪れた客人方へは、一切知らされる事は無かった。無用な混乱を招かぬよう、情報は伏せられたのだろう。表向き、あくまでもしめやかに会は進行してつつがなく閉会し、招かれた客人方は満足げな様子で帰途に着いたのである。
「肝心のアルバレス邸の夜会では、魔物襲撃に関して何の情報や噂も飛び交っていなかったみたいですし、アルバレス侯爵は国境を越えない内に魔物達を排除なさるおつもりなんでしょうか?」
「ええ。昨夜のうちに上から連盟へご命令が下ったようですよ。総力を挙げてバーデュロイ王国領土への侵入を防ぎ、討伐せよ、とね」
シャルが言う、『上』というのは……国の政治を担う者、という意味だろうか。
「まさか、魔術師連盟の総力戦、ですか? でも所属している人は戦闘要員だけじゃないでしょうに」
「流石に連盟の魔術師全員が行く訳ではないですよ。半分くらいじゃないですかね?」
そしてシャルは、ベッド脇に置かれた荷物を指差した。シャルが森の家から王都に出掛ける際、必ず背負っている荷だ。
自分や主人の着替えからタオルに水筒、咄嗟の場合に備えて様々な種類の精油。ユーリが知っているだけでも、毎回そういった大荷物をシャルは文句の一つも口にせずに準備して、背負っている。
「今夜ここへ来たのは、出立前にあなたにあれを預けに来たのですよ」
「シャルさんのリュックですよね。……どうして、私に?
いや、それ以前に出立前の今夜?」
同僚の意外な要請に、ユーリは軽く頭が混乱してきた。急を要する事態なのだとしても、慌ただしい出立だ。
魔物が国境線を脅かしているから、連盟に所属する主人に退治命令が下る。これは良い。
どうやらその魔物退治に、無茶苦茶強いイキモノである天狼な同僚がお供する。これも分かる。
それなのに、肝心の同僚はユーリに大事な荷物を預けてから、出撃する主人に付き従うという。
「役にも立たない私を、連れて行かないのは分かります」
「そうですね。でなければこんな夜に、呑気な寝顔を晒して高鼾なんて、いくらユーリさんでも出来ないでしょうし。
脆弱で惰弱で怯懦なあなたを連れ出すと思い込んで、見当違いにも気負ってはいなかったようでわたしも安心しました」
「主は!」
深夜である事も忘れ、大きな声を張り上げかけたユーリは、慌てて声量を落とした。
「連盟の一員として自分達が出陣する事を、当然だと思っていらっしゃるのと同時に、必ず退治に出掛けた全員で無事に戻ってこられると考えている。違いますか……!?」
「違いますね」
ユーリの必死の訴えに、シャルは冷ややかな眼差しですっぱりと一言で言い切って捨て、ユーリの唇に人差し指を押し当ててそれ以上の発言を押さえ込んだ。
「よろしいですか、ユーリさん?
わたしが狩ってきた魔物の死体如きに一々怯え、たかだか解体程度で悲鳴を上げて逃げ出し、それでいて調理され食卓に上れば喜んで食すような、そんなおめでたいあなたにも分かり易く教えて差し上げます」
ただ、接触していれば主人の魔力を増幅するブースターでしか無いユーリは、戦場の最前線で過酷な戦況を駆け抜ける主人の役に立つどころか、生死を分ける場面でマイナスに働く。そもそもその気骨からして戦力外である。ユーリ本人も弁えていたはずの点を当て擦るようにはっきり断言し、言葉を重ねる。
「戦場に、絶対的に安全な場所など存在しません。
ましてや、今回のように完全な不意打ちを食らって、慌てふためいて防戦に出るような戦いではね」
シャルは指先で押し留めていたユーリの声を解放すると、手許に引き寄せた荷を解き、ユーリの枕元に精油を詰めた小瓶を並べていく。
「王都やアルバレス侯爵が保有している動ける部隊を動員させるにしても、対応力と機動力を重視するとなれば、自ずと騎馬に限られる。後続部隊が到着した頃には、先見隊は全滅している事だって十分有り得ます」
「なに、言って……」
「過去、約百年間において、霊峰の上部に住まう魔物と戦って、生き延びた人間はいないそうですよ。
かつては、頂を目指した無謀な人間も居たらしいですね」
小瓶同士がぶつかって、カチャンと小さな音を立てた。
「今回の戦いでの要点は簡単です。バーデュロイの領土への侵入と無辜の民への蹂躙を防ぐ事。
防戦していれば、いずれは向こうが息切れして撤退していくのですからね。タイムアタックだと把握している分だけ、まだしも気持ちが軽いというものです」
「シャルさん、どうして、私に荷物を預けていくんですか?」
ユーリの問い掛けに、シャルは小瓶を並べる手を止めた。
「魔術師連盟の塔だって、別に空っぽにはなりませんからね。
ちょっとした出張中にまで、私物をあそこには置いて行きたくなかっただけの話です。ユーリさんもご存知でしょう? あの塔の住人はわたしを疎んじていますから」
シャルは小瓶を全て並べ立てると、一つ一つの精油の名前から効果を説明し始めた。簡単な調香を命ぜられる事もあるのか、チラリと覗く荷物の中には、シャル御用達の防毒マスクまで入っている。
「このナジラネの実から絞った精油には、気分を安らげて安眠に導く効果があるそうです。まあわたしには、単に臭くて不快なだけですけど。
エステファニアお嬢様も香炉はお持ちですから、ユーリさんもこの機にしっかりと精油の効果を学んで……」
「シャルさん」
滔々と、調香師補佐の先輩として指導してくれるシャルの解説を遮って、同僚の目を間近で覗き込んだ。
「まさか、死ぬつもりですか?」
本契約であろうが仮契約であろうが、クォンが死ねばその主人は魂を吸収して力を増す。
具体的にカルロスがどうなるかは、実例のウィルフレドとの交流が少ない身では想像するしか無いが、ユーリの主ならば持て余す事もなく使いこなしてしまえるのではないか。
「……まさか」
真剣に問い掛けるユーリを、キョトンとした表情で見返したシャルは、予想外の事を聞かれたとばかりに一笑に付した。
「何故わたしが、むざむざと死んでやらねばならないのです?
趨勢は防衛戦の指揮官の腕次第でしょうが、身の守りを第一に堅実な策を立てるでしょうし、状況が不利ならばわたしはサッサと遁走しますよ」
「シャルさんが私を脅したんじゃないですか。全滅も有り得るとか、真面目くさって!」
シャルはイスから立ち上がると、寝乱れたユーリの髪を指先で梳いて耳元にかき上げ、顔を近付けた。
「心配せずとも、わたしはちゃんとユーリさんの傍へ帰ってきますよ。あなただけを、この世界に取り残したりはしません」
シャルさん、と、ユーリが名を呼ぶ声は、夜の闇に溶ける前に留まってしまった。
無造作に、顔を舐め上げていく舌がくすぐったい。そして、何だか口元やら耳元をやたらとしつこく舐めしゃぶられたが、気のせいだろうか。
「さて、あまり道草をしていてはマスターからお叱りを受けてしまいますので、そろそろ行って来ますね」
人の姿でありながら、イヌバージョンの時と同じ感覚で舐めてくるのは勘弁して貰いたいものだが、同僚は飄々とした態度で窓に手を掛ける。
「……行ってらっしゃい、シャルさん」
「はい、行って来ます。なるべく早く帰ってきますね」
どうやら、アルバレス侯爵の元へやってきた急使の報告を受けて、魔物討伐の為編成された部隊に、しっかり組み込まれているらしきシャル。本気で大急ぎで向かわねばならないようだというのは、
“てめぇこのアホシャル! 出陣前のこのクソ忙しい最中にユーリと乳繰り合いに行くとか、吊されてぇのかボケ!
全速力で飛んで来い!”
帰還が間に合わず、ユーリにもご主人様の怒声による叱責が飛んできたので、よく分かった。
……主、主、ちゃんと無事に帰ってきてくれますよね?
“ああん? 急に何だユーリ。……ふん、シャルのアホイヌが”
慌てて飛び立つシャルの背中を見送り、テレパシーで恐る恐る問うユーリにご主人様は面食らったようだが、すぐさまシャルからの情報だと読み取られた。
“良いか。俺が戦場なんぞで死ぬ時は、バーデュロイが滅びる日だろうよ。生憎と、この国もなかなかどうしてふてぶてしいからな。そう簡単にゃ、優秀なこの俺を死なせねえとさ。
しっかりとこの国の未来の為に、有能な人材になる後継者を残してやらなきゃ、勿体無さすぎるだろうが”
主が亡くなるとすればそれは戦場ではなく、我々しもべはもちろんの事、子供に孫に曾孫に玄孫にまで十重二十重に囲まれてベッドの上で大往生なんですねよく分かりました。