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「何故私を愛称で呼ばないのだ?」
「いえ、それは……」
ユーリはチラッとブラウの方に視線を投げる。
グラとは早急に、婚約求婚問題を話し合って誤解を解きたいのだが、ブラウの目の前で話し始める訳にもいかない。気を利かせて席を外すどころか、嬉々として嘴を突っ込み事態を無闇に引っ掻き回すのが目に見えている。
「分かった。それは後回しだ。
私が出した手紙は、ティティの手元に届かなかったのか?」
ブラウに関して、ユーリと同じ印象を抱いているのか、グラは質問を変えた。
声を荒げるでもなく、グラは静かに問うてくる。ユーリは目をぱちくりと瞬かせて、主家のお坊ちゃまのいつもの表情の薄いお顔を見上げた。
「しばらくお仕事がお忙しいから屋敷には戻らない、という内容のお手紙は頂きましたが……」
「それは一昨日の返信だ。昨日出した手紙は?」
「……昨日?」
なるべく視界から外して、極力意識からシャットアウトしようと頑張っているというのに、背後からブラウの好奇心に満ち溢れた視線がチクチクと突き刺さる。
どこかに行ってくれないだろうか、とユーリとしては鬱陶しく感じるのだが、貴人を追い払える権力も実力も持ち合わせてはいないので、ブラウがお呼びじゃないのに平然と割り込むのを防ぐ事も叶わない。
「グラシアノ殿、このようなところで油を売っていてもよろしいのですか?
麗しの妹君と、幼馴染みのご令嬢をエスコートしてきた筈が会場へ放っておかれるなど、良からぬ輩に付け込まれでもしたらどうなさるおつもりやら」
「最も警戒すべき『良からぬ輩』代表格の貴殿が仰ると、重みが違いますな」
ユーリを自らの背後に庇うようにして、ブラウから距離を取り壁となりつつ、グラは不機嫌そうに嫌味に嫌味を返していた。相変わらず、仲の悪い公子様方である。
グラとブラウが舌戦を繰り広げるこの場から脱出したいが、上手く逃げ出せられる気がしない。
……しまった。早々にぐらぐら様……じゃない、グラシアノ様を急かして、この場を2人でサッサと立ち去れば良かった。
うっかりブラウに隙を見せたせいで、スマートな話し合いへの移行失敗にユーリは眉をしかめつつ、グラが言っていた手紙について記憶を探った。
昨日は確かに、昨夜仕事終わりにグラからの手紙を受け取ってそのまま部屋に戻り……シャルが部屋を占領していた。
ご主人様が構って下さらないせいで遊び足りないイヌな同僚のストレス発散に付き合って、じゃれ付かれて甘えられて、お喋りして。しばらく付き合い、ホセの自室探索に向かったのだ。当然、手ぶらで。
「ああっ!?」
唐突なユーリの叫び声に、舌戦を繰り広げていたグラとブラウの注意が向けられた。
「申し訳ありません、グラシアノ様!
昨夜頂いたお手紙を読む前に、眠ってしまって……今日もお仕事にばかり気を取られ、その存在をすっかり忘れておりました」
とんでもない大失態である。ユーリは慌てて土下座せんばかりにグラに平身低頭謝罪体勢に入った。
何しろ、主家の若君様から頂戴したお手紙を、大事に取っておくどころか目を通しもせず、わんこと遊んでいたら気が付かぬ間に紛失してしまったのだ。それを、今の今まで思い出しすらしていなかった。
「わす……」
半泣きで謝るユーリを見下ろして、グラは言葉に詰まった。目を白黒させている。
このお方は腐っても高貴な生まれ育ちのお坊ちゃまなので、自分の家の使用人がそんな噴飯物の失敗をやらかすのは、初体験なのかもしれない。
「……ティカちゃん、ちょっ……」
ユーリとグラはこれでも真面目に話し合うべき事項があり、乙女を茂みに連れ込むような変態は除け者扱いな空気を読むべきであるというのに、口を挟んでくるブラウ。何やらその肩が小刻みに揺れている。
「グラシアノ殿。私は恐らく、生まれて初めてあなたに同情心が芽生えましたよ」
「要らぬ世話だ、ブラウリオ殿」
渋面のグラの肩を遠慮なくバシバシと叩き、堪えきれずに笑い出すブラウ。
そんな失礼な行動を取られても深刻な喧嘩に発展しないのは、グラが大物だからだろうか。それともこの、人を食った態度を取るのがブラウの性格だと諦めているのだろうか。
「今更そんな過ぎた事をあげつらったところで、そんな議論は無意味だ、ティティ。
手紙には話したい事があると書いてあったが、何か困った事でもあったか?」
「あ、はい。その……」
チラッともう一度ブラウに目線をやるが、奇行子サマは素知らぬ顔で見返してくるのみ。『ボクが自分チの庭に居て、何か問題でも?』と、その顔は語っている。内緒話なんて、特に彼の興味をそそる分野だろう。
グラの方から場所を移すか、ブラウに離れてくれるよう頼んで欲しいものだが、自分で出来ない事を勝手に期待するのは傲慢だろうか……
「あいにく、私は夜会の後は再び城に戻らねばならぬゆえ、今を逃せば時間が取れるのはかなり先になりそうだ」
低い声音でそう告げたグラは、嘆息と共に締め括った。
「で、では思い切って申し上げますが、グラシアノ様」
「ああ」
「その、私はこのバーデュロイでは、愛称というものに重きを置いているという習慣を知らなくて、ですね」
ブラウのニヤニヤ顔から故意に視線を外し、ユーリも勇気を振り絞って話を切り出したというのに、グラは「ふーーー」と、重苦しい溜め息を吐き出し片手を上げて遮った。
「いや、その事ならば私も後から冷静になってふと振り返り、よくよく事実を思い巡らしてそうではないかと察していた」
「も、申し訳ありません」
「謝るな」
グラに向けて深々と下げたユーリの頭を、彼は大きな手のひらで撫でた。
「お前が謝る必要は無いんだ、頭を上げなさいティティ。
使用人の不明は主人の不明。視野を広く持っていなかった私の落ち度だ」
促されて顔を見返した主家の若君様は、苦味を抱きながらも笑みを浮かべ、ユーリの頭を労るように撫でてくる。
……私、グラシアノ様の事、ちょっと軽く見過ぎていたんでしょうか。
確かに、お父様伯爵とは全く違う方向性だから、頼りなく見えていましたけど。存外、グラシアノ様はグラシアノ様で、これはかなり大器というか……安心してついていきたくなる、そんな包容力をお持ちである気がします。
パヴォド伯爵やエストが持つ、ただそこに居るだけで高揚していくように湧き上がってゆく、自然と彼らに心が惹き付けられ人心を集める華やかなカリスマ性とは異なる、心が温かく安らぐようなじんわりとした信頼感……これが、人の上に立つ者が持つグラらしい支配者としての魅力なのか。
ユーリとしては、迂闊に気が抜けない現パヴォド伯爵閣下よりも、グラの方がまだしも主家の貴人として仰ぎやすい。
「……愛称の意味を知ったお前が、その上で私を『グラシアノ様』と呼ぶという事は、そういう事なのだろう」
しばしどこか遠い眼差しを向け、再びユーリを見下ろしてきたグラは、
「お前が気に病む必要は無い。私は、動かねばならぬと思い悩んでいたところへ転がり込んできた事態を、渡りに船とばかりに利用しただけだ……ティカ」
どこか晴れ晴れとした表情で、そう言って笑った。
本心なのか、どうしても受け入れ難いユーリの心境を慮ってわざとそういう言い方を選んだのかは分からない。
分からないけれど、一度は交わされた愛称を口にしなくなるという事は、求婚を取り下げるという認識で良いのだろうか。
と、グラが不意にユーリの耳元に顔を近付けて、とても小さな声で囁く。
「シャーリーは手強く私は苦い挫折を味わされたが、お前は実ると良いな、ティカ」
名前を告げられたと同時に、チュッと、耳朶に響くリップ音と柔らかく温かい感触が頬に……
は!? へ!?
「今宵は、グラシアノ殿の意外な一面が盛りだくさんですね」
堂々と野次馬していたブラウも、今日のグラの言動は流石に予想外だったのか、呆然と零す。
咄嗟に頬を片手で押さえて仰け反るユーリを、してやったりと言わんばかりに僅かに口角を上げて愉快そうに視線を落とし、グラはブラウに「ではな」と、短く別れの挨拶を告げてユーリの腕を取って回廊の方へと歩き出した。
ブラウの方も、驚き過ぎてこれ以上付きまとうという選択肢を思い浮かべれない様子だった。
セリアが待機しているはずの控え室前まで、迷わずユーリを連れてきたグラは、混乱中の彼女にいつもの無表情に戻って、
「帰り道では、くれぐれもエストをよろしく頼む」
「は……ぃ、お任せ、下さい……」
ユーリは未だに事態を把握していないというのに、グラは全く頓着せずに妹のメイドに対して言うべき事を告げると、ドアに軽くノックをしてから開く。そしてユーリの強張った表情に眉を軽く持ち上げ、顎の辺りへ指先がスルリと伸ばされて擽るように軽く撫でると、
「これを言うのは少し早いが、お休み、ティカ」
今日はもう就寝の挨拶を交わすタイミングが無いからかそう言って、立ち竦むユーリを廊下から室内へと導くように背中を押して促し、グラ自身は踵を返して立ち去って行った。今夜も、彼のブーツが立てる足音は規則正しい。
「ちょっ、ティカちゃんどうしたの? 顔が真っ赤よ?」
立っていられずにへたり込んだまま、お坊ちゃまの後ろ姿を見送っていたユーリに、背後から「お帰り」と声を掛けてきたセリアは、ユーリの顔を覗き込むなり慌てたようにソファーに引きずって座らせた。
顔を見せた若君をセリアは出迎えようとしたにも関わらず、ユーリを送ってきただけで部屋で休みもせずに立ち去ってしまったグラ。そんなやり取りから、どんな状況に陥ったのか推察したのか、両手で顔を覆って無言のまま悶えるユーリに、セリアは胡乱げな眼差しを向けてくる。
「ティカちゃん……さてはあなた、わたしの忠告も無視して、その格好のまま余所様のお屋敷の中をフラフラしていたわね?」
「……ごめんなさいぃぃ……」
小声で謝罪するユーリに、セリアはお小言の代わりに深々と溜め息を一つ。
私の心得違いで申し訳ありませんでした、主。この世界で私が生き抜くには、子ネコ姿でなく本来の人間の姿ですと、未だ未熟な身の上では潜り抜けられない危険がいっぱいです!
何故か鳴り止まない心臓を落ち着かせるべく、ユーリはお茶を頂いて深々とソファーに身を預けたのだった。
“ようユーリ、今夜はお前もアルバレス邸に来てるんだって?”
ソファーの上に、半泣きで縮こまっているユーリの脳裏に、ご主人様からテレパシーが繋がって、彼の浮かれた心境を伝えてくる。
“今夜は婆さんの代わりに来いとアティリオの野郎から言われて、面倒がるシャーリーを引きずって足を運んだんだが、来て正解だったぞ。
グラシアノ様が席を外すからと、俺にエストを託して慌ただしく出て行ってなあ”
ユーリの返事も待たず、カルロスはご機嫌な調子で言葉を続ける。
“エストから聞いたんだが、ユーリもエストの身支度を手伝ったんだって?
お前、なかなかやるじゃねえか”
ユーリは単純に、可愛いお嬢様を飾り立てる事に楽しみを見出していただけだったのだが、意図せずご主人様の歓心を大いに買ったようだった。
カルロスが偶々出席しておらず、他の男性が厚顔にもエストにお近づきになっていたら、エラいことになっていたかもしれない。
「ティカちゃん、黙り込んでどうかした?」
「すみません、ちょっと……」
身じろぎもせずに空中の一点をひたすら見つめているユーリの姿に、セリアが訝しげに声を掛けてくるが、彼女と会話を交わしながらご主人様のお言葉も理解するなどという高等技術を、ユーリは持ち合わせていない。
セリアに謝意を込めて頭を下げる。
ご主人様へは、早急にご報告や事実確認、質問をしたい件が幾つもあったような気がするのだが、今現在ユーリはグラの予想外の言動にものの見事に翻弄され、焦りと困惑と心臓活発化現象に見舞われており、カルロスのうきうきトークを受け止めるので精一杯だ。
“ああ? 何だアティリオ。お前はレディ・コンスタンサのお相手中じゃなかったのか。俺は今忙し……は? 侯爵閣下が俺をお呼びだと?”
そして結局、ユーリ側からは意識的に何かを伝える事も出来ぬまま、ご主人様はヨソに意識を取られて、テレパシーはぷつりと途切れるかに思われた。
だが、さして時間も経たぬ間に怒りと焦燥に彩られたカルロスの内心の声が聞こえてきて、ユーリもまた、思わずソファーから立ち上がっていた。
“現在ガベラの森付近に、レデュハベス山頂に生息しているはずの魔物の群れが大量に現れて、バーデュロイに向かって移動中、一両日中にはアルバレス領の国境線に到達しかねない……!?”
『強力な魔物は、瘴気の薄い下界には降りてこない』
そんな通説を覆す、有り得ぬはずの事態、バーデュロイの要人達が想定していなかった大事件。
満月の夜、死に物狂いで馬を飛ばして街道を駆け抜けてきた伝令によって、その報せがもたらされたのだった。