13
男性の礼装という物は、女性用の華やかなドレスと比較すると、飾り気という意味合いにおいて、飾り立ての方向性が狭まる。
生まれは由緒正しいお貴族様である伯爵家の貴人、普段から一種異様な言動をユーリに対しては隠さない奇行子サマことブラウリオ氏は、女装時よりは袖口のレースなどもほぼ無く、肌触りの良く仕立ても良さそうな礼服に、きっと今日も暗器を隠し持っているに違いない。
夜間のアルバレス侯爵邸お花見を切り上げ、セリアが待つ控え室に帰ろうと踵を返したユーリを、背中から強引に茂みに引きずり込んだブラウは、腕の力だけで彼女をガッチリと拘束して自由を奪い、口を塞いで抗議の声さえ封じ込めていた。
だが、そうしているブラウ本人にはユーリに対して危害を加えようという意志は無いのか、多少息苦しく身動きこそ取れないが、締め潰されそうな痛みなどはどこにも無い。
引きずり込まれた時点で身の危険を感じて抵抗し、ムチャクチャに暴れるべきなのかもしれないが、ブラウが何を企んでいるのか、という点が気になった。この女装好きは腕力で女性に乱暴をしないだろうという、ある種の信頼のようなものが芽生えていたせいかもしれない。たびたび、冗談としか思えない火遊びを誘ってくる以上、口説き落として合意の上で進むタイプな気がするのだ。
「ゆっくり息を吐いて、そうそう。呼吸をボクに合わせて」
ユーリを背後から捕獲中のブラウは、彼女の耳元に唇を近付けて小さな小さな声で囁く。
これはあれだろうか。気配消しの基礎だとか、そういった類いの呼吸スタイルなのか。
「茂みの向こう、ティカちゃん見える?」
大人しいユーリに安心したのか、無闇に叫んでぶち壊したりしないと確信したのか、ユーリの口を塞いでいた手が外され、指先が暗がりの一点を指し示す。夜会会場の方だ。
目を凝らして見ると、小さな光源が徐々に大きさを増して……いや、近付いてきている?
ランプや蝋燭ではない。風にも揺らめかず一定の光量を保ち続けるあれは、見慣れた魔術の光だ。
だが、操っている人物は金髪ではなく……赤い髪の男。彼の頭上に輝く光の玉が、歩みに合わせて空中を滑るように移動する。そして彼の傍らにはもう1人、品の良いドレス姿の老婦人。
彼らはゆっくりとした歩みでこちらに近付いてきており、会話が聞こえてきた。
「奥様、体調は如何でしょう?
私では治癒の魔術を修めておらず、慙愧の念に絶えません」
「ほほほ、そちらの言葉遣いも嫌ではありませんが、どうしても笑ってしまいますねえ」
「おや、奥様の笑みが頂けるとあれば、私にとってこれ以上の喜びはございません」
「ほほほ……」
段々近寄って来る彼らは、茂みの暗がり、ひいてはそちらに身を隠すユーリとブラウの姿になど全く意識に留める事もなく、ゆったりとした歩みで庭のベンチに差し掛かり、老婦人はおっとりと腰掛けた。男はその傍らに佇む。
ウェーブが掛かったように緩やかに波打ち、燃え盛る炎を思わせる特徴的な真紅の髪と、新緑の若葉を思わせる緑色の瞳を持つ男、アルバレス侯爵家で働いていると噂のミチェルだ。ユーリは彼の姿を目にし、思わず眉を顰める。ドクドクと、緊張から知らず知らずのうちに鼓動が早くなってゆくのを感じた。
そう言えば彼は、アルバレス侯爵夫人を気に入っているから、この家で働いているのだったか。そうなると、あの品の良い白髪の老婦人こそミチェルの仕える夫人なのだろう。
「楽しんでくれるのは良いけど、流石にずっとは疲れるー。
普通に喋って良い? 奥様」
「ええ、構いませんよ。
今年も夏月花が綺麗に咲いてくれて嬉しいわ。ねえ、ミチェル?」
背後に密着しているブラウの、静かな呼吸にユーリも懸命に合わせながら、ベンチでの平和なやり取りを眺める。
――ユーリ、人間の姿の君とミチェルは、いったいどういった関係なんだ?
先日、ゴンサレスから何気なく問われた言葉が、不意に脳裏に蘇る。
「オレ、あの花は好きだな。オレの故郷でも、夏になるとそっくりな花が咲いててさ~」
知らない。分からない。
どうして、ミチェルの声を聞いていると身体が震えてくるのか。ユーリとミチェルは何の面識も持たない、その筈だ。
と、ユーリの身体を背後から羽交い締めにしているブラウ……いや、むしろこの状態は地面に腰を下ろしているブラウの膝の上にユーリが座り、背後から抱き締められているような体勢だ。ブラウの顎がユーリの肩に乗せられ、ゆるゆると頭を撫でながら耳元に低く囁かれる。
「大丈夫。怖くない、怖くない……」
勝手な人だ。あの時ブラウがユーリを強引に引き留め、こんな茂みに引きずり込まなければ、ユーリはミチェルやアルバレス侯爵夫人の姿に気が付く事もなく、今頃はセリアと共にお茶でも頂きながらお喋りしていた筈なのに。
……いや。本当に、そうなっただろうか? ユーリが控え室に帰ろうと庭から窓に飛び付いて、長いスカートの裾に四苦八苦している間に、ミチェルの灯りに捕捉された可能性もある。
理由は分からないが、ミチェルの声を聞いていると不安が押し寄せてくる。そんなユーリを、こうしてこの場に居合わせるよう仕組んだのはこの男なのに、ブラウの囁き声や頭を撫でる手で、訳もなく安堵感が湧き上がってくるだなんて。
何たる理不尽、何たるマッチポンプだこの野郎。
ブラウさん強いのは事実だし、警戒レベルはこの変態女装趣味よりもミチェルの方が高いから、何となくそうなってしまうんですけど! 我ながら納得いきません!
「母さんもヒマワリが好きみたいでさ。あ、オレの故郷ではヒマワリって言って、種がたっぷり採れる上にそれがまた美味いんだ」
「まあ、お花の種を食べるの?」
「そー。こっちにだって玉子料理あるじゃん。似たようなもんじゃない?
ま、ヒマワリの種食うのは、母さんの場合は単なる貧乏性っぽかったけど」
「面白いお母様ね」
ユーリの身体から震えが収まってゆき、ブラウに遠慮なく全体重を乗せてのし掛かってやる間にも、ベンチではまるで仲の良いお祖母ちゃんと孫のような、ほのぼのとした会話が繰り広げられている。
何というか……ミチェルって、あんな奴でしたっけ?
「でしょでしょ?
あーあ、オレも奥様と母さんを引き合わせてみたかったなー。
ホント、そっくり!」
「こんな皺くちゃお婆ちゃんに似てるなんて言ったら、失礼じゃないかしらね」
「そんな事無いよー。奥様はプリティーだもの。
ま、確かに外見が似てる訳じゃないよ。母さんより奥様の方が美人だし。
なんて言うんだろ。こう、醸し出す空気って言うの? 雰囲気が一緒なんだ」
「それなら、ミチェルのお母様はとても我が儘だけれど茶目っ気がある、可愛い方だったのね」
「自分で言うんだもんなー。その通りなんだけど!」
ふふふ、と、笑っていた老婦人は、胸元を押さえてけほけほと咳き込んだ。
「ああ、奥様! もう部屋に戻る?」
ミチェルは夫人の背中をさすってやり、心配げに尋ねるのだが、彼女は首を左右に振った。
「もう少し見ていたいの。たくさんのランタンに照らされる夏月花も綺麗だけれど、ミチェルの光の中で見るこれもとても幻想的だわ」
「ありがと、奥様。
……お願いだから、奥様は長生きしてね?
オレの大事なヒトはさ、みーんな早死にしちゃうんだ」
「嫌ね、縁起でもない。
わたくしは曾孫が無事に結婚するまで、死にませんよ」
「うんうん……?
奥様、曾孫なんて居たっけ?
お孫さん達はアティリオ君が一番年上だったと思ったけど、まだ誰も結婚してないじゃん」
アルバレス侯爵夫人という事は、ブラウにとっても彼女は祖母のはずだ。「おばあさま」という小さな小さな呟きの他は、何も口にする事は無く。
ユーリはこの状況に不条理さを覚えながら、大人しく覗き見を続行した。今更のこのこと、茂みから脱出して奥様と付き人? のお喋りの傍ら堂々と庭を横切って出ていく事も出来ない。
「それはもちろん、いずれは産まれるであろう、アティやブラウ達が今後儲ける筈の彼らのまだ見ぬ子供達の将来の事ですよ」
「すっごい長生きしてやる宣言だったんだ。今ようやく理解した」
何とも気の早い話である。背後の推定・現在独身なブラウ本人は苦笑気味だ。
「その噂のアティリオ君、今夜は綺麗なお嬢さんに熱心に迫られてたけど、奥様としてはあの彼女は歓迎?」
「そうね……最終的には夫が決める事ですけど、彼女の勢いにアティが押され気味だったわね。妻の意向を尊重する夫婦になるなら、良い傾向ではないかしら」
「ははは」
「その頃にも、ミチェルはまだここに居てくれるかしらね?」
「どうだろう? オレの人探し進捗状況次第だしなー」
「ミチェルの探し人は、本当にこの王都に居るの?」
「それがよく分かんねーのが問題。1人は確実に最近この王都に滞在してた筈で、彼女を除いても残りは13人……幾らオレがタフでも、気が遠くなりそ」
ふー、と、溜め息混じりにベンチの背に行儀悪く尻を乗せるミチェルの腕を、慰めるようにぽんぽんと軽く叩く夫人。
「ありがと奥様。
やっぱあれかなぁ。彼女の存在意義を考えると、王城の地下牢とか塔に幽閉されてんのかなー」
「そんなに危険な方なの?」
「いや逆だよ。万が一にも死なせる訳にはいかないから、安全な場所として仕舞い込むならそーゆートコかな、って。
まあ彼女既婚者だし、世代交代してっかもだけど」
どうやらミチェルの探し人さんとやらは女性で、人妻らしい。
背後のブラウが、ユーリの耳元に「誰の事だか心当たりある?」と囁いてきたので、正直に首を左右に振って否定しておいた。
「ま、亡きあの人の意志や願いを引き継げるのはオレしか居ないし、どんな障害があってもやり遂げてみせるけどね!」
ミチェルの目的とは、既に亡き誰かの望みを叶えようと腐心しているらしい。具体的にはこれからどんな行動を取ろうとしているのかは不明だが、少なくとも気紛れにフラフラしている暴風雨、では無いようだ。
「負けないでね、ミチェル。わたくしも何か力になれたら良いのだけれど」
「何言ってんの奥様。奥様はこうして側に居てくれるだけで、オレの癒やしだよー」
「ふふふ、こんなお婆ちゃんで癒されるの?」
「当然! 人間の内面的な魅力は歳月で衰えるどころか磨かれる、っていう実例だよ奥様は。
母さんもなー、将来がすんごく、楽しみだったのに……」
ガックリとうなだれたミチェルの頭を撫でてやる夫人。どうやらミチェルは、母を失ったショックから、立ち直っていない状態らしい。警戒心を沸き起こす危険人物に自分と通じ合う部分を見つけてしまい、ユーリは戸惑いと共に息を潜めていた。
「……ミチェルのお母様は」
「表向きは事故死。裏じゃあ、分かったもんじゃないけど。
よくある話だよ。跡継ぎは男じゃなきゃ認めんとか考えてる頑固ジジイのせいで、家の人間関係がグッチャグチャに拗れて、子供が迷惑被った挙げ句の果て。そういう意味じゃ、あれも被害者かもだけど……」
「恨みをぶつける対象がいないと、苦しい?」
「うん……母さん、怒るかなあ……」
「そうね、わたくしならきっと哀しくて怒るわね。
今は無理でも少しずつ和らげていけたら、きっと息をするのも楽になれるわ」
頭を撫でる夫人にミチェルは柔らかい笑みを向け、「そろそろ部屋に戻りましょう」と促した。
侯爵夫人はそれに応じてベンチから立ち上がりざま、そう言えばと呟いた。
「ミチェル、夫の計画に手助けしてくれているのでしょう?
わたくしにも秘密にしているだなんて、水臭いわ」
「あー、あれね。
実は、計画の骨格そのものはパヴォド伯爵からの申し入れでさ。オレ、あの家のカルロスさん、っていう術士にはひとかたならぬ恩誼があるから、恩返しの機会があるなら手助けしとこうと思って」
何ですと?
ミチェルの思いがけない発言に、ユーリが呆然としている間に、彼らは光の玉を頭上に移動させたまま回廊へと歩を進めてゆく。
「カルロスさん……連盟でのアティのお友達ね。今夜の会にお招きしている筈だけれど、ご挨拶しなくて良いの?」
「良いの良いの。オレは基本、裏方だし。当人の預かり知らぬところで、陰ながら力を貸していた謎の魔術師って、カッコイイじゃん」
「ほほほほ……」
うむ、ミチェルよ。その『陰の実力者』にたった今、頭の上から光が煌々と当たってしまっているよ。
声もなく夫人とそのお付きの姿を見送り、ユーリは混乱のただ中に放り出されていた。
いっそ思い切ってミチェルの前に姿を現し、先ほどの言葉の真意を問い質してみたいという衝動が湧き上がってきたのだが、既に彼らの姿は建物の中に消えてしまったし、ブラウの腕が相変わらずユーリの身体の自由を奪っている。
「さて、ティカちゃん。
さっきのミチェルの話はどういう事か、ボクにも分かるように説明してくれるかな?」
第一位危険人物が退場し、繰り上がりで警戒レベルレッドゾーンに突入した奇行子サマが、ユーリの耳元にワザとらしい甘い声音で問い掛けてくる。むしろこれは納得のいく回答を示すまで解放しないという、詰問体勢ではないのか。
「知りませんっ! むしろ私の方がどういう事なのか聞きたいです!
いい加減離してっ!」
ブラウの拘束から逃れるべく、大声を上げながらジタバタと両手両足を暴れさせてもがくと、遮蔽にしていた茂みも大きくザワザワと揺れ動く。
「んー、でもティカちゃんはミチェルを知ってるんだよね?」
「ゴンサレス様と内緒話してるところを見掛けた事はありますけど、面識はありませんっ!」
ユーリの抵抗などものともせず、ブラウがユーリを抱きすくめる腕は全く怯みもしない。
と、自分の叫び声とブラウの含み笑いの他に、何か聞き覚えのある声が聞こえたような気がして、ユーリは必死で茂みの向こうに手を伸ばした。
「誰か助けてー! 奇行子サマにオモチャにされるー!」
「ティティ、ここか!?」
必死の救難信号を誰かがキャッチしてくれたらしい。ガサガサ! と、目の前の茂みが激しく掻き分けられて……エイッとばかりに背後のブラウによって、ユーリが強引に押し出されるのと同時に、礼装姿のグラが飛び込んできた。
結果的にブラウの拘束から逃れられたのは良いのだが、完全なる低空タックルと化したユーリは顔面からグラの腹に不意打ちぶちかましを決め、「ぐぇっ!?」という呻き声と共に、反動でひっくり返る羽目になった。
「な、ティティ、無事か!?」
「おやおや。これはまた随分と、年端もいかぬ小娘相手に容赦の無い仕打ちをされますね、グラシアノ殿」
痛みに両手で顔を押さえているユーリを抱き上げ、焦り気味にぺちぺちと頬を叩くグラ。そんな事をされたら余計に痛い。
グラは両腕で小柄なユーリの身体を抱き上げると、地面に座ったままのブラウを上からギロリと睨み下ろした。
「こんなところへ若い娘を連れ込んで、貴公、いったいどういうつもりだ」
「どうも何も、私はただ、そちらのお嬢さんと静かに月夜の花見を楽しんでいたまでですが?」
飄々と言ってのける変態の厚顔さにはかなり腹が立つが、ここで騒ぎ立てるとどうなるのだろう、という不安が今更ながらにユーリの脳裏を過ぎった。
このモノクル女装趣味変態野郎は、燦然と輝く奇行子サマであると同時に、腐ってもこのアルバレス侯爵家の親類たるナジュドラーダ伯爵家の貴公子様である。
女性を暗がりに引きずり込むという、ブラウの礼を失した行動を声高に責め立てたところで、単なる使用人な上に、夜に狙われやすい場所を1人でフラフラしていたユーリの方が誘ったのではないか、などという不名誉な噂でも立ちそうだ。何より、元々ブラウと仲の悪そうなグラが益々関係を険悪化させて、無闇にパヴォド伯爵家とアルバレス侯爵家の間に波風を立てるのが得策だとは思えない。
「ぐ、グラシアノ様。特に何も問題はありませんから!」
「先ほど、私は『助けてくれ』という悲鳴を耳にしたが?」
「からかわれて驚き過ぎただけです、はい!」
胡乱気な眼差しを向けてくるグラに、ユーリは身振り手振りで下ろしてくれと訴え、無事に地面に降り立った時にはホッと安堵の吐息を吐いた。
ニヤリと嫌な笑みを浮かべながら立ち上がりつつ、服に付いた土を手で払い落とすブラウの姿は、極力視界から外す。
「そう言えばグラシアノ様、しばらく仕事がお忙しかったハズでは?」
そして、彼の姿を見掛けてから気になっていた点をお尋ねしてみた。すると、グラは不可解そうな表情で見返してきた。