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裾や袖口をフワフワと彩る、柔らかそうなレース。天然のカールが掛かっている黄金の流れは丁寧に梳られ、それだけで豪奢な雰囲気を纏う彼女の為に誂えられたヴェールのようだ。
入念に全身を磨き上げて湯浴みを終え、新緑色の夜会用ドレスを身に纏ったエストは、セリアに髪を結い上げられながら、イリスの手によってお化粧を施されている。
本日のアルバレス侯爵邸での夜会に付き添うのはセリアとユーリの2人で、イリスはエストの支度を手伝ってお見送りを終えれば今夜のお勤めはお終いだ。
エストのトータルコーディネートを締めるアクセサリーを、管理者のセリアから一時的に委ねられ準備したユーリは「エストお嬢様」と、声を掛けた。
「この緑色の宝石が付いた銀の髪飾りと、雫形のイヤリングと、細いチェーンの真珠のネックレスで緑柱石のネックレスを挟むように飾る。長手袋の上から真珠のブレスレット、足首にはこちらで如何でしょう」
「首飾りを三連にするの?」
「はい。今夜のドレスは胸元が大胆に開いていらっしゃいますので、飾りが多くて映えるかと」
「あら、これでも控え目な方なのよ?」
赤いビロードのような、指触りの良い布地を敷いたトレーの上に、厳選したアクセサリー類を乗せて差し出すと、ドレスを選んだセリアが笑いながら口を挟んだ。
「ねえティカさん、『足首には』って、このチェーン何?」
お化粧を仕上げ、トレーの上を覗き込んだイリスが不思議そうに口を挟んだ。
「足なんて淑女が見せるものでもなし、わざわざそんなところにアクセサリーを身に着ける意味が分からないわ」
「これは、ですね」
イリスの疑問に、ユーリは注目を集めているチェーンを手にとって持ち上げ、エストの目の前で軽く振ってみせた。
チェーンに取り付けられた金属の輪っかが、揺れ動くたびに擦れあって、シャランシャラン、と、軽やかで涼しげな音を立てる。
「このように、控えめながら品の良い音が鳴ります。
お嬢様が歩かれれば川のせせらぎのごとく、ダンスのステップを踏めばパートナーの男性の耳にだけ届く妙なる調べに、という塩梅です」
ユーリの意図を知り、セリアとイリスは「おお……」と、感嘆の吐息を漏らした。
「女性は目に見えない場所にこそ、アクセサリーはただ視覚に訴えるだけでなく! さり気なく五感に訴える、そんなお洒落にも気合いを入れるべきなのです!」
「素晴らしいわ、ティカさん」
「今宵の主役たるエストお嬢様には、そういった心意気こそ必要ね!」
盛り上がる自らのメイド達に囲まれ、カルロス作の香水瓶を並べながらエストは苦笑した。
「今夜のアルバレス侯爵家での夜会は、わたくしは招待客の内の1人であって、主役などではないのよ?」
まあ確かに、貴族のご令嬢が他家の夜会で主役扱いとなれば、真っ先に思い浮かぶのは婚約発表の場とか、そういった具合だろう。
ユーリは「失礼します」と一声掛けてエストの香水瓶を手に取り、香りをそれぞれ確かめた。カルロスが抱く、お嬢様への印象やイメージを表現したそれは、まだ子供であったエストの為に作った物が大半なのか、甘やかで柔らかい香りが多い。
その中から、ユーリは五種類ほど厳選してお嬢様の前に並べる。舌触りの良い果物を思い起こすしっとりとした甘み、花の芳しさを纏う夕風の爽やかさ、スパイスのような刺激が僅かに主張するもの、森林を思わせるすっきりと落ち着いた香り、そして包み込み寄り添う、花畑のように数多の花々が咲き乱れる馥郁さ。
「エストお嬢様、今宵は是非こちらをお召し下さい」
「あら、こんなに? 全て混ぜたら逆に嫌な匂いになるのではなくて?」
「同じ箇所に纏えば、混ざってしまうでしょう。
香水は少量を。香りは足下から立ち上りますから下方に。また、体温によって揮発しますから、脈打つ場所へ。
これが基本ですが、全身のあちこちへ異なる香水を吹き付けておきますと、まるでめくるめく香り万華鏡のような夢見心地に!」
名付けて、クレオパトラ大作戦。彼女も某ローマの殿方を落とすのに使用したとされる。いや、ただ単にユーリとしては、エストがカルロス作の香水をたくさん持っているから、じゃんじゃん使わせてやろうと思っただけなのだが。主もきっと、喜んで新しい香水を調香する原動力になるだろう。
「ティカちゃんのおめかし方法は、風変わりな発想があって楽しいわ」
「お褒めに預かり光栄です」
笑顔で受け入れて下さる麗しいお嬢様を、魅惑の美姫に仕立て上げ。
イリスに見送られ、エストはセリアとユーリを引き連れて馬車に乗り込んだのである。
王都の貴族街、その中心部にアルバレス侯爵邸は広い庭に囲まれ佇んでいた。
先んじて馬車を下り、エストへと手を差し出すセリア。お出掛け用の荷物が入ったセリアの鞄を持って、お嬢様の後に続き馬車を下りたユーリは、はて? と首を傾げた。
そう言えば、未婚のご令嬢たるエストが夜会に出るとなれば、エスコート役男性たる紳士が必須だと思っていたのだが、大丈夫なのだろうか。
先日の観劇の時のようにエスコートをグラにお願いしたくとも、今夜は仕事だと言うのならば、父伯爵が奥方と娘を両腕に組み、例の笑顔で『両手に華!』とかやり堂々とエスコートしそうなものだが。
「ご機嫌よう、エステファニア」
「コンスタンサ、ご機嫌よう。ああ、やはりその薄紫色のドレスが一番あなたに映えますわ!」
馬車から下り立つなり、すぐ側から掛けられたレディ・コンスタンサの色っぽい声音での挨拶に、エストは嬉々として振り向き、コンス嬢のドレス姿にうっとりと溜め息を吐いた。
「有り難う。あなたならそう仰ると思っていたわ。どこかの堅物さんは、今宵もドレスアップしたわたくしに、何の褒め言葉も口にはしませんの」
レースが縁取られた扇子を広げ、ほほほほ、と笑みを浮かべるコンス嬢の背後に、眉間に皺を寄せた堅物貴公子こと、パヴォド伯爵家長男グラシアノがスッと立った。
……待て。ぐらぐら様、あなた様はしばらくお仕事で泊まり込みだったハズでは!?
「今晩は、セリア」
「ご機嫌麗しゅう、レディ・コンスタンサ。その首飾りも扇子も、レディによくお似合いでございます」
「嬉しいこと。セリアは目利きだもの」
グラは相変わらずだんまりだし、レディ・コンスタンサははんなりとした笑みをエストの背後、ユーリとセリアに向けてくる。コンス嬢と目が合ったユーリは、鞄を片手に下げたまま、もう片方の手でスカートの裾を摘んで会釈をした。
「そちらのお嬢さんは昨日お見掛けしたわね、エステファニア。どちらのご令嬢なのかしら」
「彼女は縁戚の娘ですわ。名はティカ。しばらくわたくしの身の回りのお世話をお願いしておりますの」
「そう、パヴォド伯爵家縁の方なの。わたくしはワイティオールの娘、コンスタンサですわ」
「お目に掛かれて光栄にございます、レディ・コンスタンサ。ご紹介に預かりました、ティカと申します」
先ほどから、何か言いたげにグラがしきりとこちらを見ているのだが、お嬢様方を差し置いてお坊ちゃまに話し掛ける訳にもいかない。ユーリは伏し目がちにレディ・コンスタンサにご挨拶し、セリアと共にエストの背後に控えた。
どうやら今日の夜会は、エストとコンスのお嬢様お二人を、グラが両方エスコートなさるという、ハーレム状態で臨むらしい。妹と……幼馴染み? 元・疑似恋人? の、美しきご令嬢と片方ずつ腕を組んで歩く、パヴォド伯爵家長男グラシアノ。(眉間の皺が標準装備)
あんな美姫に両脇を挟まれて笑みの一つも浮かべないとは、あの方はいったいあの状態の何がご不満なのだろうか。
「……シュールだわ」
パーティー会場へと足を運ぶ主人達を見送り、ユーリはセリアと共に、パヴォド伯爵家ご兄妹の為に主催者から用意された控え室に引っ込んだ。基本的に、社交場というものに使用人は足を踏み入れる事が出来ない。会場に居るのは、パーティーをスムーズに進める為に、主催者側が用意した給仕や演奏者などだ。
「夜会って、どんな感じ何ですかねえ」
「ティカちゃん、興味あるの?」
セリアと向かい合って座り、お茶菓子を頂きながらしみじみと呟くと、セリアはティーカップを傾けながら口を挟んできた。流石は大貴族の控え室。用意されたお茶もお菓子も、普段ユーリが食べている物よりも深みやコクがあり、繊細な味わいだ。
「はい、もう滅茶苦茶興味あります」
ユーリはこちらの世界に呼ばれるまでの地球で平凡な庶民として暮らしていたし、これまでエストの側に引っ付いていても、社交の場を目に焼き付けた事も無い。何しろネコ姿だったし、今だって単なるメイドだ。
「アルバレス侯爵邸での夜会は、毎年行われているのだけれど」
セリアはお茶のお代わりを頂きながら言葉を続ける。
「夏の盛りになると、アルバレス侯爵家のお屋敷の庭に植えられた花々が、満月の夜に一斉に咲き誇るの。夏月花と呼ばれる、上流階級の方々にとって夏の風物詩ね」
「へ~。その夏月花って、他のお家には無いんですか?」
「何でも、株分けが難しい上に特殊な土壌を整えてやる必要があるそうよ。要は、凄くお金も手間暇も人件費も掛かるのね」
アルバレス侯爵家の威信とか、多分そういった象徴的な花なのだろう。
「今夜はその咲き誇るお花を愛でる会、なんですね」
「ええ」
月明かりに照らされた花々を眺めながら談笑し、夏の夜風に涼みながら生演奏に耳を傾け、お酒を一杯。なんだこの風流な催し。
「見てきたいのなら、ティカちゃんもコッソリ覗いてきたら?」
「え、良いんですか?」
掛けたソファーの上で、ソワソワと落ち着きなく視線をさ迷わせ、ティーカップを持ち上げたり下ろしたりと、無意味な動作を繰り返すユーリを呆れたように見やり、セリアは肩を竦めた。
「本来、付き添いが待機せずに余所様のお屋敷の中をうろつくだなんて、引っ立てられても文句は言えない所業だけど……ユーリちゃんは、好奇心旺盛な子ネコちゃんだものねえ」
「う」
やれやれ、と、溜め息混じりに告げられた台詞に、ユーリは言葉に詰まった。
「良い? ティカちゃん。
ユーリちゃんになってお花を見てくるくらいならともかく、その姿で絶対に誰にも見つかっちゃ駄目よ?」
「えーと、はい、分かりました」
どうやらセリアは、ユーリが子ネコ姿に変身する事前提で、アルバレス侯爵邸お庭お散歩の許可を出したらしい。主人たるカルロスがこの場に居なくては変身出来ないんです、と正直に告げたりしたら、きっと部屋から出してはもらえないだろう。
「あら、ここで変身しないの?」と、不思議そうかつ残念そうな表情を浮かべるセリアにユーリは素知らぬ顔で頷いて、待機部屋をそろそろと抜け出した。
今、ユーリが身に纏っているのはパヴォド伯爵家のメイド服だし、アルバレス侯爵家のプライベートスペースへ知らず知らずの内に入り込んで見咎められれば、エストに要らぬ嫌疑が掛かるのは必定。
ユーリは外の庭が見える窓がある廊下を選んで歩き、大きめな窓から庭へと下り立った。
きょろきょろと周囲を見回せば、建物の向こう側が明るい。きっと、そちらがメイン会場なのだろう。
満月の輝きだけが降り注ぐ中、ユーリは庭をのんびり見渡して、目が徐々に闇に慣れてくるのを待った。
庭の一角に設えられたベンチに腰を下ろし、ブラブラと足を揺らしながら花壇の様子を眺める。
夜会の様子も気にはなるのだが、招待客が大勢談笑している所へのこのこと出向いて、隅っこから覗き見している姿を見られでもしたら、大事だ。
闇に慣れてきた瞳が、夏の夜に咲くという花の姿を浮かび上がらせてゆく。
そのシルエットは、どことなく日本で見慣れた背高な向日葵に似ていた。
「これは……確かに、こちらでは珍しい形ですね。うん」
思わず花壇に近寄って、じっくりと眺めやれば異なる花である事はすぐに察せられるのだが、闇に浮かぶ黄色い花弁の色合いといい、花びらの付き方といい、そっくりだ。ただ、向日葵には中心部にびっちりと密集していた種が、この夏月花には存在しない。そこにはただ、これから受粉期なのかなあと思わせる雌しべが生えているのみ。
「花泥棒、はっけーん」
熱心に夏月花を眺めていたら、ユーリの背後で砂利を踏む足音と共に、そんな歌うような声が掛けられた。嫌々振り向くと、夜会用の礼装に身を包んだ女装癖アリな貴公子の姿があった。
回廊の柱に軽く背を預け、僅かな月光をモノクルで反射させながら、ユーリを眺めてニヤリと笑う。
「今晩は、る……ブラウ、さん。
お邪魔しております」
一応、王都滞在中の主催者側の親族の一員だし、もしかしたら参加してるのかもなー、とは思っていた。ただ、彼ならばきっと、パーティー会場の人々の中心で怪しい笑みと愛想を振り撒いているに違いないと、そんな想像をしていた。
この人は何故、こんな静かな裏手にまでやってきたのだろう。
「こんなところでお誘い待ちだなんて、案外大胆なんだね、ティカちゃん。カル先輩だけじゃ物足りないの?」
「……はあ?」
酔ってるのだろうか? やたらご機嫌な調子でユーリの傍らに近寄ってきた奇行子サマは、ユーリの手を勝手に取ると指先に軽く口付けた。
「ブラウさんが何を仰りたいのか、私はいつも分かりかねるのですが」
「ティカちゃんは単なる考え無しなのか、ふしだらなのか、どっちなのかなー」
ブラウに握られた自らの手を取り戻すべく、ユーリは迷わずパシッと彼の手をはたき落とした。
そんなユーリの態度に特に気を悪くした様子も見せず、ブラウは笑みを崩さない。
「ここはね、人目を忍んでの逢い引きの定番スポットなんだな」
「合い挽き?」
秘密事を打ち明けるかのように囁くブラウの言葉に、ユーリは一瞬意味が分からず尋ね返していた。
「……何で突然、大人の秘め事から食肉話題に飛ぶかな?」
どうやら、予想外過ぎる単語を耳にしたせいで、うっかり翻訳機能に齟齬をきたしたらしい。当然だが、バーデュロイの公用語での『逢い引き』と『合い挽き』は、全く異なる発音である。
「すみません、混乱しました。
ええと、つまり。会場から程よく離れていて、人気が少なくて、茂みがあって、薄暗くて、ついでにメインの花も咲いてて、シチュエーション的に最適、と?」
「そ。ティカちゃん、今夜のお相手を探してるならボクと遊ぶ?」
「探してませんし、遊びません」
よくは分からないが、どうやらこのままここに居ては、女遊びを求めたお貴族サマな酔っ払いに捕獲される可能性があるらしい。ブラウが何を求めてこんなところへやってきたのかは知らないが、このままこの場に留まりトラブルに巻き込まれては事だ。
お花見というには短い滞在時間だったが、まあまあ風流な気分の欠片には触れられた。
「貴重なご忠告、傷み入ります。おとなしく下がります故、御前失礼」
会釈してサッサと身を翻したユーリだったが、ブラウから「待った」と制止されながらむんずと腕を鷲掴みにされ、悲鳴を上げるヒマも無く、問答無用で花壇の傍らの茂みに引きずり込まれた。
抗議の声を上げる前に、ユーリの口を容赦なく塞ぐ大きな手の平。
「シーッ! 来たよ、ティカちゃん」
耳元で囁かれるブラウの台詞に、声が出せれないユーリの「誰がだよ」というツッコミは、当然ながら捕獲者に届く事は無かった。