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拝啓、異界の空の上の母上様。
あなた様の娘は別世界に召喚なんかされて、呑気に骨埋める気満々でこちらの世界に居座っているせいで、地球に安置されていらっしゃるあなた様は、見守って下さるにもさぞかし骨が折れていることと存じます。
こんなとろい娘だと早々に見抜いていらっしゃったから、あなた様はきっと、生前から抜かりなく永代供養墓とか用意していらしたんですね、ええ。
さてさて。本日、お手紙を心の中で認めますのは、私の異世界ネコライフに重大な問題が立ちはだかりやがったからに他なりません。
ユーリは自室として借り受けている、住み込み使用人の棟の一室にて、母への手紙を心の中で綴って、現実の手紙をくしゃりと握り締めた。焦りを誤魔化そうと、深呼吸をしてみる。
寝台と物入れを一つ置いたら、後はもう三歩しか歩けない程の狭さとはいえ、住み込み使用人の中でも一人部屋なのはそれなりに好待遇である。レディ付きメイドとして迎えられた扱いでいるので、住む部屋もそこそこのものを用意してくれたらしい。
朝から晩まで見習いメイドとしての仕事に明け暮れ、疲れた身体を引きずって図書室に向かい、貴族年鑑の内容を頭に叩き込んだ。そして、ヤケクソ気味に貴族の名前をひたすら眺め過ぎて頭が痛くなってきた頃、本来のお仕事である『ホセの相方調査』が、全く進展していない事にふと気が付いた。
ひとまず、ホセの私室的な場所があれば探ろうとしたのだが、ユーリは彼の部屋の場所すら知らない。仕方がなく、トボトボと借り受けた自室に舞い戻ったのである。
窓の外はとうに日は沈み月と星のダンスパーティーが華やかに繰り広げられる時分。慣れない仕事にヘトヘトになって、自室に下がったユーリに届けられたのは、グラからのお返事であった。
『しばらく仕事の都合で泊まり込む。数日間帰宅は難しい。
ティティには、寂しい思いをさせる事になってすまなく思う。
グラシアノ』
書き手の人柄を大いに窺わせるその内容は、単刀直入かつ簡潔。
ユーリが出した便箋二枚の長いお手紙を読んで、この短いお返事。むしろ彼は、ユーリの手紙のどこをどう解釈して、こんな返信を認めようと思い至ったのか。
……うん、ぐらぐら様……あー、グラシアノ様が悪い人じゃないってのは、いくら私でも分かりますよ?
あの方、腹芸とかあんまり出来なさそうですし、話し合いの機会を引き延ばして有耶無耶のうちに外堀埋めて、私が逃げれないよう立ち回って婚約成立! なんて目論んではいないんでしょうけど。
しかし、天然か!? 地か!?
敢えてこのタイミングで話し合いの機会を仕事で潰して、手紙の返信内容も私の『愛称授受って習慣知らなかったんです。誤解です』の意図を、まるっきり気が付いていないフリなのか本気なのか不明だけど、とにかくスルーしてるー!?
作為的な何かを感じますが、この手の策略を巡らせそうなゴンサレス様は、この件に関しては反対派ですし。となればこの間の悪さも、単なる偶然でしかない訳ですがっ。
「数日って……具体的にはいつ帰ってくるんですか、グラシアノ様……」
思わずユーリが漏らした泣き言も、なんだかまるで、グラに恋する乙女が彼の不在を嘆いているかのようだ。大変納得がいかない。
彼女が現在側で仕えさせて頂いているエストお嬢様も、シャルよりも兄の方が結婚相手として優れているとの認識を抱いたままだ。それは、天狼と人間では結婚相手として比較する時点で何かが根本的に間違っていやしないか。
「……今日一日だけで、パヴォド伯爵家ご兄妹に、すっかり振り回されている気がする……」
だが、ユーリの『密やかなる調査の為、世を忍ぶメイド姿』生活は、まだ始まったばかりだ。
明けて翌日、日の出前。出勤前からユーリは再び大問題に直面していた。
危惧していた通り、髪が上手く纏められない。
昨日の引っ詰め髪は、常にブラシを持ち歩くシャルにテキパキと整えてもらったが、今日はどうしたら良いというのか。
ひとまずお仕着せへと着替えを済ませ、鏡が無いので自分の姿を見下ろして見苦しく乱れた点が無い事を見える範囲で確認し、リボンを手にそろりと自室前の廊下の様子を観察する。
先輩メイド、ラウラ曰く。パヴォド伯爵家使用人たるもの、いかにお客様や伯爵家の方々の目に触れない使用人が主に利用する場であろうとも、常に身なりに気を配るべし。
要するに、母屋の主通路の裏方である使用人用廊下やらこの住み込み棟でも、どうせ誰も見てないからって気を緩めてみっともない姿を平然と晒しているようでは、パヴォド伯爵家で働くに値しないって事ですね。
誰も通っていない廊下に素早く躍り出たユーリは、隣室のドアを叩いた。
「セリアさん、セリアさん、おはようございます。お助け下さい」
自分で頑張っても出来ない事に無理に時間を取られ、遅刻してしまうよりは、素直に誰かに助けを求めた方がまだ迷惑を掛けないはずだ。
ユーリがお借りしている部屋の右隣は、セリアの部屋である。更にもう一つ右にいくとイリスの部屋で、ラウラの部屋は二階だ。基本、この使用人住み込み棟の部屋は大ざっぱに三階に独身男性、一階に独身女性と分けられているだけ。二階にそこそこ地位の高い使用人が住まっており、十把一絡げに六人程で集団生活を強いられる大部屋も一階には何部屋かある。
昔、ここで働いていた頃の主は女性扱いだったのですか? と何気なく尋ねたところ、単に空いている1人部屋が他に無かったのと、子供だったかららしい。
「ユー、じゃないティカちゃん? おはよう、どうし……?」
ガチャリとドアを開けた1日ぶりに見るセリアは、夜明け前からお仕着せのメイド服をビシッと着込んで万全の構えである。今すぐ仕事に行きたいとばかりにメイド服には乱れが無い。
そんな彼女は、ユーリの姿を認めて驚いたように言葉を切った。
「朝早くから申し訳ありません。
髪の毛が纏められず、難儀しております。良かったらご指導頂けませんか?」
ぺこりと頭を下げるユーリに、セリアは我に返ったのか「入って」と、室内へと誘った。セリアの自室も、ユーリが借り受けているお部屋と広さは似たり寄ったりで、余分な家具を置くスペースが無い。よく考えたら、イリスもセリアも、社交シーズン以外の時期はエストに仕えて領地のお城暮らしなのだから、敷地面積が限られる王都の部屋は、大抵こんなもんなのかもしれない。
「え、髪が纏められないって……そう言えば、ユーリちゃんって幾つなの?」
これは、実年齢を正直に答えて良いのだろうか? 今まで人間の姿のまま人と交流する機会が少なかった事もあり、16歳未満のバーデュロイにおける未成年者だと勝手に推測されて子供扱いされるのが常であり、面と向かって年を聞かれたのは初めてなので、何歳と答えるべきか、考えた事も無かった。
疎んじるでもなくテキパキと髪を結ってくれるセリアに感謝しつつ、ユーリは内心で首を傾げた。
「18です」
「そう、8歳……じゃなくてじゅうはちっ!? わたしと同い年!? 嘘っ!?」
どうやらユーリは、8歳で通用する外見……とは流石にいかないだろうが、少なくとも18歳よりは8歳と申告した方が納得がいく印象を抱かれているらしい。解せぬ。
「私、異世界出身なので……こちらの一般的な人間の年齢別平均的能力値や思考力、知覚力及び技術技能とは当てはまらないと思います」
「あ……そ、そうか、そうよね。ユーリちゃん、異世界の子ネコちゃんだもんね」
すみません、セリアさん。私、異世界の『人間』です。正直に告げられないのが心苦しいですけど。
「この国の人間の18歳は成人らしいですが、私の故郷ではまだ未成年です。成長速度が違うんですかね?
まあ、私はあとは緩やかに老いていくだけで、これ以上はもう成長しませんけど」
主は子ネコ姿がお気に入りらしいので、変身姿を成ネコに設定変更する気がないそうだ。つまり、永遠の子ネコ。ある意味、成長段階終着点。
「え、ユーリちゃん子ネコちゃんじゃないの!?」
「あれが最大サイズです」
「異世界は小さな愛くるしく人懐っこいネコがたくさん……異世界、ワンダホー」
ネコ好きの嗜好は今ひとつ理解出来ないユーリであったが、異世界に赴く機会など無いであろうセリアの、夢想世界のイメージをわざわざ壊す事も無いだろうと、その点に関しては訂正を差し控えた。
会話しながらもセリアの手は細やかに動き、あっという間にユーリの髪の毛は引っ詰められてヘッドドレスの下に収まる。
「はい、出来た。
ねえユーリちゃん。髪結いの技術を学んでいないのなら、以前人間の姿になっていた時や昨日は、どうやって纏めていたの?」
ポン、と軽く肩を叩きながら終了を告げるセリアに「有り難うございます」と背後に向けて顔だけ振り返って感謝を述べ、次いで言い出しにくい事実を口にする。
「それはえーと、今まで私の髪は……ほぼ毎朝シャルさんがブラシで梳いて下さって、リボンで結んで下さっていました」
情けない話だが、春に召喚されてからこっち、ユーリは自分で自分の髪を結った覚えが数えるほどしか無い。毎日のように、(私三つ編みが良いのにっ)などと不平を覚えつつ、シャルに結ってもらっていた。そして大抵の髪型は面倒臭がりのシャルの手によりお揃いにされ、サイドに流した一つ結びである。
「しゃ、シャルさんから毎朝……」
ユーリの背に軽く当てられていたセリアの手が、わなわなと震えだした。彼女が具体的にはシャルをどう思っているのか、よく分かっていないままだ。
クルリと背後に向き直って向かい合い、ユーリはセリアを真正面から見上げた。
「セリアさん、私はシャルさんの事を恋愛対象として好いています。
あなたは彼の事をどう思っているんですか?」
「え!?」
胸元で両手を組み、目を逸らさず覗き込むユーリ。それは、セリアにとって予想外の宣言と問い掛けであったのか、狼狽えたように目を白黒させて、声を詰まらせた。
やがて、気まずげにユーリから目を逸らす。
「わ、わたしは……
仕事は出来るけど、どこか変わった人だなあ、ぐらいにしか思ってないわ。うん」
「そうですか。まあシャルさんもこの世界の人間じゃありませんからね。多少奇異な言動を取っていても、仕方がないんです」
「異世界の……カルロスさん、そう、言ってたわね……」
はっきり、シャルを恋愛対象として認識していないと口にしたセリアに、ユーリはにこりと微笑みかけた。
自分の気持ちが定まっていないだとか、自信が無いだとか、異世界の生き物である事に怯んでいるだとか、理由はどうだって良いのだ。心の片隅で、ストッパーになってくれるか、別物として片付けられてしまえば。
「はい。シャルさんは格好いい、異世界の狼さんですよ」
「狼?」
自慢げにユーリが称えると、セリアはポツリと呟いた。
「……もしかして一昨日の夜、帰り道で馬車の横を併走してた白っぽい毛並みの生き物は……」
「多分、シャルさんですね。銀色の毛並みですから。私が気絶してる間の帰路の護衛、してくれてたんですね。
さあセリアさん、今日も一日お仕事頑張りましょう」
「そうね。エストお嬢様に昨日のお土産渡さなくっちゃ」
もしかしてあれは、と思い至った事を呟くセリア。
一方ユーリは、シャルは自分の知らない間にそんな事をしていたのか、と驚きつつも、彼とはお互いの抜けた穴を埋め、フォローしあう対等関係。さもそれが当たり前であるように明るく言い放つ。
そしてユーリと共に部屋を出たセリアは、先ほどの会話などあっさりと忘れ去ったように、陶然とした笑みで親愛なるエストお嬢様の事を思い浮かべている。優先順位がはっきりしている人である。
「そう言えばセリアさん。ホセさんはどこで寝起きしていたんでしょ」
声を潜めて問うと、セリアは訝しげに目を細めたが、ユーリが調査任務を負わされている事を思い出したように「ああ」と頷く。
「ホセさんなら大部屋じゃなくて、この住み込み棟の三階に部屋があったわよ。
……確か、真下がゴンサレス様のお部屋だから、うっかり大きな物音でも立てて叱られやしないかって、毎日気が抜けない、とかイリスと喋ってたような?」
「教えて下さってありがとうございます」
ゴンサレス様のお部屋の真上。オマケに、たかだか馬丁で御者なホセが1人部屋待遇。
これはやはり、仕掛けるならどうぞとばかりに、ワザとお膳立てしていたとかそういう事なんでしょうか。
まあどうせ、既にパヴォド伯爵やゴンサレスが調査した後なのだろうが、時間が空いたら自分も調べに忍び込もう。と決めたユーリは、万が一鍵が掛かっていた場合の侵入方法について頭を悩ませた。
使用人住み込み棟の各部屋の管理は、誰が担当しているのだろう。こちらもゴンサレスが鍵を預かっているのだとしたら、二日連続で手ぶらで顔を出すのは避けたいものなのだが。
寝室でまだ安らかな眠りに就いているエストを起こさぬよう、寝室の隣の応接室で控えて明け方までの寝ずの晩の勤めを終えたイリスから、お嬢様の昨日のご様子やスケジュール変更などの細かい引き継ぎを行い、交代となった。
エストお嬢様付きメイド勤務スケジュールは、だいたいこんな感じだ。
昨日の朝から引き続き深夜、そして早朝までのイリスが早朝から出勤のセリアとユーリと交代し、昼から出勤のラウラが加わる。それから3人で夜間まで働き、社交場から帰宅したエストの寝支度を調えたらセリアとユーリは退出して休養。日付が変わった頃の深夜にイリスがまた出勤してきて、翌日の早朝にラウラが休養。ユーリはエストが朝食を取るぐらいの時間帯に、セリアは昼から出勤して翌日の早朝まで……
とまあ、見習いのユーリはほぼ朝から夜まで。ベテランの3人で微妙に時間帯をズラしつつのローテーションで回していて、丸1日の休みはそうそう無い。
急な欠勤の埋め合わせにほぼ完徹状態のイリスが、眠気をこらえながらエストお嬢様のスケジュール帳を捲って、セリアに引き継ぎ事項を述べ上げた。
昨日は赤面もののでっち上げ欠勤理由に、セリアへの怒りを露わにしていたイリスだが、一晩経って冷静になったのか単に眠いのか、セリアの顔を見てもそちらには触れなかった。
「今日の午後は空白だったけど、ワイティオール侯爵家からお招きされて、レディ・コンスタンサのお茶会へ出向かれるわ。
場所はレディ・コンスタンサお気に入りの東屋だから、日陰で涼しい筈だけど」
「分かってる。気温が上がる時間帯だから、風通しの良い涼しいドレスを用意しておくわ」
以前、エストは『メイド達が用意してくれるドレスを、ただ素直に着ているだけ』だと言っていた。それは人によっては、貴族令嬢でありながら横着していると捉えられる発言なのかもしれないけれど。
あれは彼女にとって、一番近くで仕えてくれているメイド達を信頼していると、端的に表現している故なのかもしれない。いや本当に、エストは着飾る事にはさして執着しない質だという可能性もあるが。
今日も緩やかに気温が上昇していく。夏を司る太陽が、霊峰の彼方から姿を現しつつあった。